第4話

 質素な茶の短衣(チュニック)を着て、男のようななりをしているが、長くのばした髪を束ねて華やかな染付けの布を頭に巻いているのが、年頃の若い娘らしい可憐さだ。台所仕事をしていたらしく、袖を肘まで巻き上げた腕に、水滴がいくつも残っている。

「お酒臭いわ」

 こちらを見るなり、娘はムッと顔をしかめ、咎める口調になった。

 淡い褐色の肌が健康そうで、明るい青の瞳は真夏の海のように鮮やかだ。薄暗い部屋の中にいても、その瞳だけは日の光のもとにあるように思える。とりたてて美しい顔立ちではなかったが、生き生きとした若い瑞々しさが、娘に人懐こい魅力を与えていた。

「お師匠さま、お酒はほどほどにって言ったのに」

 洗濯ものを詰め込んだ籠をどさりと足元に置いて、娘はつかつかとマードックのもとにやってきた。卓にある酒瓶を取り上げて、それが予想したよりも軽いことに気づいて、娘はさらに怖い顔をした。

「お師匠さまが一人で飲んだの?」

 厳しい口調の質問を、娘はマードックではなく、横にいたヘンリックに浴びせた。ヘンリックは驚いたのか、一瞬きょとんとしてから、肩をすくめて首を振ってみせた。

「飲ませちゃだめ。お師匠さまは、あんたと違って大事な体なんだから」

「なんだとこのアマ……」

 あきれているのか怒っているのか定かでない顔で、ヘンリックが凄んだ。しかし娘はけろりとした顔でいる。

「あたしが一人前の剣士になるまでは、病気になってもらっちゃ困るもの」

「お前が剣士になんかなれるかよ」

「なれるわ。お師匠さまは、あたしのことスジがいいって。ねえ?」

 くったくのない笑顔で、娘はマードックに詰め寄ってくる。

「ヘレン……」

 居心地が悪くなって、マードックは咳払いした。

「お師匠、こんなブスまで口説いてんのか、あきれるぜ」

 ヘンリックが憎まれ口をきくと、娘はじろりとそれを睨んだ。

「誰がブスよ」

「お前だよ、お前。その可愛げのねぇツラ、立つもんも立たねぇな」

「あら、良かった。あんたに変な気おこされるなんて考えただけでゾッとするわ。頭空っぽの尻軽にちやほやされてイイ気になってる馬鹿男なんて、まったく笑っちゃうわよ」

 腰に手をあてて胸を張り、ヘレンはさらりと言ってのけた。

 マードックはまた咳払いをした。

「ヘレン、そなたも口を慎んだほうがよいのではないか。年頃の娘らしく」

「まあ、お師匠さま、ごめんなさい。この男があんまり馬鹿なもんだから、つい本当のことを言ってあげちゃったの」

「んのやろ……犯っちまうぞ、ヘレン」

「立たないんじゃなかったの? まったく、語るに落ちたってこのことね。自分の言ったことも憶えてられないなんて、ほんと馬鹿」

 つんと済まして反撃して、ヘレンは呆然としているヘンリックの顔を見上げた。そして、なにか面白かったのか、きゅうに噴き出して笑った。

「やだ、怒ってる。あんたって気が短すぎよ、ヘンリック」

 くすくすと笑うヘレンを、ヘンリックはまだ呆然と見下ろしている。

「都へ行くんでしょう? 市(いち)でみんなが噂してたわ。ミレンなんか泣いてたわ。あんたあの子にも手を出してたのね。ミレンの兄さんが、あんたを殺すって言ってたわよ。気をつけてね」

「こんなクソ田舎の野郎に俺が殺られると思ってんのかよ」

 ヘンリックはいやにしゅんとして言った。

「まさか。あんた強いもの。お師匠さまの次にだけど」

 気さくにぽんぽんとヘンリックの胸を叩いて、ヘレンは笑い声を立てている。

「お土産買ってきなさいよね。忘れたら承知しないから」

「欲しけりゃ師匠に頼め、ブス」

 ヘレンの手をひょいとよけて、ヘンリックは足早に、部屋を出ていった。

「なぁによ、あれ。感じ悪い!!」

 口を尖らせて、ヘレンは無邪気に文句を言った。

 マードックは娘の横顔を見遣り、ヘンリックが消えた扉を見遣った。

「お師匠さま、都のお土産に、あたしにも剣を買ってきてください」

 気をとりなおしたようにマードックに向き直り、胸の前で手を握り合わせて、ヘレンはまじめにねだってきた。マードックは嘆息して、ヘレンから目をそむけた。

「ヘンリックはそなたに何も話しておらんのか?」

「話ってなにをです?」

「あ奴は戻って来んよ」

「ええ、市でもみんながそんなことを。士官の話でもあるんですか? あんなに頭が回らなくて子供っぽいのに、都でお勤めなんてできるのかしら、あやしいわぁ」

 自分の言葉に苦笑して、ヘンリックの心配をするヘレンは、年下のくせにヘンリックの姉か伯母のような口ぶりだ。

「奴は死ぬのだ、ヘレン。湾岸の貴族がヘンリックの命を金貨で買った」

 ヘレンは笑ったままで、マードックの肩をはたいた。

「お師匠さまったら、そんな冗談、ほんとうかと思っちゃうわ」

「ほんとうだ」

 苦い思いで、マードックは言った。

「うそ」

 ヘレンが鋭く否定する。

「嘘ではない」

「嘘です。だってヘンリックは都にいって出世するんだって……」

「あ奴がそう言ったのか?」

 やんわりと問いただすと、ヘレンはどこかに心をさ迷わせたままの顔つきで、何度か小さく頷いた。

「あ……あたし、ミレンに教えてあげなくちゃ……それから……他にも…………お師匠さま、あいつったら手当たりしだいなんです。お説教してやってください。でも死んでもいいほどのひどいことなんて、してないわ!」

 両手で口元を覆ったヘレンの眉間に、深い皺が刻まれている。

「ヘレン。あ奴には想う女はいるのか、知らぬか。せめても、別れを惜しませてやらねばならぬ」

 マードックに訊かれて、ヘレンはさらに思案するように顔をしかめた。ちろちろと視線を惑わせて考えをめぐらせているらしいヘレンは、なかなか答えを口にしなかった。

「わからないけど、港か村の誰かじゃないかしら。ヘンリックに惚れてる娘はいっぱいいるんですよ、お師匠さま。本人にきかなくちゃ、あたしには分かりません。お師匠さまじゃ訊きにくいでしょうから、あたしが訊いてきます」

「ヘレン……よしなさ……」

 マードックは慌てて止めた。しかし、ヘレンは矢のように飛び出していった。

 つい怯んだのと、酔いのためと、成り行きに期待をかけたのとで、マードックはすぐにはあとを追えなかった。

 ヘレンの足音が消えて、ほんのしばしの間、庵のなかに張り詰めた沈黙が降りた。マードックは息をつめて耳をすました。

 このまま静かに時が過ぎるようであれば、しばらく留守にしてやるかと考えはじめた頃、なにかが盛大に転がり落ちる音とともに、けたたましい怒声の応酬が始まった。

「どうして好きな女の一人もいないのよ、この甲斐性ナシ!!」

「うるせえ、出てけ、このクソアマが! 勝手に俺の部屋に入ってくるんじゃねえ!!」

「いやよ、あんたが答えるまで、ここにいてやるわ!!」

 港まで筒抜けなのではないかというほどの大声で叫びあうのが止むと、大またに歩いてくる足音がやってきて、居間の扉を蹴り開けた。

 入ってきたヘンリックを、マードックはため息がちに気まずく見つめた。

「ジジイ、余計な気を回しやがって」

 ヘンリックの右手には、抜き身の長剣が握られていた。マードックは一瞬、ひやりと冷たいものが背筋をかけおりるのを感じた。

「わしを殺してもヘレンはお前の女(ウエラ)にはならんぞ」

 マードックが小声で忠告すると、ヘンリックは大きく息を吸い、食卓を蹴倒した。上にあった酒瓶や酒盃が、派手な音を立てて床に叩きつけられ、粉々になった。

「どういう意味だ」

 マードックの座る椅子に脚をかけて、ヘンリックが詰め寄ってくる。襟首を掴んでくる弟子と、マードックは間近に睨み合った。

 ヘンリックの暗い色の目には、戦意が燃えていた。

 わけのわからない、この弟子の対抗心の意味を悟ってしまうと、マードックには、これまで疎ましく思いさえしたものが、果てもなく哀れに思えた。

「ヘレンはほかの娘たちとは違うのだ。腕っぷしの強さを見せれば靡(なび)くと考えるなどと、浅はかだぞ、ヘンリック。そなた、目の前にいる娘が自分を見ないのが気に食わぬだけではないのか」

 かまをかけるつもりで、マードックは弟子の気持ちが浮ついたものであると決め付けるふうなことを言ってみた。

 ヘンリックは顔色を変えなかった。

 かすかに目蓋が震えただけだ。

 がつんと重たい音を立てて、ヘンリックが長剣を床に突き立てた。

「お師匠さま、ご無事ですか!?」

 裏返ったヘレンの大声に驚かされて、ヘンリックの肩がびくりと揺れた。

 首をめぐらして見遣ると、戸口に熊手を構えたヘレンが立っていた。長柄のついた鋭い鉄鉤が4本。厩(うまや)まで取りに行って戻ってきたらしく、ヘレンの短衣(チュニック)の尻のあたりには、馬草(まぐさ)が一本くっついていた。

 マードックはとっさに呆れてしまったが、ヘレンの顔つきは至って真面目だ。

「ヘンリック、お師匠さまに手をかけたら、あたしが承知しないから。あんただって後悔するわよ。こんなときなんだから、大人しく白状して、お師匠さまのお慈悲にすがったらどうなの。照れ隠しに暴れるなんて、子供じゃあるまいし。だいたい、あんたみたいな女ったらしが、いまさらなにを照れるっていうのよ」

 強気な声で責め立ててから、ヘレンはふん、と興奮した息をついた。

「さあ、言いなさいよ。言いなさいったら!」

 熊手を構えて脅す割に、ヘレンが必死になっているのは親切心からのことだろう。マードックは、この鈍い娘の心優しさが好きだった。若い娘が一人いるというだけで、戦い荒んだこの庵にも、素朴な華やぎが感じられて、心が休まる。

 そう思っていたのは、なにも自分だけではないということだろう。

 改めて考えれば当然のことかもしれぬが、この捻(ひね)くれた弟子に限っては、そんなことはありえないと思いこんでいた。

「ヘレン、ヘンリックはそなたに惚れておるのだ」

「お師匠さま、そういう冗談は今度にしてください!」

 噛みつくようにヘレンがマードックを遮った。

「冗談なのか、ヘンリック」

 マードックは当の本人に話を押し付けた。

 ヘンリックは押し黙って何も言わないままだ。口篭もるというよりは、おそらく本人にも良く分からないのだろう。

 この弟子が困惑する顔を初めて見た。

 ヘンリックはマードックの喉元から手を放し、かすかな狼狽を押し隠した様子で、ヘレンに向き直った。

 いきがって胸を張ってはいるが、細身の背中はまるで、初めてアルマの声をきいてうろたえた子供のようだ。

 案外ほんとうに初めてなのかもしれぬ。

 背をむけているヘンリックが、どんな顔でヘレンと向き合っているのか、マードックには見当もつかなかった。

「うそよね、ヘンリック」

 珍しく深刻な声で、ヘレンが強く問いただした。

 ヘンリックは、うんともすんとも、答えようとしない。

「……あたしが好きだっていうの?」

 速まった呼吸で胸を上下させながら、ヘレンは卒倒しそうな顔をしている。

「うそよ、うそ……うそ……」

 混乱しきった顔で、ヘレンはおどおどと独り言を言った。

「ひどいわ」

 ヘレンの手を離れた熊手が、がらん、と床に転がった。

 家事で荒れた手で顔を覆って、ヘレンがうつむいた。

「お師匠さま、あたしヘンリックには話してません」

 打ちひしがれた涙声で、ヘレンがか細くうったえてくる。

 ヘレンには秘密があるのだ。

 ため息をつくマードックが、その秘密を共有しているのを悟ってか、ヘンリックがちらりと横目でこちらを睨んだ。

「お師匠……」

「ヘレンはな……」

「言わないで!」

 折り重なった声を引き裂くように、ヘレンが悲鳴をあげた。

 ヘンリックが向き直って、ぴくりと背中を強張らせた。

 マードックは目を細めて、弟子の肩ごしにヘレンを見つめた。

「あああ、あたし、自分で言えます、お師匠さま」

 髪を覆って頭に巻いていた飾り布を、ヘレンは乱暴にひき下ろして、額にある秘密を男たちに見せた。

「ヘンリック、あたし竜の涙なの」

 いつも陽気に微笑んでいるヘレンの額で、薄青い涙が小さく煌いている。

 じりっと半歩引き下がりかるヘンリックの背中を、マードックは拳で押し留めた。どしんと指の骨につきあたった背筋が、硬く引きつっている。

 竜の涙の主を忌み嫌う迷信に、部族の者たちと同じく、この弟子も取りつかれているのだ。疫病のように恐れられているこの石を、生まれつき備えた者は産屋の中で叩き殺され、成長とともに顕わした者も、見つかれば同じような運命をたどることになる。

 ヘレンがここにいるのは、未来を見る力のあるマードックを頼って、ここへ逃げ込んだからだ。ヘレンも同じように、未来を見る力を石から与えられている。

 それを匿う者にも、恐れや嫌悪が差し向けられるが、マードックは魔法の力を修めた都からの流れ者として、特殊な立場に置かれていた。この庵はヘレンにとって、都合の良い隠れ家なのだ。

「この石を見たら、立つもんも立ちゃしないわ、そうでしょ。それでいいのよ、別に。あたしはそんなこと誰にも期待してないもの。あんたなんか願い下げなのよ!!」

 地団駄を踏む子供のように泣き喚いて、ヘレンは庵を出る扉にむかって、逃げだすように駆けていった。

 ぽかんと立ち尽くしているヘンリックの背を、マードックは軽く蹴飛ばした。

「追わぬのか、うすのろな弟子め」

「お師匠」

 振りかえったヘンリックの顔は明らかに動揺していた。

「明日にも死のうというやつに、怖いものなどあるものか。せめて別れを告げて来い」

「ヘレンは俺のこと……」

 見知った弟子とは別人かと疑うような頼りない声色で、ヘンリックが尋ねてきた。

「あの娘は誰にも惚れんよ。心を鎧(よろ)っておるのだからな。遊び半分なら引き下がれ。そなたにもヘレンにも深すぎる痛手であろう」

 忠告すると、ヘンリックはしばし俯(うつむいて)いて、考え込んでいた。

 そして不意に、床に突き立てた長剣の柄に手をやり、何度かこつこつと迷うように柄を爪で叩いた。

 ヘンリックが長剣をひき抜くまで、マードックは弟子の手元を眺めていた。

 抜き身の剣を引きずりながら、ヘンリックは何かこの世とは別の声に操られている者のような頼りない足取りで、ふらふらと庵を出ていった。

 歩みは弱々しくとも、行き先には迷いがない。どこへ行けばヘレンがいるのか、ヘンリックは知っているようだった。

 扉がこそりと閉じられる音を聞きながら、マードックは散らかりきった居間を見渡した。

 食卓は倒れ、食器や酒盃が粉々になって床に散らばっている。惨憺(さんたん)たる有様だ。ヘレンが毎日きちんと片付けても、晩には滅茶苦茶に散らかっていることは珍しくない。

 気さくな娘の甲斐甲斐しさに甘えて、マードックもヘンリックも、食器のあげさげにすら頓着しなくなっているせいだ。

 マードックのため息に応えるように、庭先にある厩から、ものすごい喚き声が聞こえてきた。遠巻きで、何を言っているのかは聞き分けられないが、耳慣れた男女の声が、身も蓋もなく罵り合うような声だ。

 何度か厩(うまや)の壁と柱が拉(ひし)ぐような、けたたましい騒音も聞こえてきた。

 元気なことだ。弟子も今夜はよく眠るだろう。

 マードックは億劫に思いながらも立ちあがり、横倒しになっている食卓を起こしにかかった。

 馬が騒ぎに気を高ぶらせ、怒っているとも怯えているともつかない、迷惑そうな嘶(いなな)きを立て続けに上げている。

 だが、マードックが床に飛び散った食器の欠片の、目だった破片を拾い集め終わるころには、馬も諦めたように大人しくなり、争う声も、すっかり絶え果てたようだった。

 今夜は潮騒に耳を澄まさぬことにしよう。

 欠伸をして、マードックは細かな破片でざらつく床を靴底で擦りながら、庵の奥まった場所にある、自分の寝室に引っ込んだ。

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