彼女の呪い

九十九 那月

彼女の呪い

 一人の男が、街を歩いていた。

 くたびれたコート、定まらない足取り、胡乱な目。雑踏の中にあっても、その男の雰囲気は周囲の人を無意識に離れさせていた。


 なぜ、自分は生きているのだろう。そう男は思った。


――殺してあげる――


 頭の中で声がずっと反響していた。

 その声に導かれるように、男はただ、どこかを目指して彷徨っていた。




 死にたい、と思い始めたのは、もうずいぶんと前のことだった。明るくなれば会社に向かい、働いて肉体と精神を消費させては、家に帰って眠る、そんな日々がずっと続いていた。

 均一になるように作られる部品の一つ一つを見ていると、周囲の人間と何ら変わらず、歯車として消費されていく自分が意識されるようで、それがより一層男を傷つけていった。

 自分が幾らでも取り換えの効く部品のようなものだと考えれば、壊れてしまうようなこともそれほど怖くはないものなのだった。

 けれども、死ぬためのきっかけというものも、男には存在していなかった。首を吊る準備をするくらいならば、早く眠って明日に備えなければいけない。

 そんな倒錯も、男にとっては最早日常なのだった。




 男は街を更に進んでいく。時間が過ぎるにつれ、会社帰りのサラリーマンの姿もまばらになる。そんな中をそれでも男はひたすら足を踏み出し続け、進んでいく。

 視線を上げた男の目に、ふと、背の高いビルが映る。

 あそこから飛び降りるのも悪くないな、と、男は思った。




 生活に変化が生じたのは、およそひと月ほど前のことだった。

 生産ラインで朦朧と仕事をしていた男は、不意に酷い痛みに襲われた。

 たまらず倒れ込み、次に目が覚めたときには彼は病院のベッドの上で、そこで医者から、最早珍しくもない生活習慣病の一つであるという診断を受ける。

 治療が難しいかもしれない、と聞いたとき、男はしかし、これこそが求めていたきっかけなのだろうと悟った。

 神様は親切だ。少なくとも死のうとする者にとっては。


 しかし、一方でまた、いたずらと言う物もまた神の好きなものであるようで。

 時を置かずして、男は奇妙な巡り合わせに会うこととなる。




 近くまで来ると、ビルはいよいよもって高そうであった。

 そう言えば、この辺りには、屋上からの眺めが売り、とかいうビルがあったはずだ。ここがきっとそうなのだろう。

 エレベーターもあるのだろうが、人目のありそうな場所は通りたくない。回り込むと非常階段があったので、男はそれを一段一段と踏みしめながら登っていった。




「…お兄さん、死ぬの、怖くないの?」

「…もともと、俺は死ぬつもりだったんだよ」

「そこまで生きておいて何を言うのさ」

 向かいのベッドで身体だけを起こして男に話しかけてくる少女に、鬱陶しそうに返答する男。

 医師から入院を言い渡され、ベッドに入れられると、彼女は直ぐに話しかけてきた。最初は男も面倒だと思って無視していたのだが、しかし黙っていても彼女は勝手に話しかけてくる。

 男に答える気がないと悟れば、今度は彼女は自分語りを始めた。自分が高校生であること、難病を患っていて、手術を控えていること、病院食の味など。

 鬱陶しいと思っても、立って歩いていればまたあの痛みに襲われることになるし、周囲の迷惑だとか言おうにも、部屋には男と彼女の二人しかいない。

 そう遠くないうちに、男は少なくとも何か返した方が少女が静かになることを理解した。

 それを億劫に思いながらも、しかし気が付けば一日中、二人の間ではそれなりの会話が交わされるようになっていた。




 それなりに上った筈だ、と思って下を見れば、確かに地面は確実に遠くなっているのだが、しかし上を見てもまだまだ最上階には辿り着きそうもない。当たり前だ。二桁以上の階層を階段で移動しようとしているのだから。

 冬だというのに、男の額を汗が伝う。全身にはかなりの倦怠が感じられたが、不思議と男は歩を緩める気にはならなかった。

 金属を踏む高く鈍い音を残しながら、また一歩と男が階段を上っていく。




 不思議なことに、少女に面会しようとする人はほとんどいなかった。

「うちの親、薄情だからさ」

 と彼女は言ったが、よく見れば体の見えにくい場所に黒い痣の跡が見えた。

 きっと彼女は家庭内や学校内で疎まれているのだろう、と男は思った。

 手術の日は近づいていたが、彼女は元気そうな様子のままだった。

「もうすぐ手術日だな」

「ん、お兄さんも?私もだー」

「聞くところによると、今回のはかなり難しいらしい。外せば重要な血管が破れて失血死、と言って加減しすぎれば病気を除けない、と」

「つまり?」

「俺は死ねる確率がかなり高いらしい、と」

「もう。前から思ってたけど、お兄さんは死にたい、死にたい、って病院で口にしすぎ。不謹慎だよ?生きたい、って思ってる人だってここにはたくさんいるのに」

 その言葉に、男は不意に興味を駆られた。

「…そういうお前は、どうなんだ」

「わたし?」

「死にたい、とか」

「そんなの、しょっちゅう思ってるよー」

 おい、と思わず責めるような声が漏れてしまうのも当然であった。

 でもね、と前置きして、彼女は続けた。

「とりあえず、世界中のいろんなものを見るまでは、生きてみてもいいかなー、なんて。本当に、ビルも公園も家も何もかも、見てて嫌いで嫌いでしょうがなくて、ぶっ壊したくなっちゃうけど、でもどこかにはわたしが好きになるものも、あるかもしれないしさ」

「…俺には、そうは思えないけどな」

「むー、またそうやって後ろ向きなー…じゃぁさ、そんなに死にたいなら…」




 気づけば、階段の一番最後の段だった。

 しかし、まだ屋上には辿り着いていない。どういうことかと思ったが、どうやら、屋上には中からしか上がれないようだった。

 階段横の銀色のドアを開けて中に入る。『屋上展望テラスへはこちら』という矢印つきの表示が大きく出ている。どうやら周囲には人は居ないようだった。

 男はゆっくりと、そちらのほうへと進んでいく。




「わたしが、お兄さんを殺してあげるよ」

 突然飛び出した意味不明の言葉に、男が固まる。しかし彼女は、そんなことを気にも留めていない様子で続ける。

「退院したらさ、二人で旅行に行くの。行く先は…まぁ、日本でも、世界でも、とにかく色々、お金が尽きるまで、あちこち飛び回るの」

「好きなものが見つかればいいけど、ううん、きっと見つかると思うんだけど、それでもやっぱり、世界はわたしの嫌いなものばっかだし、色々試しても、結局、わたしの死にたい気持ちを抑えらないと思うんだ」

「でも、そうしたらきっと、いよいよ本当に、諦めがつくと思うんだ」

「だから、その時は、わたしがお兄さんを殺してあげる。大丈夫、わたしもきっと、そのあとはすぐ死んじゃうと思うし」

 果たして。

 その言葉は、ふっと、男の心に浸透していった。何がよかったのかは、男自身にもよくわからない。もしかしたら、万に一つ、自分が生き延びてしまった後のことに関する不安が、いよいよ和らいだからかもしれなかった。

「…お前と、心中か。最悪だな」

 そう言いながらも、男の顔には笑みが浮かんでいた。

「あ、お兄さん、はじめて笑った!」

 少女は男の皮肉も気に留めることなく、少女もまた明るく笑った。


 彼女の語る未来を、悪くない、と思ってしまったことが、男にとっては意外だった。

 しかしいずれにせよ、手術日になってしまえば自分は死ぬのだから、関係のない話だろう、と、その時の男は思っていた。




 屋上へ続くドアを開けると、冷たい風が強く男に吹き付け、汗に濡れた体を冷やした。

 高所から見える夜の街は、所々が街灯に照らされ、不思議な様相を呈していた。

 美しい、と、男は感じた。


――殺してあげる――


 頭の中では、まだ彼女の声が響いていた。




 麻酔で飛んだ意識が回復すると、目の前に医者の顔があった。

 聞くと、手術は成功したらしい。色々な幸運が重なった結果だと彼は語った。

 暫くは麻酔や切開の影響で動けないから、もう少し眠っているといい、と言われ、男は素直にもう一度その意識を落とした。

 眠り際に、よかったですね、と声を掛けられ、その通りだ、と感じた。

 これで、心置きなく、彼女に殺されることができる。


 それからしばらくして身動きもとれるようになり、一通りの検査が終わった。退院の準備をしていると、目の前のベッドが空になっていることに気づいた。

 そういえば、彼女も手術が近いと言っていたような気がする。

 通りかかった医師に、彼女のことを問うと、彼の顔が曇った。

 彼女と親しかったのですか、と彼は問うた。

 暫し悩んだ後、男は「ええ、まぁ」と、曖昧に返した。

 医師は少し躊躇した後、低いトーンで告げた。




「彼女は…お亡くなりになりました」


 


 その言葉に、男は絶句した。




 聞けば、手術の直前、急に彼女の容体が急変したのだという。直ぐに緊急手術が行われたが、それも空しく、彼女は程なくして息を引き取ったのだという。


 呆然とする男に、医師は、心中お察しします、とだけ声をかけて、男の反応がないことに心配そうな様子を見せながらも去っていった。


 少女の死は、男を絶望させるのには十分であった。

 それは決して、彼女に対して何かしらの情を持っていた、と言うことではなかった。

 ただ、自分を死へと導いてくれるきっかけを失った、と言うことだけが、いよいよ男の心を打ちのめしたのであった。





 かくして。

 死ぬはずだった男は生き残り、生きてみよう、とした少女が死んだ。

 おかしな矛盾だ、と男は思った。

 しかし、矛盾しているなら、それを正せばいい。

 死んだ彼女を取り戻すことはできない。だが、男が死ぬことは簡単だ。そして今、目の前には飾りの多く登りやすそうな柵があり、ここは地上からははるかに離れているのであった。

 ゆっくりと手をかけ、男は柵を上っていく。

 階段を登るのに疲れ切った後であるためにその動作は緩慢であったが、しかし夜のこの時間、それも冬なのだから、他に屋上へ出ようとする者もいないようだった。だから男は、誰にも見とがめられないまま、柵の上へと辿り着く。

 そして、見下ろす。

 ひどく高いというのに、恐怖はまるで感じなかった。車の明かりが行き来する様子は、ひどく都会的だった。

 此処から飛び降りれば、加圧と衝突で十分死ぬことができるだろう、と男は考えた。

 今、男を殺すはずであった少女は居ない。だが、彼は足を揃え、自分の意思で死を遂げるべくして体を乗り出す。




 しかし、いつまでたっても、男は跳ぶことができなかった。

 何故だ。最早この世に未練など何もない。死の恐怖など、とっくの昔に感じなくなってしまっている。足も震えていない。しかしならば何故。何度試しても、彼の体は決定的な瞬間を迎えることができなかった。

 頭の中で、彼女の声が響く。強く、繰り返し。


――殺してあげる――


――殺してあげる――




――が、お兄さんを、殺してあげる――


「…あぁ」


 男の目から、不意に涙があふれ出す。何かがつながった感触があった。


 初め、男は彼女の言葉を救いだと思った。しかし、実際にはそれは違った。

 。彼女が、男に施した。


 涙は後から後からあふれてきた。しかし男は笑っていた。

「なんて、…残酷な」


 きっと、少女は自分が恐らく死ぬであろうと悟っていたのだろう。だから、殺してあげる、と言ったのだ。

 それは、言葉遊びのようなものだ。気づかなければ、それで終わってしまう、約束でもない、本当に些細な。

 しかし、男は気づいてしまった。


「俺は…死ねないのか」


 彼女に殺されると聞いて、ほんの少しでも喜ばしいと感じてしまった時点で、男は既に死ぬことができないのだった。

 何故なら、男は少なからず彼女に殺される未来を望んでいて、そしてもはやそれは不可能なのだから。


「俺は、彼女に殺されるのだから…殺されるまでは、死ねないな」


 それもまた、倒錯だった。しかし、それこそが、彼女の仕掛けた呪いなのだった。

 跳ぶことを諦めて、柵を降り、屋上の床に寝転ぶ。

 都会の明かりの中では星など殆ど見えなかったが、それでも冬空の下で、オリオンが見えていた。

 男はそっと瞼を閉じ、意識が落ちていくに任せた。




 それから数日後、男は仕事を辞めた。そして退職金と、使い道のないまま溜めていた銀行の金を全て下ろし、当てもなく電車を捕まえては日本中を適当に回っていった。

 行き先もなくなると、今度は海外へと足が向いた。金が不足すればアルバイトをいくつも入れ、金が貯まったら再びどこかに出かけて行った。


『好きなものが見つかればいいけど、ううん、きっと見つかると思うんだけど、それでもやっぱり、世界はわたしの嫌いなものばっかだし、色々試しても、結局、わたしの死にたい気持ちを抑えらないと思うんだ』


 彼女の言葉はおおむね当たっていた。男にとっても世界はやはり嫌いなもので満ちていて、だが一方で、音楽や芸術と言ったものは、何故か不思議と素直に受け止められた。

 死にたいと思ったことも何度もあった。そのたびに彼女の声が、呪いが、頭の中に響いて、それを許さなかった。

 気づけば、男の髪には白いものも混じり始めていた。その年まで生きていることも、男にとってはまた不思議なことだった。

 男はただひたすらに世界を見て歩いた。世界に見切りをつけるために。

 そして――




 夜、ひとけのない路地を歩いているとき、男はふと胸に苦しさを覚えて蹲った。

 息が荒くなっている。視界がぼやける。すぐに苦しさは激痛に変わる。

 掴まれている、と男は思った。何かが、男の心臓を掴んで握りつぶそうとしているのだ、と。

 そう考えたところで、男は笑みを浮かべた。

 ついに、彼女が殺しに来てくれたのだ、と感じた。

 あれから十年以上、彼女の呪いによって生かされ続け、しかしやっと、彼女は男のもとへと戻ってきて、こうして彼を殺しに来たのだ、と。


 視界が暗転する。これが死か、と男は思った。しかし、後悔は全くなかった。

 世界は、男に対して開かれてはいなかった。しかし、そう思って死ぬのと、実際にそれを確かめて死ぬのでは、大きな違いがある、ということを、この十数年を経て、男は感じていた。


――殺してあげる――


 ありがとう、と、男は呟いた。




 暗闇の中、気づけば彼女が立っていた。


 ひさしぶり、元気にしてた?


 まぁな、と男は答えた。


 約束通り、殺しに来てあげたよ。


 遅い、と男は答えた。


 …楽しかった?


 かもな、と男は答えた。


 そっか、と言って、彼女は微笑んだ。

 それを見て、男も微笑んだ。そうしているうちに、男の意識は少しずつ薄れていって、やがて完全にこの世から消えていった。

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