対峙


          4


 庵の陰に猫とともに隠れていた桐辰は、声を殺してその場から出て行こうとする己を自制した。

 ヒノエが結界に触れると、バチンッとぴんと張った琴の弦が弾け飛んだかのような音が響き、それは呆気なく消えてしまった。

 猿田彦と思しき青年を手で制するのは白勒。渋面を見せる彼は様子を窺っているのか、そのまま微動だにしない。

 一方、ヒノエもまた何も言わずに愁いを帯びた瞳で白勒を見据えていた。



「将寿を――息子を返してもらおうか。え? 緋衣」

 はじめに口を開いたのは白勒の方だった。錫杖を手にゆっくりと近付いていく。

「まさか、俺が判らんわけじゃねぇだろ?」

「この屋敷を知る人間なんて、白、汝以外に誰がいるという?」

 白勒の錫杖の先がヒノエの胸の位置で止まった。

「――できた弟子だ。師匠の命が危ないと教えただけで、吾を疑うことをやめてここまできたのだから」

「そうだなぁ。そいつが弟子なら一喝入れてるところだな。けど、生憎。そいつぁ、俺の弟子じゃないんだわ。だから、返してくれ」

「そのような理屈は知るものか」

「頼む。お願いだから、そいつを返してくれ大切な『息子』なんだ」

「だからだ。汝の大切なものだから、それを傷つけてやれば、汝を苦しめることができる。壊してほしくなければ全力で抗えばいい」

 ヒノエの髪が高まる霊力に煽られて靡く。

 墨を落とした髪は神猿の証である純白に輝き、神々しくも見えるその姿は禍々しい気を浄化するようで。けれど、瞳に込められた紛れもない『殺気』が、彼がしようとしていることを否定させない。それには白勒も納得せざるを得なかったはずだ。

だが、彼は尚も首を横に振った。

「あんたにゃ、そんなことは出来ない。緋衣は優しい神使だ。もう一度、俺と話そうや。な?」

「黙れ。汝に話してなんになる? 親父殿を――主を我から奪った汝に、話すことなどなにもない!」

「無駄だ、白。吾に任せて汝は下がっておればええ!」

 後から猿田彦が白勒の前に出ようと横に並んだが、並んだところで、その気迫に圧されるように退いた。白勒の決意も、ヒノエの覚悟も、彼では止められない。

「緋衣……俺ゃあ、あんたにずっと――」

「――ずっと謝りたかったと? それは、汝の傲りであって、吾は汝に謝罪を求めていなければ、この憎しみは話し合いで済むような易いモノでないことくらい、汝とて承知しているはずだ! 今更、情けを掛けるな! 汝の力は何のためにある、汝の術は誰のために使う、汝は今どうして其処に立っている? ぬるま湯に浸かりすぎて忘れたのか、法師白勒。悪鬼を祓ってこそ、汝なのだろ」


「俺は……白だろ? 緋衣」


 いつも酒の入った瓢箪や徳利を手に顔を赤らめ、笑いながら人に絡む白勒が、まるで最後を望むかのように柔らかな笑みを浮かべている。顔に刻まれた皺も少し猫背になった背中も、弱々しい声も、その全てを壊したくなる。


 桐辰は己を呪った。


 どうしてすぐに将寿の元に戻らなかったのか、どうしてもっと早くにこの場にいなかったのか。

「……猫殿。俺はもう、辛抱できんようだ」

「吾はもう、判らないヨ。鬼は行くよろし。吾は熊のケツ叩いて、二人で田彦様を守らないといけないネ。吾、子鬼の面倒までみてらんないアルヨ」

 猫の方も我慢ならなかったらしい。両手を握りしめ言った。



     *     *     *



 ――チリン



 鈴が鳴る。


 ヒノエを――白勒を止めないと。その一心のみで気力を持たせてきたが、いよいよ瞼が重たくなってきた。邪気に当てられた己の体と己の中の覇兎が休息を求めている。


 後もう少しだけ。体が保ってくれればそれでいい。

 その後で、自分がどうなろうが構いやしない。


 白勒の手で殺されたいとヒノエの願いを叶えることも、ヒノエに生きていて欲しいという望みを聞くことも、できない。

 ヒノエの心を知らないまま白勒が彼を祓えば、白勒自身が壊れてしまう。



 「兄を封じれるほどに、今の白勒は強くない」と言ったヒノエ。そのあの言葉は嘘偽りでも間違いでもない。ヒノエは人を憎んでいる。けれど、少なくとも白勒を憎んでなどいない。憎んでいたのならば、その手で殺して欲しいなどと望むものか。白勒の手に掛かるならば本望とでも言いたげに、そのことを告げて彼は笑った。

 白勒もそうだ。彼らがどういう関係であったとしても、ヒノエに向けた顔は柔和で、まるで親の愛を求める子供に同じ。言い歳をした坊主が祓うべき者を前にする表情ではない。

 二人とも本心を言葉にしていれば、こんなことにはならなかったはずだ。


 白勒に伝えなければ。


「白勒殿! ヒノエへ手を出さないでください!」

「熊! 久々の友との回向アルヨ。しゃっきりするよろし!」


 庵の陰から飛び出した二人は、桐辰は白勒の前に、猫は動揺し頭が回らなくなっていた片割れの尻を蹴飛ばして猿田彦の左斜め前を陣取った。桐辰は抜刀し、猫は柔術独特の構えを取る。

 桐辰の姿を認めた将寿の心臓が跳ねた。


「思い直せ、ヒノエ!」

 樒の香がほんのりと漂う。

「はぁあ!?」

 思わず出た声に、ヒノエは桐辰から目をそらす。

「白勒殿に言うべき言葉があるのではないか? それを言わずに貴殿が後悔しようが――ユキは気にするかもしれないが――俺はどうだっていい。けれど、それを聞かずして白勒殿が後悔するのは甚だ納得がいかない。よって俺は……」

 桐辰は左足を半歩下げ、腰に履いた愛刀を抜いた。

「……ヒノエ。お前の邪魔をする!」

 宣言し、後退り。倒れた将寿の傍に膝を突く。すると、彼の着物に染み着いていた樒の香が纏わりついた邪気を祓う。

「ユキ。お前のことだから、きっと平気だな」

 随分と変な方向に信用されたものだ。

 将寿は弱々しい笑みを浮かべて上体を起こした。正直、まだまだ全快とは程遠い状態に変わりはなかったが、それでも、樒の香の浄化作用が効いたのか、体を動かせるほどにはなっている。傷もすでに塞ぎかけていた。

「そりゃ、過大評価ってやつでさぁ……」


 チリン

         リン


 桐辰の肩を借りて起き上がった将寿は、いつものように、どこからともなく純白の刃を取り出した。

 すかさず、ヒノエは前に踏み切り、将寿の手から白我音を叩き落とそうと体を反転足を高く振り上げる。が、いざ振り下ろした先には将寿と位置を変えた桐辰。彼の掲げた刀を避け、ヒノエの蹴りは打ち込まれることなく地面へと落ちた。


 そこへ将寿の横薙ぎの一刃。


 それをヒノエは紙一重のところで避けると、後ろへ飛び退き左手の平を前に、腰近くに拳を低い姿勢になって構える。

「やはり、汝らは剣を取るのか」

「アタシも貴方に死なれちゃ面倒なものでね」

「知るものか。死ぬのは一人で十分だ。部外者は下がっていろ!」

 ヒノエは狼に似た声で咆哮を上げた。その瞬間、彼の体から霊力が迸り噴気する。凄まじく禍々しい力の波に圧されて将寿はその場に膝をついた。

 覇兎の力が弱まった今、将寿はただの人も同然、邪気に簡単に当てられてしまう。一気に体力を持っていかれる。

「ユキ!」

 桐辰は将寿を顧みながらも、構えは解かない。切っ先を真っ直ぐにヒノエに向けたまま将寿の横についた。

「旦那。今のアタシじゃ、ちょいと分が悪いみたいでさぁ」

「ああ。そうみたいだな」

 ヒノエは動く様子がない。しかし、神猿の白い毛並みが汚く斑に黒くなってゆく。その黒が広がるにつれて、呼吸を圧迫する様な霊力が重く邪気を強めていた。

 ついに、ヒノエが耐えきれず闇堕ちた。


 遠吠え。

 天を裂き、大気を振動させる。


 将寿は柄を握る手に力を入れた。そして、一つ頷くが早いか、その手で塞ぎかけていた左肩を突いた。自虐もいいところ。駆けた痛みに顔を歪めた。


(一か八か…………)


 傍にきた桐辰の袂を引っ張りその場に屈ませる。彼が声を上げて口を開けたところ、将寿はその後頭部に手を回して肩の傷に口を持ってこさせた。


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