イレスダートの聖騎士-番外編-

朝倉千冬

風竜さまと黒い風

 夜遅くともなれば白の王宮は静かなもので、回廊の灯りもどこか頼りない。

 大人たちの姿が見えないのは晩餐会のため、わずかな者たちだけを残して、そうすればここはもう子どもたちだけのせかいだ。

 でも、見つかったらきっと叱られてしまう。扉を閉める音に、足音がしないようにとそろりそろり気をつけながら、暗闇のなかでも月のあかりと星のひかりさえあれば、子どもたちには充分だった。

 そんなに時間を掛けたつもりはなかったのに、幼なじみの王女はちょっと頬を膨らませていた。ブレイヴはポケットから飴玉をひとつ取り出す。きれいな水色をしたそれは、おやつの時間に残しておいたものだ。

 幼なじみは口のなかでコロコロと転がす。さっきまでの不機嫌はどこへやら、ブレイヴは親友のディアスと目だけを合わせてにこっとする。作戦は成功のようだ。

 室内にあかりを灯すわけにもいかず、かといって幼なじみが大好きな本を読みきかせるには月と星のひかりだけではちょっと足りない。ブレイヴは九つになったばかり、親友のディアスは一つ上だけど、いつも隣に並んで勉強をする。幼なじみの王女はブレイヴよりも二つ下の七歳で、いつもならとっくに夢のなかだ。それなのに目がぱっちりと開いているのは今日のこの時間をたのしみにしていたから、ふたたび幼なじみの機嫌が悪くなる前に、ブレイヴはよいことを思いつく。そうだ。今日習ったばかりの昔はなしをしてみよう。

 それはまだ人と竜が共存していた頃のおはなし。千年、二千年、それよりずっと前のことだ。

「りゅうって、おおきいの?」

「うん、もちろん。レオナよりも、ずっとずっと大きい」

「ブレイヴよりも? にいさまよりも? とうさまよりもずっと?」

 気になったことはなんでも問うのが幼なじみだ。ブレイヴはレオナに向けてちょっとだけ得意そうな顔をする。

「そうだよ。僕はもちろん、人間よりもずっと大きいんだ。それにね、トカゲみたいな色をしてるのに、爪が長くてキバだって生えてて、人間よりも強くって、賢いんだって」

 大げさな動きを加えながらブレイヴは幼なじみの興味を惹く。今度の作戦もどうやら成功のようで、レオナの声も弾んでいた。

「ほんとう? でも、どうしてりゅうたちは、いなくなっちゃったの?」

「それは、人間とけんかをしたから、」

「どうして、けんかをしたの?」

「それは、人間が竜のすみかをうばおうとしたから」

「どうして?」

 またはじまった。やっぱりこの作戦は失敗らしい。ブレイヴは頭を掻いて誤魔化そうとするも、このどうして攻撃は止みそうにないし、きちんと応えないと幼なじみは納得しないだろう。

 ブレイヴは親友へと助けを求める。先生の言うことはむずかしくて全部が全部を覚えられたわけではなかった。

「それは、レオナがもうすこし大人になってから、教えてもらえばいいよ」

 ただしい答えでも幼なじみは不満そうな顔をする。だけど、ディアスは怯まない。

「たのしみが増えるし、俺たちだって、そんなに詳しくは習ってないんだ」

「そうなの」

 がっかりさせるつもりではなくても結果的にはそうなってしまった。ディアスを見たところで、今度はすぐに目を逸らされる。これ以上は助けてはくれないようだ。

 それにディアスは嘘をついている。本当は、ブレイヴだってわかっている。ずっとずっとむかし、人と竜が争ったこと、竜たちがいなくなってしまったこと、そこから王国がはじまったことも。ただ、それをどう説明するべきか悩んでしまう。幼なじみはまだ幼くて、それにブレイヴ自身と近しいところにあると認めていなかったからだ。

「でも、じゃあ……、りゅうたちはどこに行ってしまったの?」

 素朴な疑問にブレイヴとディアスは顔を見合わせる。それは、と言い掛けてふたりとも声を出すのを途中で止めた。

 幼い王女はまだ何も知らないだけで、これから理解していくのだ。イレスダートの王国、マイア王家に生まれし者として。いずれ、知る日が来るのだ。











 太陽が傾きはじめれば人々の足も速くなる。先ほどまで賑わっていたというのに、店主たちもいそいそと店を閉めだした。

 人口は百人にも満たないほどのちいさな村だった。宿場も酒場もひとつずつしかないせいか、畑仕事や大工仕事が終わればまっすぐ家を目指す者も多い。

「きこえなかったのかい? そう、黒い風だよ。あれが吹く前には帰らなくちゃならないんだ。だから今日はもうおしまいにする。あんたらも用が済んだら早く帰っておくれよ」

 女店主は早口で言う。手の平であっちへ行けの仕草をされているのに、幼なじみはそれでも問い返す。

「あの、まって。黒い風っていうのは、なんのこと? それに……できれば果物を頂きたいのだけど」

「そうかい。あんたら旅人にはきき覚えのない単語だろうね。この村はね、風に恵まれてるんだよ。作物ってのは太陽と土だけでは育たない。良い風が吹いて、その風が雨を呼ぶ。だけど時々、嫌な風になるんだ」

「それが、黒い風?」

 女店主は忌まわしいものを見るような目をする。

「そうさ。黒い風が吹けば作物が傷むのが早くなるし、人間の身体にも影響する。年寄りはすぐに弱るからね。健常な大人だってそのうち咳に悩まされる。だから、あたしはとっとと帰りたいんだよ」

 それきり女店主は背を向けてしまった。こうなってしまっては退くしかない。ブレイヴはそっと幼なじみの肩をたたく。

「戻ろう、レオナ。たしかに風が強くなってきてる」

「そう、ね……。ありがとう、ブレイヴ」

 落胆を隠せないまま、けれど幼なじみは素直に従った。他の店を当たったとしても、結果はおなじだろう。彼女はしばらく黙って歩いていた。こんな対応されたのははじめてなので、戸惑っているのかもしれない。

 白の王宮で育った王女は外のせかいを知らなかった。ただしそれはすこし前の話。いまのレオナは理解しているから、それだけ思慮深くもなる。

 ブレイヴはちらと幼なじみの顔を見る。良い傾向だとは思う。ここが王都マイアから、イレスダートから遠く離れた地だとしても。幼なじみのあるべき場所ではなかったとしても。

 水に食糧に、その他にも旅をするのに必要なものは揃った。幼なじみが求めていた果物は手に入らなかったけれど、次の村を当てにするしかない。レオナはずっとむずかしい顔をしたままで、こっちの視線にも気がつかない様子だった。こういうとき、ブレイヴはただ彼女を待つ。ところが、下ばかりを向いていた幼なじみが急に顔をあげた。みんな家路を急いでいた路地で人集りができている。

「なにかしら? 喧嘩しているの?」

 巻き込まれたくはなかったが、しかし宿場に戻るにはこの道しかない。大人の男が三人、対して取り囲まれているのは少年――、いや線が細いので少女だろうか。身内同士の揉めごとならばなおさら関わるべきじゃない。それなのに、幼なじみにとってはそうじゃなかったらしい。止めるのが間に合わずに慌てたブレイヴは抱えていた荷物を落っことしそうになった。男たちが少女を突き飛ばし、痛罵つうばを残して去って行くのが見える。ブレイヴが追いついたとき、幼なじみは少女に手を差し伸べていた。

「だいじょうぶ?」

「へいき。いつものことだから」

 なんでもないように言う少女の肌にはあちこちに擦り傷が見られる。

「でも……、まって。怪我をしているわ。じっとしてて」

 ブレイヴの制止を待たずに、癒しの魔法ははじまっていた。それは一瞬。けれど、たしかに零れた淡い緑色の光は、少女の腕を、頬を、擦り傷など何もなかったように治してゆく。ブレイヴは心のなかでため息を吐いた。これがイレスダートのならばよくある光景だ。魔道士、修道士、神官に至るまで魔力を持つ者はどこにだっている。

「ありがとう。お姉さん、魔法が使えるんだね」

 快活に、しかし驚きは含まずに、少女は感謝を述べる。ブレイヴは自然と警戒の表情を描いていた。悟られないほどのわずかな目の動きだけで、少女を観察しつづける。一方の幼なじみは疑心や不信感をまったく持っていない様子で、にっこりとする。少女もまた子どもらしい笑みを見せた。

 歳の頃は十二、十三くらいか。鮮やかな緑の髪は森の色にも似ている。瞳の色は青。別に不信だと思う容姿ではなくても、落ち着き過ぎているのが不自然なのだ。

「ええ。でも、それよりも、あの人たちは? お知り合い? ……それにしては、乱暴なことを、」

「いいの。余計なことを言ったのはこっちだから。頭が固いんだよ。ここの大人は。風竜さまには関わるなって言っても、ちっとも耳を傾けやしない」

「風竜さまって?」  

 少女は舌をぺろっと出す。それは明らかに作った顔だったが、少女は蝶々しい動きを加えた。

「よそものには関係のないことだよ。ほら、お姉さんたちも早く帰んなよ。黒い風が吹く前にね」

 ここでも黒い風。ブレイヴはレオナと目を見合わせる。

「そ。だからね、決して森の奥には行ってはいけないよ。そこから人ではないものの声がしたとしても、風竜さまとは無関係だからね。子どもは特に危ないんだ。風竜さまの生贄にされてしまうんだから。でも、近付かなければ大丈夫。お姉さんたちは早くこの村から去った方がいいよ」











 うしろからの呼び声に、彼女の肩が跳ねた。想定外だったのだろうか。ブレイヴはため息を吐きかける。

「どこに、行こうとしたの?」

 答えは返ってくる前にもうわかっている。それでもきいたのは、幼なじみが黙って行こうとしたことがちょっと気に入らなかったからだ。

「たしかめたいことが、あって」

「それは、あの子のこと? それとも黒い風? 風竜さまのこと?」

 おそらくはぜんぶだろう。幼なじみはわかりやすい性格をしている。ちいさい頃からずっとそうだった。

「竜って、このせかいには……いいえ、イレスダートにはいないものだと、そう教わったわ」

 やっぱりそうか。ブレイヴは苦笑する。

「俺だって、おなじだよ。竜はおとぎの話の生きものだと、そうきかされてきたから」

「でも、あの子がうそを吐いているなんて、思えなくて」

 たしかに虚言癖があるようには見えなかったし、他の村人も風竜の名を口に出していた。しかし、そのままそっくりと信じ込むには早すぎる。ブレイヴはふた呼吸を置く。 

「わかった。でも、すこしだけだよ。危険を感じたらすぐに引き返す」

「ありがとう、ブレイヴ」

 まったく、この笑顔にはほとほと弱い。その自覚はある。とはいえ、言い出せばきかない幼なじみだ。たとえ、反対したところで一人きりで出て行きかねないから、それだけは避けたい。

 少女の警告は森の奥だった。村外れまで来れば明かりもなくなり、山毛欅ブナの木が生い茂る森は昼間よりもずっと不気味さを増す。イレスダートに危険な獣はほとんど見られないが、地元の人間でもわざわざこんな時間に近づきたいと思わないだろう。その上、今宵は雲が多くどこにも月の姿が見えない。借りてきた洋灯ランプの明るさだけでは頼りなくとも、いまになって引き返すなんて言ったら幼なじみはきっと怒り出す。正当な理由が見つかれば話は別として。

「おこってる?」

 なるほど、先ほどからずっと幼なじみが無言だった理由がわかった。

「本当にひとりきりで、勝手に黙って出て行ってしまったのなら。でも、そうする前に言ってほしかったのが、本音かな」

「ごめんなさい。軽率だったわ。わたし、もうちいさい子どもなんかじゃないのにね。でも……」

 急に居心地がわるくなったのか、幼なじみの声がちいさくなっていく。

「あの、ね。気になることがあって」

「気になること?」

「そう。この村、子どもの姿がないのよ。それらしい姿といえば、夕方に会った子だけで、他には見当たらないでしょう?」

 言われてみればそうだ。もうすぐ夕暮れだからちいさい子どもの姿が見えないのだと思っていた。少年、少女にいたってもおなじ、女店主の言っていた黒い風が関係しているのだろうか。ブレイヴが推測をはじめたのとほぼ同時だった

 はげしい口論がきこえてきた。子どもと大人の声だ。どうやらさっきの連中らしい。あの子どもは自分が忠告をしておきながらここに来たのか。やはり関わり合いになるべきじゃない。しかし、もう遅かったようだ。ブレイヴのうしろから悲鳴がした。

「レオナ!」

 幼なじみは村人たちの腕のなかにいる。さっきの連中の一人だ。ブレイヴは歯噛みする。夜目は利く。その自信はあったし、十分に警戒をしていた。でも、どこかで慢心していたのかもしれない。 

「は、離しなさいっ!」

 幼なじみは男の腕から逃れようと必死に抵抗をする。余計な刺激を与えることを覚悟でブレイヴは剣を抜いた。大丈夫だ。一度、幼なじみに向けて目顔でそう言う。それから正面に視線を戻すとそこには男たちに羽交い締めされた少女の姿があった。夕方のときよりも元気がないのは、暴力を受けたあとだからだ。ブレイヴは呼吸を落ち着かせる。男たちはブレイヴに気圧けおされているものの、どう出るかわからない。分が悪いのは明らかにこちらだ。

「う、動くなよ……! 抵抗すれば、」

「何が目的だ」

 たしかめてからでも遅くはない。ある種の賭けだった。沈黙が走る。男たちは目で相談をしつつ、言い逃れはできないことを悟ったのだろう。そのうちの一人がようやく応えた。

「か、風竜様に捧げるんだ。悪く思うなよ。ほ、他に方法がないんだ。風竜様の怒りを静めるにはこれしか」

「生贄?」

「そ、そうだ! あんたたちには悪いが、これも村を守るためだ。もう子どもはいないんだから、この際、よそから来た大人でも……」

 これほど滑稽な話があるだろうか。ブレイヴは失笑しそうになる。引っ掛かる単語はいくつか出てきたものの、それ以上を問うつもりはない。利己的な考えには吐き気がする。

「お、大人しくしろ! 抵抗すれば、こいつのようになるぞ!」

 大人たちは寄って集って一人の少女に暴力を振るった。その上、たまたまこの村に寄っただけの旅人にも危害を加えるつもりなのか。

 軽率であったと、反省をするならばどこからだろう。この村に立ち入ったこと、男たちに目を付けられたこと、少女と関わったこと、幼なじみを止めなかったこと、この森に入ってから油断があったこと。ちがう。そのどれもじゃない。

「大人しくしろ、ですって……?」

 ぎょっとしたのは、その場にいる全員だった。選択を誤ったのはブレイヴではない。彼らが、だ。それはブレイヴがレオナの名を呼んだのと、ほぼ同時だった。

 辺りは真昼のように明るくなる。ぱちっと紫電が走り、眩しさに目蓋を閉じようともそこからは逃れられなかった。一瞬、けれど何が起こったのか理解できないからこそ恐ろしい。人は、天の轟きを神の怒りだといい、雷を怖れる。ゆえに、それが人の手で操れるものだとは思わない。

 雷光は彼女の魔力によるもの、いや、意志で放たれるのだ。レオナを取り巻く稲妻は、密着した男の身体をそのままに攻撃する。男の絶叫は長く響き渡った。

 ブレイヴは終わりを待たずに動き出していた。相手はただの村人、剣の鞘を使って胸元に打撃を当てるだけに留める。二人目の男が倒れ、三人目の男は仲間を見捨てて逃げ出していた。ブレイヴは最初に幼なじみを見る。視線はすぐに逸らされた。

「魔力の調整はしたの。だから……」

 幼なじみは言う。男は意識は失っていたが、重傷を負ったわけではなかった。しばらくの痺れは残るとしても一時間もすれば目を覚ますことだろう。彼女の言っていることに偽りはない。その気になれば容易く命を奪うほどの力を、レオナは持っている。

 だが、ブレイヴが警戒しているのは少女の方だ。やはりどこか怪我をしているのか、地面に座り込んだままに動こうとはしない。レオナが駆け寄って声を掛けたところでやっとこちらに応答する。

「へいきだよ。怪我はね、すぐに治るんだ。それに、」

「隠していることがあれば、正直に話してほしい」

 みなまでを言わせず、ブレイヴは少女へと近づく。こんな小さな村で魔法を使える者がいるとは思えない。もし、いたとしても、雷を扱う高位の魔力を持つ者は現れない。あれは、レオナが王家の生まれにあるから持っている力なのだ。

 人は、見たことのない異端なものを怖れる。それなのに、この少女に動揺は見られず、むしろさも当たり前のような振る舞いをする。

「お兄さんの考えていることは、ほとんど当たっていると思うよ」

 心のなかを読み取られていることに不快はなかった。ならばすべてを答えてもらうまで、ブレイヴは止めに入ろうとするレオナを遮って、少女へと詰め寄る。

「男たちの行動は褒められたものじゃない。でも、警戒を怠った俺にも責任はある。けれど、きみはちがう。いや……、誘い込んだのはきみだ。それにきみは、女の子じゃない、よね?」

 幼なじみの興味を惹く言動を取り、関心を引くように仕向けた。他の者なら無視してもレオナならばその単語を見逃さない。つまりは、そういうことだ。くすっと、この場に似合わぬような笑みが漏れる。

「半分は正解。だけどね、まさか本当に来るなんて思わなかったんだ。それも王家の姫君が」

 ブレイヴは目に力を入れる。踏み切るにはまだ早い。相手は武器も持たない子どもだ。ただ、これが普通の子どもであれば、力に任せた行動を取るのは不誠実であり、しかしそうではないために両者のあいだに不穏な空気が流れている。

「まって。あなたは、わたしとおなじ」

 レオナの問いには片目を瞑って応える。否定であるのか肯定であるのか。少年は緑色の髪をくしゃくしゃにしながら笑う。

「イサヤって、呼んでよ。それが僕の名前。ごめんね。試したわけでも騙したわけでもないんだ。結果的にそうなってしまったのかもだけど、でもまさか本当に、会うことができるなんて思ってもみなかったから」

「それって……」

「ちいさい頃にきかされたことがあるよね。人と、竜のおはなし。人間の子は、それがお伽話だと思ってる。うん、でも僕らもいっしょさ。王国のお姫さまのことだって、縁がない人たちで、僕らの遠い遠い兄弟だとしても、架空のはなしみたいに思ってて……」

 本来ならば、会うはずのない者たちだ。レオナが王国から離れたのは偶然であり、この村に立ち寄ったことも、イサヤと出会ったことも、意図したものではない。だから、幼なじみはその先を知ろうとする。

「この村は、あの男の人たちは何をしようとしていたの?」

「来て。ぜんぶ、話すから。黒い風のことも、生贄のことも、風竜さまのことも。本当は……助けてほしかったんだ」

 イサヤの瞳には曇りがない。ここで制止したところで幼なじみは耳を貸さないだろう。ブレイヴはこの日、何度目かのため息を心中で吐いた。











 森のなかを更に進む。イサヤに案内されるままに行けば、やがて岩山が見えてきた。

 洞窟と称していいものかどうか、そこは一人が岩壁に身体を押し付けながらやっと進めるくらいの狭さだった。とはいえ、内部は思ったよりも深く、道はどこまでもつづいている。引き返すなら、いまのうちだ。ブレイヴの気鬱をよそに、イサヤはどんどん前へと行く。それを追うレオナもまた。

「カーラ。どこ? 僕だよ、イサヤだよ。帰ってきたよ」

 奥までたどり着いたかと思えば、イサヤはなにかを捜しはじめた。灯りはブレイヴの持ってきた洋灯だけで、周りを探るには不十分だった。ここはとても人の住めるような場所ではない。

 イサヤは突然しゃがみ込み、何かを揺するような動きをした。目を凝らして見てそれがやっと人だということがわかる。粗末な布で作った長衣からは枯れ木のように細い手足が見える。髪に隠れた顔にしても、男か女か判別が不可能なほど老いていた。

 イサヤは呼びかけをつづけているものの、ほとんど反応はなかった。カーラという名から推測するに老婆なのか、喉が潰れたみたいに薄気味悪い呻き声だけがきこえてくる。

「もしかして、風竜さまは」

 レオナが声を落とした刹那、一陣の風が吹いた。

 ここは風など届かない場所だった。それなのに、風は勢いを増し、攻撃的なまでの強さを帯びる。

「カーラ、待って! この人たちは、」

 イサヤの必死の訴えもきこえていないかのように、老婆はゆるりと立ちあがった。ブレイヴの足元から背筋を嫌なものが伝ってゆく。この感触には覚えがある。恐怖だ。

 ブレイヴは咄嗟にレオナの身体を庇うように抱きしめた。身体が宙に浮いたのはその瞬間だった。吹き飛ばされるような感覚、けれど投げ出されたわけではなく、気がついたときには洞窟の外にいた。ブレイヴはまず、自身の両足が地に着いていることをたしかめ、次に幼なじみが腕のなかにいることに安堵する。

 痛みを感じなければ重苦しさもなかった。どうやってあそこから外に飛ばされたのだろう。いくら考えてみてもわからない、そもそもブレイヴは魔力を持たない者だ。答えを求めるべく幼なじみへと視線を移す。

 レオナはブレイヴとはちがうところへと目を向けていた。その先にはイサヤと老婆が倒れていた。駆け寄ろうとする幼なじみの腕をブレイヴは掴んで、しばしの時を置く。やっとイサヤが身を起こしても、老婆は身体を丸めたままだ。

「ごめん。カーラは不安定なんだ」

「彼女は、それにあなたも」

「もう、わかっているよね。僕らは竜、ううん、正確には竜だった。いまは人間。だけど、人間よりもずっと長く生きているし、人間よりも強い魔力も持ってる。ずっと昔、竜と人間の争いが終わったときに、竜たちは人の姿をして、身を隠すことにした。それが、掟」

 イサヤの語りは、幼い頃にブレイヴとレオナが呼んだ絵本のそのままだ。逸話ではない。だから、イサヤはこんなにも苦しそうな声をする。

「そこから僕たちは長い時を生きてきた。竜たちだけで身を寄せ合って生きたこともあったよ。だけどそれじゃあ、生きられない。竜の老いはゆるやかでも、不老でもなければ不死でもない。やがて、死は訪れる」

 イサヤは老婆の背を擦る。先ほどとおなじく、呻き声は苦痛に満ちたもののようにもきこえる。それが何を意味しているのか、ブレイヴは悟った。イサヤはつづける。

「さっき、レオナは言ったよね。わたしとおなじって。ううん、ちがう。だって、あなたは人だもの。僕らのようにはならない。あるときは子どもの姿に、あるときは大人に。そうして人の目を欺きながら、そうしなければ食べることはできなかったから」

「ごめんなさい。わたし」

「あやまらないで。あなたにはあなたの……、それに、これは僕らの選んだ生き方だから。カーラもいっしょだよ。だから人間たちがどんな行いをしようと、僕らは関わるつもりはなかった」

「それは、風竜さまと関係が、」

 ブレイヴの問いかけは金切り声に消された。老婆は地面に這いつくばったまま、身体中から威嚇の魔力を放とうとする。最初にイサヤの小さい身体が吹き飛ばされ、受け止めようとしたレオナも一緒になって地へと転がった。

「カーラ! カーラ、お願い! この人たちはカーラを助けてくれる、だから」

 懸命な声は届かない。暴力的な風はすべてを憎み、すべてを遮り、近付くことを許さない。

「イサヤ、わたし、どうしたら」

「お願い、レオナ。あなたの力をちょっとだけ分けてほしいんだ。僕には、ないから。だから、おねがい!」

 ブレイヴは二人を庇おうとしたが、凄まじい風が襲ってくる。どんなに下半身に力をいれようともそこで踏みとどまるのが精いっぱいだった。人間が風竜さまと敬い、怖れるだけはある。これは、人ならざる者の力だ。

「わかった。やって、みる」

「レオナ!」

「だいじょうぶ。わたし、やれるだけの力があるから」

 決意を止めるだけの言葉がブレイヴにはない。覚悟を変えさせるための力がブレイヴにはない。レオナはゆっくりと老婆へ近づいて行く。風の力に彼女が負けないのは、魔力には魔力で対抗しているからだ。

「カーラ。だいじょうぶ。わたしは、敵じゃないわ。あなたを助けたいの」

 レオナは両手を広げる。威嚇にも臆さず、魔力にも屈することもなく。そして、突然に風は止まった。

 身体が楽になったのはカーラがレオナを受け入れたからだ。ほっと、ブレイヴは肩の力を抜く。イサヤも微笑みを取り戻している。しかし――。

「レオナ!」

 竜は人間よりも大きく、人間よりも強靭で、人間よりも凶暴だ。たとえそれがいま、おなじ人間の姿をしていようとも。老婆は鋭く伸びた爪をレオナに向けて振りおろす。血飛沫があがった。

 ブレイヴはレオナを、イサヤはカーラを、それぞれの名を叫んだ。それを上回る叫声は獣の咆哮のようだった。老婆が身体を丸めて苦しんでいる。人間ではない、獣の強行を止めたのはもう一人の幼なじみだった。

「ディアス……?」

「帰ってこないと思えば、面倒事に首を突っ込んでいたのか」

 ディアスらしい物言いだ。ブレイヴは微笑する。

「どうして、ここに?」

「それは俺の台詞だ。お前たちが出て行ったあと、村の住民と思わしき者たちの襲撃を受けた」

 宿場にはブレイヴとレオナの他にも仲間たちが泊まっていた。この村は余所者には容赦がない。何も伝えずに出て行ったのは失敗だった。ブレイヴは謝罪しようとして、しかしそれより早く彼女は声を落とす。

「どうして……」

 殺してしまったのか、と。レオナはそれ以上を紡げなかったようだ。イサヤがずっとカーラの名を呼んでいる。長衣の染める血の量は多く、普通の人間ならまず助からない傷だった。

「あれが風竜の正体だろう? 生贄にされた人間はもう戻ってはこない」

「ちがう! カーラは、僕たちはそんなことをしない!」

 冷たく言い放ったディアスに、イサヤは猛然と抗議する。

「それに、生贄だなんて言い出したのは人間たちの方だ。僕らはなにも、望んでなかったのに……」

「イサヤ……」

 少年のちいさな肩が震えている。レオナがイサヤの身体を抱きしめる。

「僕も、カーラも、ただ静かに暮らしていきたかっただけなんだ。でも、ずっとおなじところに留まっていると、僕らの魔力はその地に影響する。風は、時に良いものをもたらすけれど、いつもそうだとは限らない。嵐を呼ぶことだってある。人間はそれをおそれていたから」

「だから、生贄を?」

 レオナの問いにイサヤはうなずく。

「はじめは男の子、次には女の子。大人たちに森の奥まで連れて行かれてそれっきり。泣き声がするたびに、僕とカーラは洞窟から出ていって、彼らが一人で生きていけるようになるまで面倒を見て、そのあとのことは知らない。ここではないどこか遠くに逃げるしか、子どもたちにはなかったから」

 身につまされる話だ。人は、自分と自分に近しい者を守るために簡単に他人を利用する。

「人間にとって、竜はおそろしいものかもしれない。たしかにそういう奴らだっている。生き長らえるためには、人を食うものだって、いるから」

 そうじゃなかったんだと、イサヤは最後に言った。レオナは倒れたままのカーラの前で膝をつき、祈りの恰好をする。淡い緑色の光の粒が老いた身体を包み込み、それは次第に大きくなってゆく。光の強さが目を開けてはいられないほどに強くなったそのときに、奇跡は起こった。

 まず、イサヤが絶句する。祈りを唱えたレオナは手を止め、ブレイヴは瞬きを繰り返す。皆が信じられないという顔をしていた。

 当然だ。老いた人間の身体はどこにもなかった。蜥蜴とかげのようにも見えるが、その身体にはちいさくとも鋭い牙と爪があり、背にはしっかりと翼がある。まぎれもなく、竜だ。

「カーラ……?」

 おそるおそるイサヤは言う。子どもの竜は答えるようにキュウと声をあげた。










「わたし、何の力にもなれなかったね」

 声を落としたレオナに、イサヤはにこりと笑顔を描くことで否定する。

 死を迎えようとしていたカーラをせめて苦しまずに送ってほしいと。それが、イサヤの願いだった。何がどうなったのか、説明するのはむずかしい。けれどもカーラは子どもの竜の姿となって、いまはイサヤの腕のなかに収まっている。

「これから、どうするの?」

「変わらないよ。どこか遠くにいって、ひっそりと暮らすだけ。ねえ、レオナ。僕は会えてうれしかったよ」

 出会うはずのなかった者たち、もう二度とは会うことのない者たちだった。それでも、あの少年の笑顔を忘れることはできないし、ブレイヴが見た竜も現実だった。

 おとぎ話なんかじゃなかった。そんなことはとっくにわかっている。ブレイヴのすぐ傍には幼なじみがいる。彼女は、竜の末裔だ。

「黒い風。それが、すべてのはじまりだった」

「あれは風が山肌を削ることで起きる自然現象だ。彼らとは関係がない」

 ブレイヴが言い、ディアスが即答する。

 この村で起きていたことの真実であり、村人たちはこれからも知ることはないだろう。

 風竜、彼らがここを去ってから、村にはどんな変化があるのかはわからない。人の心が招いた醜行は愚かであっても、おなじ人間としては他人事とは言えないもので、人は容易く心に不善を宿らせる。

「わたしたちは、そうした場所で生きているのね」

 夜が明ける。

 竜がいなくなったはずのせかい。しかし、彼らはたしかに存在していた。ブレイヴは幼なじみを横目で見る。凛とした眼差しのなかに悲哀が混ざっているのは見間違いではなかった。彼女は、いま、何を思うのだろう。

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