第十七節 戯曲 二



 ――これは、喜劇である。


 ◆


 キリエはこの光景を見て、「あ、前も見た」なんて思った。

 先の《九重亭》でのことではない。もっと前、記憶の奥底に埋もれた、どこかで。

 どこで見たのだったか。思い出そうとすると、モヤがかかったかのように不鮮明なノイズが走る。


 ――燃えている。そんな記憶が、蘇った。


「――ッ!?」

 荒くなった呼吸をそのままに、見開いた目でノエを映す。

 ノエとキリエは、走りっぱなしだったために一度休もうと、路地に座り込んでいた。その際に、少しばかり眠ってしまったらしい。

 ノエがキリエの様子に気づき、心配そうな視線を向けた。

「……大丈夫かい?」

「オレは……平気。ノエさんこそ、顔色悪いよ」

「はは、グロいの見たら誰だってこうなるって。平気平気、ちょっとしたらいつも通りだから」

 そうやって強がるノエを、何度見ただろうか。

 今日に限った話ではない。どうにもノエは、キリエの前だと張り切りすぎるきらいがあった。今まではそれで何か損をするわけではなかったが、今回ばかりは見栄を張るものではない。

 辛いなら辛いと、そう言えないのは、双方にとってマイナスだ。

 しかし、キリエにはそんな頭のいいことは考えられず。ただ、こうやって強くあろうとするノエの姿は、心底ありがたい。


 ――思い出す。つい先程の出来事を。


 客が入り乱れ、バテたキリエが休憩に入った後のことだ。

 少し休んだら気分も良くなった、と戻ろうとして、何やら不穏な気配を感じ取ったキリエは物陰から店の様子を覗き見た。

 そこでは、

「――!?」

 ただ暴力を働いていただけなら良かった。でもそうではない、そうではないのだ。

 人間が、ノエの作った料理を食べていたはずの人間が、互いが互いを喰らい合っていたのだ。

 その様子はまるで獣のようだった。床に転がり、組み合いながら相手の肉にかじり付き、噛み切り、ぶちゅりと音が鳴る。

 てらてらと光る肉は、少なくともキリエの食欲を刺激することはなく、むしろ吐き気を催す気持ち悪さがあった。

 その光景から目を背け、しばらくして音が消えた。そろりと覗くと、そこにいた人間は全て、ただの肉塊と成り果てていた。

 その後、ノエ達が虚空から現れて――後は、記憶と繋がる通りである。

 あのカチューシャ眼鏡が言っていた。おあつらえ向きに怪しいやつがいるじゃないか、と。……その通りだ。あの場面で、キリエが怪しくないわけがない。

 あんな異常な光景、他者が手を加えなければ、普通は起こり得ないと、キリエだってそう思う。

 だから咄嗟の否定もできなかったし、身体は動かなかった。

 それでも、ノエは。

 家族は、信じてくれた。信じて、手を引いてくれた。

 ――だからこそ、

「ノエさん」

 言わなければならない。

「ん? なんだい?」

 ノエの声は、こんな時であっても酷く優しい。それがキリエの覚悟を緩ませる。

 しかし、踏みとどまった。

「あの、眼鏡が言ってた『白い狐』――、」

 乾く唇が張り付き、離れた。


「オレかも、しれない」


 ◆


「――――、?」

 キリエの告白に、ノエは疑問符を浮かべることしかできなかった。

 白い狐。茶釜達が探しているという妖怪――村一個を全焼させたという、その妖怪が、キリエだと?

「いやいや、ちょっとキリエちゃん落ち着い――、」

 ぼふんっ!

 そんなコミカルな音と煙がキリエを包み、それが晴れるとそこには、

「――――」

 白く、艶やかな毛並みを存分に煌めかせる、白銀の狐が顕れていた。

 再びぼふんっ、と鳴れば、その姿は消え、代わりにキリエの姿が顕れる。そんな一瞬の出来事を前に、ノエの目は白黒と移り変わる。

「え、あ、え?」

「……今の姿、まさしく『白い狐』だろ?」

「で、でもキリエちゃんは――、」

 紅緒が見せた記憶の焼き直し。そこで見た本来のキリエは――ただの狐であった頃のキリエは、黄金の毛並みをした、どこにでもいる、本当にただの狐であったはずだ。

 今のキリエの姿が、懐いていた人間の姿に変化したもの、という事実は良い。だから変化を解けば狐の姿になるというのも、良い。だが、それがどうして銀色の毛並みを持っている?

「オレにだってわからない……でも、野生に白い狐なんているわけない。そしてオレは、その白い狐で……」

 キリエの声は掠れ掠れだ。

 かもしれない、という言い方や、事実を一つ一つ反芻する様子は、まるで身に覚えのない罪を自白するかのような矛盾に満ちていた。

「なんでかわからないけど……あの人達はオレを探してる。ただ探してるんじゃない、……殺すって、あの目は、そういう目だった」

「ち、違う! キリエちゃんはアイツらが探してるような……村一個を全部、まるごと焼いちまうような悪い妖怪じゃないだろう!?」

「村一個を、焼いた……?」

 途端、キリエの目が大きく開かれていく。

 焦点が揺れ、全身が震え始める。

 その目は何を見ているのか。少なくとも、目の前にいるノエは、キリエの視界に映っていない。

「キリエちゃん? キリエちゃん!?」

「お、オレだ……知らない、こんなの……おれ、オレが燃やし、」

 全身を震わせ、明らかに平常ではないキリエの背に手を当て落ち着かせようとするも上手くいかない。

 何度呼びかけても、キリエはノエに見向きもしないのだ。

「叫び声を聞いた、悲鳴を聞いた、恨み事を聞いた、たくさんの……最期の言葉を聞いた」

 うわ言のように呟かれるそれは、まるで懺悔のようだった。

「――なあ、ノエさん」

 ようやくノエに向けられた言葉。しかしそれもまた、うわ言のようで。

「オレ、何なんだ? 誰なんだ? ただの狐だった、でもそれももう、何百年も昔のことで――そう、何百年も、前のことなんだ。オレもう、何百年も生きて……なんでだ? 霊山の霊力がオレに? どうして? オレ、は」

 紅緒は言っていた。全ては偶然だ、と。

 キリエが選ばれたのは必然ではない。霊山の霊力が一匹の狐に収まってしまったのも、何百年も生き永らえてしまったのも、全ては偶然なのだ。

 でもそんなの、キリエからすれば戯言に過ぎない。

 ――知っている。この苦しみを、ノエは知っている。

 自分が何者で、どうして生まれて、どこへ行き、何をすれば良いのか。目的はあるくせに、理由だけが不鮮明。

 自分は誰だ? 何のために生まれた? それがわからず、まるで底の見えない崖を綱渡りしているかのような不安に常に襲われる。

 それをノエは知っている――だから、

 ふわり、と。

 ノエは、怯えるキリエの肩を抱いた。

「大丈夫」

 子をあやす母のように、その背中を、ぽんぽんと優しく叩く。

「キリエちゃん――ううん、子猫ちゃん。良いことを教えてあげよう」

 ふと、まだ懐かしいとも呼べない、少し前の呼び名を持ち出し、ノエは語る。

 その腕はキリエを抱いたまま、

「自分が何者なのか――それがわからなくて不安になるのもわかる。お先真っ暗、これから先どこへ進めば良いんだろう――そうやって悩むのもわかる。怖いよなあ、だって、先が見えないんだもの」

 いつか自身も抱いたそんな不安をなぞっていく。

「自分が誰か、目的は何か。何もかもがハッキリとして、これから進む先が明るく照らされてる――そんなのを夢見て」

 有り得ないと知って。気づいてしまって。

「でも、違う。違ったんだ。いいかい、子猫ちゃん」

 ノエの言葉を聞く内に、キリエの震えは収まっていた。

そうやってヽヽヽヽヽ自分を探すのがヽヽヽヽヽヽヽ生きるってことなんだヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

 自分は何者か? ――そんなの、誰だって明確な答えを出せるわけがない。

 自分の目的は? ――多くの者はこう答える。「これから探していくのだ」と。

 キリエは多少ズレてしまっただけだ。生まれが特殊だから、純粋な妖怪ではないから、少しばかり、悩みすぎただけだ。

「――ノエさん」

「ん?」

 キリエの声は、もう震えていない。芯の通った、強い声で、

「その精神論、根本的な解決になってない」

「んぇッ」

 ノエをバッサリと切り捨てた。

「え? あれ、……え? え?」

 何か間違えたか? もしかしてカッコ付けすぎたか? 予想外の切り返しにあたふたとうろたえるノエを見て……キリエは笑った。

「はは……うん、なんにも解決してないけど……元気出てきた。すげえや、ノエさん」

「――は、当たり前だろう? なんたってアタシは、アンタの母親ヽヽなんだから」

 今まで踏み込めなかった一線。そこへノエ自らが踏み込んでいく。

 互いの出自をよく知らない、出会って数ヶ月の短い付き合い。それで家族? 聞く者が聞けば一笑に付すところだ。

 しかし、今この場において、この二人は確かに親子であった。

 ――紅緒は言った。全ては偶然だ、と。

 しかし、こうしてノエとキリエが出会ったのは『必然』だと、そう思う。

 二人はきっと、出会うべくして出会い、母子になるべくしてなったのだと。

 ……それにしても、

「なんか、思春期特有の悩みみたいだなあ」

「――――」

「え、痛っ、ちょ、痛い、子猫ちゃ――痛い!? なんで叩く――痛いってば!?」



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御食神霊異記 三ノ月 @Romanc_e_ier

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