第20話 謎の美少女
戻った。ついに戻った。苦節三カ月、果てしなく続くデュースゲームのように長かった。しかし、とにかく戻ったのだ。この確固たる威力、スピード、コントロール、タイミング、打球音、一つ一つに万感交々到り、到底言葉に表せない。俺は壁打ち用の壁に向かって、飽くことなくボールを打ち続けた。
ライジング、ジャックナイフ、ドライブボレー、ドロップ、スピンロブ、股抜き、ストレート、クロス、ショートクロス、逆クロス、スピン、サイドスピン、スライス、フラット、どれを打っても面白いくらいキレが出るし精密にコントロールできる。最後は球を浮かせて思い切りスマッシュした。跳ね返ったボールはころころと後方へ転がっていく。
すると、まだボールの残響が消えない内に壁の裏側から女の子が出てきた。
俺は驚いて目を見開いた。
なんという可愛さだ。テニスウェアとスコートを着てラケットを持っている姿が、それだけでこっちの下心を刺激するほど可愛い。テニスウェアの下の発育のよいおっぱいに目を奪われていると、女の子はラケットを俺に向けた。
「陣くん、勝負」
よく見ると、彼女が持っているラケットは300Gだ。
「無理だよ、テニスコートがない」
あらゆる疑問に先立って、俺はその女の子の誘いを断った。相手がどんなに上手くても女の子には決して本気で打たないと俺は決めている。楽しくラリーするのは構わないが、勝つにせよ負けるにせよ試合をするのは御免だ。
「後ろにあるよ」
女の子の言葉で振り返ると、いつの間にか立派なハードコートが一面ある。
「い、いつの間に……しかし、やはり試合は断る」
「何でそんな意地悪するの?わたしのこと……そんなに嫌い?」
ラケットを抱えて俯いたしぐさは、危うく犯罪行為に走りそうなくらい可憐である。
「まさか、嫌いなわけない。むしろ俺たち相性いいぜ。なにせ使ってるラケットが同じだもの。もしかしたらガットとかも同じかもね。ガットは何使ってるの?」
「GOSENのAKプロ16」
「ホントに同じか。ちなみにテンションはおいくつ?」
「60ポンド」
「すごいな、ドンピシャだ」俺はちらとグリップを見た。「もしかして、グリップサイズは2で、グリップテープはウィルソンのプロオーバーグリップだったりする?」
「うん」
「振動止めはつけない派?」
「前はキモニーの音消しをつけてたけど、今はつけない派」
「完璧だ」怖いくらいに。
「そりゃあそうだよ。わたしと陣くんは運命の赤い糸でがんじがらめの亀甲縛りだもん。もしくは複雑に絡み合った二本張りガットのような感じかな」
女の子の大胆発言に危うく鼻血が出かける。二本張りとはラケットのガットを張る時、通常一本のストリングスで張るところを、縦と横をそれぞれ別々のストリングスで張る張り方である。いつか可愛い女の子とそのように複雑に絡み合えたらと思ってはいたが、ちょっとチャンスの到来が急過ぎないだろうか。いや、俺の方の準備は常に万端ではあるが。
「だから試合して」
女の子は脈絡なしに話を戻す。
今まで女の子からこんなにも積極的に求められたことがあっただろうか。初めてアプローチされる側に立った今、俺は女の子にボレーを決めさせてあげるに吝かでない。
「分かった。でも、俺は女の子相手に本気で打つのは御免だよ。それでも良ければ」
「ダメ。本気でやって」
「それは断る」ここは譲れない。
「も、もし、わたしに勝ったら、その、わたしの体……好きにしていいよ」
女の子は顔を赤らめつつ、俺より頭一つ分小さい身長を活かして見事な上目遣いを放つ。
このポリシーに対してだけはいかなる誘惑を纏った言葉のボールでも、壁打ち用の壁のごとく撥ね返すつもりでいたが、今度ばかりは女の子の打った言葉のボールが見事にその壁にめり込んだ。しかし断じてまだめり込んだだけである。
「た、確かに君の体は素晴らしく魅力的だけど、俺がそんな品の悪い人間に見えるかい?」
「ばか。女の子にここまで言わせるの?わたしは陣くんとそういうことがしたいから、陣くんに全力でわたしを負かして欲しいの。いきなりじゃなくて口実が欲しいの、ね」
割と簡単にボールは壁を貫通した。
「すまない、君の気持を汲み取れない鈍感な男で。そうとあらば全力でお相手しましょう」
「ありがと。それじゃ、サーブは陣くんからね」どこからともなく取り出したテニスボールを二球俺に渡すと、女の子はハードコートの反対側まで歩いていった。「あ、6ゲームの1セットマッチだから」
「分かった。いくよー」
「はーい」
左手でボールを三回ほどバウンドさせてから構える。素晴らしいタイミングでテニスが戻って来たものだ。むふふ、まずはワイドにフラットといきますか。
パン。
パアァン。
「!」
ボールが凄まじい速さでコートの左端を貫くのを、俺は目の端でかろうじて捉えた。
ダウンザラインのリターンエース?
あまりに予想の上をいく速さに動くことすらできなかった。女の子はすでにラケットを肩に担ぎながらアドバンテージサイドの方へ移動している。俺は慌てて後ろに転がっているボールを拾って位置につく。
「ら、0―15」
試合は女の子が24ポイント連取して終わった。俗に言う完全試合である。
「強いね、君」
試合終了後、俺には率直な感想しか出てこなかった。
「本当は陣くんの方が強いはずなんだよ。まだテニスが取り戻せてないみたいだから、わたしが毎日コーチしてあげる」
「それは有り難いが、今の俺は間違いなく全力だったよ。実力は完全に戻っていたはずだ」
「ううん。まだ戻ってない」
やけにきっぱりと断言する。確かに俺は以前の実力が思い出せないから、本当に戻ったかどうかは分からない。けれどこれ以上の力が本当にあったというのか。
「あんまり買いかぶられてもねぇ」
「買いかぶってるわけじゃないの。事実」
「でも何で君が俺の実力を知ってるんだい?君と会うのは初めてだよね?というか君の名前、何ていうの?」あまりに今更な質問で、言いようのない間抜けさが漂った。
「やっと聞いてくれた」
女の子はにこりと笑う。
「わたしは坂上陣子、よろしくね」
ジリリリリリリリリリリリリリリリ……
大音響のベル音で俺は目が覚めた。目覚まし時計が騒いでいる。
「夢か」俺は目覚まし時計から電池を抜き取り、時計も確認せずに二度寝した。
〇
学校に着いてもその夢はクレーコートについたボールマークのように、やたら鮮明に残っていた。これがむさ苦しい男ばかりが登場する夢だったら目も当てられない。しかし可愛い女の子であったとはいえ、まさか自分自身とは。しかも木戸の著作権付きである。コードボールで試合が決まってしまったように、後味がよろしくない。
坂上陣子のことも気になったが、一方でテニスを思い出したあの感覚も忘れ難かった。阿呆らしいのは承知の上で―何しろ普段から生活の九割は阿呆らしいので―もしかしたらがあるかもしれないと期待を最小限に抑えながら練習に臨んだ俺は、やっぱりどれだけ自分が阿呆なのか思い知らされた。
「どうした、やけにへこんでるけど?」
最小限に抑えていたにもかかわらず、期待を裏切られた失望が態度に出たのか、大場がいらぬ気遣いをしてくる。
「毎日努力してるのに何と実りの少ないことか。むしろ色々と失う一方なのは気のせいか」
「まあ、元々失うほど何か持ってるわけでもあらへんし、気にせんとええんちゃう?」
「黙れ。それはお前も同じだろ」
我門の出した球を、力を込めて打った。
スイートスポットで捉えたものの、ボールは大きくアウトしてフェンスに直撃した。
〇
「今日はまず講義からね」
向かいのベンチに座った坂上陣子はきびきびと話し始めた。
「うわっ」
思わず座っていたイスから立ち上がる。
「何驚いてるの?毎日コーチするって言ったじゃん」
「あ、いや」陣子が当然のように言うので、俺はイスに座り直す。「そうだった。どうぞ、続けて下さいな」
「うん。テニスは個人競技である上にプレー自体に幅があるため、プレーには個々人の性格が色濃く出る。これは分かるよね」
「そりゃあ、そうだね」
「だから練習で磨いた技術の他に、テニスにはこの性格というものが大きく影響してくる。アグレッシブベースライナーだのネットプレイヤーだのオールラウンダーだのスタイルの違いが出てくるのはこのため。自分の得意分野と好みとの折り合いをつけながらスタイルが定着する。つまり、上手と下手を分けるのはやっぱり技術だけれど、その人のテニスを形づくっているのはその人の性格に依るところが大きいというわけ」
陣子は言葉を切って確認するようにこっちを見る。
「異論はないよ。でもスタイルどころか、ラリーの一打一打にも性格が出ると思うけど」
「ああもう、今からそれを言おうと思ってたのに」陣子は悔しそうに俺を指さす。このしぐさがまた俺自身のくせに、なんとも可愛い。「まあ、そうだよね。だから試合ではすごく性格が出るし、ラリーなんかはもう会話とほとんど変わるところが無いと思う」
「うんうん。お互いの性格が滲み出た打球の積み重ねだからねぇ。模範はあるけど、それでも一人一人違ってくる」
「そうそう」
二人で頷き合いながら、看過できないことに気がついた。
「ていうか、もともと俺たちは一心同体なんだから考えること同じじゃない?」
「そうだね」
何と自己完結的な講義だろうか。よく考えなくても時間の空費である。
「あ、時間の無駄だ、とか思ったでしょ?」
「まさか」
「嘘ついても無駄だよ。今は体が別々だけど、もとは一心同体なんだから。ちなみにエッチなこと考えてるのも分かっちゃうから」
俺は一瞬ドキリとした。が、よく考えれば相手は俺自身なのだ。恥ずかしがる意味が無い。人生の失敗談から人には言えない性的嗜好まで滔々と語ってやろうじゃないか、と思ったが暴露するまでもなくそれも先刻承知なはずで、それこそ時間の無駄である。
「でも、こっちからは相手の考えていることが分からないのは不公平じゃないか」
「別に自分しかいないんだからいいじゃん。それよりも話を戻すよ。個人のテニスを形づくるのは技術と性格だということだったよね。その中でも技術は一度身につければ容易に崩壊したりはしない。つまり陣くんの技術が崩壊したのは、それを支えていた性格が崩壊したからなの」
「物騒なこと言うね。俺の性格は崩壊なんかしてないよ」崩壊しているように見えないと言いきる自信はないが、それはあくまで見た目だけである。
「崩壊というと少し違うかな。変わったんだよ。ボールが後頭部に直撃する前と後で」
「変わっちゃいないさ」
「性格が変わったというより姿勢が変わったのかな。でも姿勢は性格から来るものだし、やっぱり性格が変わったんだよ。わたしにもはっきりとは分からないけど、どっか些細な部分で変化したはず」
「信じられん」
「自分の言うことなんだから、信じなさいよ」
「んー……」何だか人格分裂を起こしそうである。
「さ、講義は終了。試合、試合」
横を見るとテニスコートが現れている。今日はオムニコートだ。
「あの約束はまだ生きているのかい?」
「約束?」
「とぼけるなよー。俺が勝ったら陣子ちゃんの体を好きにしちゃうっていうあれだよ」
「ああ、あれね。いいよ。勝てたらね」
〇
この分だと、本当に毎日この夢を見そうである。しかし下手に怖い夢よりは随分いいのではないだろうか。何といっても可愛い女の子と二人っきりなのだから。むろん、相手も自分なのだから正確には一人っきりであるはずだという意見もあろう。しかしよく考えてみて欲しい。一人で延々と壁打ちをするのと、相手が自分のクローンでもちゃんとコートでラリーをするのとでは、どっちが寂しいか。俺は寂しくない、断じて寂しくない。嬉しくて涙が出てきそうだ。
坂上陣子との試合は、相変わらず1ポイントも取れない完全試合だったにも関わらず、起きた時にはもう学校が始まっていた。別にめずらしくも何ともないことだが、その日は俺の方でめずらしくそれなりに急いだら一時間目終了後の休み時間には学校に着いた。
「おはよう」
気だるそうに雑誌のページをめくっている渡見さんに声をかける。
「おはよ。今日は本当に早いねぇ」
「俺だってそうそう遅刻ばかりしないさ」
「思いっきり遅刻だけどね」
「ところで渡見さん、俺の性格ってどこか変わった?主に六月にテニスを忘れた前後で」
夢のお告げにすがるような行為は、女の子がやるなら可愛げがあるが、男がやると自分のことながらも横隔膜がややせり上がるのを禁じ得ない。
「なーに、いきなり」
「いやさ、とある女の子が言うんだよ。俺は些細なところで性格が変わったと」
「彼女さん?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「うーん、どうかなぁ……」
渡見さんは思案するように呟いたが、相変わらず雑誌のページをめくっているので、考えているのかいないのか分からない。答えを待っていると渡見さんは雑誌をぱたりと閉じた。
「特に変わってないと思う」
「そっか」
本当に考えていたのかいなかったのか分からない。
二時間目が終わると、三時間目の生物が実験らしいので俺は周りに流されるまま生物実験室へと足を運ぶ。あまりにも授業の流れについて無知なので、さすがに少し心配になったが、いつものことだと思い直した。こうやっていつも思い直すから、いつまで経っても授業の流れを掴めないということに俺が気づいていないと思ったら大間違いである。気づいていてなお我が道を行くのである。前向きに生きてこその人生なのだ。若干前のめり過ぎて転倒しそうな気配はあるが。
実験室では堀川さんと席が近い。こうなったらできるだけ多くの人に俺の性格の変化について訊くしかない。プライドなど二の次だ。そして他人の迷惑など三の次である。
「変わったところ?別に無いと思うけど。坂上くんはいつも面白いし」
「なになに?どうしたの?」
原さんも会話に入ってきた。
「坂上くんの性格ってどこか変わったと思う?っていう話なんだけど」
「何それ?坂上くんの性格が簡単に変わるわけないじゃん。何か悩んでるの?」
「別にそういうんじゃない。ただ客観的な意見が聞きたくてね」
「大丈夫。坂上くんは少しも成長してないから」
原さんが笑顔で決め球を打ち込んだ。
「ありがとう。おかげで元気が出たよ」
元気と一緒にため息も出る。
俺はその後、西野さん、城崎さん、石村、柿沢、ついには我門と順々に質問を続けたが、女子からは不思議がられ、男子からは気味悪がられたついでに病院を勧められるばかりだった。しかしいつの間にか俺は、存在も不確かな自分の性格の変化を見つけることにムキになっていた。
何としても見つけたい。そして何としても掃除からは逃げたい。色々なものに駆りたてられてホームルーム終了後の教室を急ぎ足で飛び出した。中田先生の隙を突いて部室まで来た時には俺も我門も多少息が切れていた。
戸を開けると、部室にはもう全員が揃っている。走って来たにもかかわらず、もう全員が部室に来ているのだから、我が二年五組の帰りのホームルームは間違いなく大原高校で一番長いのだろう。中田先生よ、あなたのその短い連絡事項を長々と話すという不毛を極めた技術はどうか他の場所で使ってくれ、と胸中で嘆願しながら早速アッキーに携帯で何かを見せている四元さんに聞き込みを始める。
「四元さん、俺がテニスを失う前と後で、俺の性格にどこか変わったところってある?」
「ない」
二百キロサーブを彷彿とさせる即答だ。
「そんな、もうちょっと考えてくれよ」
「どうしたんですか?急に」
アッキーが心配そうに顔を上げる。
「今朝からこの調子なんだよ。どうも自分というものを見失ったらしい」
我門が言うと、木戸と大場が笑い出した。
「あり得へんわ、陣。お前くらいになると失くす方が難しいで」
「でも、もしかしたら坂上は自我を持っていなかったかも知れない。やってることはほとんど動物のそれに近かったし」
日野が真顔で割って入る。
「なるほど。本能むき出しだもんな」
大場がしみじみと合いの手を入れた。
「阿呆どもめ」
俺は足元のテニスボールを拾って日野に投げた。これだけバカにされても手加減する余裕があった俺はやはり相当に懐が深い。
ボールは見事に日野の頭に当たってから、大場の頭に当たった。しかし、ざまあみろ、と言う暇もなく、さらに木戸のラケットに当たり、壁ではね返って、棚に置いてある麦茶の素が入った箱に直撃した。中の麦茶パックはバサバサと床に落ちて、あっという間に埃まみれになった。
「あ」
と言ってから四元さんの方を向くまで、五人の行動は寸分も狂わなかった。
「何?」
四元さんは至って普通に言う。
「麦茶の替え、ある?」
「ない」
〇
「だから、どこ狙ってるのか見え見えだって」
陣子は俺がオープンコートへ強烈に打ち込んだはずの球に易々と追いつき、さらに角度をつけて返してくる。何とか追いついて返すが、威力は悪くないもののサービスラインのあたりでバウンドするような浅めの球になる。いつの間にやら前に詰めていた陣子はドライブボレーで容赦なく広く空いたバックサイドにボールを叩き込んだ。
「女の子がドライブボレーとは、恐れ入るね」
ボールをノーバウンドで、ストロークのようにラケットを振り抜いて打つドライブボレーは豪快な印象を与える。プロでは女子選手も普通にやっているが、陣子が小柄なので何となくそのギャップに驚いた。
「わたしだって、その、もうちょっとエレガントに決めたいけど、陣くんだってボレー苦手でしょ。だからわたしも苦手なの。ラケット振った方がより確実に入るし」
「分かるな、それ。それにしても、そうか、俺と得意不得意が同じなんだよな。それなら弱点を突くのは簡単じゃないか」
「そんなぁ、陣くんのいじわるぅ。女の子相手にそんなことするの?」
「う……」
「なーんてね。いいよ、どんどん打ってきなさいな」
「言ったね」弱点を突いてひぃひぃ言わせてやるぞ、ふふ。俺の弱点とは……
俺はサーブを打つ前にボールをバウンドさせながら考えた。しかし、そのままボールをつくばかりで何も思い浮かばない。
まさか弱点など無いのか。私生活を振り返るに弱点だらけだという気がするのだが、いざテニスとなると具体的に挙げられない。ボレーは確かに苦手な部類に入る。けれど、だからといって露骨にドロップで前におびき出すだけでは、読まれてウィナーを決められる可能性があまりに濃厚で、間抜けもいいとこである。何か他にないのか。
「陣くん、早くぅ」
「はいはーい」
陣子のおねだりするような声にのせられて打ったフラットサーブはバカ正直に彼女のフォアへ飛び、これ以上ないという速さと角度で戻ってきた。かろうじてラケットに当てた球は浅く浮き、陣子は跳んだ。
しなやかでいて力強いフォアのジャックナイフで勝敗は決まった。
「弱点を突くんじゃなかったの?」
「やっぱり女の子相手にそれは良くないと思ってね」
「陣くん、優しー」
「でしょ」
「威張らないでよ。弱点が分からなかっただけなのは知ってるんだから」
「まあ、そういう言い方もあるね」
「大体、陣くんは今まで相手の弱点を上手く突いて勝とうなんて真面目なこと考えたことあるの?無いでしょ」
「まさか」と言ってみたものの、確かにそんな気もしてラリーがボレー合戦になってしまった時のように自信がなくなってくる。
「わたしはあまりそういうこと考えないけどな」
「それは陣子ちゃんの場合だろ」
「ということは、陣くんの場合でもあるんだけど」
ああ、そうか。頭が混乱してくる。俺はこの睡眠でちゃんと休めているのだろうか。
「それじゃあ、陣子ちゃんは何を考えてテニスしてるの?」
「わたし?んーどうやったら楽しくなるか、かな。あんまり勝ち負けは気にしてないから」
なるほど。いや待てよ。それでは勝とうと躍起になっている俺があんまり惨めではないか。別に勝つつもりが無い相手にいくらやっても勝てないとは、自分同士で試合をしているというのに何という理不尽な実力差だ。
「まあ、そう落ち込まないで」
俺の胸の内を読んだのか、陣子は慰める。
「落ち込じゃあいないよ。それよか、勝つつもりが無いってのは、負けてもいいってことだよね。ということは陣子ちゃん、本当に俺に体をいじくりまわされたいってことかな?」
「そ、そうだよ。恥ずかしいこと言わせないでよぉ。早く陣くんとあんなことやこんなこと、したいんだから……」
例のラケットを両手で抱えて俯いたしぐさで恥ずかしそうに言った陣子の言葉は、先程のジャックナイフなど比ではないくらい強烈なウィナーとなって俺の胸に決まる。
「じゃあもう、テニスで勝つとかいいじゃん。今すぐしようよ、あんなことやこんなこと」
ネットの向こうにいる陣子に身をのり出して手を伸ばしたが、俺の考えが手に取るように分かるのだろう、陣子はそれよりもワンテンポ早く後ろに下がった。
「それはダメだって」
「なんで?そうだ、あんなことやこんなことをすればテニスが思い出せるかもしれない…ぬわっ」
跨ごうとして足をかけると、ネットは突然ものすごいスピードで上に伸び出したので、俺は仰向けに倒れた。
「そんな都合のいいことないよ」
早送りで植物の成長を見るように上へと伸びつつけたネットはちょうど大原高校のハードコートとオムニコートを分ける防球ネットくらいの高さになった。たくしあげたネットの下をくぐり、陣子側のコートに出たが、彼女はサービスラインくらいの場所に悠々と立っていて逃げ出す気配はない。俺は陣子に向かって走り出した。
なにも嫌がる女の子相手に無理矢理というわけではないのだから、俺のこの行動は別にやましくもなんともない。それに女の子の側だって大いにその気なのだ。むしろ、二人の間に立ちはだかる障害を突破しようとすることは、甚だ紳士的な行為と言っても差し支えないのではないか、などと考えていると二、三歩で到達できるはずの陣子に一向に近づかないことに気がついた。いくら走っても陣子との距離が縮まらない。
「早く目を覚まさないと遅刻するよ」
「学校なんぞ、どうでもいい」
息を切らして走っていると、サービスエリアは次第に傾斜してきた。どんどんと勾配は急になり、瞬く間に山道を走っている塩梅になる。
「気持ちは分かるけど、無理は良くないと思うよ」
「無理じゃないさ」
その時、巨岩のようなサイズのテニスボールが陣子の後ろから続々と現れ、そのまま斜面をごろごろ転がり落ちてきた。よく見るとそのテニスボールは日野が七夕の屋台で獲得し、四元さんが落書きを施したものだ。可愛らしい巨大な顔がごろんごろん転がってくる。
「うわっ、死ぬ、死ぬ」
「わたしがやってるんじゃないからね」
なんとか避けながら前進していたが、ついにテニスボールの一つにぶつかり、バランスを崩して転ぶと、次々転がってくる巨大テニスボールに巻き込まれながら俺は坂を下へ下へと転がり落ちていった。
〇
睡眠とは疲れを取るためのものであるはずなのに、起き出した時にはどっと疲れていた。
学校に着いた時には三時間目を回っており、いつもに増して帰りたいくらいである。保健室に行って仮眠を取ろうか、と考えながら歩いていたせいで慎重に昇降口へ向かうのを忘れた俺は、もののみごとに二階の渡り廊下を歩いていた中田先生に見つかった。決して高くない確率をここ一番で引き当てるとは、我ながらピンチの時にファーストサービスを高確率で入れてくるプロのような鋭さがあるが、要らない所ばかりがなんと鋭いことだろう。
中田先生は「あ、坂上、お前」と叫んでから、ドタドタと教官室の横の階段まで走っていく。どうやら、わざわざお説教をしに一階まで下りてくる様子である。今の内に逃げようかという考えは真っ先に浮かんできたが、後で回ってくるツケを想像すると、自分の読みとは逆のコースを突かれたように足が動かなかった。ここで逃げ出せば、どんなシコラー対シコラーのラリーも根気を持って見られるくらい長大なお説教が待っていることになるだろう。
「一体何度言ったら分かるんだ、お前は。えぇ?」
中田先生は怒鳴りながら下りてきた。
「それが分かれば苦労しないんですよね、お互いに」
思わず放ってしまったこのアンフォーストエラーで、三時間目の授業を棒に振って中田先生の説教を聞くことになった。別に三時間目の授業に出席したかったわけではない。しかしながら中田先生の説教を聞くくらいなら授業に出た方がマシであった。
ようやく教室に着く頃には四時間目の前の休み時間も半分が経過していた。
「よお、相変わらず来るのが無意味なくらいの遅刻だな」
荒んだ心を癒すために女の子とのおしゃべりが必要な時に限って、教室に入った途端に我門がにやにやとやって来る。
「自分探しは上手くいきそうか?」
「黙れ。おはよう、渡見さん、西野さん」
「おはよー」
「おはよう。なんか、中田先生が朝のホームルームで坂上くんの遅刻に怒ってたから、気をつけた方がいいかもよ。坂上くん」
「もう出くわして来たよ。俺も本当は君たちの顔をもっと早く見たいんだが」
「それよりもっと長く寝ていたい、のか」
「横やり入れるな、お前は」わざと足を引っ張ってくるダブルスパートナーのような我門を、俺がシッシッと手を振って追い払おうとしていると、
「私も、もう少し早く坂上くんに来てほしいなぁ」と渡見さんがぼんやり言った。まるでダブルスの試合中、相手の前衛に自分のサーブをいきなりボレーされたような不意打ちである。それは反則だぜ、渡見さん。でもこの際目をつぶろう。
「嬉しいね。そんなに俺に会いたがってくれていたとは、気づけなくてごめん」
「いやいや。坂上くんって問題児ってイメージあるじゃん。だから授業中とか先生の警戒の視線を一人で集めてて、いい隠れ蓑なんだよねー。席、隣だし」
レシーブ位置につく前にサーブを打たれたような気分だ。それも反則だぜ、渡見さん。
「陣はいいよな、渡見さんが嬉しいこと言ってくれて」
「黙れ」
嬉しそうな我門を殴り損ねると、鐘が鳴った。
「はい、授業始めますよ」
峰橋先生が入ってきたことで、俺は初めて次の授業が英語であることを知る。ぞろぞろと二年五組の面々が自分の席に帰る中、出席簿を確認している峰橋先生の次なる一声は、どれだけコースを隠すのが下手な選手の狙いよりも読むのが容易い。
「坂上くんは来てますか?」
「来てます、先生、来てますよ」
「はい、もうちょっと早く来ましょうね」
峰橋先生は、俺に嘘をつく暇もあたえず出席簿にチェックを入れた。
隠れ蓑という言われ方も大分気になるが、問題児とは心外である。これでも大原高校の掲げる自由という校風を尊重し、その教育方針の示すまま多くのことを成してきたつもりである。大原高校色への染まり具合に関しては、三年生と比べても人後に落ちない自信だってある。それを問題児とは、とても強い選手がテニス協会から『君は強過ぎるからランキングを下げるよ』と言われるようなもので、横暴にも程がある。
仮初にも大原高校の先生がそういったイメージを俺に抱いているのなら、これは看過できない問題である、と授業の大半を看過しながら考え込んでいた俺は、先ほどの中田先生の説教でさらに溜まった疲労が祟ったせいか、うとうととまどろんできた。
ああ、眠い。先生の言葉が外国語に聞こえる。あ、英語の授業だから当たり前か……
ついに腕が頭を支え切れなくなり、机に突っ伏した。
「あれ?やけに戻ってくるのが早くない?」
気づくとカーペットコートの脇に置かれた向かい合わせのベンチに座っていた。すぐ向かいのベンチでは陣子が脚を組んでテニス雑誌を読んでいる。俺は話しかけられたのも気づかずに、腿とスコートの間隙に熱い視線を送っていた。
「ちょっと、アンスコ履いてるから見ても無駄だよ」
「その下は?」
「ふふ、勝ったら分かるよ。てゆうか、戻ってくるの早いね」
「ああ、今授業中なんだよ。英語」それにしても授業中の居眠りでもここに来られるとは考えてもみなかった。「夜まで待てなくて君に会いに来ちゃったよ、陣子ちゃん」
「本当は睡魔に負けて居眠りしただけなんだろうけど、そう言ってくれると嬉しいな」
そう言ってにっこり笑った陣子の顔は、試合に勝てない自分を恨みたくなるほど可愛い。
「怒ってないの?」
「何で?」
「いや、まあ、その、いささか強引にいったことに関して」
「あはは、一応気にしてたんだ。怒ってないよ。だって、わたしは陣くんと一心同体だから陣くんの気持ちは誰よりも分かるもん」
何と良き理解者なのだろう。むろん、自分自身なのだから理解があるのは当然なのだが、傍からはどう見たって素晴らしい娘である。この包み込むような優しさに落ちない男がいたら、俺は断じてそいつを男と認めない。ただ自分の分身にこれだけ優しくされるということは、俺が自分に対してどれだけ甘い人間なのかを直視させられている気がして、やや素直に甘えにくい。よしんばそれを気にしないにしても、スキンシップを取ろうとしたら何が起こるか分からないのは、今朝のでよく分かった。
「カーペットコートか」
「珍しいでしょ」
「うん、日野の行ってたスクールがカーペットらしいけど、俺は一回も使ったことないな」
「まったく滑らないから、そのつもりでね。あと、転ぶと摩擦で結構痛いから」
「オッケー」
夢でも痛いのだろうかという点については敢えて触れなかった。
陣子は手品のように空中から、ブリジストンツアープロの新球を二個取りだす。
「先打つ?」
「今日はレディファーストで」
「授業中らしいから、飛ばすよ」
果たして陣子は今まで本気でやっていたのだろうか。相も変わらぬ完全試合に加えて、彼女の打つボールがコートを縦横無尽に走る黄緑色の閃光にしか見えなかった時は、夢の世界だから陣子の思うままなのではないか、と紳士らしくない疑いを持ちかけた。
「取りあえず、目が覚める前に終わったね」
「別に喜ばしいことではないけどね」
試合は時間にしたら五分くらいで終わっただろう。恐らく5セットマッチでも二十分とかからなかったと思う。もうちょっと粘れないのか、ゆっくり時間を使えば相手に傾いた流れを取り戻せるのではないか、と思わないでもないが、何せボールは何球でもポケットから出てくるので飛んでいったボールを取りに行く必要はなく、ゴミが飛んでくることはなく、トイレに行く必要などはさらさらない。様になる時間稼ぎなどとてもできない。
「陣くん、やっぱりまだわたしの考えって、読めないの?」
「さっぱり」
「わたし思ったんだけど、それって意外に重要なことなんじゃないかな」
「なんで?」
「だって、自分のことなのに分からないってことでしょ?それは、自分のテニスを忘れている状態に関係あると思わない?前にも言ったけど、その人のテニスを形づくるのはその人の性格なんだから」
「なるほど。でも、もし俺が陣子ちゃんの思考が分かったら勝負がつかないんじゃない?前に俺の方が強いって言ってたけど」
「それは陣くんの方が強いよ。だってわたし女だし、力じゃ勝てないもん」
「ホントに?」
「あ、ひどい」
「じゃあ、試しに俺が陣子ちゃんを襲っちゃ」
そこまで言いかけると、突如として足元のサービスラインが浮きあがり、縄のように足に絡みついてきた。もがく暇もなく、前方にいつか七夕の屋台で見たようなボール出しマシーンが現れ、次々と水風船が噴射される。機関銃を連想させる間隔で飛び出した水風船がバシャバシャと腹に命中し、俺は避けるためにうつ伏せに倒れた。ネット越しに見ていると、マシーンはゆっくりと噴射口を上に向け、今度は何か違うものを吐き出した。それは見事な放物線を描いて最高点に達すると、火花を散らしながら加速して落ちてきた。
ロケット花火かよ……
うつ伏せに倒れている俺の後頭部にロケット花火が直撃して爆ぜた。
「痛っ」
やけに現実的な痛みに驚いて体を起こすと、二年五組の教室だった。
すぐそばに峰橋先生が立っている。どうやら今しがた持っている教科書で頭を叩かれ、起こされたらしい。
「グッドモーニング、坂上くん」
「もう昼ですよ、先生」
「分かっているなら、起きてなさい」
〇
九月、十月、十一月と、ナイター照明などない大原高校では、日に日に練習時間が短くなる。それでも無用な悪ふざけが占める割合は減らないので、練習時間はいよいよ有るのか無いのか分からなくなる。ジャパンオープンが過ぎ、ATPワールドツアーファイナルが終わっても、俺のテニスは驚くべき上達など一向に見せなかった。むしろ驚くべきなのは、一回も途絶えることなく眠るたびに陣子がコーチをしてくれたことだ。おかげですでに二カ月の間、文字通り寝ても覚めてもテニスである。
時折講義を挟むものの、毎回試合をしているので、この二カ月の間に俺の脳内での試合経験は凄まじい量になっていた。実際に体を動かしてはいないのでイメージトレーニングにあたるのだろうか。だとしたら一度も勝っていないのは甚だ逆効果な気がする。
パァン。
この試合も陣子が24ポイント連取して試合を終わらせた。
「はい、ゲームセット。これで、わたしの八十八勝〇敗だね」
「陣子ちゃん、強いねぇ」
「ちょっとは悔しがりなよ」
「まるでプロ対アマチュアだ。悔しさの入りこむ余地がない」
「本当に?八十八回試合して1ポイントも取れてないんだよ。今のところ、わたしが2012ポイント連取してるんだよ」
「そんな数字を並べても俺はビクともしないよ」
「じゃあ、八十八回もわたしの体を好きにするチャンスを逃してるんだよ」
危うく悔しさに落涙するところだった。やはり俺自身だ。勘所は抑えている。
「今日はやけに闘争心を煽ろうとするね」
精一杯普通に振舞いながら話題を逸らす。
陣子はふうと息を吐いて間を取った。
「これはわたしの勘なんだけど、青松地区の団体戦が終わるまでにテニスが戻らなかったら、陣くんのテニスはもう二度と戻らないと思う」
「勘だろ?」
「勘だよ。女の勘」
自分の分身に女の勘と言われてもしっくりこないのは、俺のせいではあるまい。
「そうか。それなら、試合に勝つイメージが必要だな。次の試合、俺に勝たせてよ」
「そんなこと言って、勝ったらそれを口実におっぱい揉むことしか頭にないのがバレバレなんだけど」
「くそ、俺のくせにそんなエロ可愛いナリしやがって」
「悔しかったら、勝ってみなさいよ」
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