第3話
お師匠。
回想の中の声が、よく似た拗ね方をしていた。
自慢げに生意気な口をきく、愚かな若者で、他人の女を寝取るのと、明日があるのを疑わない者の命をとるのが、なにより好きなごろつきだった。
金と力のある者の手元を渡り歩いてきたらしく、口先だけの追従でなだめれば、人を騙せると思いこんでいるようなところがあった。
マードックが初めてヘンリックと合間見えた時、十六かそこらの年頃だったはずだが、その歳よりもずっと若いように見えた。腕は立ったが、ただそれだけで、幼子の殻を脱ぎ捨てる間もなく、いびつに育ったようなところがある。
ヘンリックを育てていると、とんでもなく深い穴に、ひたすら水を汲み入れ続けるような気分がしたものだ。
必死で水を汲んでも、ヘンリックは怪物のように全てを飲み干した。
真夏の砂地のように、貪欲な渇きを示して、マードックの持っている技の何もかもを、飲み下し、貪り食い、最後のひとかけらまで食らい尽くして、出ていった。
ヘンリックは、マードックのことを憎んでいたようだった。
のどの渇きを覚えて、マードックはごくりと唾液を飲んだ。
じわりと表の暑さが感じられる。額にうっすらと汗がにじむ。
酔いのために腫れぼったく感じられる目蓋を閉じると、潮騒の音がいやに耳につく。
お師匠……マードック。
あんたは俺を仕上げたつもりかもしれないが……
空耳のように、回想の中からの若い声が蘇ってくる。
薄目を開いて、マードックは卓越しにある向かいの席を見遣った。
ヘンリックはいつもそこに座っていた。
今にして思うと、異常なほどの無口で、めったに口を開かなかったが、たまに話し出すと、別人のような饒舌で、気味が悪くなる。庵で最後の食事をとったあと、発作のような饒舌が、とつぜん始まった。
俺はまだ食い足りない。
「あんたは肝心なことは何も、俺に教えなかった」
空になった酒盃を手の中で弄びながら、ヘンリックは薄笑いを浮かべていた。
湾岸の大貴族、バドネイル卿の後援を受けて、バルハイの都で族長に挑戦(ヴィーララー)する手はずになっている。長年の安穏に酔いしれた宮廷の連中にとっては、古式に則った族長交代の儀式は寝耳に水だろう。
バドネイル卿は、古めかしい伝統の復活に酔いしれ、族長位を覆す野心に酔いしれ、ヘンリックの剣技に酔いしれていた。
ヘンリックの鋭く暗い青い瞳と、痩せた頬と薄い唇、ほりの深い目鼻立ちは、部族の特徴を典型的に顕わしている。
隣大陸(ル・ヴァ)の種族との混血が進んで、古来からの血筋が取り紛れはじめた世相にあっては、屈強ななかにもエルフらしい細身の印象を持ったヘンリックは、見目も悪からず、伝統の復活のために投じる一石として、バドネイルの陶酔的な理想に近かったのだろう。
積極的に隣大陸(ル・ヴァ)との交流を進める上流階級ほど、海エルフ特有の容姿から遠ざかっている者が多い。狂信的に純血を求めるバドネイル自身も、どことなくまろやかで温和な容姿をしており、異民族との混血の徴(しるし)を示している。
異民族との混血は、代々の族長たちによって推し進められてきた政策の一環で、狂乱の血と、繁殖能力が年毎に揺らぐ不安定な体質を解決するための試みだった。そのお陰で、上流の者たちは誰でも長命で、精神的にも安定した者が多い。
狂乱の戦士の心は失いつつあるかもしれぬが、それが悪いことだとは、マードックには思えなかった。
腕の立つ者を崇拝の目で見る体質は、部族の血筋として残るだろうが、一人の剣士が他よりいくらか強いことが、国家の利益に関わるわけではない。狂乱の血などなくとも、部族の敵たちは充分に好戦的に戦っている。古い血を呼び起こしても、巷の秩序が乱れるだけだ。
「マードック。あんたを殺りてぇ……」
薄笑いして言う、古い血を持った若者に、マードックは油断のない眼差しを向けた。アルマの狂乱に憑かれたヘンリックは、獲物をつけねらう獣の目つきをしている。
「それは、そなたの血のせいだ。己を抑えられなくて、どうする」
「好敵手(ウランバ)の血を欲しがって、どこがおかしいんだ」
楽しげに、浮かれた笑い声を喉に響かせ、ヘンリックが立ちあがった。
腕組みをしたまま、ちらりと眼差しだけを動かして、マードックはヘンリックが帯剣していないのを確かめた。
「餓鬼の遊びみてぇな戦いの真似事で、いつまで誤魔化してるつもりだ。俺はもうじき死ぬんだぜ。族長に勝っても負けても、命はないって、そういう約束なんだろ、湾岸のクソどもと」
裸足で歩く、かすかな足音がする。
気だるげに脇に立って、ヘンリックは卓の端にあった酒壷をとり、腰掛けているマードックの顔を覗きこんだまま、とろとろと濃厚な酒を杯に注ぎたした。
夏場の蒸れた空気に、燃え立つような火酒の匂いがこもり、甘く香るアルマの臭気に紛れ込んでいく。
「お師匠、けりをつけずに、逝ってもいいのかよ?」
「そなたの好敵手(ウランバ)になった覚えはないが」
あっさりと返すと、ヘンリックはしばし、意味を理解できていないように笑みを崩さず、じっとしている。
やがて、鍛錬とアルマで肉のそげた顔に、ふと気がそれたような無表情がおりた。
「へぇ。そうかよ。またひとつ、賢くなったぜ」
ふざけたように言う声が、不吉な拗ね方をしていた。
ヘンリックが臍を曲げるときの、お定まりの兆候だ。
「あんたさぁ……幾らで俺を売ったんだ」
「知ってどうする」
「俺は、立って歩きはじめた時から、銅貨3枚で剣闘試合をやってた。餓鬼のころから、自分の値段は知ってんだ。だから、教えてくれよ……俺の命の値段てやつを」
卓に腰を預けて、ヘンリックは酒盃に手をのばしたマードックに、身を乗り出し、甘えたような声で話しかけてくる。
「お師匠、幾ら貰ったんだよ?」
マードックはため息をついた。
「年毎に金貨で百枚ずつだ。諸々の祝儀を含めて、そうだな。五百枚も受け取ったかな」
「ふぅん……俺もずいぶん高くなったもんだ」
納得した様子で、ヘンリックが体を起こす。
「バドネイルは気前がいい。金離れも抜群で、うまいもの食わせるし、野郎の娘だってタダで抱けるんだぜ。至れり尽せりじゃねえか」
ぎょっとして、マードックはヘンリックの顔を見上げた。
「バドネイルの娘?」
思わず声を荒げると、ヘンリックがにやっと笑った。
「そう……貴族女にしちゃ、いいほうだったぜ。生娘だったしな」
「どういうことだ」
「どうって……知らねぇよ、晩生(おくて)なんだろ」
「そんなことは聞いておらん」
怒鳴りつけると、ヘンリックは子供のようにきょとんとした。
「お前が言っているのは、セレスタ・バドネイルのことか」
「そうさ」
あっさりと答えて、ヘンリックは退屈したように自分の爪を見ている。
バドネイル卿の邸宅で、おとなしく後ろに控えていた娘の顔を思い出して、マードックは胸がむかつくような落ちつかない気分になった。
大貴族の娘にしては大人しい箱入りで、バドネイルの溺愛を受けている。夜会ではいつも、人形のように飾り立てられて、うっすらと微笑を浮かべて座っているだけの娘だ。
「婚約者がいるはずだぞ。バドネイルが族長位に押し上げるつもりにしているはずだ。話が知れて、族長への挑戦(ヴィーララー)の前に決闘沙汰にでもなってみろ、計画がぜんぶ水の泡に……」
「その野郎なら、もう殺っちまったよ、お師匠」
けろりと得意げに、ヘンリックが言った。
「女連れでイキがってやがって、ムカついたんだよ。他のときなら我慢したけど、お師匠、しょうがねえだろ……アルマせいさ。血が見たくって、たまんねぇんだよ」
うっとりと笑うヘンリックの顔は、得体の知れない高揚にとりつかれている。
マードックは呆然とそれを見た。
「野郎を殺ったんだから、バドネイルの娘は俺の女(ウエラ)だ。そうだろ?」
マードックは、自分にとっても、否定とも肯定ともつかない唸り声で答えた。
確かに、部族には古来からそういった風習があった。
風習というよりは、体質といったほうがいい。
アルマがやってきて、男たちが諍(いさか)いはじめると、年頃の娘たちは誰も彼も、腕の立つ男の女(ウエラ)になろうと戦いの勝者に群がる。アルマ期の戦闘はもともと、女を奪い合う争いにすぎなかったのだろう。
バドネイル卿が陶酔的な美学として考えるような、強さを求める戦いの本能ではない。ヘンリックも大方、可憐な貴族の娘に気でもあったのだろう。それで相手の婚約者に嫉妬したのだ。
本来なら、湾岸貴族の娘に手が届くわけがない。
ヘンリックがやったのは、想いを遂げるための唯一の方法だ。
ただ単にアルマに狂っているのか、計算高いのか、よくわからない。この弟子にはいつも、考えの筋道を手繰りきれない得体の知れないところがある。
「……バドネイルは、知っているのか」
喉の震えを感じて、マードックは再び酒器に手をのばした。
「知ってるも知らねぇも……おっさんの夜会でやっちまったんだから。俺が気に食わなきゃ、ここに戻る前に、もう始末してるさ」
「なぜ、すぐ言わなかった!」
乱暴に酒盃を卓に戻すと、溢れて飛び出した火酒がヘンリックの手を濡らした。
にやり、と得意げに笑って、ヘンリックはのんびりと、手についた酒を舐めとっている。
「言うほどのことと、思わなかったからさ」
本心から言っているのではない。ふざけているのだ。
今この時になって白状するために、毎日、機会を待って押し黙っていたのだ。
マードックはくらりと眩暈が襲ってくるのを感じた。
「バドネイルは、なんと?」
空になった酒盃に、ヘンリックがまた酒を注いだ。
「お師匠、やつらをタラすのは、簡単さ。古き血の復活ってやつに酔って、とことんイカレてやがる」
ごとりと酒瓶を卓に戻し、ヘンリックは目を細めてマードックの顔を覗きこんでくる。人並みより目が悪いせいか、ヘンリックはやたらと顔を近づけてくる癖がある。確かめたことはないが、それでも実際にはほとんど、まともに見えていないのではないか。
それに最初に気づいたのはマードックではなかった。
庵で預かっている、あの娘。ヘレンだ。
「気取りきった貴族のオカマ野郎をさんざん弄(なぶ)ってやったら、お綺麗な夜会の広間が血まみれでさぁ。くたばるまで逃げ回って、そこらじゅう這い回ったんだぜ、あの野郎。いい年した親父どもが、俺の剣に惚れて、毛も生えねぇような娘っ子みたいに、うっとりきてたさ。バドネイルの娘もさ。ビビって震えてたけど、初めてにしちゃあ、食いつきが良くて……」
「もう良い、黙らんか」
マードックが鋭く制すると、ヘンリックは言葉を吸い取られたようにふっつりと黙り込み、そしてゆっくりと、満足げな笑いに顔をゆがめた。
「なぜだ、ヘンリック……」
「さあ。なんでかね。俺にも時々、自分のことが、さっぱりわからねぇのよ」
「そなたは、そのような、馬鹿ではあるまい」
マードックは本心から言った。
じっと横目にこちらを見下ろして、ヘンリックはマードックの酒盃をとり、ゆっくりと喉を鳴らして、火酒を一気に飲み干していった。
ふうっと深い息とともに、濃厚な酒精を吐いて、ヘンリックは空になった酒盃の底を見つめている。
「お師匠」
伏し目がちに言う、ヘンリックの目もとに隈が浮いている。
ここ何日も、ヘンリックは眠っていないようだった。
アルマがやってくると、精神の高揚がおさまらず、何日も眠気が訪れなくなる。身体は疲れを知らないわけではない。無理にでも眠るように言い渡してあったが、酔いもしない体質が、この弟子を何日も休ませないでいるのだろう。
「死ぬのってどんな感じだ、痛いだけか」
「怖いのか」
マードックは乾いた声で訊ねた。
「お師匠、あんたに勝てないことだけが心残りだ」
みょうなことを言うな、とマードックは不思議に思った。
ヘンリックの技はすでに完成されており、マードックを破ることも何度と無くあった。若い力にあふれている分、ヘンリックのほうが有利だといってもいいほどだ。
突然、扉が開く音がして、マードックの思考はかき乱された。
扉のほうを見遣ると、籠に入れた荷物を抱えた娘が、背中で扉を押し開き、部屋に入ろうとしているところだった。
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