第5話
遠く過ぎ去った別の夜のことだ……。
世の中から逃れるためにこの庵にやってきた者たちは皆、結局ここを出て、別の未来へと出ていった。
ここに閉じ込めておけるものなど一つもないのだ。
誰も彼も、運命の手によって乱暴に引き毟られるようにして、ここを出て行く。
泣きながら別れを告げていった者を、無理にでも引きとめてやれば良かったと後悔したことがあっただろうか?
マードックは立ちあがって、酔いの抜けない足取りで庵を出た。
昼下がりの海辺は凪(なぎ)を終えて、夕刻の陸風に変わろうとしていた。
庵の前から続く、土を踏み固めた道の脇で、細長い雑草が揺れて、青い草いきれを立ち上らせている。
草を踏み分けてマードックが行くと、かしゃかしゃと低い音を立てて後足の長い飛蝗(ばった)が跳んで逃げた。
昔から庵の脇にある厩(うまや)には、最近新しく飼いならしたばかりの若馬が、のんびりと飼い葉を食っており、ひくひくと耳を動かして、厩の奥の物音を聞いている。
「イルス」
横木をくぐってマードックが薄暗い厩に入ると、熊手を抱えたイルスがむすっとした顔で振り向いた。
「掃除か」
古い敷き藁(わら)を厩の隅に寄せる仕事をしながら、イルスはしばらく何も答えなかった。
居候(いそうろう)の少年が床の汚れ物を隅に片付けて、新しい藁(わら)を敷いてやるのを、若馬はぶるぶると鼻をならし、それとない横目で見守っている。それに倣(なら)って、マードックもただ黙って、イルスの仕事ぶりを見つめた。
そこらじゅうを片付け、馬の水を変えてやると、すっかり納得したのか、イルスは桶に汲んだ水に肘までつけて、丁寧に自分の手を洗い始めた。
「お師匠」
濡れた腕をふるって水気をとばしながら、イルスがぽつりと口をきいた。
「お世話になりました」
マードックはにまりと微笑んだ。
「晴れがましく行くがよい。ヘレンはそなたを、自慢の息子だと言うておったぞ」
イルスは頑固な性分を隠さず、むっと複雑そうに顔をくもらせて、厩(うまや)の奥に顔をそむけた。
いつも意地を張っているあたりが、母親に良く似ている。あの娘に。
結局最期まで、つらいとも苦しいとも言わなかった。
あたしは幸せだわ。幸せな一生だった。
お師匠さま、あたしの自慢の息子たちです。
さよなら。あたしは行きますけど、
あたしがどんなに幸せな女だったか、この子たちに伝えてください。
ヘンリック、あのひとは馬鹿だから、きっとそんなことも分からないのよ!
つらいと言って泣けばよかったのだろうが。
縋り付いて泣く子供を抱き寄せて、ヘレンは声をあげて笑った。
笑って、イルスはいい子ね。あんたは強い子よ、あたしの息子なんだから。
つらいときでも、笑うのよ、あんたは強い子なんだから。
見なれたものと変わらない、闊達(かったつ)な笑顔で幼いイルスをあやすヘレンの手は、血まみれだった。
「お師匠、俺はまだ死なねぇと思う。俺の死に場所は、べつにあるだろ」
まっすぐ顔をあげて、イルスが真面目にそう言った。厩の横木に背をもたれかせさせ、腕組みして、マードックは何も答えず、微笑しつつ首を傾けた。
「さよなら、マードック先生」
ヘレンと同じ、未来を見とおす明るい青の瞳で、真夏の日を受ける草むらを見つめたまま、イルスは不意に、にやっと笑った。
鮮やかな驚きとともに、マードックは少年の横顔を眺めた。
イルスはヘンリックにも似ているようだったし、ヘレンにも似ているようだった。
あの二人の血を受けた子供なのだ。
かつてここにいた者たちや、今ここにいる者、そしてこれからここを訪れる者たちのことを、マードックは心から愛しく思った。
「さらばだ、弟子よ。汝、死を恐れるなかれ(アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ)」
ヘンリックを送り出したときと同じ言葉で、マードックはイルスを送り出した。
胸の前で拳を合わせ、深深と頭を垂れる正式な礼をしてみせて、イルスは神妙に別れの挨拶を寄越してきた。
時を越えて、死んだ母親が息子を見たら、なんと言ったろうか。
お師匠さま、あの子があたしの、自慢の息子なんですよ。
ヘレンはおそらく、娘のころと変わらない陽気さで、得意げに微笑むにちがいない。
あらゆる絶望をはねのける、あの娘のことだから。
---- 完 ----
カルテット番外編「さよなら」 椎堂かおる @zero
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