記憶喪失
「野ウサギ二匹。確かに受け取ったよ」
毛布で包んだ野ウサギを抱きかかえて、料理長が言った。
宿屋の一階、「青羽の小鳥亭」の裏口だ。向い合って二人で話をしている。
「時間には間に合ったでしょうか」
フィオは訊ねた。
「ぴったりだ。助かったよ」料理長は穏やかな口調で続けて、ポケットから金銭を取り出した。「これが今回の報酬。またよろしく頼む」
「ありがとうございます」
受け渡された報酬額はそこそこだった。それでも、金になるだけ良い。牧畜が発達して羊肉がメインで食卓に並ぶようになった現在でも、野生の鳥獣はまだルシオールの人々に好んで食べられている。
「それでは」と料理長に会釈して、フィオは裏路地を出ていった。
町はポツポツとランタンの明かりが灯っていて、慌ただしく道を行き来する人々の喧騒で賑わっている。赤みを帯びた独特の建築様式が、フィオを何処か別の世界へ迷い込んだかのような気にさせる。
時々出る悪い癖みたいなものだ。
しかしその感覚は、おそらく間違っていない。
――フィオは一年前から記憶喪失だ。雪山で倒れていたところを偶然発見されて、今日に至っている。
行く宛もなくハンターになって、ここで暮らし始めて、生活にも何となく慣れてきたところだ。しかし、胸中で感じている違和感だけはいつまで経っても拭えない。
何なんだろう、これは。
以前の自分を、フィオは思い出すことができない。どんなに思い出そうと努力しても、残っているのはそれまで培ってきたらしい教養や知識だけ。生活には困らない。困らないけれど、それがこの世界と度々ひどい食い違いを引き起こす。
フィオにとってこの町は、昔の中世とか近世あたりをやけに髣髴とさせる。しかしここはもちろん中世や近世ではないし、そもそも大陸が違う。この世界の地図を見せてもらった時、そこに描かれていた大陸は、フィオが全く見覚えのない形をしていた。
ここは、一体――……。
絵のような街並みを通り過ぎ、フィオはぼんやりと考える。――記憶はない。確証もない。ただ、もといた場所からどこか遠く別の世界へ来てしまったような感覚だけは糸を引いて残っている。
漠然とした違和感が、いつまでもフィオにつきまとって離れない。足並みが次第に早まる。
ルシオールでハンターとして生活して、お金をためて、ルーチンワークのような平凡な毎日を生きていく。問題はないはずなのに、心はどうしてこんなに焦っている?
自宅に着くまでに、あの妙な違和感は消えていた。もともと不定期に押し寄せてくる波のようなもので、フィオはこれも記憶喪失による一つの弊害だと考えている。沈んだ気分も、時間が経過すれば少しはマシになっていく。
「…………」
四階建ての石階段を上がっていったら、二階の自宅玄関に見知った人影が立っていた。
暗くてもすぐに誰か判別できる――ミティだ。坂上のパン屋で働いている、フィオと同い年の女の子。仕事帰りらしく、作業服の上から毛皮のコートを直接羽織っている。
「フィオ、おかえり」
ミティが言った。見ると、両手にパンかごを抱えている。
「それ、どうしたの?」とフィオ。
「試作品のパン。ちょっと味見してもらおうと思って」
「……ずっとここで待ってたの?」
「ううん、今来たとこ。そっちは今帰りでしょ?」
うん、とフィオは頷く。
「そっか」ミティは微笑んで、それから「はあぁ」と口から白い息を吐いた。後頭部に束ねた美しい赤毛が、寒さのせいか微かに震えている。「それなら、早く中に入って一緒に食べよう」
ミティはフィオの友達でもある。そう言われて、断る理由は特に思いつかない。お腹も丁度空いていた。パンかごから、焼きたてのパンのいい香りもする。
「そうだね。私もそれ早く食べたい」
フィオは笑って、家のドアを開ける。二人はダイニングへ。
「寒っ……」
ミティが不意にくしゃみをした。
フィオは慌てて、
「ごめん、今部屋温めるから――」
――しばらくして、フィオの自宅に淡い光が灯る。
冬の日、野ウサギ狩りをした帰りの出来事だ。
ミティと二人で夕食をとって、その後いっぱいお話をして、その夜彼女は久しぶりにフィオの家に泊まった。フィオは、何ともない普通の日常が、時折すごく掛け替えのないもののように感じる時がある。もといた場所ではあまり感じてこなかった特別な感情だ。だけどこれもやっぱり、はっきりとは分からない。
フィオの異世界ハンター日録 pakucyann @pakucyann
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