九回、スリーアウト、代打、俺
近藤 セイジ
九回、スリーアウト、代打、俺
「そういえば、うちの中村は甲子園出てるんですよ」
バカ社長の声が聞こえてきた。少し自慢が混じったイヤな声だ。野球好きの客を見つけると、社長はいつもこの話をする。甲子園出たのは俺の話であって、あんたの話ではない。
「へぇ、そうなんだ。どこの高校出とるの?」
五十歳前後と思われる男性客は、受付のガムテープで補強されたパイプ椅子から振り向いて、こちらへ身を乗り出した。多少、興味があるような反応だ。面倒くさい。
「甲子園に出てるって言っても、補欠ですよ、補欠。社長、宇野さんの所に納車に行ってきます」
車検の書類をまとめると逃げるように店を出た。甲子園で補欠だった話はウソだ。高校三年の夏。俺は甲子園でセカンドを守った。
真夏の太陽はジリジリとアスファルトの表面を溶かしている。整備ピットにあった宇野さんの軽自動車のドアを開くと、暖められた車中の空気が襲ってきた。車に乗り込んでキーを回し、左手でエアコンの風量を最大にする。ラジオから高校野球の中継が聞こえたので、オーディオのボリュームをオフにする。シートベルトをすると、店の裏口を左折して、信号を右折して国道に出た。
四回まで両チームともノーヒットの緊迫した投手戦だった。五回の表、ノーアウト、いまだにハッキリと覚えている。相手チームの四番・サードが、バットの先に引っかけたボテボテのセカンドゴロをトンネルした。張り詰めた糸が切れたように、その回一気に五点を取られた。その後は一転して乱打戦となり、最終的に九対七で俺たちの夏は終わった。
高校を卒業すると大学に進学した。野球なんて元からやってなかったかのように、普通の大学生になって遊び呆けた。遊べなかった高校三年間を取り戻すように。他の大学生と少し違う事といえば、一般的な大学生よりも野球が嫌いだったということだけだろう。大学卒業後、俺は街のクルマ屋の営業マンになった。
「どうもありがとうございました。また、よろしくお願いします」
宇野さんの家へ車を届けると、新幹線の高架下を通って山王の落合モータースへ向かう。そこに貸してある代車に乗って店に帰る予定だった。時間はもうすぐ正午。太陽が真上から照り付けてくる。どこに行ってもどうしようもなく暑い。俺は夏が嫌いだ。
…おい……行ったぞ……オーライ……
硬球がバットにあたる乾いた音がした。懐かしい音だ。ナゴヤ球場から聞こえてきた。
ナゴヤ球場は小学生の頃、よく中日ドラゴンズの試合を見に来た。昔は七回を過ぎたら無料で入れたのだ。実家から自転車で十五分ぐらいなので、テレビで六回の表まで見たら全力で自転車を漕いだ。七回の表からナゴヤ球場で中日戦を観戦した。中日新聞を破って作った紙吹雪をビニール袋に入れて、ホームランが出るとそれを舞い散らし、出なくても勝ったら最後のスリーアウトで舞い散らした。負けた時だけショボくれた気持ちで紙吹雪を持ち帰った。だけどその紙吹雪も、次の祝いのタイミングで盛大の舞い散った。野球がまだスポーツの主役だった。俺は将来、中日の選手なるんだと思っていた。それはたしか、甲子園でセカンドゴロをトンネルするまで本気で思っていた、と思う。あの日の記憶は遠くにありすぎて、今ではしっかりと思い出すこともできない。
気が付くと、足はナゴヤ球場に向かっていた。そういえば、甲子園もこのぐらい暑くて、朦朧としていた気がする。
思ったよりもあっさりとナゴヤ球場に入ることができた。ドラゴンズの二軍が紅白戦をしている。客席にはまばらに客が入っていて、熱心そうな人もいたが、ほとんどは時間を持て余したおっさんやおじいさんだった。
一塁側内野席の最前列に座った。小学生の頃は外野席にしか入ったことがなかったから、新鮮な景色だった。これは、テレビの野球中継で見たような景色だ。6回表まで家で見ていた景色。その頃のナゴヤ球場で野球をするという夢は、結局、叶わずに終わってしまった。当時は野球が純粋に好きで、いつか誰かの紙吹雪のためにホームランを打つのだと本気で信じていた。
紅白戦は八回裏、七対七の同点だった。あの日の甲子園と同じような展開だった。あの日も八回までは同点で、九回表に二点取られた。九回裏の攻撃で、俺たちは何もできずに終わった。
紅白戦の八回裏の攻撃は三者凡退で終わり、チェンジとなって白組が守備についた。マウンドに上がった選手を見て、俺は息が止まるかと思った。
浅岡!
俺は声を上げそうになったが、飲み込んだ。なんで飲み込んだのかは、わからない。
浅岡は俺の同級生で、野球部のエースだった。一四〇キロ後半のストレートがあるが、ノーコン、いわゆる制球が悪い投手だった。フォアボールもあるけど、デッドボールもあるので、他の高校からは恐れられていた。俺たちが甲子園に行けたのは、ほとんど浅岡のおかげだった。
その年、浅岡はドラフト五巡目でドラゴンズに入団した。五年目に先発ローテーション入りして十勝を上げたが、その後はケガに泣いたと聞いている。親友の川又からそれとなく聞いている話なので、どこまで本当なのかわからないけど。まだ引退してなかったのか、あいつ。
浅岡が振りかぶった。フォームに当時の面影がある。しかし、放たれたボールは俺の知っている浅岡のボールではなかった。スコアボードを見た。スピードガンは一一0キロと表示してる。おそらくチェンジアップかカーブだろう。その後も変化球が多めの、生意気に緩急を使い分ける投球だった。ストレートは一三〇キロ後半。昔の危なっかしいストレートは見る影もなくなっていた。制球は良いけど、小さくまとまっている投球。でも、これじゃあ、たぶんダメだ。ツーアウトランナーなしから、案の定、勘の良いバッターにセンター前に運ばれた。次の打者にもワンストライク・スリーボールから甘く入ったボールを打たれてレフトオーバーのツーベースヒット。
九回表、ツーアウト、ランナー二塁、三塁。白組はタイムを取って、内野の選手がマウンドに集まってくる。
もう、息ができない。何もかも、あの日の甲子園と同じに見えた。この後、浅岡はすっぽ抜けたカーブを放って、二打席連続でレフトオーバーのツーベースヒットを打たれる。あの日と同じなら。内野の選手がポジションに戻っていく。俺はいてもたってもいられなくなって叫んだ。
「浅岡!まっすぐだ!」
突然の声に浅岡はびっくりした顔をしてこっちを見た。俺を誰だか認識できたかどうかはわからない。何せ、高校卒業以来だからな。
浅岡は帽子をかぶり直すと、キャッチャーのサインに何度か首を振った。そうだ。ここはその球じゃない。まっすぐだ。振りかぶると、大きく腕を振った。投げ込まれた球は、俺たちを甲子園まで連れていった『危なっかしいストレート』だった。打ち損じたバッターの打球はセカンドゴロ。セカンドは難なくさばいてスリーアウトになった。
「中村!でら久しぶりだが。なんでここにおるんだて」
紅白戦を終えた浅岡は、まっすぐ俺のところに来た。すぐ帰ろうかと思ったけれど、声を上げてしまった手前、なんとなく試合終了まで残っていた。いざ、久しぶりに話すと何を話していいのか分からない。
「浅岡、まだ引退しとらんかったんかよ」
ちょっとぶっきらぼうな感じで言った。
「まあな。まだ、しぶとく投げとるよ。今年結果が出んかったら、来年の契約はないだろうけどね」
浅岡はあっけらかんと、なぜか少し楽しそうな感じで言う。
「久しぶりにお前の投球見て、懐かしかったよ。変わっとらんな。最後のストレートは昔のまんまだが」
「あれな。お前、マウンドに集まると、いっつも『とりあえず、まっすぐだろ』って言っとたよな。バカの一つ覚えみたいに。だから今日も、すぐに中村だってわかったよ」
「そうだっけ」
そうだったような気もするが、覚えていない。思い出したのは、九回表の甲子園のマウンドでは、俺はビビって浅岡に『まっすぐを投げろ』と言えなかったことだけ。
「そういえば、中村、こんど子供生まれるんだって?」
「なんで知っとるんだて」
「この前、大須でばったり川又に会ってな。川又に聞いたんだよ」
「あいつ、なんでもペラペラしゃべりやがって」
俺たちはなんだかおかしくなって笑った。昔のままだ。卒業から十年以上経っているのに、会ってない間なんて少しもなかったかのように。
「子供生まれたら教えてよ。出産祝いしてやるよ」
俺は少し考えて言った。
「あのさ、出産祝いだったら、今からここで一打席立たせてもらえんかな」
「ここでって、ナゴヤ球場か?」
「そう。俺さ、ここで野球やるのが夢だったんだよね」
浅岡は少し考えると答えた。
「ちょっと聞いてきたるわ。待っとれ」
浅岡はベンチへ走って行った。俺はなんでこんなこと言ったんだろう。もう野球はやらないと思ってたのに。子供の頃の、自分の夢を叶えてやろうとでも思ったんだろうか。それとも、まだ野球をやっている浅岡を見て、自分もやりたくなったんだろうか。とにかく、自分でもなんでこんなことを言ったのか割り切れなかった。
浅岡がこっちへ戻ってきた。
「特別にオッケーだって。裏からまわってグランドへ来いよ」
まさかオッケーが出るとは思っていなかった。少し興奮して、一塁側のベンチからグランドへ入った。生まれて初めてのナゴヤ球場のグランド。まさか、こんな形で来るとは思ってなかった。
「恰好はそのままでいいんか?」
半袖のワイシャツにスラックス、それに革靴の俺の姿を見て浅岡は言った。
「いいよ。これが今の俺のユニフォームだ」
「みんなに言ったら、一打席だけだったら守備も付き合ってくれるってよ」
グランドには、さっきまで紅白戦をしていた選手たちが守備についてくれていた。
「なんかすまんね。ありがとう」
「気にするな。しかし、また中村に投げる日がくるとは、思わんかったわ」
「俺も、まさかナゴヤ球場で浅岡と対戦することになるとはな」
浅岡がバットを渡してきた。すごく久しぶりの感触だ。
「本気で来いよ」
素振りをしながら言うと、浅岡は答えた。
「当たり前だ。プロをなめるなよ。かすりもさせんよ」
「言ったな。サラリーマンの本気を見せたるよ」
浅岡がマウンドで投球練習を始めた。俺はネクストバッターサークルで素振りをして、タイミングを合わせる。
あの日、俺の甲子園はこのネクストバッターサークルで終わった。あとワンアウトあれば、打席に立ってエラーの借りを返す最後のチャンスがあったかもしれない。そうすればまだ、俺たちの夏は続いたかもしれなかった。だけど、野球は九回スリーアウトで終わり。俺の最終打席は、あのまま永遠に来ないと思っていたけど、まさかこんなとことで続きがあるとはね。これはきっと、神様がくれたあの日の代打のチャンスだ。
「おーい、そろそろいいぞ」
マウンドから浅岡が俺を呼んだ。大きくバットを回すと、俺は叫んだ。
「九回、スリーアウトから、代打、俺」
「何だよ、それ」
「なんとなく『代打、俺』って言ってみたかっただけだよ」
浅岡は笑った。
「それじゃあ、行くぞ」
バッターボックスに入って、足場を整えた。いつか、生れてきた子供に、今日の事を自慢してやろうと思う。そのためには、必ずヒットを打つ。
「よーし、来い!」
あの日の続きように、太陽はギラギラと照り付けた。俺はバットを握る手に力を込めた。
九回、スリーアウト、代打、俺 近藤 セイジ @seiji-kondo
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