腐敗していく僕の彼女

鯖みそ

腐敗していく僕の彼女

いつか綺麗な海へ行こうって、僕は彼女を誘った。

砂の焼ける匂い、波が揺蕩う、どこか暖かい海へ。

涼しい場所ならどこでもいいよ、って頬を綻ばせる女の子。

僕の大好きな彼女、雲居 奏。

けれど現実はいつも残酷で、僕らが言葉を紡ぐことすら赦してくれない。

奏は、癌なのだ。

体調がすこぶる優れない時は、僕は彼女の顔を見ることができない。

医者に止められて面会もできないし、神様は僕らが初夜権を行使することすらさせないみたいで。

やっと奏に会うことができたのは、彼女の病室が一人部屋になって、周りが閑散とした場所に移り変わった後だった。


「おはよう」


「うん、おはよう」


「体調は、どう」

「まぁ、今はちょっといいかなぁって具合かな」

奏の顔色はあまり優れないようで、青ざめていた。

無機質なコンクリートの壁に囲まれている。

彼女から自由を奪う憎むべき病室、まるで揺りかごの中で死を迎えつつある赤ちゃんみたい。

「何だよ、そんなに良くないなら断れば良かったのに」

「いやぁ、なんていうか……」

「何だよ」


「健に会いたくなっちゃったっていったら、笑うかな」

ちょっぴり、うつむき加減になる奏。

彼女のか細い声は、僕の耳にはしっかりと届いた。

彼女の肌は色素が薄い。指の先が震えている。


「笑わないよ」

ベッドの手すりに寄りかかった。

その冷たさが、まるで彼女の肌を通しているかのようで、少し鳥肌がたった。

温かささえも、運命に奪われていくようで気が狂れそうになる。

「大丈夫なの、健」


「え、何が」

「私との、約束守れるの」

「海に行くってやつのこと」

「そう、それ」

奏は、間髪いれずに答える。

「守るに決まってるだろ。お前が良くなったら連れていくから待ってろって」

僕は労せず、奏を宥める。

けれど奏は、僕の答えが予想していなかったのか沈黙して、また顔を伏せてしまう。


「どうしたの」


「病気のこと考えてた」

「何で」

「無理なの」

「何が」

「約束、守れないみたいなの」

やけに弾んだ声を出しながら、壊れるように笑った。

繊細な薔薇のようで、少しでも触れたら指から血が溢れて、少しでも愛でてやらなければ枯れて死んでしまう。

彼女の唇は青ざめていて、震えていた。

綺麗な白磁で、鉛のような銀色だった。


今度は僕はすぐに答えられなかった。

色を失っているのが自分自身でもわかった。

奏は、僕が思いもよらないような凄絶な速度で、体を毒に蝕まれていたらしかった。

そんな毒を内包しているとは思えない純白の肌に、艶のある黒髪は、僕が昔から知っている彼女そのものだというのに。


「来てくれて、ありがと。でも今日はもう帰って」

このために、奏は僕を呼んだんだ。

憎悪。

世界はいつも僕らに優しくない。

彼女にこんな告白をさせておいて、知らんぷりを決め込んでいる。

点滴が等間隔に落ちる音だけが響く。

それだけでも、僕の心を掻き乱すには十分だった。


僕が彼女と知り合ったのは、まだ僕たちが読み書きを覚え立ての頃だったと記憶している。

「健、奏ちゃん遊びに来てるわよ」


「分かったお母さん。今いく」

何となく近所に住んでいて、何となく話すようになって、何となく一緒にいることが多くなった彼女に、この時は素直に接することが出来ていたように思う。


「おはよー健くん、今日どこか遊びに行かない?」

屈託なく笑う奏。

彼女の地肌は太陽に照らされ、こんがりと黒く焼けていた。

「えー、僕、家でごろごろしてたい」

この時は奏が割と活発な子で、僕がどちらかといえば貧弱で引っ込み思案な方だった。

手を引かれるのが僕だったなんて、今思うと少し恥ずかしい話だ。

そう言っても彼女は無理矢理、僕を外へと放り出して、夏の日はしょっちゅう甲虫を捕まえに行ったのだから困った話だった。

「外にいっぱいいたの」

「うげっ。気持ち悪い」

「捕まえようよ」


今でも忘れない。彼女が僕を大の虫嫌いにさせた張本人であることを。

日が暮れるまで遊んで疲れて、それで翌朝学校に遅れそうになって、お母さんに怒られたっけ。

月並みだけど、彼女の明るくて優しい性格に僕の方が惹かれはじめていた。


でもやっぱり、中学校を過ぎると、お互いに男女としての区別を感じるようになる。

奏はみるみる美人になっていって、僕もそれなりに大人になったように思う。

すれ違いざまに時々話すぐらいはしてたけれど、いつしか顔も合わせなくなった。


そんな時に、奏が周囲から孤立しているという事を聞かされた。


苛められている子を庇った事で、どうやら奏が避けられるようになったらしい。


持ち前の正義感が仇となったと思った。

僕は明るかった奏が、年を取るにつれて変わったように思えてならなかった。けど、そんな事は無かった。

彼女はいつだって天真爛漫で、正義感溢れていて、友情を愛してやまない人間だから。

やっぱり奏は、奏だった。

僕が知っている彼女そのものだった。


「雲居さん」

「たけ…城田くん。どうしたの」


「何で、誰も頼ろうとしないの」

「え、えーっと、何の話をしているかよく分からないな」

奏は、何かやましい事があると、すぐに上に目を反らす。

それを知っている僕だったから気付いた。


彼女は無理をしている。それも周囲の人を頼らずに。

僕は何故か、悲しみよりも愛しさが込み上げてきた。


この子を守りたい。

どんなことをしてでも、彼女は僕が守ってみせる。

彼女に振り回されてばかりだったけど、今度は僕が奏を楽しませてあげたい。

側に居たい。

そんな心の誓いを、彼女は知る由もないけど、そう強く決めたのは覚えている。


告白は、やっぱり彼女の方からで、僕は内心飛び上がりたいくらい嬉しかったけど、ちゃんと抑えたと思うよ、うん。


けれど彼女を守るどころか、今や彼女は緩やかに死を迎えつつあるのに、何もできない今の自分を見ると、自分で自分を殺したくなる。

まだ僕らは若い。

それなのに、どうして奏は死ななくてはならないのか。

もっと彼女と愛し合いたいのに。

宇宙の運命が、僕の彼女を躊躇いなく殺す。

彼女が何をしたっていうんだ。

いつだって誰かのために涙を流し、時には人のためを思って本気で叱る。

感性が豊かで、本や絵が好きで、それを見せびらかしては僕を楽しませてくれる、ごくごく普通の女の子。


僕はこの運命に抗いたい。

しだいに肌が浅黒くなり、皺が刻まれ、腰は曲がり、声が嗄れていく。

できることなら、それまで生きていてほしい。

けれども「それは無理だよ」と、どこかで声が聞こえてくる。

分かっている、分かっているんだ。

それに僕は老いた彼女を愛せなくなるだろう。今の彼女が僕のすべてで、愛は移り変わっていくものだからこそだ。

僕は彼女を嫌いになりたくない。

だからこそ、果たさなくてはならない。

僕と彼女が永久に幸福になるために。

僕は、あの決断を実行することになるだろう。



翌日、病院から連絡が入った。


奏が病院から失踪したらしい。


僕は驚いた。彼女に病院を抜け出す力があった事と、その抜け出した理由に。

看護婦から聞かされた。


「あなたと海が見たいって、ずっと泣いていましたよ」

僕は急いだ。なるべく彼女が遠くに行ってしまわないように、僕が僕で、彼女が彼女でいられる今のうちに。




海に着いた。

病院からは、そんなに遠くない。

彼女は、ここにいると確信した。

潮騒、塩の香り、羊水の中、母体に包まれているような穏やかでゆったりとした世界。

僕が奏と、見たかった景色。


「……奏」

奏は病院の寝間着のまま、海を眺めていた。

右の足首から、痛々しく血が流れていた。

はからずも、病院を抜け出す時にフェンスに捕まったのか。

奏では、僕に気付いたらしく、ゆっくりと振り向いた。

一つ一つの挙動が意識されていないにも関わらず、彼女は美しい体の動きを知っていた。そうしてそれに鈍感な事だけが、彼女の美を美たらしめていた。


「来たかったんだ、どうしても」

そういって綺麗に微笑む奏。病人だとは到底思えない。子供のようなあどけなさで、彼女は歩を進めた。砂が血で固まっている。

「僕が連れていくって、言っただろ」

僕は苦笑した。けれどどこか諦めもついていたように思う。


「えへへ、そうだね。けど健は、多分絶対に連れていかないと思うよ。私が皺くちゃのお婆さんになるまで」

少し悪戯っぽく答える奏。

嘘を彼女は知っていた。今だけは、望んでいた夢を見るための美しい嘘を。

もっと彼女の顔を、声を、匂いを、温もりを感じたくて僕は無意識に、彼女のもとへと。


僕は彼女を抱き締めた。

あたかもそれが当たり前の行為であるかのように。

まだ、彼女は生きていた。

心音が痛いくらいにはっきりと響いてくる。

「え……」

「一人では、絶対に死なせないよ」


抗がん剤の治療を受けなかった奏は、髪が生えている。


彼女は最初から、死ぬつもりだったに違いなかった。

美しさを保って、腐敗していかないように。

僕は知っている。彼女の老いに対する恐怖と、半ば死に陶酔しながら、運命に殺されるのを待っている、ほんの少しの期待を。


「いつも、そう。勝手に一人で背負いこんで、何でも一人で何とかしようとする。奏の悪い癖だよね」

そういって、僕は強く体を抱く。

震えが、彼女の感動が、手に取るように分かった。

爪が僕の背中を強く掻き毟った。


「ずるいよ……。そんなの、だっ、だってそんなこと言われたらさ、まだ私、生きたくなっちゃうに決まってるじゃない」

また嘘をついた。

そうして彼女は、この場面が美しく映えるように、まだ悲劇を演じるつもりらしかった。

子供のように喉を鳴らしながら、奏は涙を溢れさせる。

とめどない感情の奔流、けれど心地がいい。

ずっとこうしていたい。死ぬまで。


「奏」

「何よ」


「幸せになろう」

「もうなってるわよ」

「嘘つきめ」

「あなたもね」

「僕に顔をよく見せて」


彼女の唇は、穢れた翳りはまったく見当たらず、それは、光を帯びるためだけにあるとでも言いたげに煌々ときらめいていた。

静かに滞留していく体の熱が、彼女をより美しく、より強かに力を与えている。

今や彼女は剛胆かつ嫋やかな一人の女だった。

神様が夢を見せてくれたと思った。


「愛しているよ」

柔らかな微笑み。奏はこくりと頷き、身を任せた。

瞬間、海が翻した太陽の光は、眩しいほどに僕たちを照らす。

彼女の甘やかな唇に、口づけをした。





問 ―――「年齢と名前を」

答 ―――「城田 健。二十四歳です」

問 ―――「これから我々がする質問に対して素直に、具体的に、回答しなさい。いいね」

答 ―――「はい、分かりました」

問 ―――「事実確認をしたい。まず君は今回の被害者―――雲居 奏に対して、近郊にある海辺にて、溺れさせて、窒息死させた。ここまではいいね」

答 ―――「はい」

問 ―――「動機は何なんだい。実の恋人を殺害するなんて正気とは思えない」

答 ―――「(被疑者回答に詰まり下を向く)」

問 ―――「おい、真面目に答えろ」

問 ―――「おい、落ち着け。被疑者の意思を尊重しろ」

答 ―――「海……」

問 ―――「何」

答 ―――「海が、綺麗だったから、彼女を殺しました」

問 ―――「どういう意味だね」

答 ―――「僕と彼女は愛し合っていた。だからこそお互いが、お互いを知りすぎていた。だから僕はすぐに彼女が自殺しようとするのが分かりました。あの綺麗な日、奏が一番美しくいられる日に、彼女を殺さなければならない。僕にはそう思えました」

問 ―――「狂ってるよ、あんた」

問 ―――「だから落ち着けと言っているだろうっ……それで、この点において付け加えておきたい事はある」

答 ―――「僕は雲居 奏を殺した罪で裁かれるのでしょう。それはそれで構いません。けれど彼女が彼女であり、僕が僕であり続けるためには、こうするしかなかったのだと思っています。後悔はしていません。僕らの命は短いですから。刑事さん、僕の体にも癌が転移しているんです」




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