心
3
肩が焼けるように痛む。
将寿は乱れた呼吸を戻そうと、気を失うまいと、深く息を繰り返した。血を失い過ぎた所為で意識が宙に浮いたように朦朧とする中で、その痛みだけが嫌にはっきりしていて忌々しい。
けれど、その感覚さえもなれてきてしまっていた。
完全にしくじった。
桐辰が茂みの中に引きずり込まれ意識がそちらへと傾いたのところ、後れをとった。ヒノエへの疑いが確信へと変わり、警戒を強めた矢先の事態。意識が散漫になった。
けっして、自惚れていたわけではない。ただ、今まで自分の血に宿る獣に畏怖しない者に出会う機会が少なかった。そのことがあってか、心のどこかに根拠のない安心感を生んでいたのだろう。
自信と呼ぶにはあまりにも頼りないそれ。その曖昧な感覚に麻痺していた。
自分が人間であることを忘れるほどに。
覇兎は代御の血に封じられた妖神であり、自分がそれなどではないと理解していた。
否、理解しているつもりになっていただけだった。自惚れまでいかないまでも、無意識の中に過信していたのだ、自分自身を。
ヒノエが恐れていたのは、覇兎などではない。
桐辰の中に眠る羅刹の血だ。
羅刹の妖力をまとって生まれた桐辰は、しかし、生成りであって鬼ではない。ただ、潜在的に羅刹としての力は持っているわけだ。
持っているだけではただの人間。桐辰もそうだ。
ところが、ヒノエは彼の『妖力』は感じ取れていても、生成りであって羅刹でないことまでは判らなかったはずだ。つまり、彼が潜在的に持つ力そのものに恐れを抱いていたということだ。
皮肉なことに、血の力を使えることを知られているが故に侮られたらしい。
「汝の血だけは便利だな。妖神が宿る血はただの人間の血と違って口にしても穢れを得ることがなく、削がれていた霊力を補えた。これで、屋敷へ帰れる」
頭に鈍く響く声に苦笑する。
髪を染めていた墨を落とすため河に降りていたヒノエが戻ってきたようだ。
彼は懐から狼の鼻面を模した、口元だけを覆う形の面を出すと、それを被った。その面は彼の感情を隠すように笑っている。
静かに屋敷を見上げれば、ヒノエは将寿の解けて肩に流れた銀糸を無造作に掴んだ。
髪を掴まれ引きずられ、無様なことこの上ない。
(不用意に手加減するんだったら、もっとましな運び方をしてもらいたいね)
ヒノエに殺す気がないのは明白。傷は深くても太い血管は無傷だ。
しかし、血を流し過ぎた為だろうか。いつもならば直ぐに直るような掠り傷でさえも治癒に時間がかかっていた。力なく垂れた左腕には感覚が戻らないまま。
将寿はヒノエが正体を表すならば白勒と猿田彦を前にしてからだとばかり思いこんでいた。その二人と合流すればどの道、ヒノエも自分も演技を押し通す意味がなくなるのだからと。
だが、ヒノエはそんなことはどうでもよかった。彼が欲したのはなくしてしまった霊力。つまり、覇兎の宿ったこの血だった。
邪魔な桐辰がいなければ、正体を隠す必要はなかったのだ。
「――……つくづく、出来損ないが嫌んならぁ。痛ぇったらありゃしねぇ」
「汝を選ばなかった白蛇を恨むことだな」
代御に憑いた獣のもう一つは白蛇だ。
司るのは復活と再生。
蛇憑きはその加護にあやかり、妖にも近しい自己治癒の能力を得る。それは蛇憑きに限ったことではな。代御の血が濃い者は総じて常人よりも傷の治りが早い。
ただし、兎憑きだけは例外だ。
ヒノエはそれを知っていて言ったのだろう。
しかし、どういった訳か将寿はこの兎に異様に気に入られていた。将寿はその力の一部を借り受けていて、代御の血以上の回復力に加えて耐久力もある。
本来ならば――覇兎が宿る血が足りていれば――傷は直ちに治り、ヒノエに後れをとることもなかったはずだ。血を失った代償は大きくついたということだ。
「『
本当に。塚守を殺したのであれば、どうして血の匂いが嘘で誤魔化せてしまえるほど薄かったのだろうか。
「吾が狒々でなく、神猿だからだ」
声に出ていたらしい。
「そうか。日吉の、
それを聞くと、ヒノエはどうしてか苦々しげに下唇を噛んだ。
神使は神の加護を得た獣であって、妖に近いようで遠い存在。
それでも、獣は獣。十年生きた猫が猫又となるように、神使であっても加護を失い時を経れば妖へと転じる。ヒノエは長い年月の間に妖に変わる途中だったのだろう。だから、血の影響を受けにくかったか、禊ぎで穢れを流したかのどちらかに当てはまったのだろう。
「そりゃあ、判らないわけだ」
「大神の加護は強い。特に吾に与えられたモノは格別だったのだろうな。お隠れになって久しいというのに、霊力は消えない。おかげで吾は、まだ、神使と名乗れる」
「神の愛とはそういうもの。いつだって理不尽で、押しつけがましいんだ――」
(――っ!)
思い出したかのようにヒノエに喰われた傷口が悲鳴を上げるように痛み出した。それに伴い、体が強ばる。
「喋るな。喋れば無駄に体力を使う。それから、動かず考えることもやめて回復に尽くせ」
「何だい、藪から棒に」
問えば、彼は髪を掴むのをやめて将寿の傷がない右の腋を抱えた。今更、気づいたらしい。
「力尽くに噛みついて、その……悪いと思っている。あと、人だと忘れて運び方を間違ったことも謝ろう」
将寿は答えない。
「こうでもしないとあの子は吾を殺してはくれまい。死んで罪が流せるなどとは思っていないことだけ、汝が覚えておいてくれ。お前の役目はそれだけだ」
『あの子』が指すのはきっと、白勒のことだ。
ヒノエが鵺なのか、鵺を解き放った者なのか、この際どうだっていい。白勒がどう思っていようが、彼が白勒を恨んでなどいないことが判った今、白勒に彼を殺させることを見て見ぬフリで通すことはできない。
もうすぐ山頂付近だ。森を抜ければ大猩々の屋敷がある。二人はその屋敷の脇を通って上ってきていた。
木々がなくなり視界が開ければ、目の前に大陸風の庵が現れた。その奥には下から見上げた際に一番頂上に見えていた廟だ。手前に関守石の結界が見える。
視界が開けたところで、ヒノエは将寿の腋を抱えて前へと放り投げた。
見ると、少年の姿をした狒々が、投げ出された将寿を前に顔面蒼白になっているではないか。
「ひ、緋衣か?」
身構えた狒々は柄杓の合を将寿とヒノエに交互に向ける。
「熊。いつも一緒の猫はいないのか? ……まぁ、いい。白に、この緋衣が覇兎を喰らったと伝えてこい」
血の気のない将寿を前に、彼と同じくらいに青ざめる熊はその場に棒立ち。後ろに足を引こうとしているが、それができない。
恐れでなく、かつての友を失った悲しみがそうさせていた。
「……行く――!」
ヒノエが睨んできたが構いはしない。将寿は熊を止めようと必死に顔を上げる。
ヒノエの思う通りにさせてはいけない。
白勒をここへ来させてはいけない。
ヒノエに同情なんてしてやるものか。
アタシがやる。アタシがやらなければ、白勒が死んでしまう。
「――生きろ、ヒノエ」
熊には聞こえない声でそっと、しかし強く囁く。
その声は確かにヒノエに届いた。けれど、彼はその答えをとっくに捨てているようだ。悲痛に叫びたい。そんな思いを押し殺したように目元にしわを作った彼は叫ぶ。
「白――! お前の大切な者を失いたくなくば、我の前に姿を見せよ!」
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