初めての鮨屋
佐倉伸哉
初めての鮨屋
金曜日。仕事帰りのサラリーマンである啓太(28)は寄り道して廻らない鮨屋に立ち寄ることにした。ちょうど今日は給料日、自分へのご褒美と、未知なる世界への探求を目的に。
「いらっしゃい」
扉を開けるとカウンターの奥で鮨を握っていた老人が声をかけてきた。店には店主と思われる老人が一人だけ。全部で10席の小さなお店に、老夫婦が一組だけ居た。
啓太は一番端の席に座る。目の前には新鮮なネタがクリアケースの中にズラリと並べられている。まるで高価な宝石を眺めているような錯覚に陥る。
「何にしましょう」
老人がお茶の入った湯呑みを差し出して問いかける。啓太は反射的に甘エビを注文した。店主は無言で甘エビを二尾手に取り、木桶のシャリを掴んで静かに握る。瞬く間に二貫握られて啓太の前に置かれた。静かに握られたばかりの甘エビを口に運ぶ。甘エビのプリプリとした食感、噛まなくても自然に解れていくシャリ、濃厚な甘さが舌を楽しませ、口の中で酢の匂いが仄かに香る。美味しい。
次に鰤を頼む。分厚く切られた赤身を黙々と握り、そっと差し出される。口に入れると鰤の脂が舌の上で溶けて口いっぱいに旨みを感じる。肉厚な切り身も歯応えがしっかりあり、柔らかなシャリとも見事な調和を奏でる。飲み込むのが惜しいくらい、幸せを感じていた。
奥の老夫婦も会話を交わさず黙々と鮨を口に運ぶ。その表情は微笑みに溢れ、心が満たされているように映った。誰一人喋らないのに雰囲気はとても良い。寡黙に佇む店主の姿は熟練の職人から醸し出される風格が滲み出ており、貫禄に負けず皺だらけの手から作り出される鮨は見た目も美しく味も一級の芸術のようであった。
啓太はその後幾つか注文して会計を頼んだ。若者の食事としては決して安くない金額であったが、今までで一番素晴らしい一時を味わえたので満足していた。
「毎度」
店を出る際に店主は短く発したその渋い声に、啓太はまた店を訪れようと誓った。
初めての鮨屋 佐倉伸哉 @fourrami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます