ノアとはこぶね。~終わる世界の前夜譚~

海野しぃる

終わる世界の前夜譚

 その日は久し振りに灰一つ無い綺麗な空だった。

 だからだろうか。ノアは今日が良い日になるように、と食事前のお祈りを捧げてしまった。

 そんなことをするような男でもないのに。

 だけど、そんな日の昼下がりのことだ。

 ノアの家の玄関に、天使の来訪を告げるノックの音が鳴り響いたのは。


「もう誰も居ない筈なのにな」


 ノアは首を傾げた。

 彼はこの数日、いいや数ヶ月の間人と会っていない。たった一人で自らの家に篭っていたからだ。

 彼の家に訪れる人など居る筈が無い。

 彼はこの星に残された最後の人間だったから。


「誰も……いや、まさか?」


 なのに、扉の向こうで誰かがドアを叩いている。

 ノアは気づく。

 この星に残された最後の人間はもう一人居た筈だ、と。


「エノク……?」


 青年は恐る恐る扉に近づく。本当ならばこの家まで人が来る筈が無い。

 だがそれでも、それでも来る者が有ると言うならばそれはもう一人の人間に他ならない。

 ノアは祈るような気持ちで問いかける。


「エノクかい……?」


 返事は無い。

 だからほんの僅かな希望と共に覚束ない足取りでドアへと近づく。


「エノクじゃ……ないよね」


 彼が震えるその手を伸ばす前に、ドアは向こうから開いた。


「……」


 ドアの向こうには天使のような少女が居た。

 いいや天使だ。

 まっすぐに伸びる白い髪、透き通った青い瞳。

 みすぼらしい古いケープと汚れてしまった水色のリボンさえも、逆に彼女の清らかさと聖性を示す証に思えた。

 だけど、それは彼の友ではなかった。


「……私は、イヴ。いきなり訪れて不躾なお願いですが聞いていただけないでしょうか」


 天使の迎えなんて要らない。ただ一人の友さえ居れば、死のうと生きようと幸せだったのに。

 それがこの星で最後の人間となったノアの偽らざる気持ちだった。


「なに?」

「ご飯は要りません。だからどうかここにいさせてもらえませんか?」

「……分かったよ。どうぞ。お嬢さん」


 そう、どうでも良い存在だった。

 だから、放り出そうとさえ思わなかった。

 その筈だった。


「……こんな、終わる世界で会えたのも何かの縁だ」


 何気なく言ったつもりの言葉だった。

 だがその言葉で気づく。

 確かにこの出会いは何かの縁なのかもしれない。

 エノクともう一度出会う為の切っ掛けとなるヨスガなのかも……。


「どうか、ゆっくりしていってほしい」 


 居るかどうかも怪しい神に感謝をした。

 ノアは自分なんかに感謝されても神は喜ばないだろうと自嘲しつつ彼女をエノクの部屋に通した。

 友ともう一度出会う為に来てくれた――大切なゲストを。


          *


 何日が経っただろうか。

 ノアはイヴに優しかった。

 彼は自らの数少ない服を仕立て直して、綺麗な洋服を作ってくれた。

 まるで何処にでも居る女の子のようだとイヴは笑った。

 だが嬉しかった。

 この世界で最後に出会う人間が彼のような優しい人で。


「神様……ありがとうございます」


 神に感謝の祈りを捧げた後、イヴはエノクの寝間着から洋服に着替えてリビングへと向かった。

 

「やあおはよう」

「おはようございます」


 今朝もノアはステーキを美味しそうに食べていた。

 日付の変わらない新聞がお供だ。


「この新聞も燃やさなくてはいけないかもしれないね」


 イヴが興味深そうに見つめているとノアはそう呟いた。


「燃やす?」

「暖をとらなくてはいけないだろう? 燃料に使える木も家の外には無いしさ……」

「材木なら屋外に有るような気がしますけど……」

「家の外に降り積もっているあの灰がどうにかなればね……あんなものがついた木を燃やしたら……」

「どうなるのですか?」

「死ぬに決まっているだろう? 君は何を言っているんだ」

「……?」


 ノアはこの世界に対する諦観の入り混じった乾いた笑みを浮かべる。


「この世界は数十年前から穏やかに衰退していって、もう死に絶える直前なんだ」

「…………」

「遊ぶ子供だって周りの集落には居なかった。だけど、ある日、子供のエノクが村にやってきたんだ」

「エノクさんが……」

「君と同じようにね。きっと彼は神様からの贈り物だったんだよ。神様が憐れんで、友達をくれたんだ」

「どんな方だったんですか?」


 そう聞かれた瞬間、ノアの瞳は少年のように輝いた。


「気になるかい?」

「え? それは気になりますよ。当たり前です」

「そうか、それならばエノクの話をするとしよう」


 その話をしている間、時間は矢のように飛んでいった。


「彼は強くて格好良くて、それで優しい人だった。僕にはもったいないくらい、立派な人だった。そして僕らは家族同然に育った。村の人々が死んでいく中でも、必死で僕らは支え合った」


 近くの川で綺麗な石を探した思い出。

 森の中で虫を追った思い出。

 集落で死んでしまった人を二人で弔った思い出。

 ノアの口は車輪よりも良く回った。自分がこんなに雄弁だったとはノア自身思っても見なかった。

 イヴも相槌を打つので精一杯。だけどノアが幸せそうな顔をしているのはイヴにとっても幸福だった。

 日が傾き、窓の外が暗くなって、やっとイヴは返事らしい返事ができた。


「素敵な人だったんですね……」

「そうだよ。でも……でも、一週間くらい前に居なくなってしまってね」


 また、ノアの瞳から輝きは失われる。


「エノクは『呼ばれてる』って言って、旅に出てしまったんだ。僕は止めた。だけどエノクは……」


 一週間旅に出ただけ。

 普通の世界ならばそう言って笑うことが出来たかもしれない。

 だがこの世界には死の灰が降り積もっている。

 それを知ってしまったイヴは笑うことができなかった。

 エノクはきっと帰らない。


「……ごめんね。こんな話をして」

「いいえ。話してくれて嬉しかった」

「……そうか。ならよかったよ」


 ノアはエノクと初めて出会った時と同じような救われた笑みを浮かべていた。

 久し振りに自分の気持ちを吐き出せたことが嬉しかったのかもしれない。


「さて、もう夜も更けた。今日は休もうか」

「ですが……」

「朝食の準備が有るんだよ。君は自分の部屋でゆっくりしていてくれ」

「お肉ですか?」

「喰うかい?」

「いえ……私は食べなくても大丈夫なので……」

「それなら君には関係無い話だよ、イヴ。気にしないでくれ」


 その日、イヴはノアが初めて怖い顔をしていると思った。


          *


「……」


 明け方、イヴは眠れなかった。

 ノアは疲れ果てているのか、暖炉の前でブランケットにくるまって眠っている。

 元々、長い間人と話すタイプではないのだろう。


「ごめん……なさい」


 イヴが眠れない原因は単純だった。

 ノアが何かを隠している。それを知らずには居られなかった。

 開けっ放しのドアをこっそりとすり抜け、ノアの部屋の中へと彼女は忍び込む。

 部屋の机の上に日記が有った。


“蓄えが足りなくなってきた”

“最初は食材に丁度良いかと思ったが、人間の身体ではなかった。アンドロイドかなにかだろうか?”

“エノクが来るまでは彼女で凌ぐことが出来ると思っていたが当てが外れてしまった”

“エノク、エノク、エノク、エノクエノクエノクエノクエノクエノク!”


 変化の無い内容を綴った日記の途中に走り書きが残っていた。

 日付は数日前。

 イヴがこの家に訪れた日だ。

 その日からはまた変化の無い内容。

 イヴとの会話について書き加えられたくらいか。

 だが走り書きの内容から連想される秘密はあまりに悍ましかった。


「……これって、もしかして……? いや……いや、これは……」


 イヴは自分の見たものを忘れようと部屋から後ずさり気味に逃げ出す。

 部屋から出た時、リビングから物音が聞こえた。

 ノアが起きたのだ。

 彼女はノアと鉢合わせしないように廊下を眺める。

 丁度鍵がささったままの倉庫のような部屋が有った。

 彼女はひとまずそこへ飛び込む。

 棚の間に身を隠し、息を潜める。

 だが、彼女は暗闇に眼が慣れてしまった。

 倉庫の中に何が有るのか、彼女は目の当たりにしてしまう。


「……ッ!」


 小さく悲鳴が漏れた。

 人だった。

 ふくらはぎを削ぎ落とされた人。

 茶色く乾いて乾燥した腕。

 血をつめてどす黒い赤に染まった腸。

 それらの全ては間違いなく食べる為の加工がされたものだった。


「…………はぁ」


 廊下からため息が漏れる。ノアのものだ。


「イヴ以外にも生存者が居たとは思わなかったな」

「…………」

「今この家には同居人が居る。今も向こうの部屋で眠っている。事を荒立てたくないんだ。君のことはどうもしないから逃げ出すなりなんなりしてくれ」

「…………」

「僕はこれから部屋に戻ってもう一度寝る。その間に逃げ出してくれ。腹が減っているなら少し持っていっても構わない。あまり食べられると僕が飢えるから勘弁して欲しいけどね」

「…………」

「だから」

「…………」

「……好きに」

「……」

「してくれ……」


 酷く淋しげで、酷く哀れなため息が聞こえた。

 イヴはもう自分を抑えられなかった。

 彼女は倉庫から飛び出して、部屋の中に戻ろうとしていたノアの前に立ち塞がる。


「待って下さい!」

「イヴ!? 隠れていればいいものを! なんで!?」

  

 ノアは目の前に現れたイヴを見て呆然とする。

 裏返る声に恥辱と後悔が滲む。


「私はずっと貴方を騙していた」

「騙す? 何をどう騙していたんだい?」

「私の本当の役割を、です」


 イヴは絞り出すようなか細い声で告げる。


「私は神の目です。私は天使です」

「イヴが天使だって? 冗談だろ?」

「いえ……」

「冗談、だよな?」

「……」


 最初は笑っていたノアだったが、初めてイヴを見た時のように表情の抜け落ちた冷たい顔で呟いた。


「……いや、ありえなくはないか。だって、人形が動いてるくらいなんだし、ね」


 立派な人格と尊厳を持った存在ならまだしも、自分達を見捨てた神の使いを前に何を恥と思えば良いのだ。

 馬鹿らしい。さっきまで怯え慌てていたのもまるっきり無駄か。

 ノアはそんな、ある種の開き直りとも言える境地に至っていた。


「……だったら、僕にもお迎えが来た、そういう訳かな?」


 地獄行きは間違いないが、まあそれも悪くない。

 どうせエノクに会えないならば何処であっても一緒なのだから。


「私たちはずっと人類を見ていた。神の意志の下、願いを叶え、罰を与えていた。それが天使の役目。機械的にこなすだけの、文字通り操り人形です」

「神が僕を裁けと? まあ好きにすれば……」

「……あなたが最後の人類です」

「最後、か。いやはやこんな人間が……」

「飢えに苦しまない、天国へ連れていきましょう」

「どうしてそこまでしてくれるの? 神様の意思? 世界を見捨てた神様が僕だけを救うって?」

「いえ」

「なら君の意思か」

「はい、これは私の勝手です」

「おかしいな。天使は機械的な存在じゃなかったのかい」

「もうすぐ苦しみ死ぬ貴方への慈悲です」

「……そうか」


 ノアは晴れやかな笑みを浮かべた。

 嬉しいのではない。どうでも良いのだ。虚無だ。

 そして、自分と同じ見捨てられた何かだと思っていた仲間が天使だったことへの悲しみと寂寞も少し。

 

「ですから……」

「ごめんね。僕はエノクが戻るのを待ちたいんだ」

「……あなたは」


 苛立たしげに、そして少し悲しそうにイヴは呟いた。

 ――と、ノアは思っていた。


「……あれを、そこまで思ってくれていたのですね、ノア」


 だがイヴの表情は本当に幸せそうで、満たされていて。


「元から、待ってばかり、怯えてばかり」

「何を言っているんだ?」

「そんなのだから、神が憐れんだのですね」

「ちょっと待て、イヴ。君が何を言っているのか……」

「ずっと待ってばかりで臆病で、エノクに誘われないと遊びにもいけない子……」


 愛おしげに微笑むイヴの表情に、ノアは一つの可能性に思い至る。


「……どうして、それを知って……いや、そうか」


 ノアの目の前でイヴはニコリと笑う。


「もしかして、君は……エノ、ク……?」


 イヴ――エノクは頷く。


「天使は願いを叶える……ああ、本当に、彼は神様の贈り物だったんだね」

「ええ」

「ああ、僕は神に愛されていたのか……」

「……ずっと待たせて、ごめん。あの時、神様に呼ばれたのです」

「呼ばれた?」

「そして言われました。どうしようもならないから、世界は捨てる、と。それで、捨てる世界ならば、と私がもらった。少しの間でも、友人と過ごしたくて」


 彼女は花のような笑顔を見せた。

 ――――美しい、心からノアは思えた。

 今の彼には世界の全てが輝いて見えていた。


「じゃあ、君の姿は……?」

「神様の力で、人の願いを叶えていたから。私はもう、あなたの望む姿になれない。女の姿をした人形にしかなれない」

「それなら、それが、君の……」

「だから、言わない方がいいと思っていた。もう、あなたの知ってるエノクはいないから」

「……そうか」

「それに、私はあなたを助ける力もない。食料を出してやることも……それでも、ここにいても、いい?」

「勿論だよ、それに食料ならもう要らない! 君が女でも人形でも構わない! 君と過ごした記憶は変わらないんだから!」

「…………」


 ノアはエノクの目から見ても痛ましくなるくらい幸せそうだった。

 エノクは人形の身体に感謝した。

 涙で目の前が見えなくなっていただろうから。


「……でも、一つだけお願いがある」

「ねえ、エノク。僕も、もう限界なんだ。この世界だけの話じゃない」

「ごめん……なさい」

「だから、どうか……。僕が死ぬまでの間、一緒にいてくれるかい」

「……」


 エノクは与えられた人形の身体に感謝した。 


「……ええ」


 ノアが死ぬまで絶対に死病に冒されずに側に居られるから。

 ノアが死んでも外に出て彼を葬ってあげられるから。

 ノアの前で最後まで笑顔でいてあげられるから。

 ノアを愛することができるから。


          *


 ある日のことだ。神は世界を見捨てた。

 だが天使の内のあるものが捨てる世界ならばとそれを欲した。

 神は言った。

 世界など天使の身には余るもの。

 神すら見捨てる世界で天使が何をできようか、と。

 天使は答えた。


「私は操り人形。ですが どうか いっときだけでも いいのです。あの人と、最後のときを過ごさせてください。私のような使いを友と呼んだあの人のために」


 神はそれを聞くと天使に世界を下げ渡し、また新しい世界の創生にとりかかった。


【ノアとはこぶね。~終わる世界の前夜譚~ fin】

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