わさびが苦くて、親父は死んだ。

佐都 一

わさびが苦くて、親父は死んだ。

 中学のとき、父が自殺した。

 大きな借金があったわけじゃない。母が浮気していたわけじゃない。俺や弟がグレていたわけでもない。

 父はただ一言、「俺には何もない」と呟いていた。


 何もないってなんだよ。

 中学生の俺にはわからなかった。

 家族がいる。仕事もある。趣味もあった。俺からは、父は幸せな人間に見えていた。


 人生は自由で、可能性は無限で。未来はどんなふうにだって変えられる。

 何もないことなんて、ないだろうがよ。

 二十歳の俺は、そう思っていた。


 だけど時間はただひたすらに流れていくだけで、どれだけ望んだって、俺に何も与えてはくれはしなかった。

 三十歳をすぎ、父の年齢まであと十年で追いつくころになり、ようやくわかる。


「俺には何もない」


 必死でがんばった勉強も、青春をかけた部活も、夢を叶えたはずの仕事も、俺が誰かに勝てることなんてなかった。趣味の小説だって、どれだけ書いても芽は出ない。それどころか、世界から取り残されていくような寂しさすら覚える。もがけばもがくほど、孤独になっていくんだ。

 俺にとって特別な才能だと思っていたことは、本当に才能のある人に比べれば、普通以下のものでしかなかったのだ。絶対にかなわない才能の差。生まれたときからたぶん、信じたくはないけれど、俺は「何もない」側の人間だったのだ。


 大きな絶望はない。小さくてゆるやかな失望が積み重なって、それはきっと人間を殺す。


 父が自殺する前の夜、すこし高級な寿司の出前をとった。

 家族四人で食べた寿司は美味しくて、何より楽しかった。

 わさびが苦いと泣く父に、辛いの間違いだろうと俺は笑った。

 翌日、学校から帰った俺が見たものは、玄関に置かれたから容器おけと、死んだ父だった。

 あれから俺は、寿司を食べていない。


「お父さん。お寿司、きたよ」

「ああ、すぐ行く」


 俺には何もない。

 親父。あんたの気持ちが、今ようやくわかったよ。


 二十年ぶりに食べた寿司のわさびは苦くて、俺は少し、泣いた。

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