第2話

 もう何年も昔のことになった。

 海都から連れてこられた子供の名は、イルスといった。

 同じように、引きつれた独特の文字で綴られた、そっけない手紙がやってきたと思えば、それと先を争って旅路を急いできたかのような矢継ぎ早で、子供を乗せた馬車が庵に辿りついた。

 手紙には印璽どころか、それを書いた者の名も記されてはいなかった。


 お師匠、しばらくの間、イルスを頼む。


 たったそれだけ書きつけた文字が、惨めに震えているのを見て取ると、マードックはもう、何も訊ねる気にならなかった。

 見下ろすと、子供も震えていた。自分の身に何が起きているのか、分かるはずもないようなあどけない顔をしていたが、マードックには、子供が自分の境遇を悟っているように思えた。

 ヘンリックは、血を分けた息子を投げ捨てたのだ。





 いくら気をつかってやってもイルスは庵になじまず、夜中にふらりといなくなっては、マードックの肝を冷やした。子供はたいてい、打ち上げられたもののように浜辺で丸くなって眠っていて、連れ帰りに行ってやると、おとなしくついてきた。

 帰るところがないと知ってはいるが、どこかへ行きたかったのだろう。

 あるいは、誰かが自分を連れ戻しに来ることに味をしめていたのか。

 その両方かもしれない。

 都を去るのは、つらいものだ。何があるわけでもない、ただ漠然とした人の賑わいや、慕わしい人々の声が、懐かしく思い出されていたたまれないことはある。

 喧騒が懐かしいわけではなかろう。

 そこで味わった幸福な日々を思ってのことだ。

 マードックには、その気持ちがよくわかった。

 のんびりと追いたてながら庵に帰るとちゅう、子供が涙をこらえるために何度も星空を見上げるので、教えてやった。

 あの星は竜の目(アズガン・ルー)というのだ。

 子供はその星の名前をおぼえ、いつのまにか泣かなくなった。今ではすっかり、この庵に居ついて、マードックの弟子のように振る舞っている。

 そしてまた、紙切れ一枚で別のところへ遣られようとしている。

 手元にある手紙を見つめて、マードックはぼんやりとした。

 手紙の文字は、もう震えてはいなかった。







 勢い良く扉が開かれ、野菜を抱えた少年の後姿が押し入ってきた。

「お師匠、市で同盟の話を聞いてきた」

 こちらを見もせずに、興奮した大声で言い、少年はずかずかと奥の台所に荷物を置きにいこうとしている。マードックはそれを、ちらりと見遣った。

 表はまだ暑いのだろう。袖のない簡素なシャツには飾り気もなく、伸び始めた栗色の髪を無造作に束ね、大荷物を抱えている姿は、とても王族の者とは思えないなりだ。

「北の戦線では、もう戦はしてないらしい。北から戻ってきた商人たちが噂してた。森エルフが軍を退いていったってさ」

 台所の奥から、大声で話しかけてくるのが聞こえる。ばたばたと物を動かす音がする。それが止むと、軽快な足音がこちらに戻り始めた。

「お師匠、どうして黙ってる」

 居間に戻ってきた少年は、難しい表情をして、マードックの斜向かいの席に腰掛けた。話はじめようとして、イルスがむっとしたように匂いを嗅いでいる。

「酒臭ぇ」

 顔をしかめて、イルスが唸る。

 マードックは深い息をつき、にやりと人の悪い笑みを作った。

「そなたは鼻が利くのう」

「誰だってわかる。昼間からいい身分ですね、お師匠」

「里の者たちは、同盟のことをどう言っていたのだ?」

 はぐらかして、マードックは尋ねた。

「戦ったほうがいいって言ってる。同盟なんて、くだらねえって」

「その他には?」

「族長が決めたことだから、従うと言ってる連中も」

 複雑そうな顔をして、イルスは付け加えた。マードックは思わず、本心からにやりとした。

「そなたはどうだ」

「俺は知らねえ。戦があろうが、なかろうが、ここでは関係ない」

 弟子はふて腐れているようだった。

「気に食わぬようだのう。では朗報といえるかもしれぬぞ」

 都から送られてきた書状をひらひらと振って見せて、マードックはイルスに笑いかけた。

 印璽を認めて、取り澄ましたままのイルスの顔色が変わった。

「同盟には人質が必要だそうでな。ヘンリックはそなたを選んだようだ」

 どんな顔をして説明してやればいいのか、考えあぐねていたのだが、意外なことになったものだ。

「……人質って」

 イルスは強張った無表情で話を聞いている。

「海都へ行け。ヘンリックがお前と話すそうだ。船はもうこちらに向かっている」

「お師匠、俺の修行は?」

「道を極めぬまま行くことになるのう。残念なことだ」

 しみじみと言うと、イルスがかすかに眉を寄せた。

「それとも断ってここに残るか。どうする、弟子よ。ヘンリックの息子など止めにする手もあるぞ」

 イルスが、がたんと椅子を鳴らして立ちあがった。マードックが示した書面を見つめたままだ。大きな呼吸で、育ちきらない肩が揺れているのを、マードックは哀れみを隠した目で見守った。

「これ、親父殿の字か?」

「そのようだのう」

「わりと汚い字だ」

「そなたの父親だからの」

 淡々と答えるマードックの顔に、イルスが目を向けてきた。

 顔をしかめるイルスの鼻に、うっすらと細かい皺が寄っている。滅多に機嫌を悪くしない弟子だが、たまに拗ねると、きまってこういう顔をする。そして大抵、どこかへふらっと出ていって、半日ほどは戻らない。

「行ってやる、どこへでも」

 気負った声でイルスは宣言した。

「師匠、それ飲んでいいか」

 マードックの手元にあった火酒の杯を指差して、イルスが有無を言わせぬ口調になる。

 杯を押しやってやると、イルスはそれを引っつかんで、きつい火酒を一気にのみほした。熱いため息をつきはしたが、まともな顔をしている。いい飲みっぷりだとマードックは関心した。

 これもヘンリックの血であろう。イルスの母親のヘレンは、まるで飲めない娘だったからだ。それに引きかえ、ヘンリックは馬鹿のように飲んだ。酔うことを知らない体に生まれついたらしく、酒樽を相手にしても飲み負かすにちがいないと思えたほどだ。

 どん、と杯を食卓に返して、イルスは口元を拭った。

「お師匠、俺が出てったら、ウルスラを身請けしてやったらどうですか」

 意外な話題に心底驚き、マードックは唖然とした。

 ウルスラというのは、馴染みの娼婦の名だった。子種のない「石の女」で、女盛りを過ぎようとする今になっては、娼館を出て行く希望も持っていないような、無欲な娼婦だ。

「なにを妙なことを」

「ウルスラに飯を作ってもらってください。それがいいよ」

「そなたが首をつっこむようなことではない」

「お師匠ひとりになったら、この庵はきっと、あっという間に豚小屋並になる」

 否定しきれない話だ。

 しかし、同盟の人質にされようかという正念場で、そんなくだらないことに拘るイルスが、マードックには情けなく思えた。自棄(やけ)になって父親に意地を張ってみせるのは見上げたものだが、愚かだ。

「それがそなたに何の害があるのだ。修行も半ばで出て行くのだろう。戻ることもない場所のことなど考えるな!」

 マードックはふと気づくと声を荒げていた。

 イルスがむっとしたように大きな息を吸っている。

「ウルスラがお師匠に酒を飲ませるなと言ってた。ちゃんと飯を食わせてやってくれって。俺はあの人と約束したんです。でもこうなっちゃどうにもならないから、本人になんとかしてもらってください」

「そなたいつの間にウルスラと話したのだ」

 きゅうに疲れがきて、マードックはうつむき額をこすった。

「お師匠か大鼾(いびき)で眠りこけてる間にだ」

「なかなかやるのう……」

 なにやら胃が痛くなるような話だ。いつのことを言っているのか確かめたいような気もしたが、あいにくそんな場合ではない。

「イルス……人質のことは、断ってもよいのだぞ」

 無理に気をそらせて、マードックは話をもとの道筋に戻そうとした。

「俺が行かないかったら、誰が行くんだ」

「ヘンリックが勝手に代わりを決めるのではないか」

「たとえば兄上とか」

「そなたは馬鹿のくせに余計なことを考えすぎだ……」

「俺が行きます」

 どん、と食卓を叩いて、イルスがマードックの言葉を遮った。

 深いため息をついて、マードックは弟子の顔を見上げた。

 いや……そうだった。

 マードックは内心の憂鬱と戦いながら、思い改めた。

 弟子ではない。ただの客分なのだ。出て行くというのを引き止めることなど、実際にはできない。

 ヘンリックは、しばらくの間頼むと言伝てしてきただけだ。その「しばらく」が終わったというだけのことだろう。

 マードックは可笑しいような気になって、短い笑い声をたてた。

 ずいぶんと長い「しばらく」があったものだ。

 歩くのも覚束なかったような幼子が、師匠の女のことにまで口を出してくるほど育ってしまったではないか。

 そこらの浜辺で泣いているのであれば、ぶらりと酔いざましの散歩がわりに連れ戻しにも行ってやれるが、今度のはそれとは比べ物にならないほど遠いのだぞ。

 マードックは誰にともなく恨みに思った。

 いずれ放り出すつもりだったが、なぜわざわざ死の穴へ叩き落すような真似を。父親に劣らない剣士に仕上げて、自分の身を守れるようになったら、都へ帰してやろうと思っていた。

 晴れがましく帰れるはずだったのだ。

 いたたまれず、酒をあおりたい気になったが、手にとって見れば杯は空だった。

 そういえばイルスが飲んでしまったのだ。

「飲みすぎです、お師匠。もうジジイなんだから、無茶しないほうがいい」

 すかさずイルスが嫌味を言った。

「まったく……そなたは忌々しい弟子だのう!」

 マードックは心底からため息をついた。

「そんなもんでも、いるだけマシだろ」

 曇った声で言い、イルスが押し黙った。

 マードックはうつむきがちな子供の顔を見上げて、呆然とした。

 すねた心を隠して人にからむのに、懐かしい気配がする。

 この子に何を教えてやれただろう?

 馬鹿馬鹿しい、辛いばかりの剣の修行などに明け暮れさせて。いっそ、そこらの知恵の回らない坊主どもと同じように、好き放題遊ばせてやれば良かったのだ。

 マードックがなにも答えられないでいると、イルスがふらりと部屋を出ていった。扉の閉じる音が聞こえたきり、庵にうつろな静けさが舞い戻ってきた。

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