10.タツミと自称「正義のヒーロー」
我ながら、奇跡的な跳躍力だったと思う。
タツミは自分自身に驚きながら、その攻撃を成功させた。百足竜の頭部に向かって、鉈を叩きつける。
それはうまくいった――輝く軌跡とともに、百足竜の頭部を鉈が砕く。
問題なのはその後のことだ。
一撃だけでは、百足竜は止まらなかった。タツミの打ち込みは浅い。そして、相手があまりにも大きすぎた。
百足竜は甲高い鳴き声をあげ、タツミを跳ね飛ばした。
避けようもなく、背中から地面に叩きつけられる。目まい、痛み、混乱。それは一秒間も続かなかっただろう。百足竜の頭部に打ち込んだとき、そのまま鉈は手放してしまった。
(堪えろ)
タツミが目を閉じ、また開くと、百足竜の頭が目の前にあった。
その複眼が、彼を見据えている。
顎が開き、牙が覗く。
タツミはあらんかぎりの大声をあげ、その牙を掴もうとした――烏丸のように。素早く動く。願ったのはそれだけだった。
ぎりぎりのところで、その抵抗は間に合った。
牙を掴んだ。しかし、そこまでだろう、とタツミは他人事のように思う。
「タツミ殿」
玲が叫びながら、剣を振り回すのが視界の隅に見える。首筋へと刃を突き刺す。百足竜は体を震わせたが、その程度の効果でしかない。
(やらなきゃよかった、最悪だ)
心の中を、後悔ばかりが浮かぶ。
百足竜の牙が眼前にある。一瞬、掴んで止めることはできたが、このバケモノの顎の力を、自分の腕力が上回れるとは思わない。
(烏丸が悪い)
タツミは責任を他人に押し付けることにする。
(でも、事実だ)
と、タツミは確信する。
こんな地下ダンジョンへ潜る羽目になったこともそうだが、人助けのようなことまでやる羽目になったのは、どう考えても烏丸のせいだ。自分の体を張って他人を助けようなんて、絶対に完璧に馬鹿げている。
しかし、やってしまった。
(こんなところで)
目の前に死が迫っているのに、それが冗談のように色々と考えが浮かぶ。時間の感覚が鈍化しているのかもしれない。
悠長なことだ。せめてこの状況を打開する名案でも浮かべばいいのだが。
だが、これには既視感があった。さっき、土蜘蛛に殺されそうになったときと同じ構図だ。あのときは、玲に救われたから――いや。
その前に、自分は蜘蛛の脚を掴んで止めたはずだ。
(あのときも、よくそんなことができたな)
タツミは自分を疑う。何かがおかしい。
百足竜の牙を掴んで止めている、自分の右腕のことだ。強い痛みを感じる。筋肉と骨が軋んでいた。
(もしかして)
時間の感覚が鈍化しているのではない。
実際に、自分は、百足竜の牙を掴んで片腕で止めている。
「そのままだ」
相変わらず腹立たしいほど落ち着いた、烏丸の声が聞こえた。
「耐えろ、タツミ」
「うげっ!」
タツミは思わず悲鳴をあげた。目を見開く。
「嘘だろ! なんだよこれ!」
自分の右手が、一回り膨張しているように見えた。それだけならば目の錯覚で済んだかもしれない。
しかし困ったことに、ジャケットの袖からのぞく手には、びっしりと赤銅色の鱗が生えていた。
(なんなんだ、ぼくは)
タツミは自分の右腕に、理解不能な力が漲るのを感じた。骨の芯が熱い。焼けている。タツミは自分でも訳の分からない叫び声をあげながら、百足竜の牙を捻った。
破壊の感触がある。
牙が根本でへし折れて、どす黒い血液を滴らせた。
百足竜がその体を震わせ、暴れる。
「朱莉さん!」
玲が飛び離れて指示を出す。暴れる百足竜から逃れるべく地面を転がるタツミには、彼女らが何をやっているかわからない。
「二射目は、まだ待って! 烏丸殿が――」
「いや」
烏丸の声は、やけに上の方から聞こえた。
「もう十分だ。よく耐えた」
(なんだあいつ――天井? マジかよ)
タツミは頭を押さえて、それを見上げる。
天井補強用の木枠にぶら下がる、烏丸の姿があった。それが見えたのも一瞬のことで、彼はそこから躊躇なく飛び降りている。
その狙いはタツミにも理解できた。
百足竜の頭にタツミが打ち込み、そこに刺さったままの鉈だった。烏丸はそれを引き抜き、そのまま怪物の頭にしがみついた――というより、実際はもっと身軽な動作だったので、馬にでも跨るように見えた。
タツミはただ、それを見上げているしかできなかった。
(烏丸のやつは、どんなインチキを使ってるんだ?)
百足竜は烏丸を振り落そうとするが、すでに手遅れだった。
烏丸が鉈を振り上げ、それを首の付け根に叩き込んでいる。
深く。
タツミの目が追えないほどの速度で、瞬時に二度。いかにも硬質な百足竜の殻を、たやすく引き裂く。これは武器も恐ろしいが、それを片手で扱う烏丸の技量が異常としか思えない。
「よし」
三度目の斬撃で、鉈が完全に首に埋まった。百足竜の体が、ぐらりと大きく傾く。
「いいぞ。撃て」
低く呟いて、烏丸が飛びのく。
「朱莉さん!」
玲が剣を振り上げた。
「ここしかない。
言い終わるよりも早く、光と熱が、百足竜の首の付け根で弾けた。朱莉の《魔法使い》だ、と少し遅れて認識する。
爆撃だ。しかも、立て続けに二度。三度。四度で止まる。
それが、決定打になった。
百足竜の頭部が千切れて、壁面に叩きつけられる。轟音と土煙。タツミは立ち上がることを忘れていた。鼓膜が痺れたようになり、そのまま呆然としていたような気がする。
数秒ほどの静寂。
百足竜は動かない。どす黒い血が、どくどくと地面に溢れ出している。
「……お嬢様」
朱莉の、弱弱しい声が聞こえた。
「申し訳ありませんが、立てなくなりました。どうか、その御手をお貸しください」
「お疲れ様だ。朱莉さん、無理をさせて済まない」
玲が、朱莉を抱きかかえるようにして引き起こしている。朱莉は感極まったような、悲鳴にも似た意図不明の声をあげていたと思う。
タツミはそのやり取りを、ほとんど聞いていなかった。
ただ、自分の右手を見つめていた。そこにはもう鱗はない。ただの、人間の腕に戻っている。
「――タツミ」
頭上から、声が降ってくる。烏丸だった。
「やはり、やるな。俺は初めて俺の同類を見た」
「ああ」
タツミは右手を握りしめ、隠すようにポケットに突っ込んだ。
「少し、思い出した。自分が何者なのか」
「何を」
「ぼくはドラゴンだった」
吐き気がしている。
なんでこんな気分になるのか、タツミ自身にも理解できない。
「そうだ。人間じゃないんだよ。ここにいる、このモンスターたちと同じような存在だった――と、思う。なんでそれが、こんな人間の見た目になってるのか、そこがマジで思い出せないんだけど」
タツミは頭を大きく振った。頭痛まで始まったせいだ。
「――って、言ってもワケわかんないよな。きみには。ぼくもわからないし。でもまあ、そうだよ。さっきの馬鹿力も含めて、きみの同類だよな。バケモノだ」
「そういう意味じゃない」
烏丸はタツミの右腕をつかんだ。やや強引に、握手をさせてくる。
「正義のヒーローの同類、ということだ」
「おい、なんだよそれ」
「あれほど馬鹿げた行為は、誰にでもできるものではない。よく知りもしない他人のために自分の命を投げ出し、勝ち目のない怪物の前に立ちはだかる」
そうして烏丸は笑う。
この男が笑うところを、タツミは初めて見た。陰気な笑い方をするやつだ。
「あれは、できれば俺がやりたかった」
「きみと一緒にするな」
タツミは烏丸の手を、強引に振り払った。思ったよりも、子供が駄々をこねるような仕草になった。
「烏丸、ぼくはきみより賢いよ」
それもまた、拗ねた子供のような物言いだった。
――――
櫻庭真一のオフィスは、タツミたちが出ていったときと全く変わっていなかった。
坑道から帰ると、まず窓ガラスをガムテープで応急的に補修し、荒れた室内を片付けてみた。疲れていたので、そのくらいのことしかしていない。
結局、それから一晩を明かしても、所長である櫻庭真一は戻らなかった。
「結論は、こうだな」
烏丸は櫻庭真一のデスクを占拠し、タツミにもわかりきった事実を宣言した。
「櫻庭真一は、なんらかの理由でこの事務所に戻れない。自分の意志で戻らないのかもしれない」
「知ってるよ」
タツミはソファに寝転がり、『新宿黄金坑道・覚書』と記された手帳をぱらぱらとめくっていた。悪筆すぎて読めない文字が多く、いまだ解読は完了していない。
ちょうどいいタイミングだった――タツミはゆっくりと起き上がり、一通りの愚痴をぶつけてみることにした。
烏丸は不愉快で陰気な男だが、壁に向かって話すよりは多少ましだ。
「そして、ぼくの記憶についての手がかりも、ここには何もない。見つけられてないだけかもしれないけどね。ぼくはプロの空き巣とかじゃないわけだし」
室内から、奥の居住スペースまで調べてみたが、それらしいものは何もなかった。
「ぼくはここの従業員かと思ったけど、そいつも違いそうだ」
「お前はドラゴンなのか、タツミ」
「まあ、たぶん。ドラゴンだった。自分でも、なんかそう思う」
タツミは右手を開閉した。あれから、鱗が生えた瞬間は一度もない。
「ただ、どうやってこの――人間の体になったのか、その辺が思い出せない」
「化けたんだろう」
烏丸はデスクの上に肘をつき、両手を組んだ。
「『覚書』に書いてあったな。あの坑道は、新宿の地下が化けたものだと。お前がそこで生まれたドラゴンのような存在なら、きっと人に化けることもできる」
「気軽に言うねえ」
「歳月を経た古道具が、妖怪に化ける説話は数多くある。俺は実例も何度か見た」
「いきなりオカルトかよ。それって、どうせきみが見た幻覚だろ」
いい加減な返答で誤魔化しながら、あり得るかもしれない、とタツミは思う。なぜならタツミ自身、新宿の地下に広がる大坑道を見た。
何より、自分の右手に鱗が生えるのを見た。
「どっちにしろ、あれだよ」
タツミは『覚書』を、傍らのテーブルに放り出した。
「ドラゴンだったから? だからなんだって話。ぼくの記憶の手がかりは、ここで途絶えたわけだ。これからどうしていいか、わからない」
「簡単なことだ」
烏丸は偉そうにうなずき、デスクを指で叩いた。
「ここで俺と櫻庭真一の代理をする。彼の行方を探す。寝床も得られるし、一石二鳥だな。幸い、当座の生活資金は、この前の謝礼がある」
「はあ?」
確かに、玲と朱莉からは相当な額の謝礼を受け取った。少し驚くくらいの厚さの封筒を押し付けられたし、『また正式に御礼をしたいので、日を改めて訪問します』と言われたくらいだ。
ここで一か月くらい暮らすには不自由しないだろう。
だが――
「ぼくは行くところがないから、まあ仕方ないとして。なんで、きみまで?」
「俺の仕事は継続中だ」
「きみの仕事って、正義のヒーローってやつ?」
「そうだ」
烏丸は、自分の眉間を絞るように指で押さえた。
「このところ、都内で行方不明者が急増している。俺は個人的にそれを調べていた」
「個人的にって、それは仕事じゃなくて趣味なんじゃないの」
「俺は趣味を仕事にした」
「いいけどさ。で、なに? その趣味の結果がどうなったわけ?」
「櫻庭真一だ」
烏丸の口から出ると、その名前がどこか不吉に響く。
「大量の行方不明者が失踪直前に、彼と接触していたことがわかっている」
「じゃ、何かい。櫻庭真一は人さらいの悪党で、きみは趣味で彼を制裁しようとしていたって?」
「警察に裁けない相手の場合は、そうだ。たまにいる。悪党でなかったとしても、何らかの関係があると考えていた」
烏丸はデスクの引き出しに目を落とし、それを引き開けて見せる。
「見ろ。『覚書』は他にもある。池袋、代々木、六本木――新宿以外にもダンジョンが多数だ。行方不明の件も、これと関係していると思われる。そのどこかに櫻庭真一の足取りと――」
「ぼくの記憶の手がかりもある?」
タツミはため息をついた。
「気が進まないね。特にきみと一緒に何かするっていうのが、最高に嫌だ」
「俺はそうでもない」
「これは意見の不一致ってやつだ。ここはきみとぼくのどっちかが出ていくべきだね。なんならぼくが――」
タツミが言いかけたとき、入口のドアが軽快なノック音を響かせた。
「すみません!」
慌てた声。恐らくは女性だろう。朱莉や玲とはまた違う声だった。
「櫻庭所長はいらしゃいますか? 緊急事態なんです! 力をお貸しください!」
「げ」
タツミは思わず顔をしかめ、烏丸は平然と立ち上がった。
「ああ。早速、新しい仕事が来たぞ」
烏丸は笑う。やはり、どこか陰鬱な笑い方だった。
「楽しくなってきたな」
ちっとも楽しくない、と、タツミは心の中で抗議した。
そう思い込まなければ、烏丸の側に転落してしまいそうな気がした。
《新宿黄金坑道・おわり》
東京ハック&スラッシュ株式会社 ロケット商会 @rocket_syoukai
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