第21話 プレースタイル
ついにテニスが戻らないまま青松地区団体戦がやってきた。普段よりも早めに目覚ましを設定したが、それが鳴る頃にはもう俺は対陣子戦で一三三個目の黒星をつけていた。
試合をしたがらない我門の熱烈な同意と上杉先生の放任主義のため、俺の希望はそのまま通り、今回の団体戦は俺が全てシングル1で出場することになっていた。しかし会場の小俵テニスガーデンに着いてもこれから自分が試合をする実感など湧いて来ず、試合で勝つイメージなど猶のことない。ただ起きがけに坂上陣子が言った言葉だけが『ウィンブルドン歴史に残る名勝負』のように何度も、頭の中に響いていた。
『とにかく、今までの3192ポイントを思い返して、頑張って』と彼女は言ったのだ。
3192ポイント。これだけのポイントをプレーして1ポイントも取れないのだから、頑張っても糞もあるか。『負け癖がつく』という言い方があるが、俺の場合はもはやポイントの取り方を忘れてしまったと言った方が近い。
「それでお前、調子はどうなんだ?」
応援席の一角を陣取ると我門が訊く。
「かつてないほど自信が無い」
俺は正直に答えた。
「ダブルスとシングル2を確実に取ろう」
「なんちゅー頼りないシングル1や」
「大丈夫ですよ。坂上先輩、自信持って下さい」
アッキーの言葉は、十二月の寒空の下で一際温かかった。思えば男子テニス部は今までこういう当たり前の激励を聞けない、随分と妙な環境であった。
「うむ、すごく自信出てきた」
「アッキー、俺も激励してや」
「俺も」
「俺も」
「我門は試合に出ないだろ」
アッキーは慌てながらも、阿呆たちのリクエストに答えて一人一人を激励し始める。
「緊張してるの?」不意に四元さんが言った。
「まさか。でも、四元さんが見ていると思うとやっぱり緊張するかも」
「じゃあ、一瞬たりとも視界に入れないから安心してテニスに集中していいよ」
アッキーに温められた心は瞬く間に元の温度に戻った。しかし、これはこれで試合に入りやすそうな、奇妙に馴染んだ居心地の良さがある。
第二シードである大原高校の最初の相手は、桜南高校対平津加農業高校の勝者である。それなりに時間はある。そう考えていたら、予想よりも大分早く桜南高校が二回戦へコマを進めたため、昼前にコートが空き次第試合が始まる塩梅になった。せっかく二日取ってある大会日程を蔑ろにする早さである。試合進行が円滑過ぎるのも考えものではないか、と思っている内に七番コートが空く。
「ベンチコーチはどうするんだ?」
「今回はいい。客席から俺の雄姿を眺めときな」
「直視できないようなプレーをしなければな」
両校のメンバー揃っての挨拶が済むと俺はコートに取り残された。桜南と言えば青松地区の個人戦で当たった岸田を思い出すが、七番コートに残った奴は岸田ではない。使ってるラケットはプリンスのグラファイトか。
トスでサーブレシーブとコートを決め、片サイド二本ずつのサーブ練習を流れ作業のようにこなすと、桜南サーブで試合が始まった。
パン。
乾いた音ともにフラット気味のスライスサーブがワイドに飛んでくる。俺は何とか飛びついたが、ボールは大きくアウトした。
「15―0」
うむ、シングル1に恥じぬいいサーブだ。心の内で称賛して、自分のプレーに対する失望を誤魔化そうとしたが、言い知れない寂しさはちょっと隠しようがない。ああ、せめて陣子と試合していた時くらいの実力が戻れば……
瞬く間に3ゲーム連取され、早くも敗色が濃くなってきた。
その矢先、第4ゲーム最初のポイントでリターンエースをもらった刹那、不思議な事が起こった。
相手のリターンエースがきれいにクロスへ決まった時、俺の頭に「下の名前で呼ばないで。気持ち悪い」というキツイ言葉が、四元さんの怒った表情と一緒に流れ込んできたのだ。たった今四元さんに言われたかのように鮮やかに。
何だ、今のは?
思わず客席の四元さんの方を見たが、彼女は先ほどの宣言通り携帯をいじっていて俺の試合など眼中にない。するとフラッシュバックだろうか、それにしてもなんと違和感のない……そうか、あの時の四元さんの一言は正に今のリターンエースのようだった。いや、むしろ今のリターンエースが四元さんの一言のようだったのか。
それは一度きりではなかった。次のポイントをダブルフォルトで落とすと、渡見さんの顔が浮かんでくる。「そうじゃないけど、そんなことしたら彼氏に怒られちゃう」「だよねぇ」。最後の沈んだ言葉は俺の声だ。確かに今のダブルフォルトは渡見さんを七夕に誘って断られた時のような気分になる。
その現象はまだまだ続く。たまたま深めに飛んだ俺のボールを相手がライジングで打つと、「私は大丈夫だよ。それより、その時の誘い悪いんだけど、無理なの」と鈴谷さんが脳内に現れる。七夕に誘った時の鈴谷さんの断り方のようなライジングである。
次のサーブはコースを読まれた。ああ、橋本さんを七夕に誘おうとした時はこんな感じに読まれたな……このスピンのかかった深いボールは河内さんとのコート交渉を彷彿とさせる……今の強打に見せかけたドロップは渡見さんが巧みに俺から千円を騙し取ろうとしたことを思い出す……お、田辺先生の質問みたいなダブルファーストを打ってくるな……「テニスのできない坂上くんなんて足元にも及ばない」という四元さんの言葉くらい強烈なサービスエースだ。
一つ一つのポイントに、ラリーの一打一打にことごとく過去の出来事が甦る。テニスに集中するどころではない。もはやテニスをしながら走馬灯を見ているようなものである。やや残念な記憶ばかりなのはポイントを取られまくっているせいか。
「ゲームセットエンドマッチ、ウォンバイ桜南。ゲームカウント6―0」
ストレートで負けたのに、なんという疲労感だろう。目疲れしたような重い頭を抱えて俺は客席に戻った。
「お疲れ様です。先輩」
「ありがと。すまん、負けちまった」
木戸と大場と日野が試合に入っているので、席には我門と四元さんとアッキーしかいない。
「ま、勝てるとは思ってねぇよ」
「そういう時もありますよ。元気出して下さい」
「自分の試合が終わったら応援、応援」
「今いくつ?」
「木戸たちが5―0、日野が5―1かな。まあ、すぐ終わるな」
次の試合でもあの走馬灯を見せられるのだろうか。ただでさえ一方的にやられる試合なのに、その上数々のトラウマが付いてくるとは拷問に近い。試合進行を円滑にしたくない俺は、気がつくと桜南があと2、3ゲーム取ってくれることを祈っていた。
しかし祈りは虚しく、双方ともにそのまま6―0、6―1で勝利した。
「取りあえず初戦突破やな」木戸はコンビニのおにぎりを頬張りながら言う。
「陣は試合どうだった?」
「スコア以上にしんどかった」走馬灯を見るのが。
「それにしても、試合の進行がやけに早いね。まだ十二時過ぎだよ」
「今日中に終わるんじゃねぇか。次はもう準決だろ」
「どこの高校が次の対戦校なんですかね」
「さっきトーナメント表見てきたけど、遠磯っぽかったよ」
「四元さん、そりゃ本当かい?」ということは次の相手は北上か。いよいよ、見たくもない走馬灯一挙大公開の可能性が強くなってきた。
試合進行は俺の期待を遥かに裏切って順調らしく、昼食が終わると、ほどなくして大原高校対遠磯高校の試合が始まった。十六面もある小俵テニスガーデンなので、すでに三面展開の同時スタートである。
「よお。テニスは戻ったのか?」北上の声には自信が漲っている。
「いや」
「まあ、どっちにしても全力でリベンジさせてもらうけどな」
北上がラケットで俺を指す。バボラのピュアドライブだ。
相変わらず熱血ぶりに早くも棄権したくなる。尋常じゃない温度差だ。これだけで風邪をひけそうなのは俺だけだろうか。まともに人をラケットで指す奴なんて初めて見……ああ、そういえば陣子もそんなことをやってたっけ。でも、あれはお茶目で可愛かったな。
『これはわたしの勘なんだけど、青松地区の団体戦が終わるまでにテニスが戻らなかったら、陣くんのテニスはもう二度と戻らないと思う』
記憶が連鎖して陣子の不気味な宣告が思い出される。そんな阿呆なことあってたまるか。と思ったが、先程の走馬灯から鑑みるに、どうも俺の周りには阿呆なことしか起きない傾向がある。俄かに陣子の宣告が要らぬ真実味を帯びてきて俺は辟易した。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ、大原サービスプレイ」
サーブを打つ。上手くセンターに入ったサーブはさほど厳しいコースにリターンはされなかったものの、北上のリターンはスピードがあり、面を合わせ損なった俺のボールは大きく飛んだ。
そのアウトボールを北上が触らずに無視した時、やはりフラッシュバックが襲う。「……フェルナンド・ゴンザレスのボールを食らったって忘れない自信があるね」「肘どうしたの?」。四元さんが俺のアプローチを無視したように、北上はアウトボールを無視した。
「カモン」北上が叫ぶ。
カモン、だと。大して英語もできないくせに西洋かぶれやがって。おー耳がかぶれる、かぶれる。北上の英語力は知らないけれど、とにかく腹の内で言い返すことで試合に意識を戻そうとしたが、やはり一々トラウマが頭を過るようでは集中のしようがない。
北上がクロスへのウィナーを決めると、「照れてない、護身」と四元さんが水着姿で言う場面が頭に流れ込んでくる…俺が力んでラリーをすれば、「ほほう、強がるね……」「強がってないさ」という姉さんとの会話が思い出される……北上がいつの間にかネットに詰めている。あれは姉さんがおっぱいに触ろうとした俺から逃げた時見せた身のこなしのようだ……俺が体勢を崩して転んだのに、力んだせいか北上がミスをした。偶然四元さんに水風船が直撃してブラジャーの色が露わになったような幸運だな……相手のブレークポイントでダブルフォルトが出た。打ち上げで姉さんに注意されている時に村口先輩が来たようにタイミングの悪い……このアンフォーストエラー、四元さん相手に何度やっただろうか……今のアプローチからのボレーミス、俺は一体何人の女の子相手にやらかしてきただろうか……
ああ、俺の生活はこんなにもテニスと分かち難いものであったのか。
怒涛の勢いで押し寄せるトラウマの奔流の中で発見したその事実は、どこか今更で、どこか新鮮であった。
〇
電車が平津加駅のホームに滑り込んだ。俺たちが降りると、ほとんど間を開けずに発車のアナウンスが鳴り、すぐに再び走り出す。
「そんじゃ、明日は決勝やぞ。寝坊すんなよ、陣」
「するか、阿呆」
ホームに降りてからすぐに俺と我門は皆と別れ、西口を目指す。いくら西口利用者が少数派だからといって、これは少し残酷過ぎないだろうか。改札を抜けて駅を出ながら西口のマイナーさ加減に胸の内で不平を呟いていると、我門がしゃべり出す。
「去年の小俵の女子マネージャーは三年生だったらしいぞ」
「それじゃあ、今年はいないのか」
「勝率が上がりそうか?」
「今日の結果見れば分かるだろ」
今日の俺の結果は、対桜南0―6、対遠磯0―6であった。
「あのマネージャーが俺のベンチコーチに入ってくれれば勝率は上がりそうだけどな」
「そうじゃなくても、四元さんかアッキーが同じ事をすればいいんだろ?」
「そりゃ、まあ」
いつも通り下らない会話をしている内に、すぐ俺の家に着いた。
「そんじゃ」
「おお、また明日」
俺は家に入り、しばらくしてからドアを薄く開ける。どうやら我門はもう角を曲がったらしい。俺はそのままの格好で自転車に乗り、大原高校へ向けてこぎ出した。
何をやっているのだろうか、俺は。この自問を繰り返してきた数が並大抵ではないことは自負できる。何せ来し方を振り返るに、自分が何をやっているのか把握しているケースの方が稀である。しかし迷走していながら、むしろ持ってはならぬ自信を持っていた今までとは違い、今回ばかりは自分の行動が普通に不可解である。
愚行の発端はやはり試合中に襲った数々のトラウマであろう。どうやら俺の生活とテニスは切っても切れない、それこそ運命の赤い糸でがんじがらめの亀甲縛り状態らしい。が、だからといってテニスの喪失がそのまま生活の喪失に繋がる訳がない、そもそも喪失するほど中身のある生活を送っていない。そう思ってみても自転車をこぐ足は止まらなかった。
大原高校の正門はまだ空いていた。駐輪場に滑り込み、まっすぐにピロティへ行くと、すでに電気が点いている。俺はラケットとボールを取り出して一人ネット打ちを始めた。
ネットの上の壁に軽く当て、はね返って来たボールをネットに向けて打つ。手持ちのボールが二球しかないので、打っている時間よりもボール拾いの時間の方が遥かに長い。
ぼこん、ぼこん。阿呆らしい。ぼこん、ぼこん。こんなことでテニスが戻るのなら苦労はしてない。ぼこん、ぼこん。何をそんなにムキになっているんだ。ぼこん、ぼこん。本当に、何やってんだ、俺は。
ぼこん。静かなピロティにはうるさいくらいの打球音が響く。そのせいで虚しさが一層募る。俺はラケットを置いて座りこんだ。
くそ、誰もいないし、いっそのこと全裸で練習してやろうか。ショック療法が効くかもしれない。
「陣ちゃん……?」
勢いでTシャツの裾に手をかけた瞬間に呼ばれたので、俺は慌てて汗をぬぐう行動へと方向転換しながら顔を上げた。いつの間にかネットのそばに姉さんがいる。
「姉さん、何してるの?」
「進路の書類を出しにね。帰るとこだったけど音がしたから。陣ちゃんは一人で練習?」
「まあ、そう」
「へぇ、案外努力してるじゃん」姉さんはフフンと笑う。
「案外とは失礼な」
ふと、陣子から聞いたことを思い出す。
「話変わるけど姉さん、俺がテニスを忘れた前後で俺の性格に変わったところって何かある?」
「ほほう、面白い質問だね」
姉さんはネットの前に落ちているボールを拾う。
「結論から言えば、あるね」
「マジで?」
俺はひどく驚いた。自分でもないと思っていた上に、誰に訊いても『ない』と言うので、最早その存在を信じてもいなかった自分の変化について『ある』と答える人がいようとは、手で叩いていたらガットが切れたくらい予想外だ。
「どのへんが?」
思わずラケットを手でくるくる回しながら立ち上がる。
「今の陣ちゃんは結果ばっかり求めてる」
「うん。で、以前は?」
「頭を絞って、よーく考えるのだ。なんで君は毎日部活に行き続けたのかな?」
姉さんは持っていたボールを下からそっと投げた。
なんで毎日部活に出たか、ですと?それは毎日練習があるから……ではないな。あれだけ自由度の高い部活にしておきながらそれはない。だとすると、やはり俄かには信じがたいが面白かったからか。あれだけ無益な部活が面白かったというのか。しかし、そうだとしたら、それでどうというのだ。元より己が行動の全てを肯定し、底抜けに面白い生活を送ることが目標なのだから……待てよ。なんで俺はそうまでして面白い生活にこだわるんだ?そもそも面白い生活って何だ?テニスでインターハイに出場することか?違う。体育祭のブロック対抗ダンスで優勝することか?違う。可愛い彼女をつくることか?驚くべきことに、これも違う。そういう明確な結果に向かっていくものではない。『水の水曜日事件』や『体育祭の第二ラウンド』、それにテニスを失う前の俺がやった数々の奇行。こういうことこそが俺の求める面白い生活だったはずだ。
そうか。
どうやら絶対に結果を顧みない、圧倒的に濃厚な過程を楽しむ姿勢を忘れていたらしい。テニスはそれの一部だったわけか。なんだ、それならテニスの技術は必要ないわけだ。改めて思い返してみろ。六月来の俺の生活は何ひとつ結果を残してはいないけれど底抜けに面白いではないか。
テイクバックした俺は異変に気がついた。グリップのこの上ないフィット感。まざまざと浮かぶスイングの動作。心地よい懐かしさ。
ボールがバウンドした。体が動くに任せて、思い切り振り抜く。
パアァン。
六月にテニスを失って以来、絶えて久しく鳴ることのなかった乾いた破裂音が轟いた。
〇
翌日、俺は静かな気持ちで小俵テニスガーデンの三番コートで試合開始を待っていた。昨晩、ついに陣子が夢に姿を現さなかったときは危うく涙せんばかりに悔しかったが、今は大分落ち着きを取り戻している。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ、大原サービスプレイ」
「お願いしまーす」
センターに強烈なフラットサーブを叩き込む。相手は腕を伸ばし、やっとのことでレシーブした。ボールは……
デュースサイドのサービスエリア、おそらくど真ん中よりややネットより、そしてセンターラインよりは大分サイドラインよりに弾むであろう、回転のほとんど無い涎の出そうな絶好球。さて、どうするか。セオリーなら走り込んでボレーで決める。しかし、それではあんまり地味で詰まらない。ドライブボレーでコートの角に突き刺すか?それとも少し待って、ライジングで弾み端をぶったたくか?いやいや落ち際まで待って、相手の動きの逆を突く?強打に見せかけてドロップか、豪快にフォアのジャックナイフを叩き込むか。スピンかフラットかスライスか、サイドスピンも一興だ。クロスかストレートかショートクロスか、敢えてセンターも面白い。
応援席のパンチラ、ベンチコーチのお色気攻撃があればなお面白い。水風船やロケット花火が飛んでくるなら、それもよい。どんな横やりも大歓迎である。俺はそれをきっかけにして、さらに面白いことをするのに試合そっちのけで全力を尽くすだろう。
俺の目的は底抜けに面白いことなのだから。
それが俺のプレースタイルなのだから。
プレースタイル 著者 @chosya
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インディーズの窓/著者
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 9話
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