9.タツミと百足竜

 走っている最中に声をあげるのは、自殺的な行為だ――特に何かに追われているときには。

 それはわかっているが、愚痴をこぼさずにはいられない。


「どうかしてる!」

 前のめりに走りながら、タツミは大声でわめいた。背後からは破壊音と震動音、奇怪な鳴き声が聞こえてくる。それに対して抗議するように怒鳴る。

「でかすぎるだろ! 通路がぶっ壊れてる!」


「うん。その通りだ」

 応じたのは玲で、タツミの隣を並走している。こちらの呼吸はタツミほど乱れてはいない。

「本来、百足竜の活動区域は、この第一層ではない。あれの体は、この階層にとって大きすぎる。だからゴブリンたちも警戒していたと思う」

「なんで、そんなやつが、ここにいるんだ」

「私もそれを調査していた。恐らく地下階層で異変があったのだと思う。迷宮の深化で百足竜の生存に適する環境ではなくなったのか、それとも天敵でも現れたか――」

 玲の独り言にも似た台詞を聞きながら、本当にどうかしている、とタツミは恨めしく思った。


 何もかも異常なことばかりだ。

 後方を振り返れば、無数の脚を蠢かせて突進する百足竜の姿がある。

 その体躯はまさに地下鉄を走る電車のようだが、明らかに通路が狭すぎた。土壁を抉り、木製の柱を削りながら移動している。

 それだけでも困ったことだったが、最悪なのは、どうやら百足竜が明らかにタツミたちを追いかけていることだった。小動物を追いかけるような、そういう習性があるのかもしれない。


 救いはひとつ。

 百足竜の走行がそれほどの速度ではないことだ。

 むしろ、やや遅い。その体躯と無数の脚がかみ合っておらず、時折もつれる。全速力で走れば引き離せる相手だ。長距離を走るつもりの速度で、どうにか五分といったところか。

 しかし、こちらの体力がいつまで持つか?


「――分岐点だ」

 最後尾を走る烏丸が、不意に陰気な声で呟いた。彼はまったく疲れた様子を見せていない。やや遅れがちな朱莉の、巨大な《魔法使い》を代わりに抱えてもいる。

「どちらに曲がる?」

 烏丸が尋ねる。

 なるほど、行く手には左右に分かれた分岐点がある。タツミは頭の中で、さきほど見た地図を思い浮かべようとする。確か、出口は――


「左です!」

 息の切れかけた朱莉が叫んだ。

「出口までもうすぐです、左へ!」

 彼女は体力を失いかけている。少しずつペースも落ち始めていた。


「よし」

 朱莉を窺うように振り返り、玲は何かを決意したようにうなずいた。

「私は右へ行く」

「え」

 タツミは目を丸くした。

「なんで? 出口は――」

「この一件には、私に責任がある。私が遭難し、あなたたちには助けてもらった立場だからだ」


 このとき、タツミが驚いたことは二つある。玲が少し笑っていたこと。それから、その笑い方があまりにも自然だったことだ。この少女は恐怖を感じないのだろうかと、タツミは疑う。自分の死よりも恐れるものがあるのか。

 呆然とするタツミの視線に、玲はうなずいた。

「勇士殿には感謝しきれない。私がやつを引き付けよう」


「お嬢様!」

 朱莉がこの世の終わりのような声をあげた。

「お嬢様の行くところ、私も行きます。地獄の果てまでお供します!」

「それは許可できない。朱莉さんまで死地に赴くことはない」

「お嬢様ファンクラブの会則に、『死ぬときは一緒』という掟がありますから!」

「うん」

 そこでようやく、玲の微笑が強張った。

「やっぱり、その組織はなんか怖いな。とにかく駄目だ、ここは私が」


「議論はよせ。もう分岐点だ」

 烏丸の落ち着き払った声。思ったより近くで聞こえた。タツミのすぐ背後か。そう思った直後、肩を叩かれる。

「――タツミ」

 名を呼ばれ、手に何かを押し付けられる。

「これを持っていけ」

 鉈状の武器だ。先ほどの大きなゴブリンが持っていたものか。ランプの黄色い光を受けて、刃は白々しいほどまぶしく輝いている。タツミは驚いた、というよりも狼狽した。

「なんだよ、それ! こいつはきみが使った方がいいだろ? きみは強いし――」


「俺は正義のヒーローだ」

 静かにささやき、烏丸は右側を親指で示す。

「どうしても、やりたいことがある。そのためにこの仕事をやっている。つまり」

 分岐点に差しかかる。烏丸はタツミの肩を、もう一度だけ叩いて彼を追い越した。分岐点を右へ。


「ここは俺に任せて先に行け。これが言いたかった」

 アホか、と、タツミは思った。

 烏丸のことだけではない。

 玲も驚いた目で烏丸を見ながら右折した。当然のように朱莉もそれに続いている。

 空気が粘ついたように、あるいは時間感覚が麻痺したように、起こった出来事がスローに感じた。タツミは唸り声をあげたのを覚えている。


 だが、ごく自然な速度で右折した瞬間のことは、後になっても思い出せない。いったい何を考えてそんな愚行に及んだのか、自分で自分が理解できない。

「馬鹿なんじゃないか、きみたち」

 タツミは悲鳴をあげた。

「全員で右に曲がったら、意味がないだろ!」

 この馬鹿ども。心の中でありったけの呪詛を並べた。どいつもこいつもいい恰好をしたがる。イカれている。命がかかっているのだから、なりふり構わず生き延びようとすれば、まだ可愛げがあるものを。

 これでは集団自殺のようなものだ。

「ふざけんなよ、こんなの。ぼくは知らないぞ! もう終わりだ!」

 タツミの悲痛な意見に対して、反論はなかった――恐らく、四人とも同感だと思っていたのだろう。


 状況は急激に悪化していた。

 右折した先には、やや開けた空間があった。大きな部屋ほどの大きさの空間。掘削途中のルートだったのだろうか。傍らに錆びたツルハシや、荷車や、朽ちた木箱が散乱している。剥き出しの土壁に、ランプの光がタツミたちの影を投げかけた。


 通路はそこで終わっていた。

 背後からは百足竜が騒々しい音を立てながら追ってきている。タツミは八つ当たり気味に叫ぶ。


「どうするんだよ!」

「一択しかないな」

 烏丸はほとんど呼吸を乱していない。ごく平静な顔で、振り返る。

「戦う」

 タツミはもちろん、玲も朱莉も言葉を失った。反応し損ねた、というべきか。烏丸の判断は合理的だが、合理的すぎた。ここまでシンプルな人間を見たことがないのかもしれない。

「俺が止める」

 と、烏丸は断言する。


 百足竜が突っ込んできたのは、それから一秒ほどの間もなかった。

 烏丸はそれに正対した。まるで無造作に見えるほど前進して、首を振って突っ込んでくる百足竜とぶつかりにいく。その姿が影のように素早く跳ねる。

 百足竜の頭部が大きくしなって持ち上がり、大きな牙の生えた顎が開いた。


「マジかよ」

 タツミは呆れた。

 百足竜の甲高い鳴き声が響く。その牙を、烏丸の両手が掴んだ。片足が下顎を抑える。烏丸の全身に力が漲り、四肢の筋肉が震えるのがわかった。

「――行け!」

 烏丸が珍しく声を張り上げた。その言葉の意味を、タツミは彼の表情で知る。

 さっさと逃げろ、という意味だ。百足竜の胴体はのたうち、この空間からの唯一の出口である通路を破壊し始めている。自分が抑えているうちに、その横をすり抜けて先に逃げろ、と言いたいのだろう。

 タツミは膝の力が抜けそうになった。


 烏丸――なんなんだ、この男は。

 心の底からそう思った。何が正義のヒーローだ。彼が主張する職業は、ただのごっこ遊びみたいなものだ――それに絶望的な実力と幸運と才能が付いてきてしまっているのが、タチの悪いところだ。本当に最悪だ。

 ただし、玲と朱莉は、烏丸の『行け』という言葉を別の意味で受け取ったらしい。


「朱莉さん!」

「はいっ」

 このとき、意外にも玲ではなく朱莉の方が素早く動いていた。《魔法使い》を担いで、構え、すでに射撃準備に入っている。

攻性ボットいきます」

 朱莉の叫びと同時、光と熱が弾けた。百足竜の、のたうつ胴体の一部を炎と轟音が抉る。それは確かに効果があった。鼓膜を貫くような鋭い鳴き声が響き、砕けた胴体の一部から黒ずんだ体液がこぼれる。


「私はやつを止めるぞ」

 続いて玲が飛び出した。剣を振るって、百足竜に肉薄する。

「そして、みんなで生きる」

 タツミにとっては、こっちの方がわかりやすい動機だった。玲の振るった刃は、百足竜の下顎に突き刺さり、その咬合力を緩めたらしい。


「よし」

 その隙を逃さず、烏丸が片足を引き抜いて、即座に蹴り上げる。

 衝撃音――非現実的な脚力。

 百足竜の頭が跳ね上がった。天井にぶつかる。だが、さすがに巨体の持ち主だった。耐久力もある。首をでたらめに振りながら、なおも突き進んでくる。震動。長大な全身が震えて、ランプの光を覆うほどの土煙があがる。

 その向こうで、烏丸が吹き飛ばされるのをタツミは見た。冗談のような光景だった。その瞬間まで、タツミは烏丸が――この馬鹿げたほど強い男が、そんな目にあうなどと考えたこともなかった。


「タツミ」

 吹き飛ばされる一瞬、烏丸が振り返って、彼の名を呼んだ気がする。

 わかっている。

 いま、危険なのは玲の方だ。百足竜の頭部が、彼女を睨みつけている。いままさに牙を剥き、襲い掛かろうとしている。玲は剣を構えて、防御態勢に入っているが、どう見てもしのぎ切れない。


「畜生」

 と、タツミは怒りをぶちまけた。鉈を強く握る。

 やめておけ、と自分に何度か言った。それでも止められないことだった。

「やればいいんだろ」

 自分には記憶がない。

 タツミは深く自覚している。


 だからだ。

 自分の基盤となる何かがない。だから、誰かに認められることで、どうしようもなく脆い自我を守ろうとしている。これはそういうことだ。

 仕方がない。

(そう。仕方がない)

 できるだけの言い訳を並べて、タツミは正義のヒーローのように振る舞う滑稽な自分を正当化し、そして跳んだ。

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