羅刹鬼
5
「やめろユキ、桐辰!」
白勒は声を上げると同時に錫杖を振るう。横一文字に薙ぎ、続けざまに振りかざせば、カーンッと地面に強く突き立てた。
だが、遅かった。
ゴクン――
白勒の真言が唱えられるより早く、桐辰の喉が鳴った。
一瞬の間。固まっていた桐辰の体がぶるりと震える。
将寿の血が桐辰の中へ流れると、何かが彼の中で音を立てて崩れ落ちた。タガが外れる音か、はたまた、羅刹の血が暴れ出した音か。抑えられていた力の端が、
覚醒とでも言うべきか。羅刹として持つべき霊力が閉ざされていた蓋を押し上げ溢れ出た。
「旦那、アタシの血の味はどうだい?」
顔を上げた桐辰の髪は、その動作と同時に美しい飴色から透き通った白へと、根本から毛先にかけて水を吸い上げるように変わってゆく。血を口にした羅刹と同じ様に。
ただ、その瞳だけは変わらず金色の輝きを失わない。
「――不味い」
「そいつぁ、ひど……い……」
呟いた将寿はしかし、桐辰に霊力を渡した時点で既に満身創痍。気力が尽きて桐辰の腕の中に倒れ込むようにして気を失った。
*
桐辰は力無く息をするだけの将寿の体を抱きかかえ、白勒に預ける。
「借りるぞ、ユキ」
返事は当然なく。
桐辰は地面に落ちたままになった将寿の愛刀である大脇差しを拾い上げ、右に持った。
立ち上がると同時にヒノエに向かい合えば間髪入れることなく右足を踏み込み、薙払うように振るった左の太刀で向かってきたヒノエの脇腹に峰打ちの一撃を入れる。
次は左足。今度は右に握った脇差しを頭に叩き込んだが、これは腕で受け止められた。
しかし、流れに任せて背後に回り込んで右足を大きく後ろに引けば、太刀を脇に戻すように再び薙ぐ。そして、そのまま後退。太刀を下段に脇差しを霞に構える。
ヒノエは真っ黒な髪を振り乱して砲口を上げると、体を返してまるで狼の如く四つ足を着いた。狼の面と漆黒の毛並みに霊力が蛇の如くうねる尾となれば、其処に神猿の姿も狒々の姿もない。
正体不明こそ、その獣の正体。
まさしく鵺。
「シンエンミ様がお怒りじゃ。仇なす『人』に天誅を」
地を蹴ったヒノエは真っ直ぐに桐辰に向かって飛びかかるとその爪を振りかざした。袈裟懸けに掻くが、羅刹の力を解放した桐辰を捕らえるのには遅い。
桐辰はひらりと左に身を傾けて攻撃をかいくぐる様に避けると大脇差しを逆袈裟懸けに振り下ろした。だが、浅い。その切っ先はヒノエの背を掠り、彼の着物を裂いただけにとどまった。
直ぐに、体勢を立て直して片手上段からの太刀の一閃。左に避けたヒノエの左肩を狙って右の突き。それが決まるとすぐさま飛びす去る。
軽い。
体が軽いばかりではなく、左に握った太刀も驚くほどに軽く感じられる。
それに、高揚感。刀を振るう度に高まるそれは、桐辰を前へ前へと押し出す。体はそれに抗わない。
恐ろしくはなかった。血が猛ほどに、闘うこと歓喜する度に、さらにその高ぶりを求めても尚、血を厭う心がある。堕ちてはいない。
将寿が行ったこと故、その可能性は除外して血を口にしたが、疑いが完全になかったわけではない。しかし、杞憂だった。
「正気に戻れ! ヒノエ!」
ヒノエは将寿の血を口にして霊力を獲たのだろう。だが、彼を狂わせているのは人の血だけではなく、かつて流された多くの狒々達の血だ。
「俺は貴殿を殺したくはないし、白勒殿に殺されることも許さん! 生きろ! 生きて、苦しむんだ」
桐辰との間合いを取っていたヒノエが、苦悶の表情を浮かべて動きを止めた。低い唸り声を上げて後ずさる。
眉尻を下げ、眉間に皺を寄せ、それでも彼は威嚇を続けた。地を蹴り、向けられた刀を見ることなく、ただただ真っ直ぐに桐辰だけを狙う。最早、後先を考えない攻撃だった。それも桐辰が攻撃を躊躇うことを解っているからだ。
桐辰は思わず手にしていた太刀を取り落として、脇差しを両手に持ち替え顔前に構え直す。押し出し払い退けようとしたが、ヒノエの力に押し負けてその場に膝をついた。ヒノエが体当たりしたままの体勢、覆い被さるように前のめりの状態で彼の腕に食いつく。
本能のまま、反射的にヒノエの首根っこに食らい付いた桐辰はその体勢で彼を押し倒す。流に身を任せて前転。すると、その反動でヒノエの牙が腕から離れた。勢いそのままに白勒の前に転がり出た桐辰は、刀を脇に構えてヒノエに対する。
転がり、身体を起こしたヒノエはその場でゆらりと立ち上がった。
「――憎い……憎い、憎い!」
声を上げたヒノエはしかし、正気だった。
その目が捉えたのは桐辰ではなく、白勒だ。
* * *
拾ったのは気紛れだ。
――情をかけたわけではない。
煩わしくなれば、いつでも食い殺してやる。
――堕ちることなど恐くはない。
憎い人の子を一匹減らすことが叶うのならば、安いもの。
――愛おしむ気などない。
殺してやる。
――愛してくれなくてもいい。
だから。
――けれど。
殺してくれ《憎んでくれるな》――――。
* * *
瞬間、身構えた桐辰をヒノエは見ていなかった。
白勒もまた、それに応えるように足を前に出した。
シャン
シャン
錫杖を鳴らす。邪気を裂くように。彼の身に薄く纏わり付いた霊力が、歩みに合わせて波紋のように広がり辺りを浄化してゆく。
「あっ――」
「もういいよ、桐辰」
――――はじめっから、俺が祓ってやらなきゃならなかったんだ。
「 オン・キリキリ・バサラ・バサリ・ブリツ・マンダマンダ・ウンハッタ 」
素早く唱えられた真言。すると、桐辰の前に煌めく糸を垂らしたような水の結界が現れた。その結界は山の頂――廟を覆うように広がってゆく。ただ、その中に白勒とヒノエの二人は含まれていなかった。
桐辰の横を墨染めの衣が翻り、浄化の結界の向こうへと消えてゆく。その衣の端を掴もうと、桐辰が伸ばした手は水鏡に阻まれて届かない。
その場には、互いに覚悟を決めた白勒とヒノエの二人だけ。二人は静かに向かい合った。
「ころしておくれ」
「愛してあげよう」
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