第19話西村さん 9 試用期間の終了

 ときの経過は早いもので、梅の花が一月の終わりを告げていました。

 友香がホテルWのスタッフとして生き残ることができるのか否かが決まるということです。

 友香のホテルマンとしての運命はどうなるのでしょうか?


 ある日、友香の耳にあることが届きました。

 二ヶ月後の三月末付けで、西村が退職するというのです。

 何でも、西村が本当にやりたいことを見付けたとか。

 詳細は明らかになっておりませんが、友香にとってホテルマンとしての後輩がまた一人減ることは事実のようです。

 友香はある一人の男性を思い出しました。

 より高い収入を求め、向いていないと自ら断定した接客の世界を離れた年上の男性スタッフです。

 友香が入社した十一月の終わりごろでした。

 「明日付けで辞めます」

 友香は寂しさよりも先に、熱湯のような怒りを自覚しました。

 彼は決して接客に向いていないのではない。

 経験が浅いだけで、謙虚さと真面目さはホテルWでは随一である。

 静かなホテルマンを求めるお客さまの需要に応えられるはずだ。

 友香自身の読みが外れ、また裏切られたと思ったのです。

 ホテルWでともに頑張ろうとするはずだった仲間が、さらに友香の心を熱くさせました。

 「加東さんは素晴らしいホテルマンです。いずれここの支配人にもなれるでしょう。でも、あなたほどの人材であれば、他の大きなホテルでも十分通用するはずです」

 なぜ、彼はこれほどホテルWに対する評価が低いのだろうか。

 一人のホテルマンが支配人になるのは容易なことではないのに。自分程度の人間が支配人であるべき器ではないのに。それほどこの世界は甘くないのに。

 やかんが湯気で圧力をかけるように、友香の心は激しくなりました。

 それでも、決して心の姿を露わにしません。

 「あなたも十分、立派なホテルマンだと思いますが」

 友香は首を傾げ、力の限り口角を上げます。

 唇で隠れた歯は食いしばっていますが。


 結局、彼の決意は固いまま最後の勤務が終了しました。

 どういうことなのか、その表情は晴れ晴れとしていたようです。

 一方、友香は一人、ホテルの大浴場にて温泉で全身を包んでいました。

 これまで出発を見届けたお客さまは皆、温泉が気持ち良かったとお喜びのお声をくださいました。

 それにも関わらず、友香の心は濁り湯のようでした。

 見渡すと、そのときその場にいたのは友香ただ一人でした。

 閑散とし、カポーンという桶の接触音が響くことはない。

 旅行会社の繁忙期であるこの時期、ツアーのお客さまを受け入れていないとはいえ、宿泊組数が一や二で良いはずがない。

 日本人のお客さまでさえなかなかいらっしゃらない。ましてや海外からのお客さまが来られることは滅多にない。

 この状態がいつまで続くのだろうか。

 ホテルWも自分も、このままなのだろうか。

 右肩上がりという言葉とは無縁の、人気の少ない観光地に建つホテルとホテルマン。

 友香はポタポタと滴る汗の数だけ、断片的な言葉を思い出しました。

 「逃げるが勝ち」

 「パワハラ対策」

 「不況」

 ネットや書籍で目を通したものでした。

 いずれも、マイナスイメージを抱えています。

 煩悩を抱え、そのような言葉が自然と思いつくような自分自身にも、友香は不安を覚えるばかりでした。

 たとえ飾り立てた言葉でお客さまを一喜させても、自分の心をコントロールすることはできない。

 このような調子で、将来の右肩上がりを迎えることができるはずもない、と。

 「辞めたい」

 「逃げたい」

 「捨てたい」

 口癖が三つに増えるころ、友香は二十九歳になりました。


 病気ゆえに他人の言動に敏感な友香は、入社三ヶ月を過ぎようとしてもいまだに仲居の先輩から叱られてばかりでした。

 「もっと自分に自信を持て! おろおろするな!」

 「自分で考えなさい!」

 かつての職場で禁じられていたことを、ホテルWでは必須である。

 その環境がさらなる焦燥感で友香を煽ります。

 その内、予約とフロント業務を管轄する支配人からこのように言われるようになりました。

 「あんたを見ていると、イライラする」

 「前の職場で何をしていたの?」

 月別カレンダーにバツが増えるたび、友香は遠くを見る回数を重ねるようになりました。

 豊かなる自然に、止まり木で休む野鳥に問いかけるのです。

 「私はホテル業に向いていないの? あの支配人の言う通りだったの?」

 「私、どうしたら西村さんみたいになれるのかな? 自分のことだけを、ホテルW以外のことを考えられるように。そしたら、私は今ごろ病気で職場の選択を狭まれることはなかったのかな?」

 当然ながら、梅で彩られた木々も、北風に耐える野鳥も、人間の言葉で友香に返事することはありませんでした。

 風の音で気温の低下を、高らかな鳴き声で時刻を告げることはあっても。


 友香が悶々としているうちに、一月最後の平日が終わろうとしていました。

 そのころは翌月二月前半のシフトができあがり、友香のホテルマンとしての運命が定まります。

 果たして、友香の勤務時間は記されているのでしょうか。


 さて、人間というものは良くも悪くも過去を振り返る生き物で、友香も例外ではありません。

 ネット環境のある観光交流センターにて、友香は一人LINEのトーク記録を眺めていました。

 相手は友香の尊敬する男性、元Kホテルの太田です。

 彼は支配人や主任のパワハラに遭うたび、傷心の友香を励ましました。

 「俺はお前の味方だ。大丈夫、絶対にできる。お前は伸びる!」

 好き嫌いが明確な人間は、滅多に社交辞令を用いません。それでも、友香の場合は「滅多にないこと」に当てはまるのではないか。

 友香自身を励ますどころか、かえって自分の首を絞めてしまいます。

 苦しくても、友香はスマホの画面から目を離すことができません。

 太田の言葉が真実であるという証明を求めているからです。

 結局、貴重な休日を友香は満喫することができませんでした。

 太田が知っているホテルマンとしての友香は、うつ病発病前のことであって、闘病後の姿を知ることはないからです。

 最後に椿と梅の木々に囲まれて立ち上がった友香を、ホテルマンとして知るのは、現在の職場、ホテルWのスタッフのみです。

 友香はNOという確信と、逃げ出したい気持ちで、活き残った唯一の男性先輩に尋ねてみました。

 「私って、ホテルに向いていないんですよね……?」

 友香は、傷付きたくない気持ちとは裏腹に、同意の声を待っていました。

 けれど、彼は友香の望みを叶えることはありませんでした。

 「そんなことないよ」

 「え……?」

 暗闇の中、隣接する社員寮に向かって運転する表情は見えませんでした。

 「加東さんはよく気が付くし、笑顔も良いよ。支配人は日々の業務でお疲れなだけだから、いちいち気にしなくて良いよ」

 「ほんとですか?」

 「うん」

 友香は嘘をつくことができない彼の言葉を信じて良いのか、分からなくなりました。

 希望と失望を選べずにいても、現実は秒ごとに積み重なってきます。

 夕食を済ませ、食後のうつ病の薬を服用した直後でした。

 「あ……、そろそろ病院に行く時期か」

 友香の手元には寝る前の睡眠薬と翌朝の朝食後の薬が一包ずつだけ残っていました。

 薬が減るということは、ときが流れている証。友香は己の気持ちに揺れている場合ではありません。現実を見直すべきなのです。

 友香は一枚のルーズリーフを引き出しから取り出しました。

 後にIF紙と呼びます。

 あらゆる「もし」を書き出して見ます。

 「もし」ホテルマンを辞めたら、自分に合う仕事が見付かるだろうか。

 「もし」今の会社を辞めたら、うつ病患者である自分を受け入れてくれる会社があるだろうか。

 「もし」うつ病が完治し、ハローワークとしても精神障碍者でなくなる日が来るとしたら、いつになるのだろうか。

 「もし」「もし」「もし」

 友香は仮説ばかりを連ねました。

 けれど、その答えは共通してただ一つ、NOでした。

 社会に出て約十年の友香は、接客業が染み付いています。語学以外に資格も経験もない人間が、簡単に他業種に馴染む。そのことは一般論では、地球上の北と南、西と東の両端を分けることと同じくらい難しいのです。

 前職がホテル業であればなおのこと、一般人の非日常を日常としているのだから。

 また、友香はKホテルで多岐の分野において経験を積んだとはいえ、うつ病という一言ですべてを台無しにしていまいました。

 これまで面接を行った経営者が病気の再発を恐れているからです。

 労働者にとっては非道ではありますが、滅多に他人に染まらない友香はその事情を十分に理解しています。

 友香が希望していたのは、ホテル接客の最前線、フロント係。仮にその会社のスタッフになれたとしても、お客さまの前でパニックにならないとは断定できません。

 お客さまの事情を抱え、己を内に秘めるこの職業は、甘えは一切許されません。

 そのような環境で、友香が長続きしないのではないか。経営者が危惧するのは無理なことではありません。

 それでも友香は自分を受け入れてくれる会社を探しました。

 病状が軽くなることはあっても完治が難しく、再発の恐れがあると知っていながらも。

 友香は自分の原動力を思い返してみました。

 実に単純なことでした。

 暗闇の中で黒真珠を一粒摘み上げるように、落とさないように、そっと答えを口にしました。

 「私はどこまでも試したかったんだ。自分が本当にホテルマンに向いていないのかを。病気の自分ができることを」

 上司へのゴマすりだけで出世したKホテルの支配人を見返したかったのです。

 下衆な男の非難が正しくないと証明したかったのです。

 だから、友香はホテルマンを極める道を選んだ。

 「私はあの男とは違う! 絶対に違うんだ!」

 友香はIF紙を破り捨てました。この瞬間、不要になったからです。

 仮に二月のシフトが書かれていなくても良い。ホテルWの若女将はあの男とは違うのだから。


 翌日、友香は運命の日を迎えました。

 後日談によると、この日はそわそわして仕事に手が付かなかった、宿泊客が少なかったのが幸いだったそうです。

 「お先に失礼します。お疲れさまでした」

 二十一時、友香の心はゴングが鳴っていました。

 一日の勤務が終わり、翌日、この日は二月一日の勤務を確認するときです。

 そこには……。


 ありました。加東友香の名前が。それも、勤務付きで。

 朝食担当と夕方からはフロント担当、六時から二十一時までというハードなものでしたが、それは確かに友香がホテルWの一員であるということ。

 そのとき友香の近くにいたのはヒステリックであること以外は得体の知れない支配人だけだったので、歓喜を声にすることはできませんでした。

 それでも、このときの周囲の人間の存在は重要ではありませんでした。

 自分が、ホテルマンとしての友香がここにいる。その事実が判明しただけで十分だったのです。

 友香は社員寮に戻り、一人嬉し涙を流しました。


 後日、退職が判明した西村のぼんやりとした立ち振る舞いを見て思いました。

 彼女には二十二歳と若く健康であるため、将来の岐路はいくらでもある。

 けれど、友香の居場所は今のところこの会社しかない。

 ならば、ホテルマンとしての道を極めよう。

 それでもいきなりナンバーワンを目指すのは、患者としてはハードルが高いだろう。

 ならば、コツコツと、お客さまにとってのオンリーワンを何百回、何千回と繰り返してみよう。

 オンリーワンが限界まで積み重なったとき、友香は本当のナンバーワンホテルマンになれるかもしれない。

 「今日」はまだ始まったばかり。

 さあ、駆け出そう!

 新しい道に進むであろう西村に遅れを取らないように。


 友香のホテルマンとしての日常は、まだ始まったばかりです。


 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホテルマン 加藤ゆうき @Yuki-Kato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ