右手首の腕時計

冬見 炉夏

一八八八年十一月九日 ロンドン

 オレンジとレモン、聖クレメントの鐘がなる。

 おまえに五銭 貸しがある、聖マーチンの鐘がなる。

 いつになったら 払ってくれる? オールド・ベイリーの鐘がなる。

 お金持ちになったなら、ショーディッチの鐘がなる。

 それはいったい いつなんだ? ステプニーの鐘がなる。

 そいつがわかれば 苦労はない、ボー教会の鐘がなる。

 

 ろうそく灯してベッドへごあんない

 首切り役人が おまえの首 ちょん切るぞ。

 

 ちょん切るぞ、ちょん切るぞ……ちょん切った!

 

    *   *   *


 吸い込まれそうな漆黒の闇が地上に向かって虚のようにほっかりと口を開け、そのうろの中でちろちろ淡い光が瞬いている。

 ロンドンでは稀に見る美しい夜空だったが、感嘆の声を上げる者はなかった。

 恐ろしく静かな夜だった。

 いつもは夜半過ぎまで、がちゃがちゃと騒音の絶えないここイースト・エンドですら、この夜はしんと静まり返り、息を潜めて朝が来るのを待っているようだった。

 夜中に子供部屋を覗いた時のような、濃密な生き物の気配が町中に充満していた。

 その中に、微かに漂ってくるのは、拭っても消せない、死のかおり。

 望まれぬ来訪者が、夜の町を闊歩する。

 

 大通りを少し入った薄汚れた路地裏にある、うらぶれた小さな部屋の中で二人の男がうずくまっていた。一人は大柄な壮年の男で、黒い毛皮のコートの前身頃から背中に至るまで、無数の懐中時計に覆われていた。男が身じろぎする度に、それはちゃりちゃりと耳障りな音を立てる。

 「カンテラをこっちに」

 連れ合いのもう一人にそう声をかけると、痩身の気弱そうな男がそろそろと灯りを掲げた。よく見るとまだ顔つきも幼く、せいぜい十六、七になるくらいの少年だ。

 カンテラの火に照らし出されたのは、寝台に転がった女の亡骸だった。

 無惨にはらわたを引き摺り出され、 一文字に切り裂かれたくびからはまだ鮮やかな血液がとくとくと滴り、女の一張羅であろう、ズタズタになったナイティーを貴婦人の薔薇色に染めていた。傍らの小さなテーブルには、肩から切り落とされた腕やぐしゃぐしゃになった内蔵が折り重なっていた。皮膚を剥がされ、原型を留めていないほど滅多刺しにされた顔の中で、唯一、二つの碧いひとみだけが虚空を見つめてきらめいていた。

 自分が死んだことにも気付いていないような、穏やかな眼差しだった。

 「ひどいもんだ。これでもう五人」

 立ち上る生臭い鉄錆びのにおいに顔をしかめて壮年の男が言った。

 「……一体、どんな奴なんでしょうね。これをやったのは」

 少年が言って、空いた方の手で胸の前で小さく十字を切った。

 魔都ロンドンの、ことイースト・エンドではここしばらく娼婦が惨殺される事件が相次いでいた。怨恨か、快楽殺人か、女達はみな一撃で絶命させられた後に、まるで遺体を飾るように内蔵を引き摺り出されていた。そのな手口から犯人像についての様々な憶測が飛び交い、今や低層から上流階級のご婦人に至るまで、口を開けばこの話題で持ちきりだった。

 「ふん、神のことわりを冒涜する背信者はいずれ報いを受けるのだ。……俺達のやることは変わらん」

 吐き捨てるように言って、男は侮蔑を込めた眼差しで宙を睨んだ。

 少年は革張りの小さな肩掛け鞄から、真鍮の時計を取り出すと、男に手渡した。

 男はそれを受け取ると、息絶えた女の血に濡れた胸の真ん中にそっと置いた。そしてガラスの小瓶を取り出し、中の液体を振り掛けながら、低く小さな声で唱えた。

 「我、生者の証を解く者、死者の憂いを留める者。汝の永久とこしえの門出を前に、神の名に於いて六つがねを鳴らさん」

 ふいに遠くからいくつもの鐘のが聞こえてきたかと思うと、それは段々近付いて耳を塞ぎたくなるような大反響になり、胸の上に置かれた時計が応えるように、その針をゆっくりと逆さに回し始めた。

 針は見る間に速度を上げ、それと共に女の身体が淡い燐光に包まれていく。

 長針はきっかり二十五回転すると、今度は時計回りにゆったりと時を進め始めた。

 遺体を取り巻く光が一層強くなり、陽炎かげろうのようにゆらゆらと何かを形作っていく。

 「……さあ、哀れなる魂よ。貴女の全てを見せて……」

 うたうように囁いた少年の瞳が、青白い燐光を受けて妖しく光った。

 

 

 南ウェールズの、爽やかな風が吹き抜ける丘の上、一面の草原が萌黄もえぎ色に湧き立つ季節に私は生まれた。男ばかりの兄弟だったから、初めて授かった娘の私を父はずいぶん喜んだと母に何度も聞かされたものだ。

 「可愛い、可愛い、私のメアリ。今日は何をして遊んだんだい?」

 女の子らしい可愛い娘を望んだ父の思いとは裏腹に、やんちゃな男兄弟に囲まれて育った私は、兄達に少しも引けをとらないお転婆てんば娘へと成長した。毎日遅くまで野山を駆け回りくたくたになって家に帰ると、母が温かいスープを作って待っていた。

 家族揃ってスープを飲みながら、また新しい擦り傷を作ってきた私を膝に抱えて、それでも父は「私の可愛いメアリ」と褒めそやした。

 やがて弟や妹が生まれ、兄弟は全部で七人になった。

 製鉄所に勤める父の給料と、母の縫ったキルトを売ったお金で何とか暮らしていけるくらいの貧しい家だったけれど、家族はいつも笑い声が絶えなくて、賑やかで、そして温かかった。

 幸せな子供時代だった。

 末の妹が生まれてすぐに、元々あまり身体の丈夫でなかった母が倒れ、兄や弟たちが生活のために働きに出ることになった。朝から晩まで石炭を掘ってボロボロになって帰ってくる兄弟たちを、私はいつも不安な思いで待っていた。

 いつまでこうしてやっていけるだろう。末の妹のミルク代、弟たちも食べ盛りだ。それにこんなに働きづめで、父や兄が倒れてしまったら──?

 私も母のキルト作りを真似て内職をしていたけれど、稼ぐにも限界があった。

 そんなギリギリの生活の最中、父が工場こうばで怪我をしたという報せが入った。命に別状はないものの、かなりの深手で製鉄所の仕事を続けていくことは困難だという。

 生活はますます苦しくなり、十八になる年の冬のある夜、私は一人で家を出た。

 少しでも食いぶちが減れば、両親や兄弟に楽をさせてやれる。街へ行って仕事を探そう。そこから妹たちの為に仕送りをしてやれたら。

 小さい頃から一番仲の良かった二番目の兄にだけそっと打ち明けて、私は両親にも黙って生まれ育った緑の丘を離れた。

 街ではいろんな仕事をした。給仕、花売り、新聞配達……でも思い描いていたような生活とは程遠く、家への送金はおろか自分の暮らしすら危うくなって、気が付いたら掃き溜めのようなこの場所で体を売って稼ぐしかなかった。

 それでも幸せな出来事もあった。

 客の一人だった身なりの良い紳士に見初められて、一緒にパリへ渡った。ウェールズの田舎娘が花の都パリで恋人と二人暮らし。

 私はこの人と結婚して、ここで新しい家庭を、いつか自分が育ったような温かい家庭を築くのだと思った。……結局何もかもダメになったけれど。

 ひとかどの紳士が、汚れた売春婦などに本気になるわけがなかったのだ。

 私は元の薄汚い掃き溜めに戻ってきた。

 ミラーズ・コートの家に腰を落ち着けた頃、田舎の兄から母が死んだという手紙が届いた。葬式には行かなかった。今更、どんな顔をして会いに行けばいいのだろう。

 それからはまた体を売って生計を立てる毎日だった。

 イースト・エンドは本当に酷い所だ。道端には糞尿が放置されてはえがたかり、喧嘩や盗みは日常茶飯事、人さえ簡単に死んでいく。通りはいつも何かが腐ったような異臭がしていて、イギリス中の悪意を全部集めたような町だった。

 こんな所必ず出ていってやる、と初めのうちは意気込んでいたけれど、四年もいたらそんな気持ちもとうに失せてしまった。

 「私にはこんな町がお似合いよ」酔って口をつくのは言い訳がましい負け惜しみ。

 そんな私に、ジョセフは早く今の仕事をやめろと言う。半ば転がり込むようにして家に居座っている五つ年上の私の恋人。ドブネズミには同じどぶの中で寄り添ってくれる相手が必要なのだ。

 仕事をやめる気はない。やめて、それからどうすればいいのだ。ジョセフに私達二人の生活を支えていけるだけの稼ぎがないことは分かっている。

 通りを歩いてくる靴音がする。彼の足音だ。

 彼、今夜はどんな風に私を抱くかしら。

 なんだかいい気分だわ……彼が帰ってきたら、二人で安いワインで乾杯しよう。

 ほら、足音が階段を上がってくる。

 どんな顔して出迎えようかしら──……

 

 

 やがて女の遺体を包んでいた光は消え、胸の上の時計は十一時九分を指してぴたりと止まった。その時計がもうまるで動く気配がないことを確かめると、少年がそれをそっと取り上げ、裏面の先程まではなかった刻印を指でなぞった。

 「──ありがとう、レディ・メアリ。貴女の生きた証は、僕らが必ず届けるからね……」

 そして掌の中の真鍮の小さな時計に口づけると、大柄の男の、すでに無数の懐中時計で覆われた毛皮のコートにそれを取り付けた。

 コートの上の時計はどれもばらばらの時刻を指し示したまま、ぴたりと止まって動かない。男が立ち上がり、時計がカチャカチャと揺れた。

 「このひとは幸せだったんでしょうか……」

 僅かに同情の色を滲ませて少年が言う。

 「さあな」

 物言わぬ死人を見下ろして男は答えた。

 「俺は、主がこの日と決めたに逆らって逝く人間が大嫌いなんだ。死んだ奴も、殺した奴も、みんな地獄に落ちればいいと思ってる。だがまあ……」

 そこで一度言葉を切り、しばらく黙って佇んでいたが、やがて、

 「……向こうで、先に逝った家族とはまた会えるだろうさ」と呟いた。

 それからおもむろにコートの袖を捲り、全身の時計の中で唯一動いている右手の腕時計を見た。

 暗闇にチクタクと時を刻む音が響く。

 「さて、そろそろ死神様と落ち合う時刻だ。ここにもじきに人間が来る」

 「今度はどこです?」

 少年の問いに男が目を凝らすと、針のない時計の文字盤にゆらゆらと文字が浮かび上がり、二人の主人からの伝言を伝えた。

 

 【Nov. 12nd 1888

  At Bristol

  Joseph Barnett

  notes; You-Know-Who─────Jack the Ripper】

 

 「……どうやら、背信者が報いを受ける日も近いようだ」

 男はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、扉を開けて外に出て行った。

 少年も後に続こうとして、もう一度だけ寝台を振り返った。

 ただのむくろと化した肉塊が、窓から差し込む微かな星明かりの中に静かに横たわっていた。

 死人は何も喋らない。

 少年は小さく十字を切って、今度こそ振り返ることなく部屋を立ち去った。

 

   *   *   *

 

 誰もいないがらんとした部屋の中で、死んだ女の二つの碧い眸が虚空を見つめていた。町はしんと静まり返り、命ある者はみな深い眠りに支配され、静かに安らかな寝息を立てる。虚のような寒空が白んで、朝の訪れを告げるスピタルフィールズの鐘が響くまで、あと少し。

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