あなたにもできる? 換気扇チャレンジ!
生気ちまた
本編
× × ×
はてさて。
読者の皆さんに誤解されないように一応言っておくと、平均的な社会人である北方千博に換気扇に対する耐性はほとんど無いし、なおかつ彼はこの世の全てのダクト型換気扇を破壊したいという強い欲求に日頃から苛まれている。
しかしながら、そんな人間でもお金だけはどうしても欲しい。
特に100万円なんて金額は、単純に1万円が100枚とかそんなチャチな扱いではなくて、子供の頃から大金の代名詞として使われてきた馴染みのある『目標』であった。
常に自由に使えるお金が2万円くらいしかない北方にとってみれば、まさしく『夢』と同義の言葉である。
だが、夢を掴みとるためには相応の努力が必要だ。
作品のタイトルにもある「換気扇チャレンジ」とは、要するに『どれだけ換気扇の下にいられるか』を競う競技である。もともとは飲み屋の店長が賭け事の材料として編み出したものらしい。
残念ながら典型的な換気扇恐怖症を患っている北方にとっては極めて不快なスポーツであったが、驚くべきことにある大会の競技参加者の資格の中に『F型恐怖症』の文字があったため、彼はあえて応募してみることにした。
同じ恐怖症の患者が相手なら自分でも100万円が取れると考えたのだ。
なお、ここで言うF型とはファン型――すなわち換気扇型の意である。他にはA型(エアコンに恐怖を覚える)やB型(ブラウン管が苦手)などが存在する。O型は存在しない。
× × ×
北方千博がかかりつけ医師の診察書をチャレンジ大会の事務局に送ってから1ヶ月が過ぎた頃(ちなみに彼が懇意にしている蒲生病院はF型恐怖症の治療で有名だが、待合室の天井には患者の天敵である『ダクト型換気扇』が効果的に配置されており、診察待ちの患者をきちんと一列に並ばせることに成功している)。
事務局からの返事を待っていた北方の元に、1通の電報が届いた。
『アス ドーム ニ クルコト』
ドームと言えば地元では京セラドームが有名だったが、大会が全国規模と銘打たれている以上、後楽園近くの東京ドームを指している可能性も捨てきれなかった。
あるいは意表を突いて門真のなみはやドームかもしれない。
困った北方は、親友の芳野真にメールで相談した。
平均的な社会人である北方千博は自分で考えて仕事をすることができないと以前から上司に怒られていたが、その傾向は成人しても治りそうにない。
『どうすれば良いと思う?』
『まず要件から教えて欲しいな。もしくはちょうどいいし今から飲みに行くかい?』
『前に肝臓を壊したから飲めないんだ』
ごくごく一般的な社会人である北方には、もうまともな肝機能が備わっていない。彼は成人してから3ヶ月で自分の肝臓をフォアグラにしてしまった。
上司主催の飲み会(月あたり40回以上)を断れなかったのが原因で、北方本人にとっては苦々しい青春の思い出の1つである。
『そういやそうだったね……仕方ない。電話で話そうか?』
『換気扇チャレンジの件なんだが』
「なんでそんなものに出るの?」
ここでメールでの会話が電話に切り替わる。
澄んだ女性の声が北方の内耳をさわやかに彩った。
「仕方ないだろう。お金が欲しいんだよ」
「お金なら貸すけど」
「俺は100万円が欲しいんだ。あれは男の夢だ。イライラ棒を突破するか、歌詞を見ずに1曲歌い上げるか、あるいは換気扇に単身挑むか。チャレンジに成功しないと手に入らないのが100万円だ。男はみんな炎のチャレンジャー……センチュリオンなんだよ!」
北方は声を荒げた。
飲んではいけないと言われていたのに、風呂に入る前に缶チューハイを2本いただいてしまったの原因だった。
あとチャレンジャーをイギリスの主力戦車になぞらえて、そこを同じ国の古い戦車に言い変えてしまったのも基本的にはお酒のせいだった。
「お酒臭いよ!」
「そっちには臭わないだろ!」
「ごめん水臭いだった……じゃなくて、やっぱり飲んでるじゃん!」
「お前に心配されるつもりはねえよ!」
ガチャーンと受話器を下ろす。北方は窓際で吼えた。平均的な会社員の咆哮だった。端的に言えば、部長が憎いとか、会社の受付嬢のバストサイズが知りたいとか、そういう類のそれであった。あと、よくよく考えたら芳野とは家の電話ではなく携帯電話で通話していたので、受話器を下ろしても意味がなかったが、気にしてはいけない。
なお肝心の大会会場については、当該日時に京セラドームではオリックス対西武ライオンズ、東京ドームでは日ハム対マリーンズの試合が予告されており、それぞれの予告先発は……まあ別にいいとして、ひとまず最後に残った『なみはやドーム』が主な会場になるだろうと予想された。
× × ×
翌日、朝から上司に風邪を伝えて無給休暇を勝ち取った北方千博は、さっそく門真市のなみはやドームに向かう。
ドームの前には朝9時からすでに多くの家族連れが集まっており、客の列に並んだ北方はそこで『バンザイ佐藤の親子博~私の嫁入り道具~』と書かれたポスターを発見した。
「違う!」
「そうだよ、違うんだ!」
澄んだ声が朝の街に響き渡る。
北方が振り返ると、後ろに私服姿の親友・芳野真がいた。
「ど、どうしてお前が!?」
ちなみにこの日は平日なのだが、一般的な公務員である芳野にとって、有給休暇の申請などは急須でお茶を淹れるよりも他愛の無い些事であった。
「よかった。心配で尾行しておいて正解だったよ。さあ、こんなキュウリの浅漬けの審査会なんてどうでもいいから、早く京セラドームにいかないと!」
「おいおい嘘をつくな。あそこは今頃、海田と野上の投げ合いで3万4千人が盛り上がっているはずだぞ!」
北方は掴まれた右手を振り払った。
平均的な会社員である彼はもちろんチェリーボーイであり、いくら去年合コンで知り合って以来の大親友とはいえ女性に手を掴まれるのは慣れていなかった。
一方の芳野も大体似たような境遇なので、こちらもついつい自分がやってしまった大胆な行為に戸惑いを隠せないでいた。
「や、野球の試合は平日なら夜だよ! でもチャレンジの大会は朝からやるんだ!」
芳野は語る。なみはやドームの近くに門真南という駅があり、地下鉄1本で京セラドームまでたどり着ける奇跡的な路線が通っている。だから今から地下鉄に乗れば、十分に間に合うと。
「なるほど。そうだったのか。てっきりここでやるかと思っていたが、しかしどこでそんな情報を調べたんだ?」
「実は仕事仲間が出場するらしくてね。親戚の医師に頼み込んでF型恐怖症を偽装した女の子なんだけど、もしかしたら君の強敵になるかもしれないね……」
財布に仕込んだPITAPAを自動改札にスタンプする2人。
コンコースからプラットホームへと向かいつつ、北方は臨戦態勢を整えていく。
地下に潜ってからというもの、これまでにいくつもの換気扇が天井に配置されていた。しかし彼はそれらを全て華麗なタップで避けてみせた。もはやルーチンワーク化されている『無意識のタップ――アン・ノーイングリィ・タップ』である。
だが、言うまでもなくこのような動作は『換気扇の下に居続ける』というチャレンジ大会の趣旨と大きくかけ離れていた。
あくまで彼の臨戦態勢は大会に向けてのものではなく、自己防衛のためのものだった。この『無意識のタップ』が、後の大会において彼をそれなりに苦しめることになる……。
× × ×
京セラドームにやってきた平均的な会社員・北方千博は、まず最寄りの3塁側のチケット売り場で1ヶ月後に行われる「阪神対横浜」のチケットを購入した。そろそろ夏も近づく頃合いである。
別の窓口で芳野真がチケットを買うのを待つ間、北方はチャレンジ大会の会場であるという9階のスカイホールに目を向けていた。
おおよそ円盤状の京セラドームには、メインフロアである野球場の他に、シンクロトロン・リングのようなサブフロア『スカイホール』が存在する。
ドームの天井に沿うように形成されたこのチューブ状の空間は日頃からおもちゃの博覧会やスノーボードの大売り出しで大いに活用されていおり、それがたまたま、この日は『換気扇チャレンジ』の会場になっていた。
北方は芳野を置いて会場行きのエスカレーターに飛び乗った。
ここのエスカレーターは3階から9階まで一気に登る長大なものである。当然、後ろから急いで追いかけてきた芳野から左右のステップで機敏に逃げることはできないし、そもそも北方が逃げた理由にしても『女性と外で一緒にいるのは恥ずかしい』という消極的なものであって、彼女の「応援するからさ!」なる前向きな言葉には到底敵わなかった。
ちなみに親友を自称しあう彼らだが、基本的にあまり外で会うことがない。
スカイホールはF型恐怖症の患者で大いに賑わっていた。
まずエスカレーターの降り口付近に、ホール全体で言えば「ドーナツを一口だけかじった」くらいの広さの空間があり、他の参加者から『待合室』と呼ばれていた。
待合室の左右には天井まで仕切られたビニールの壁と小さなドアが設置されていて、そちらが本命のチャレンジ大会会場になっているようだ。
「参加番号! 27番! 明石市から来ました阪口です! いきます!」
お立ち台で高らかに意気込みを語る阪口女史。
係員に誘導され、ドアから仕切りの向こう側に入った彼女は――3秒後に悲鳴を上げた。
「キャーッ! いきなり同心円タイプなんてぇ!!」
「同心円タイプだと……!?」
待合室で待機する他の参加者たちに動揺が走る。
北方も困惑していた。よりによっていきなり強敵が来るとは。
おそらく換気扇恐怖症に縁のない読者の方々には馴染みのない言葉であろうが、天井の天敵こと換気扇にはいくつかのタイプ分けが存在する。
まず前述の同心円タイプ。
これはデパートなどの大規模な施設でよく見られる換気扇である。
耳に怪我をした飼い犬が首元につけるアンテナ状の『あれ』……エリマキトカゲのような『あれ』を大小に4つほど重ねたような形状から、同心円タイプと呼ばれるようになった。あえて優雅にエリザベスカラーと呼ぶ者もいる。
それ以外にも有名なダクト型換気扇――いわゆる「トイレ上の怪物」や、その他の有象無象なタイプ分けが存在するが、まあそれはさておき。
気分を悪くした阪口女史は病院に搬送された。
「次! 参加番号! 24番! 神奈川県から来た深江です!」
列に並ぶ勇者たちはどんどん入口のドアを開けていく。
北方も受付の中年男性から参加票を受け取り、列の最後尾に並んだ。
中年男性の頬には大きなほくろがあり、しかも毛が生えていた。残念ながら彼の顔にはそれ以外に特筆すべき特徴がなく、他の参加者もみんなほくろを眺めていた。
少しだけ、気が楽になった。
× × ×
ここで『換気扇チャレンジ』のルールを説明したい。
前述の通り、会場は巨大チューブトンネル・スカイホールである。
さくっと言ってしまえば、ドーナツ状のこのエリアを1周した者に賞金100万円が贈られる。ただし要所ごとにチェックポイントがあって、これを全てクリアしないと失格になってしまう。
チューブ内に築かれた建築物の中には選りすぐりの換気扇たちが待ち構えており、ただでさえF型恐怖症患者にとっては動きにくいというのに、このチェックポイントで出題されるお題はもっともっと凶悪である。
「参加番号! 19番! 北方千博! 頑張ります!」
「がんばれよーっ!」
待合室から飛んでくる声援を背中に受けながら、北方は魔境のドアを開ける。
ここを通れば仕切りの向こう側……。
「はいはい、入ってくださいねー!」
せっかちな係員に押し出され、ガチャリと締め出された先は――薄暗い空間だった。
北方はすぐに本能を働かせる。
換気扇恐怖症患者の本能、いわゆる『上に誰かがいるような錯覚』を受信。
「……敵!?」
彼は下を向いてダッシュする。
部屋の天井は、なんと同心円タイプの換気扇で埋め尽くされていた。それも全てにしっかり電源が入った状態である。
北方にとっては苦痛の極みだったが、どうにか背中から悪寒を封じ込めることに成功した。
「ああ、くそ!」
北方は悪夢のような部屋から抜け出す。
すると、足元にあった液晶画面に『5ポイント』の表示が現れた。
一応ルール説明の補足をしておくと、本大会では換気扇の下にいた秒数だけポイントが溜まる仕組みである。
チューブを突破した人数が2人以上となった場合、この換気扇ポイントの数で優勝者が決まる。
「よくわからないが集めたほうが良さそうだな……」
廊下に配置されたノーマルな換気扇を避けつつ、北方は次の部屋の扉を開いた。
ノーマルというのは天井設置型の換気扇としては一般的という意味合いであり、この場合はどこにでもある『通風孔に格子をしただけの存在』を意味する。
F型恐怖症にも色々と類型があって、北方はこのノーマル型が比較的得意だった。もちろん避けて通れるならばそうしたい存在ではあったが……。
次の部屋、暗い部屋はできるだけ走り抜けた。
わざわざ着てきたフード付きのパーカーは『規則違反』として係員に没収されてしまったので、代わりにTシャツを借りていた。これが換気扇からの不快な風をどうにも防いでくれなかった。
鳥肌と悪寒に耐えながら、北方は第一のチェックポイントに到達する。
チェックポイントは3畳ほどの小部屋の中にあった。
『上をご覧ください。プールによくある「ゲームコントローラーのスティック部分の先端にぽっかり穴を開けたような」通風孔があります。食堂の調理場によくあるアレと言っても差支えないでしょう』
北方は身震いした。なんてものを用意してくれたんだ。
あれは小学生の頃――彼が近所の屋内プールで水泳を習っていた頃のことだ。天井に設けられたあれが怖くて怖くて仕方がなかった。濡れた上半身をどうにか届く程度の送風で冷やしてくる「換気扇砲台」……いわば彼が恐怖症になる原因を作ったような存在である。
『では、ここで3分ほど正座してください』
非道なる看板の言葉に、北方は泣きそうになった。耐えられるはずがない。あのプールの天井ですら20メートル上にあったというのに、この小部屋の天井はわずかに2メートル。
送られる風も強力で、きっと悪寒に耐えきれない。
「……エアコンだ、エアコンだと思え!」
北方は念仏を唱える。彼はF型だがエアコンには耐えられるため、書類上はF型+とされている。逆に耐えられないものはF型-とされ、こちらは家庭での日常生活すら困難である(多くは野外での生活を強いられているが、中には古民家を買い取る強者もいる)。
エアコン念仏が効果を発揮しなくなったのは、彼の身体が「換気扇砲台」の下に入ってから5秒ほど経った頃だった。
どんどん顔が青ざめていく。
背中から後頭部にかけて鋭い電撃が走り、類まれなる悪寒が北方の背骨あたりを支配した。まるでお化けにでも取り付かれたような気分だった。
「ぐ、ぐう、ぐううう……」
逃げ出したくなる衝動はどんどん迫力を増していく。
逃げよう。逃げて芳野とスパゲティでも食べよう。
芳野――不意に彼女の姿を思い出すと、北方の中で「何か」が強くなったような、そんな感覚がした。
とてつもない悪寒に変わりはないが、逃げ出してはいけないという気持ちは少しずつ強くなってくる。
負けてはいけない。耐える。耐えるんだ。
北方の中では、今まで芳野はただの親友だった。彼女が親友を自称するから、北方もそれに倣った形だ。だがこうして窮地に陥った時、ふと彼女の存在が彼の支えになった。これを吊り橋効果と呼ぶのか、それは誰にもわからないが、ともかく北方は彼女の存在を支えとすることで、あるいはそう思い込むことで、この窮地を突破してみせた。
「うおおお!」
格好良さを見せつけたい相手ができると、人は強くなるものらしい。
北方はどうにか悪夢の3分間を耐えきった。
× × ×
第一のチェックポイントを打ち崩した北方千博は、続いて『全周囲換気扇』の部屋に突入した。
これは読んで字の如く、部屋の6面が全て換気扇で構成された空間である。
同心円タイプの換気扇が天井・床・四方の壁に取り付けられていて、おそらくこの世でもっとも換気の効いた小部屋であった。
北方は足元にある恐怖に怯えつつも、目をつぶってこの部屋を抜け出した。
ちなみにこの部屋はドアすらも換気扇でできており、廊下側に通風管が接続されているため非常に重量があった。
「はあ、はあ……はあ!」
平和な廊下で息を吐く北方。しかしこのチューブに安全な場所は極めて少ない。
彼の後ろでガチャリと不穏な音がした。
恐る恐る、北方は振り返る。
「ぬあ!?」
なんと後方の壁から同心円タイプ(四角型)の換気扇が2つ出現!
加えて壁自体がレールに乗ってこちらに近づいてきたではないか!
俄然、北方は猛ダッシュをかける。
「うおおおおおおおお!!」
全力疾走の結果、どうにか次の紅い部屋まで逃げきることができたが、通常ではありえない『追いかけてくる換気扇』の恐怖は筆舌に尽くしがたいものがあった。
何て恐ろしい施設なんだ。
紅い部屋の入口付近に伏兵のような換気扇があったことに気づいた北方は、ひとまず3歩前に出る。
すると目の前にA4サイズの藁半紙が落ちてきた。どうやらスタッフの1人が上の隙間から落としたらしく、天井裏でゴソゴソと物音がした。
「なになに……次の小部屋が第2のチェックポイント?」
北方は注意深く歩きながら、紙に印刷された文章に目を通す。
第2のチェックポイントはまたしても3畳ほどの小部屋だった。ここではドアを閉めることが求められ、北方もそれに従った。
閉じられた密室の中で『ずっと座っているよう』指示される北方。
やがて上から、もう1枚の紙が落ちてきた。
『この部屋のどこかに換気扇があります。3分耐えてください』
またしても耐える系のイベントである。北方は焦る気持ちを抑えつつ、周囲を見渡した。
小部屋に家具などはなく、あるのは座布団が1枚だけである。北方は厳しくチェックを行ったが、座布団の下にも異変は見当たらなかった。
「……まあ。わからないなら逆に大丈夫かもしれないな」
北方は少しだけ笑った。
本屋などで漫画探しに夢中になっているうちに同心円タイプの換気扇の下にいた、なんてことは多々ある。そのたびに彼は心が凍えてしまうわけだが、ある意味では『慣れっこ』とも言えた。
さっき「砲台」を相手に耐えられたのだから、きっと大丈夫だろう。
そんな過信が彼の隙を突いた。
すぅっと吹き抜ける『糸ほど』の細い風。
背中に当たったそれは、北方の雄々しい絶叫を誘った。
「ぎゃあああああああああああ!!」
正体不明の難敵に驚愕する。
どこにもいないはずなのに、風が吹いてくる。
北方は苦し紛れに芳野真のことを考えた。
去年の秋、初めて出会った合コンで、芳野は「こういう場所に来るのは初めて」だと言った。ちょうど北方自身も上司に誘われて無理やり参加させられていたので、2人はそれを取っ掛かりに話を盛り上げていった。
ただそれだけの馴れ初めだった。他には何もない。
ごく単純な――そうだ!
北方は考えを改めた。紙に書いていることが全て正しいとは限らない。チャレンジ大会のスタッフは壁に天井用の換気扇を仕掛けるようなイカレた連中なのだ。騙してくる可能性だって大いにある。
「つまりこの部屋に換気扇はない! さっきのはプレハブの隙間風だ!」
単純な話だった。チャレンジ大会側は参加者を疑心暗鬼に陥らせようと企んでいる。例えるなら、よく洋服屋の試着室で天井に換気扇がないか確認する時などは入念に調べるものである。なにせああいう空間はパネルが天井まで届いていないから、換気扇の送風が斜めから来るかもしれない。
おそらく、あの恐怖感を再現するつもりだったのだろう……。
3分経過を確認した北方がドアを開くと、進行方向から「わあっ」と歓声が上がった。すでに彼はチューブトンネルの4分の3を走破していた。
いよいよ待ち構える最後のチェックポイント。あれをクリアすれば、ゴールはすぐそこにある。
× × ×
純白の回廊を辛抱強く歩いていく。
中央に不気味な空間があり、北方千博としてもそこが第3のチェックポイントであることは理解していた。
しかし彼には四方に設けられた回廊側の扉を開くことができなかった。
回廊の壁に描かれた禍々しい砂絵。
白壁の上に真っ白な砂で書かれていて、一見するとただの模様のようだったが、実際はチェックポイントの内容を示した重要な手がかりだった。
「……要約すれば、超巨大なダクト型換気扇のようだな」
北方はごくりと唾を飲む。砂絵に描かれた『とてつもなく大きな格子状の怪物』は間違いなく「トイレ上の怪物」ことダクト型換気扇であった。
今まで何度も名前だけ登場した難敵中の難敵。北方にとっては不倶戴天のライバルである。
『だいたい四辺に5センチの余白を残した囲碁板が頭に浮かんできませんか。小さな網の目の奥には永遠の闇があります。背中がひんやりとしてきませんか。もし耐えられる自信があるのなら、部屋の中に進んでください』
回廊の中で流れるアナウンス放送。
天井には丸型のよくあるスピーカーが付いている。
ちなみにF型恐怖症の患者の中にはあのスピーカーを苦手とする者も多数存在するが、北方はまだ耐性のあるほうだった。
さて、もしかすると読者の方はこんな印象を持ち始めているかもしれない――すなわち平均的な社会人である北方が、並居るF型患者の中では比較的軽度の患者なのではないか。
実際は決してそうではない。確かに世の中にはキッチンの換気扇にすら耐えられないタイプの患者もいれば、逆に壁にかかった換気扇なら問題なく扱える患者もいる。この中では北方は後者にあたるが、それはあくまで『アレルゲン』の種別の問題であって、症状の重さを示しているわけではない。
北方は勇気を振り絞って、回廊から匍匐前進で中央の部屋に侵入した。
高さ70センチほどしかない部屋の天井には――超巨大型のダクト型換気扇が仕掛けられていた。
「うわ、うわあああ……」
まさしく天井が換気扇だった。
生ぬるい送風、存在の大きさ、そして不穏すぎる作動音に、北型の神経細胞は悲鳴を上げた。
尺取虫のような悪寒が彼の背面を暴れまわる。
それでも北方は……じっと部屋の中で耐えた。
高さ70センチの部屋の中で、ずっと俯けになっていた。
後ろを振り返ってはいけない。振り返れば奴がいる。ほとんどのトイレで天井の神になっているダクト型換気扇、特に大便器の上には間違いなく設置されているあいつ。それがすぐ近くにいて、しかも身体全体を覆い尽くすほどのサイズでこっちを見ている。
だからといって俺から見返してはいけない。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
そんなものを見たら……きっと神経が焼き切れてしまう。
『いよいよ最後のチェックポイントです。ここで10分間を過ごしてください』
「できっこねえだろ、そんなもんよぉ!!」
北方は激昂した。
果たして脳が耐えられるのか。
発狂してしまわないか……?
× × ×
チャレンジの様子を待合室の本部席でモニタリングしていた竹原医師は、苦し紛れに往年の名曲『夢のつづき(村下孝蔵)』を歌い始めた北方千博の姿を見て、思わずドクターストップをかけそうになった。
だがこの大会の主催者であるチャレンジ事務局長・古久保氏が「本当に必要なのはここからだ」と口走ったので、竹原はそれを言い出せなくなった。所詮はお金をもらうために働いている医者なので、スポンサーには口出しできないのだ。
しばらくして、1人の女性が本部席に駆け込んできた。
「あの! 北方くんは大丈夫ですか!?」
竹原はひどく驚いた。彼女の右腕に『北方千博の親友です』と書かれた赤い腕章があったからだ。普通の頭をしていたらそんな腕章は恥ずかしくて付けられないだろうから、きっと彼女は恋に溺れて周りが見えなくなっていると考えて間違いない。それなりの容姿をしているのに、なんともったいない。
「ええ……彼は大丈夫です。そんなことよりウチの病院で診察を受けませんか?」
「そんなのいらないよ!」
竹原の繰り出した名刺を彼女は指先で弾いてみせた。
名刺の角で親指の付け根を切ってしまった竹原は、憮然とした表情で目の前の彼女を見つめる。やはりそれなりの容姿だった。
「……北方選手はかなり危険な状態です。提出された診察表を見るかぎりでは相当深刻なF型恐怖症のようですし、そろそろストレスの蓄積で限界が来るかもしれません」
「だ、だったら棄権させてよ!」
彼女の意見はもっともだった。だが竹原は「うん」とは言えない。
ここで事務局長の古久保氏が動いた。彼は口うるさい闖入者に目元の深い彫りを見せつけると、彼女の肩をポンと叩き、小さな声で「社会の進歩のためには犠牲が必要なのだ」と説いた。
「それって、どういうことなんだい……」
「要するにこれは大がかりな人体実験なのさ。どうすればF型恐怖症の患者を救えるのか。多くは後天性のトラウマが原因だが、それを取り除く、あるいは耐性を付けさせるにはどの方法が適切なのか。それを知るための実験……」
竹原は見ず知らずの彼女に説明してやった。彼女が比較的ストライクゾーンだったのが不運の始まりなのか、彼もまた彼女に良い格好を見せようとつい頑張ってしまったのだ。
「たかだか100万円をエサに人体実験なんて、あんたら酷いじゃないか!」
そう怒鳴る彼女に、古久保氏が返答する。
「世の中には3万円のギャラのために骨折する芸人もいる。だがテレビ番組は責任を取らずに済んでいる。この大会も同じ。きっちり参加者には自己責任を言い渡してあるんだ。あのドアを開けるのは自由意志だし、特に問題はない!」
竹原、彼女、そして古久保氏はそれぞれ『冒険の入口』であるドアを見つめた。
参加者が列を作る小さなドア。あの先にあるのは紛うことなき人体実験場……。
3人の中で一番忌々しげな目をしていた彼女は――芳野真は、黙って本部席を抜け出し、入口ドアの反対側にある出口側のドアに駆け寄った。
「ああ、早く棄権してくれ北方くん! 100万円なら貯金を切り崩してくれてやるから!」
しかしその声は届かない。北方のいる回廊内の部屋は、ダクト型換気扇の生み出す轟音に飲み込まれてしまっている。
ポロポロと涙をこぼしながらドアにすがりつく芳野だったが、すぐに大会スタッフに羽交い絞めにされた。
そんな彼女の姿を見て、竹原は「なんともったいない……」と呟いた。
× × ×
北方千博が苦しみ、親友の芳野真もまた心を痛めている一方で、この大会には1人、自らの快進撃に酔っている女がいた。
小松田聖子。芳野の役所の同僚でありF型恐怖症を詐称してチャレンジ大会に参加したイレギュラー要素である。
彼女のやり方は大胆かつ巧妙だった。
まず天井にある換気扇は全て破壊した。そうすることで自分の後にチャレンジを行う参加者から勝ち目を奪うつもりだった。
しかし、持参したトンカチと九五式軍刀で同心円型換気扇を破壊して回るその姿は――待合室で列に並ぶ参加者たちを大いに喜ばせた。何より日頃から換気扇を憎んでいる彼らである。彼女のやり方はまさに快感の極みだった。
次に彼女は、どちらかというと換気扇を恐れているフリをしながらも、それを破壊した後には必ず『かつて換気扇だったもの』の下で休憩することにしていた。これにより換気扇ポイントを充実させ、先行する北方に差をつけようとしていた。
ちなみに挑戦者たちの様子を待合室から確認することは不可能である。先ほどの換気扇破壊祭りで待合室が盛り上がったのは、大会スタッフが小松田の破壊行為を止めようと大慌てになっていたからであり、本能的な部分はともかく、実際どういう風になっているのかを他の参加者たちが知ることはなかった。
これは参加者にとって『初見の冒険』にしておかないと平等な人体実験という大会の趣旨から外れてしまうからである。一応本部席にはモニタリングスペースがあり、竹原医師がドクタースップに備えている。
なお、北方が第2のチェックポイントを通過した際に突如「わあっ」と声が上がったのは、例外的にスタッフが待合室にアナウンスを流したからである。
実のところ、第2ポイントを突破したのは彼が初めてだった。
「ふん! この程度は造作もない!」
小松田はその第2チェックポイント――『見えない換気扇の恐怖』を題材とした小部屋でも大規模な破壊行為を働いた。プレハブの壁を壊して壊して壊しまくり、部屋に1つも換気扇が無いことを確認すると、今度はニヤリと笑ってみせた。
続く廊下の『追いかけてくる換気扇の壁』もトンカチで迎撃した。ボロボロに壊れた同心円型換気扇を蹴り飛ばした小松田は、その後のいくつかの部屋でも同じような破壊を行った。
そして、ついに彼女は北方のいる純白の回廊に到着する。
「……ふむ。この中が最後のポイントか。造作もない!」
愛用の九五式軍刀を握りしめる小松田。言うまでもなく軍刀の携帯は銃刀法違反であり、下手したら左手のトンカチだって警察の目に留まれば危ない代物だった。
またどうでもいいことだが、小松田の口癖は「造作もない!」である。基本的にボギャブラリーは貧困な女性らしく、だいたい言葉に困ったら「造作もない!」を口走るようだ。もちろん定時で仕事を終える時も「造作もない!」と主任をおちょくってから帰るようにしている。
「ふん! 造作もないぞ!」
ドアを蹴り飛ばし、目の前に鎮座する巨大なダクト型換気扇に相対する小松田。
あまりにも大きな破壊目標を見て、彼女は口元をほころばせた。
「いいな、いいな、すごいな!」
まずはトンカチで初撃を加える。その後、思い出したかのように換気扇の電源を切る。
すると轟音を響かせていたファンがゆるやかに減速し……やがて停止した。
「はあ! はあ! はあ!」
息も絶え絶えになりながら必死に耐えていた男が、ずるずると部屋から這い出してきた。
北方である。彼は10分間の地獄を立派に耐え抜いたが、残念ながら終わった頃にはすでに足を動かす気力さえ奪われていた。それがこの度の停止により、少しだけ気力が回復したのだ。
「……造作もないな。この程度でボロボロになるとは。ここで造作もなく斬ってやろう」
「き、斬るだって……?」
「ああそうだ。お前を斬ればお金は間違いなく私のものになる!」
二人は100万円を競い合う敵同士であった。
確実に賞金を獲るため軍刀で襲い掛かった小松田に、北方は『無意識』で対抗した。
すなわち――たまたま彼が這い出た先の頭上に小さな換気扇が存在したのだ。
スルっと軽い動きで太刀筋を避けてみせる北方。
小松田は相当驚いた。
「な……この、その、えーと……造作もなく死ね!」
「嫌だ! 俺にはちゃんと格好つけたい相手がいるんだ!」
とはいえ武器を持たない北方が日本刀とまともにやりあったところで死んでしまうだけである。
北方は純白の回廊を全力疾走した。
ちょうど上手いこと、最後のチェックポイントをクリアしたことを確認したスタッフによって奥の隠し扉が開かれており、彼はそこに逃げ込んだ。
もちろん小松田も追いつこうとしたが、そこはルールに厳格なスタッフによって「申し訳ありませんがきちんと換気扇の下にいてください!」と扉を閉められてしまう。
「キィィィッ!」
悔しがる小松田はひたすら頭上の巨大換気扇を解体しながら10分を待つことにした。複雑な構造を有するダクト型換気扇は彼女のストレス発散に大いに役立った。
同時にそれを壊す音は、待合室で順番を待つ参加者たちを歓喜の渦に巻き込んだ。彼らはアレルゲンである換気扇を本能で感じることができた。だから換気扇を破壊する音は彼らの耳には『解放の音色』として聞こえた。
× × ×
かくしてこの度のチャレンジ大会は、2名のトンネル突破者を出したところで強制終了に追い込まれた。
理由は言うまでもなく『崩壊』である。軍刀を持った頭のおかしい参加者に設備がみんな壊されてしまったので、単純に続行不能になってしまったのだ。
もっとも参加者から文句は出てこなかった。彼らは換気扇の大解体ショーを「認識」するだけで十分に満足していた。
「おめでとう! 君が一番だ!」
「フッ……造作もなかった!」
多くの参加者たちが去りゆく中でおざなりに開かれた表彰式。賞金の100万円を受け取った小松田聖子はわずかに笑みを漏らす。
ここで本大会のルールを再確認しておこう。
まず第一に『設けられたコースを突破したら100万円がもらえる』。次に2人以上の突破者が出た場合は『換気扇の下にいられた時間』を競い、長かった方を勝者とする。
大会用語で「苦行時間」と呼ばれるこの時間はスタッフの手により計測されており、彼らのストップウォッチから弾きだされた秒数がいわゆる「換気扇ポイント」として勝敗を決する要件となった。
ぐだぐだと説明してしまったが、とにかく小松田はひたすら換気扇を壊していたからポイントが高かったというわけだ。
逆に北方は避けてばかりだったので大会的にポイントが低かった。
「フフフ。折れてしまった日本刀の代わりを買わねばな……フフッ」
負けてしまった北方は、100万円の使い道を妄想する小松田に一瞥をくれてやる。芳野の話によれば彼女はF型恐怖症の患者ではないらしい。
「……100万円、欲しかったのかい?」
「いや……良いんだ」
北方はずっとくっついたままの芳野をより力強く抱きしめた。
お金も大切だが、極限のチャレンジの中で本当に守りたいものを再認識できた。
自分が格好つけたい相手をきちんと見つけることができた。
それだけで北方は十分に満足していた。
「よければ、わたしの貯金を……共同の財産にしないか……?」
「ありがたい話だ……酒で壊した身体を癒せるからな……」
お互い見つめ合い、相手の口に唇を這わせるか悩みあう二人。
そんな彼らの後ろで小松田はモゴモゴとハンカチを噛まされていた。下手人は竹原医師。不正に入手したクロロホルムを用いて小松田を眠らせるつもりが、間違えてウナコーワを持ってきていたので仕方なく力技を仕掛けていたのだ。
「あぐ、アウグストゥス――」
ドスッと倒れた小松田をスタッフと共に担架に乗せる。
彼らにとってはここからが本番だった。すなわち古久保老師の出資を受けての治療研究。F型恐怖症の患者が自らそれを克服したプロセスを正しく調べることで心療内科的な治療法を探し出すのである。
小松田はその実験台として捕獲されてしまった。言うまでもなく「大会の中でケガをしようが心を傷つけられようが大会事務局は責任を負わない」のが鉄則だ。さらには今後スタッフたちが彼女をどうしてしまおうが、仮に訴えられても「危険な大会の中でパニックを起こした」の言い訳さえあればどうにかなる。
「すまないね、これもお金をもらってやることだから」
竹原は気絶した小松田に言葉をかけつつ、近くで抱き合う男女に侮蔑の目を向けた。出来ることならあっちを実験台にしてやりたかった。事実、本来ならそうするべきだったのだが……竹原がそれに気づくのは自身の病院に小松田を連れていってからである。
あなたにもできる? 換気扇チャレンジ! 生気ちまた @naisyodazo
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