エピローグ『Kiss』

「大輔さんのことが好きです」


 杏奈から放たれた言葉が信じられなくて思わず、

「えっ、今なんて言った――」

 杏奈の方に顔を向けると目を閉じている彼女の顔がすぐ近くにあって、それが分かった次の瞬間には唇に何か柔らかいものが触れた。

 ふんわりと香る、苺の甘酸っぱい匂い。まるで、それは杏奈の匂いと同化しているようにも思えて。

 杏奈の目が開くと、ようやく杏奈は今の状況が飲み込めたらしい。

「ふえええっ!」

 悲鳴を上げながら俺から離れて、杏奈は土下座をする。

「うぇぇん……ごめんなさい! 私、大輔さんに好きだという想いを伝えて頬に軽く唇を触れさえすれば十分でしたのに、大輔さんと口づけをしてしまうなんて! 大輔さんにどう責任を取ればいいのか分かりません……」

 そう言って杏奈は号泣してしまう。

 ここはどうにかフォローしてやらないと。俺はとりあえず杏奈の両肩を掴み、

「き、気にするなよ! 俺が杏奈の方に振り向いたのがいないわけだし、それに……今の口づけは全然嫌だと思わなかったから!」

「えっ……?」

 杏奈の涙が急に止まった。それよりも今の俺の勢い余る言葉に驚いてしまったのか、杏奈は目を見開いている。

「本当……ですか?」

「あ、ああ……嫌なわけがないだろ」

 むしろ、こっちが罪悪感ありまくりなんですけど。おそらく、杏奈のファーストキスを奪ってしまったわけだし。しかも、こんな形で。

 しっかし、杏奈が最近できた好きな人って……俺のことだったのか。だから、俺がこれで最後だって言ったときに杏奈はあんなに嫌がっていたのか。

「大輔さんが家庭教師を続けてくださるにしろ、そうでないにしろ……私が大輔さんのことが好きだということだけはどうしても伝えたくて。そ、その……お付き合いすることができれば嬉しいですけど。私、まだ子どもですし、琴音さんのようにお胸も大きくないですし。でも、大輔さんが離れると思うと胸が苦しくなって、大輔さんがいると不思議と安心できて……。こういう気持ちになるということはつまり、大輔さんのことが好きなんだって自覚し始めて……」

「そうか……」

 何というか、杏奈から告白されるとドキドキもしてくるんだけど、4歳年下ということもあってか、ドキドキよりもほっこりする気持ちの方が強い。

「それに、私……ウルフって揶揄するための言葉だけじゃないと思うんです」

「どういうことだ?」

「私、狼はとても強いイメージがあるんです。誰かを守るために。優しくて、強くて何人ものの人を助けた大輔さんにピッタリだと思うんです。だから、私は……大輔さんがウルフだって思われることに納得しているんです。もちろん、大輔さんが嫌なら止めます」

 同じ「ウルフ」でも、人それぞれ捉え方が違うってことか。杏奈はきっと、出会ってからの俺の姿を見て狼のようだと思ってくれたのだろう。


「……今の杏奈の話を聞いて、ウルフって呼ばれるのも悪くない気がしてきたよ」


 そう、3年前の事件から作り上げられた「ウルフ」を消していければいいんだ。杏奈のように思ってくれるなら、ウルフって言われることにも段々と抵抗感がなくなってくると思う。

 こんなに必死になって俺を励ましてくれて、俺の側にいたがるなんて。

「まったく、杏奈は猫みたいで本当に可愛い女の子だな」

「可愛い、って……あうっ。猫は大好きですけど……」

 杏奈は可愛く喘ぎ声を出し、その場で悶えてしまう。

 そして、暫くしてから、

「大輔さん、さっき……唇が触れたことを嫌じゃないと言ってくれましたよね?」

「あ、ああ……」

 落ち着いたかと思ったら何をいきなり言い出すんだ。

「それなら、一度だけ……大輔さんからキスをしてほしいです。本当に不躾なことだと思いますが、お願いできますか?」

「いや、駄目ってわけでもないけど……」

 中学に入学したばかりの女の子にキスをするなんて、いくら俺でも抵抗感はある。それが、相手からしてほしいと言われたことでも。

 でも、杏奈の要望に応えてやりたい気持ちはある。しかし、内容が内容だけにそれに易々と受け入れていいものなのか……。

 でも、杏奈が本気なら……俺も覚悟を決めるか。

「本当に……してもいいのか? 後で後悔しないか?」

「大丈夫です。そのくらいに……大輔さんのことが好きなので。でも……その、これは一つの思い出と言いますか、家庭教師の契約に関する誓いの口づけと言いますか」

「分かったよ。じゃあ、これからもよろしく。杏奈」

「は、はい……よろしくお願いします」

 杏奈のことを抱き寄ると、杏奈は俺の着るワイシャツに手を添えて目を瞑る。

 そして、そっと……唇を杏奈に唇に重ねた。先ほどと同じ苺の甘酸っぱい香りが杏奈から漂ってくる。

 俺が唇を離そうとすると、杏奈は俺に唇を押しつけてくる。杏奈は唇を少し動かし、俺の唇をどうにかして開こうする。もしかしたら、木曜日の夜に見た由衣との口づけに対抗しているのかもしれない。

「んっ、んっ……」

 小さく唸りながら杏奈の舌が、俺の口の中へと入ってくる。普段は控え目だけど、こちらが良いと言えば積極的になるタイプかもしれない。杏奈は舌と絡ませた状態で俺のことを押し倒す。俺も杏奈が怪我をしないように力強く抱きしめる。

 ようやく唇が離れると、俺の視界には頬を紅潮させた艶めかしい杏奈の顔だけがある。微笑んだときの杏奈の表情が物凄く可愛い。

「口づけって……こんなに温かくて素敵なことなんですね。一度だけで良いと言ったんですけど、もう一度……大輔さんと口づけがしたいです」

 これ以上は駄目だと分かっている。しかし、

「……杏奈の好きな通りにしてくれ」

 杏奈を受け入れる体勢ができてしまっていた。杏奈はやんわりと微笑み、

「じゃあ、私から……しちゃいますね。好きですよ、大輔さん」

 そう言って、杏奈は顔を俺の方に近づける。

 そして、唇が重なり合おうとしていたときだった。

「何をやってるのかな? 大輔」

 低い声だったけど、誰が言っているのかはすぐに分かった。

「……ゆ、由衣さんですか?」

 杏奈のことを抱いたまま体を起こすと、そこには目が座っている由衣が目の前に立っているではないか。黒いデニムのホットパンツに白いTシャツといういかにもお隣さんという雰囲気が漂う服装をしている。その後ろには白いワンピースに身を包む琴音と、昨日とさほど変わらない服装の片岡が立っている。

「今日はどうしたんだよ、お前ら……」

 というか、勝手に家に上がり込んで来やがって。

「それはこっちの台詞よ! 大輔……私というものがありながらどうして間宮さんとキスなんてしているの? あの時に私と口づけをしたのを忘れたの? もしかして、大輔がロリコンに……」

「断じて違う!」

「そ、そうですっ! 大輔さんは……口づけをして欲しいという私の我が儘に快く引き受けてくださっただけで、そんな疚しい気持ちは絶対にありません!」

「うっ、間宮さんに言われると反論できない……」

 さすがに杏奈には怒れない、という感じか。

 それに、杏奈の言ったことが真実であって俺は決してロリコンではない。

 由衣は杏奈の助言で落ち着いた感じがあったけれど、それでも納得していなさそうだったのが由衣の後ろに立っている琴音の方だった。

「椎名さんと間宮さん、大輔君に口づけをしたんですか?」

「えっ、いや……あの時は間宮さんに嫉妬してたっていうか、話の流れでつい……」

「私も好きだという想いが止まらなくなってつい長く……」

 琴音から糾弾に、由衣も杏奈も同じくらいに頬を朱色に染めながら答える。

 何だか俺に色々と身の危険が迫っているような感じがする。つうか、片岡はドアの近くで爽やかに微笑んで観賞しているんじゃねえ。

 そして、琴音は何かを決めたようにぱっとした表情になり、


「私も大輔君と口づけしますっ!」


 と言って、驚いた杏奈が俺から離れた隙を狙って俺のことを押し倒し、2人よりも熱い口づけをしてくる。杏奈とは違ってミントの香りが漂ってくる。

 10秒ほどだっただろうか、俺は琴音に対して何も反抗することができなかった。とにかく、舌の絡ませ方が杏奈や由衣と違って激しい。琴音の唇が離れると唾液による糸が1本伸びているのが分かる。

「これで私も口づけをしたので、間宮さんと椎名さんと同じスタート地点に立ったというわけですね」

 琴音は微笑みながらそう言った。何のスタート地点だというんだ。しかも、何がゴールなのかも全く分からないし。

 現実なんだけど、今の状況が現実じゃない気がしてならない。可愛くて魅力のある女子3人が俺のことをじっと見ているし。

「いやぁ、荻原君は罪作りな人だね。これは答えを出さなきゃいけないんじゃない?」

「答えって片岡は言うけど、そもそも俺は3人とも同じくらいに大切に想っているし……みんなといる時間を大切にしたいだけだ」

 それが俺の本音だ。誰が一番良いとか、誰を彼女にするとかそういうのはまだ早いんじゃないかと思う。俺のことを好いてくれている杏奈、由衣、琴音の3人に悪いとは思うけれど。

「……そう。でも、私は大輔のこと諦めないから」

「私だって大輔君の彼女になれるように頑張ります!」

「え、ええと……私はその、大輔さんのことが好きな気持ちはお二方と変わらないのですが、私も大輔さんの中での1番の女性になりたいです……」

 言葉は違うものの、3人とも好きという同じ気持ちを俺に伝えてくる。

 おいおい、何だか俺の予想を遙かに超える展開になっているんだけど。3人の間に火花が散っているようにも思えるし。

「なあ、片岡。何とかできないか?」

「僕にはどうにもできないよ。幼い頃から許婚がいるから、こういう状況には一度もなったことがないからね。それに、こんなに可愛い女の子達が3人も君を巡っているなんて実に羨ましいことじゃないか」

 片岡は爽やかな笑顔を浮かべてそう言うけれども、許婚のいる人間が言っていいような言葉なのか? ちょっと問題発言なのでは?

「いやいや、それよりも3人仲良くしてくれた方が俺は嬉しいんだけどな。俺のことは置いといて」

「あははっ、そうか。何にしても、僕はこれからも荻原君から色々なことを教わることにするよ。3人にとって平等な立場に立ってね」

「……そうかよ」

 爽やかに笑いやがって。

 まあ、こんな風にして四角関係のようなものとそれを見守る人間が1人いるという5人の構図が出来上がってしまって。これから先、その構図がどのように変化していくのかは分からない。

 だけど、今までよりも楽しい毎日が送れるのは確実だろう。

 こいつらと一緒にいれば絶対に。




『狼少年と猫少女。』 おわり

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狼少年と猫少女。 桜庭かなめ @SakurabaKaname

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