■叶わなかった夢の話

「君は入水じゅすいをどう思うかね?」

 目の前に居る男は何時だって突拍子のないことを云う。答えることはおろか、その無意味な問いに対して考えを巡らせることすら億劫で、無視を決め込むことにした。

「苦痛が大きい死に方のようだよ。それでも人は入水する。かの有名な太宰治だって入水した」

「太宰の死は、自殺ではないとする説もあるが」

 切り捨てるような俺の物言いに、男は一瞬目をまんまるにして、其れから、にんまりと笑ってみせた。

「では、縊死いしをどう思うかね?」

 気味の悪い笑顔は。俺が此奴の話に乗ってしまった故だ。くだらない。自殺の方法など、欠片の興味もない。

 俺は、もう喋らないと意思表示するように男から目を逸らし、アイスココアにガムシロップを溶かし入れた。

「…君は、私の話を呆れたように聞き流すが、私から見れば、私よりも君の方が死に向かっているように見えるよ」

「はあ?」

 思わず男を睨み付ければ、男は苦笑を浮かべた。

「糖分を、少しは控え給えよ。然もなければ糖尿だとかを患って若くして病死しないとも分からない」

 それは、この男からだけでなく、家族からも友人たちからも飽きるほどに聞かされた忠告だった。それでも、此れを正す気はない。

「恋人が短命では、千夏ちゃんが哀しむよ」

 正す気はない、のだけれど。その名を出されると決意が揺れる。

「嗚呼、でも、其れは要らぬ心配だったかね。君が若い身空で命を散らしても、千夏ちゃんには松島君がいる。独りにはなるまいよ」

 くつくつと意地悪く笑う男を睨み付ければ、男は両手を軽く上げて降参の構えをとった。

「ほんの冗談さ。そんなに怒らないで呉れ給えよ。それに、余計な世話だろうが、私は友人として心配しているのだよ。いつか本当に病に倒れるのではないかとね」

 男の表情が揶揄の其れから、真面目なものへと変わり、俺はバツの悪さを感じてアイスココアを一口飲み込んだ。

「さて、そろそろ時間だ。行かなければ。嗚呼、そうだ」

 椅子から立ち上がった男は、演技がかった仕草で俺の顔を覗き込む。

「君は、入水をどう思うかね?」

 既視感。

「苦痛が大きい死に方のようだよ。私は今度試してみようかと思う。失敗したら、どれ程の苦痛か話して聞かせるから、そのときは、私の失敗を盛大に笑って呉れ給え。そうして、見事に成功したならば、いつもの、その仏頂面に少しは笑顔を浮かべて私の葬式に出席して呉れ給えよ」

 なにを莫迦なことを、と。俺が言おうとしたときには既に男は店を出るところだった。

 入水も縊死も病死も御免だ。あの男が何をしたって俺には関係ない。好きにすればいい。俺は老人になるまで永らえる心算だ。千夏とふたりで天寿を全うする。

 すっかり氷が溶けて薄くなったアイスココアを一気に咽喉に流し込む。

 ふとテーブルの端を見れば、ふたり分の料金が記された伝票が置かれていた。

 もし、次にあの男に会う場が、あの男の葬儀ならば、香典はナシだなと心に決めて、俺も席を立った。

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角砂糖(掌編小説集) 諏訪和哉 @suwa_mbn

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