第30話『告白』
4月22日、日曜日。
午後3時。家のインターホンの音が鳴り響くと俺は玄関まで行き、扉を開ける。
「いらっしゃい、杏奈」
扉を開くと、そこには淡い赤紫色のワンピースの上に、ほとんど同じ色の七分袖のカーディガンを着ている杏奈が立っていた。
「きょ、今日は大輔さんの家にお招きいただきありがとうございます」
「そんなに固くならなくていいんだぞ。あと、今日の服もよく似合ってるな」
「はうっ、そ、そうですか? お母さんと一緒に考えてこの服にしてみたのですが」
「へえ、そうなんだ。何だか大人っぽく見える」
ワンピースもカーディガンも上品なので、どこかの正式なパーティにでもこれから行ってくるようにも思える。まあ、着ている女の子も上品だからというのもあるかな。琴音も似合いそうだ。由衣は知らない。
「さあ、遠慮無く上がって」
「お邪魔します」
杏奈を家の中に招き入れ、俺はスリッパを用意する。
「じゃあ、どうする? リビングでも良いし、杏奈さえ良ければ俺の部屋でもいいんだけど。杏奈の好きな方でいいよ」
「だ、大輔さんのお部屋ですかっ!」
さっそく杏奈の顔がオーバーヒートしそうになったので、
「杏奈の家に行っている時はいつも杏奈の部屋にいるからさ。何だかこっちも杏奈が来たら俺の部屋に連れて行った方が良いのかなって思って。でも、俺の部屋なんかに興味なんてない――」
「ありますっ! 物凄く興味がありますっ!」
思わず耳を塞いでしまうほど声の大きさで杏奈はそう言ってきた。
「え、ええとですね……そ、その……疚しい意味なんて全くなくて、そ、その……私には兄や弟がいないので、年の近い男性の部屋に入ったことがないからと言いますか」
「まあ落ち着けよ。別にどんな理由があろうと、杏奈が俺の部屋に行きたいって言うなら遠慮無く案内するって」
「あ、ありがとうございます……」
時々、落ち着きのない所が子供らしくて可愛い。
俺は杏奈を連れて2階にある俺の部屋へと案内する。
「家の中、静かですね。お姉さんと妹さんが住んでいるんですよね」
「ああ。だけど、今は2人とも出かけてるよ」
今日は明日香と姉さんは2人で駅近くのショッピングセンターへ買い物に行っている。帰りは確か夕方ぐらいだった気がする。
「ということは、大輔さんと2人きりですか?」
「そういえばそうだな。ほら、中にどうぞ」
「し、失礼します……」
どうしたんだろう? 急に頬を赤くして。
俺の部屋の中は生活や勉強に必要なもの以外はあまり置いていない。本棚もあるけれど、音楽雑誌と漫画くらいしかないから杏奈が興味を持つかどうかは分からない。
杏奈はスリッパを脱ぎ、テーブルのすぐ近くにある座布団の上に座った。
「杏奈、ちょっとここで待っていてくれないか? 実は昨日の夜、新しいスイーツを作ってみたんだけどさ。ぜひ、杏奈にも食べて欲しいなって思って」
「そうなんですか。凄く楽しみです!」
「じゃあ、紅茶と一緒に持ってくるよ」
数日前に食べた苺タルトからヒントを得て、苺のムースを作ってみた。姉さんと明日香に食べてもらい高評価をもらったから味は大丈夫だと思うけれど。
俺は1階に下り、キッチンで自分と杏奈の分の紅茶を淹れる。冷蔵庫から苺のムースを2つ取り出し、ティープレートに乗せて俺の部屋へと運んでいく。
「杏奈、お待たせ……って、何をしてるんだ?」
部屋の中で待っていたのは、俺のベッドで横になっている杏奈の姿だった。
ティープレートをテーブルの上に置き、ベッドの近くまで行ってみる。すると、杏奈が俺の方を向いて眠っているのが分かった。
「枕の上に頭を乗せるなんて、まさか本当に眠くなって俺のベッドに入ったのか?」
俺はベッドに座り、杏奈の頭を優しく撫でる。本当に猫みたいな可愛い寝顔をお前は見せてくれるよ。このまま寝かせてやりたいくらいに。
「ふにゃ?」
どうやら、今日の杏奈の眠りは浅いようで。ほどなくして杏奈の目が開き、寝ぼけている所為か猫の鳴き声のような声を上げている。とろんとした目で俺のことを見るけれど、それもほんの一瞬だった。
「ふえええっ!」
そんな可愛らしい絶叫が部屋中に響き渡ると、杏奈は素早くベッドから降り俺に対して土下座をする。
「ごめんなさい! 私、その……大輔さんのお部屋に初めて来たのにも関わらず、無断で大輔さんのベッドで寝てしまうなんて……! 決して大輔さんが毎日寝ているベッドだからというわけではなくてですね、ええと……」
「別に気にするなって。それよりも寝心地はどうだった?」
「は、はい……。さすがは大輔さんがご愛用するベッドだけだってとても寝心地が良かったです。それに、大輔さんの匂いに包まれている気がして……って、私ってば何を言っているんでしょうかっ! もう大輔さんに顔を合わせることができません……」
相変わらず表現が大げさだな。でも、俺にとってはそれが逆にそれが好印象だ。純粋というか無垢というか。
「そこまで気負う必要はないよ。明日香だって時たま、俺が寝ているときに勝手に布団の中に入ってくるときがあるから。そういうのには慣れているつもりだよ」
「本当に申し訳ありません……」
「そう思うなら、ぜひ俺の作った苺のムースを食べてくれ」
「はい……」
ティープレートに乗っている2人分のムースと紅茶をテーブルの上に置く。
ムースを目の前に出されるや否や、杏奈の表情が一変。瞳を輝かせて自然と笑みが浮かび上がってくる。女の子ってやっぱりスイーツに弱いのかな。
「じゃあ、いただきますね」
「どうぞ召し上がれ」
苺をたっぷり使っているので、スプーンですくい上げると苺の果実が思わず落ちそうになる。杏奈は果実がこぼれ落ちないように、ゆっくりとムースを食べる。
そして、瞬く間に彼女の表情が満開になった。
「美味しいですっ! とっても甘いんですけど、苺の酸味がしつこさを消してくれる感じがします。果実が多いので甘いのが苦手な人でも大丈夫なのではないでしょうか。す、すみません。大輔さんの作ったものに、偉そうにコメントをしてしまって……」
「いやいや、大歓迎だよ」
俺もムースを一口食べる。
うん、杏奈の言う通り、甘い中に苺の酸味が良いアクセントになっている。甘いしつこさを消してくれる、というのは良い表現だと思う。
俺がそんなことを考えているうちに、杏奈のスプーンはどんどん進む。どうやら気に入ってくれたみたいだな。
「ごちそうさまでした。すみません、あまりにも美味しかったので一気に食べてしまいました」
「作った身としてはそれが一番嬉しいよ」
「本当に大輔さんって何でもできるんですね。私だったらこんなに上手に作ることは絶対にできないです」
「そんなことはないよ。料理は誰でも努力すれば絶対に上手くなるから」
本当はこの言葉をもっと早くから由衣に伝えるべきだったな。あいつもあいつなりに必死に頑張って作ってるんだから。しかも、俺のために。
「でも、杏奈がこんなに喜んでくれて良かった。最後に杏奈へお礼がしたくて、ここに招待した甲斐があった気がする」
そう言うと、杏奈は途端に嫌そうな表情になって、
「……嫌ですっ!」
俺に向かって自分の心境を大きな声に乗せて伝えてきた。
瑠花さんの前でさえ見せなかった表情を俺は今、ここで初めて見た気がする。杏奈にとって何が嫌なのかは明白だった。
「大輔さんとこのままお別れするなんて嫌です。私は大輔さんのおかげで今回のこともちゃんと解決できて、成瀬さんともお友達になれたんです。大輔さんがいなかったら、私は今だって自分の部屋に籠もっていたかもしれません」
「俺はただ、年上の人間として杏奈を手助けしただけだ。色々と判断すべき場所は、全て杏奈自身がよく考えて決めることができたじゃないか。杏奈はもう、俺がいなくてもちゃんと学校生活を送ることができるよ。俺なんかよりも同級生の子達との時間を過ごした方がいい」
本当はそう言うのも心苦しいのだけれど、姉さんとの約束はここまでなんだ。杏奈を元気に白鳥女学院に通わせることができた今、俺の役目は終わった。杏奈には杏奈の住む世界があって、そこの仲間との時間を大切にすべきだと思う。せいぜい、今日のような休日や放課後にたまに会うくらいに留めておいた方がいい。
しかし、杏奈はそれでも食い下がる。
「……大輔さんとの時間が必要だと言っても駄目ですか?」
「杏奈……」
「まだ入学して間もないので、これからの学校生活がどうなるか分かりません。でも、大輔さんが家庭教師で色々なことを教えてくれると、きっと大輔さんがいない生活よりも楽しくなると思うんです。そういう意味で大輔さんが必要なんです。自分勝手に聞こえるとは思いますけど……」
杏奈は苦笑いをした。
本当は俺も迷っていたんだよ。杏奈の家庭教師をこのまま続けていくかどうか。杏奈はきっと、俺のことは今回限りの人間だと考えているのだろうと思った。でも、今の杏奈の言葉を言われたら答えは1つしかないだろう。
「……分かったよ、杏奈」
「大輔さん……」
「杏奈の家庭教師、これからも続けさせてもらうことにするよ。俺はただの高校生だから拙い教え方になると思うけど。それでも良いなら」
「ありがとうございます!」
杏奈は嬉しそうに微笑み、深く頭を下げた。
今回の虐めのことを関わろうと思ったきっかけが、杏奈の笑顔を守ることだった。俺は何時しか守ることだけでなく、彼女の笑顔を見ていたくなった。時折見せてくれる彼女のその表情が、一連のことに解決に導く原動力になったとも言えるんだ。俺も自然と杏奈のことが必要になっていたのかもしれない。
良いよな、姉さん。杏奈の家庭教師をこの先ずっと続けても。杏奈のために中学生の勉強を復習しておかないといけないかな。
「あ、あと……大輔さん」
「なんだ?」
「お母さんみたいになるときにはまず、好きな人を作ることが必要だと言いましたよね」
「ああ、そうだけど」
どうしたんだろう? 藪から棒に。しかも、もじもじしているし。
「……私、最近好きな人ができまして」
「へえ、良かったな」
白鳥女学院は女子校だから、小学校の時の同級生とかなのかな。とにかく、杏奈に何かの縁があったみたいだ。
「ちょっとそのままでいてもらえますか?」
「普通にこの向きに座っていれば良いのか?」
「……はい。目を瞑っていてもらえると嬉しいです」
「あ、ああ……分かった」
どうして目を瞑るのかがいまいちよく分からないけれど、杏奈からのご要望だ。応えないわけにはいくまい。
もしかして、俺の耳元で好きな男の子の名前でも言うのかな? それだったらわざわざこんなことをする必要はないと思うけど。俺と杏奈の2人しかいないわけだし、堂々と言ってくれてもいいのに。まったく、可愛い奴だな。
耳を澄ませると杏奈の呼吸が聞こえてくる。きっと、心の準備をしているんだろう。
10秒ほど待ち、ようやく杏奈の呼吸音が大きくなり始めたところで、
「大輔さんのことが好きです」
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