3 高尾の山に天狗あり
子天狗
1
「オン!」
カーンっと、高らかな音が山に木霊するように響き渡たれば、緋衣の両の目が大きく丸く見開かれた。まるで、心奪われ魅入られた様に自分に向かってゆっくりと歩いてくる染め衣を纏ったかつての子天狗を凝視している。
錫杖を地面に突き鳴らし、白勒は呪を唱える。
真言に意味はあってもそれは魔法の呪文などではない。御仏を信じる心なくば意味をなさないその言葉は神仏の加護を力とし、不浄を打ち砕く言霊だ。
たかが人の願いのために奇跡なんて起こしちゃくれない。堕ちた妖を救ってはくれない。そんな都合のいい結果をもたらしてくれないことくらい百も承知。だからこそ、唱えた言葉に乗せる想いや祈りは本物で、褪せることなく強く鮮やかだ。
(緋衣……!)
伸ばされた指を見て生きたいと思った。
握られた手を通して温もりを知り愛してほしいと願った。
失望と絶望の顔を向けられて胸の奥が痛んだ。
冷たくあしらわれて邪険にされ、憎しみのこもった目で見られようと、手を振り解くことはされなかった。だから、彼がそうであったように、白勒も自分だけは緋衣の唯一無二であり続けたかった。
彼を生かしたのが自分であったなら、殺すのもまた自分なのだと。
禍々しい邪気がほんの僅かだが和らいだ。
緋衣は見えない鎖で絡め取られたかのようにその場に跪き、呪縛されている。それでも首だけは――顔を上に向けたまま白勒をその目に焼き付ける。振り解くことはしなかった。
尚も真言は唱えられ続けている。
白勒はゆったりとした着物の袂から霊札を三枚取り出すと、緋衣の周りに正三角を結ぶようその頂点になる角に並べた。その間にも真言を続ける。それから、それぞれの頂点を含む円型の陣を描き始めた。
二重円に、蚯蚓がのったくったような文字が並ぶ。
「――なぁ、緋衣」
陣を描き終えて緋衣の名を口にした。屈んで、俯き、描き上がったばかりの陣を見つめて。
「俺ぁ、どんなに他から化け物扱いされようが、お前が憎んで仕方がない人間でしかなかったよ。今はまだ、こうやって山にも登ってこれるがな、そのうちにどんどん身体にガタが出てくる。人の一生なんてそんなもんなんだ。短いよ。お前にとっちゃあ瞬きみてぇな時間だろうさ。けどな、俺にゃあな、あの十数年が何物にも代え難い時間だった」
言い終わり顔を上げた白勒は、カラッとした笑顔を見せる。
「俺はなぁ、緋衣。嬉しかったよ」
そんな彼に、何を思ってなのか無意識だったのか、緋衣はそっと指先を伸ばした。伸ばし、呆然としながら目を瞬かせた。無意識のことだったのだろう。
しかし、戸惑う緋衣をよそに、白勒は子供に戻った無邪気な笑みを彼に向けた。そして、そっとその爪の長く延びた指に触れた。赤子がそうするように強く握る。
「――まだ、吾の手を取ってくれるのか?」
「何度でも。何度でも取ってやるさ。それが愛しき者の手であるのならば」
錫杖を打ち鳴らす音がシャクシャクと鳴る遊環の音を打ち消すほど高く大きく、カーンっカーンっと響き渡る。
往々にして、最期というのは空しくなるほどに呆気ないものだ。
緋衣は何かに刺されたようにその場に硬直した。すると、札が破れて陣が誰かの手に撫でられたかのようにかき消されてゆき、同時に彼の体が真っ黒な塵と化して自然に帰した。さながら、風に吹かれて散る墨染の桜のように。
全てが終わったとき、虎鶫がないた。
* * *
かの感情をなんと呼べばいいのだろうか――。
胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされたような、しかし、全く不快には思えないそれを。
白勒にそれは解らないモノであり、深く考えたこともなかった。ただずっと、その温かくて、けれど切ないそれを求めていたことだけは確かだった。
自然と、探し続けた。
正体の分からぬモノを欲しいと思うなどと我ながら愚かなものだと自覚しつつ、決して愚行だとは思えなかった。
結果、それを得ても尚、答えは出なかった。
ただ一つ言えることは、得難いものであった以上に、失ったときの喪失感は耐え難いものであったということだろう。
2
鈴の音が聞こえる。
将寿は目を開けてしばらく、目を閉じる前に起きていたことを反芻しながら思い起こしていた。ぼんやりと鈴の音が自分で発したものだと理解する。
まだ、高尾の狒々の里にいることは確かだが、ひどい邪気はすっかり浄化され、聖上な山の澄んだ空気に包まれている。
それに、もう塞がってはいたが、肩から首にかけて不器用極まりない手つきで布が巻かれていた。しわが寄っている上に緩くてたるんでいる。それに、所々妙に分厚く何重にも巻かれていた。
桐辰は存外、こういったことに関しては器用であることを将寿は知っていた。刀を扱う人間はそれだけ怪我をする機会も多い。故に、これはきっと白勒がやったことだ。
そんなことよりも、だ。
布団代わりにかけられた白勒の袈裟をはねのけて体を起こしてみた。
板張りの部屋の妻戸の向こうには木が這う斜面が望め、掛け造りの張り出した舞台や檜皮葺きの屋根、建物同士をつなぐ渡殿や階が確認できる。ということは、廟のある山頂より幾ばくか降ったところの屋敷の一間にいるらしい。
中はかなり広く空間が取られており、余裕を持っても二十枚は布団が並べられるだろう。その半分が山にめり込む形になっていた。山の斜面に面した北側は板張りの壁で、上方に僅かに光を取り込むための格子窓がある。両端には外へと上がる為の階が室内に設けられていた。その広い一室の中央に畳が一枚敷いてあり、そこに寝かされていたらしい。
日が沈む少し前の嫌に強い西日が僅かに西を向いた建物にうまい具合に差し込んできた。
「今日は一宿かしら、ね」
ふと、北側の窓に目をやってみると、見知らぬ子供と目があった。白い肌の子供は人の子に見える。
お互いに驚き固まった。が、子供の方が一瞬早くその場を走り去っていっていってしまった。
誰かしらと、将寿は首を傾げて子供の正体を考えてみる。しかし、狒々に知り合いなんているわけもなく。人と番になった誰かの子だろうと、何のひねりもない答えにたどり着いた。
将寿が一人で勝手に了解して頷いていると、誰かが簀の子縁を歩いてくる足音が聞こえた。
「目が覚めたか」
「旦那……」
桐辰だった。
「さっきの子供は?」
「田彦殿の子だそうだ。狒々の血の方が薄い故、ほとんど人と変わらぬらしい」
「そう。ところで……どうにか、終わったらしいね」
「終わったな。結局、俺達は何もできなかった。白勒殿がその手でヒノエ殿を祓うことになった」
まるで耳を伏せる子犬だ。将寿は僅かに口端を上げた。
「振り回すだけ振り回しておきながら、我が儘通して逝きやがったってことですかい。全く、踏んだり蹴ったりもいいところですよ。あとで白勒には輝凰と一席設けると約束する血判状を書かせてやらないと」
「まったくだな」
「いやいや、そもそもの話を持ち込んで来なすったのはあんたですぜ、旦那。ヒノエが来る来ないに関わらず、首突っ込んじまったのは旦那が来たからですものね……まぁ、そんなことより――アタシ、旦那に何かしやしたか? 例えばその、怒られるようなこととか?」
桐辰が怒りの形相でそこに座っているわけでは、当然、ない。寧ろ気持ち悪くらいににこやかな面持ちで落ち着いていると言った方が正しい。『あんなこと』をした後だ、もう少し落ち着きを欠いて白勒あたりに宥められるか何かしていることだろうとおもっていたのに。これだ。
真っ先に床に来てくれたのは正直嬉しい。
将寿も素直なときくらいある。桐辰の性格を見越していてもだ。あれは何があろうと――例え怒っていようと――真っ先に来ていたことだろうと断言できる。
けれど、この妙な居心地の悪さは予想していない。
おまけに……。
「怒っていない。寧ろ自分で吃驚するほど落ち着いている」
と、きたものだ。
「いきなり説明もなしに血を飲ませたこと、怒ってもいいことですよ」
「と、言われてもだな……」
そう歯切れ悪く言えば、桐辰は自分の髪をつまみ上げて首を傾げた。その髪は蜜のような淡い金色だ。白くはなかった。
「あの後すぐに元に戻ったのだし、俺としては特に問題はないんだが。否、まぁ、いきなりのことで驚かなかったと言えば嘘になるが、お前のことだし血を飲まされたところで問題はないのだと信じていたからな」
桐辰はあっけらかんと笑った。
「もしかすると、妖神が宿った血だから平気だったのだろうか? つまり――俺も羅刹には違いないからな。お前の血でなければ人喰いに成っていたところ、ということだろうか?」
「いいえ。旦那は半鬼――と言ってもその邪気を浴びて鬼へと変質した生成り。つまり、元人間だ。人の血をちょっと舐めただけじゃあ堕ちやぁしないんでさぁ」
「そうなのか?」
「でなけりゃ、あんな無茶なことしやせん。けれど、アタシの血を口にした妖が闇堕ちしないのもその通り。ヒノエもアタシのを飲んでたが、力を回復させただけで堕ちてはいなかった。どちらにせよ、血を飲ませることによって、旦那の中の羅刹を刺激してやっただけのことですよ。何にしろ、上手くいかなかったらしいですが」
ヒノエを止めることはできず、白勒が祓うこととなり、塚守殺害の罪を問うこともできなくなった。
「今回、アタシらは上手いことのせられた挙げ句、裁くべき下手人の望みを叶えてやっちまったってことです、ね。割に合わないよ、まったく」
「確かにそういうことになる。が――ヒノエ殿は力を失っていた。ならば、封印を解けたはずがない。封印されている者を知った、もしくは知っていた誰かがそれを破ったとは考えられないだろうか。その誰かが一連の事態を招いたのでは……」
将寿は僅かに眉を寄せた。
月日が経って封印が弱まってはいただろう。それを加味しても、長年の間、力を削られ続けたヒノエが破れるものだとは考えにくい。桐辰の考えはけっして無視できるモノではない。
そういうことをする『誰か』を知っているのだから。
「アタシを困らせたかったのかね……」
「ん?」
桐辰の疑問に答えることなく床を空けた将寿は乱れた髪を結い直し部屋を出た。桐辰も慌てて後を追う。
「どうせあの人達、弔いだとかこつけて酒盛りでもやってるんでしょう? 狒々は祝い事でも忌み事でも、何があっても取りあえず酒って種族だからねぇ。何処でやってらっしゃるんだい?」
「母屋だが……女も男も若いも老いも入り交じって椀飯振る舞いのどんちゃん騒ぎで、すっかり酒池肉林と化してるぞ」
ゴクリと唾を飲み込んだ桐辰は後退りし始めた。
「よし!急いで行きましょう、旦那!」
目を輝かせた将寿は嫌がる桐辰を無理やり引きずって庇を歩いていった。
終
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