第19話 去年の青松地区団体戦

 テニスが戻らない内にアッキーがマネージャーになったことは想像以上に裏目に出た。部室に入る時はアッキーに練習の疲れを癒してもらうつもりなのに、部室から出てくる頃にはテニスの下手な自分に嫌気と焦りが募るばかりなのだ。アッキーが笑顔で励ましてくれるのに、その度に相手のスマッシュを待つような追い込まれた気分なってしまう。

 県の団体戦はいつの間にか始まり、いつの間にか終わっていた。結局試合に出なかった俺は、終始ベンチコーチとしてコートに入っていたにもかかわらず、対戦高校の名前一つすら思い出せないのだから、ちゃんと起きていたのかも疑わしい。

 団体戦と時同じくして全米オープンテニスも終わり、グランドスラム四大会が終了したプロテニス界では、規模の大きい大会は残すところATPワールドツアーファイナルのみとなり、シーズンオフにぐっと近づいている。しかしプロテニス界とは果てしなく関係無い青松地区の高校テニス界では十二月に青松地区団体戦というものがあり、年内のシーズンオフなどは無きに等しい。それどころか、昨年はシーズンオフでも毎日練習していたらしいので、もとよりこのいかにも不毛な部活動は常にオンシーズンのようである。

 そして次の大会まで三カ月という長大な猶予は、元来甚だしく欠如していた俺のモチベーションを最後の一欠片まで吹き飛ばした。

 ある時、三球連続で球出しを見送ってしまった俺に、業を煮やした木戸が声を上げた。

「何しとるんや、陣。『悩みがあって上の空です』みたいな素振りしおって、思春期の女の子かいな」

 怒りながらもこっちにボケる隙を作るとは、なんと面倒くさい奴。球出しの球と同じように無視してやろうと思ったが、自然に出てきた言葉は見事に木戸の出したチャンスボールを叩いていた。

「だって陣子、女の子だもん。悩みくらいあります」

「何や、言うてみ」

「やめろ。今二人にトイレ行かれると、練習が中断するだろ」

 めずらしく止めに入った日野の言葉で『陣子の放課後秘密特訓(R18指定)』ゴッコは強制終了させられる。

「そうだぞ。二人とも青松の団体戦勝つ気あるのか?」大場は日野に同調したが、明らかに残念そうである。「特に陣、去年、唯一青松の団体戦だけが優勝できなかったのはお前のせいなんだが、やっぱり忘れているのか?」

「それは嘘だろ」

 全く覚えていないながらも俺は断じた。そもそも団体戦というチーム競技の敗北が、俺だけの責任というのはどういうことか。責任転嫁もいいところである。

「嘘やないで」

 もうこれで何度目になるか分からないが、俺は自分が忘れている過去の話を聞くことになった。当然、練習は中断した。


 〇


 昨年の青松地区団体戦の決勝は大原高校対小俵高校だったそうである。こっちのオーダーはシングル1が俺、2が日野、ダブルス1が木戸・大場と、それまで通りのオーダーであった。決勝ということもあり、三面展開で全ての試合が同時スタートだったらしい。

 青松地区個人戦と平津加ジュニアを共に単複制覇していた俺たちは気持ちにゆとりを持って決勝戦に臨んだ。それはもう、コートに入る直前まで猥談に花を咲かせていたというから、ゆとりを通り越して自分たちが今から何をしようとしているのか把握し切れていない観がある。そうした俺たちの慢心を突いたのは小俵高校のダブルス1、田中・森のペアだったらしい。その年、インターハイ予選の二回戦を除き、出場した全ての試合で勝っていた木戸・大場がそこで黒星をつけたのだ。大接戦の6―7。タイブレークは9―11だったらしい。

 日野はいつも通り堅実なプレーをして、6―1で勝利を飾っていたという。

「それじゃ、お前らのダブルスが負けた責任もあるだろ」

「まあ待て。最後まで聞け」

 その間、俺はどんな試合をしていたのか。

 上杉先生がダブルスのベンチコーチに入っていたために、俺のベンチコーチは我門であった。四元さんでないことに不平をこぼしながらコートに行くと、小俵高校のベンチコーチは美しい女子マネージャーであったという。

「そうなのか。ああ、くそ、今ひとつ顔が思い出せん」

「問題はだな。その女が何やらたくさん服を着込んでいたことだ。着膨れするぐらいにな」

「それは、師走の過酷な寒さと乾燥から肌を守るためじゃないのか?」

「まあ、俺たちもその時はそう思って疑わなかった」

 その女子マネージャーにやや視線を持って行かれながらも、シングル1の試合は負け審の桜南生のコールで始まった。

 小俵のシングル1はまるで相手にならなかったそうだ。開始から数分で3ゲームを連取し、その間に俺が落としたポイントは僅かに1ポイントだったという。それなら何故負けたのか。3ゲーム目が終わった後、チェンジコートのためにベンチへ戻った時、その後の試合の流れを決定づける一言が小俵の女子マネージャーから放たれたからだそうである。

『一ノ瀬くん、元気出して。次のゲーム取ろう』

『うん……』

『元気ないなぁ。よし、これから1ポイント取るごとに一枚ずつ脱いであげるから』

「何ですとっ」

「そう、まさに俺たちはその反応をしたよ」我門はへらへら笑う。

『な、何を言ってるんだよ、三崎さん』

『だって一ノ瀬くんが元気ないから。あ、でも連続でポイント取らないと駄目だからね。1ポイント取ったら一枚脱ぐけど、1ポイント取られたら一枚着るから』

『いやだから、そんなことしないでくれよ……』

 俺たちのベンチまでしっかり声が聞こえていたからには、全てその女子マネージャーの策略だったのだろう。特に最後のルール説明は俺に対して『デュースで延々と交互にポイントを取っても意味無いからね』と、露骨にさした釘以外の何ものでもない。

 俺はまず冷静に2ゲームを手中に収めた。ゲームカウントを5―0として、再びベンチに戻って来た俺の顔には、今まさにグランドスラムの決勝戦へ赴かんとするプロの如き決意が漂っていたという。

『やるのか?』

『ああ』

『それでこそ、お前だ。頼んだぜ、相棒』

 90秒あるチェンジコートの間、俺と我門の会話はこれだけであったそうだ。

 ついに第6ゲームから怒涛の攻めが始まった。もちろん攻める相手はベンチにのびのびと座っている小俵高校のマネージャーであった。手始めにリターンを全て紙一重でアウトさせてゲームを落とす。剥ぎ取ったのは手袋四つである。それでもなおマネージャーの手には手袋がはめてあったらしい。三枚重ねで手袋をしていたとは、敵ながら天晴れである。

 続く第7ゲームは四回連続でダブルフォルトを繰り出し、あっさりとサービスゲームを終わらせる。手袋を全て取り去り、靴も脱がせた。ベンチに戻って来た時、まだ余裕の表情を浮かべているマネージャーを見て、俺は『今に見てろ、すっぽんぽんにしてやる』と呟いたらしい。紳士にあるまじき発言である。さすがにこれだけは反省したい。他に反省すべき点があるだろう、などという意見には断固として耳を貸さない。

 第8ゲームで俺が2ポイント連続で落とした時、ついに小俵の選手がこちらの狙いに気がついた。マネージャーとの間柄は今ひとつ分からないが、彼はわざとサーブを大きめに打ってダブルフォルトをしにいったのだ。大きく外れたセカンドサーブに俺は思わず『バカ野郎』と叫んだらしいが、さすがにそれは嘘くさい。しかしとにかく重要な計画に狂いが生じたように思われたその時、『40―0』という審判の声が響いたという。

『おい、今のはフォルトだろう』

 フォルトした選手がインの判定に異議を申し立てる妙な展開になったらしい。

『入ってます』

 にべもなく答えながら、桜南の審判はこちらに親指を立てて合図をしてきたそうな。

「名前も知らないが、あいつは間違いなく俺たちの盟友だ」我門はしみじみと言う。

 まさにその通りだ。今後、道端であったらそのまま飯でも食いに行くのに吝かでない。

 次に相手がどうくるか手に取るように分かった俺は、レシーブの位置をかなり前に取り、相手がトスを上げた瞬間ネットに走り出した。案の定、サーブはネットにかける気満々の低空飛行だったので、俺はサーブがネットにかかるより前にラケットでネットを触った。

『タッチネット。ゲーム、ゲームウォンバイ小俵、ゲームカウント5―3』

 小俵の選手は愕然とし、マネージャーは靴下を四枚脱いだ。

 自分のサービスゲームは何ひとつ気遣う必要がなかった。あっという間にダブルフォルトで落とし、マフラー二つと上のウィンドブレーカーを二つ剥ぎ取る。

 しかしながら、やはり相手のサービスゲームはそれからも凄絶なものだったらしい。相手があの手この手で失点しようとするのを何とか防ぐという、すでに意味不明を極めた内容になっていたそうだ。小俵の選手がベースラインから五歩も内側に入ったところでサーブを打ち、フットフォルトを主張しても審判は頑として受け付けず、狙ってフォルトをしようものならボールがどこかに当たる前に、俺がタッチネットした。

 彼がサーブを打つ前にする反則は全て黙認され、打ったならばその瞬間に俺が反則することで相手にポイントを与え続けたのだ。傍から見なくても奇々怪々である。いくら二つ離れたコートで伯仲していたダブルス1の試合に小俵の生徒の応援が気を取られていたとはいえ、誰もこの試合のおかしさに気がつかなかったのは奇跡としか言いようがない。

 小俵の一ノ瀬選手は目に見えて憔悴していたらしい。追いあげている方が憔悴し、追いつかれつつある方が生き生きしている試合など、いかにテニスの歴史が長くても稀であろう。

 ゲームカウントが5オールになった時、小俵のマネージャーの表情も少し固くなっていたそうな。なにせそのゲームで上下のウィンドブレーカー一枚ずつと靴下を左右一枚ずつ脱がせることに成功していたのだから。最初はむちむちと着膨れしていた彼女の体も、事ここに至ってスラリと変身していたらしい。俺と審判が力を合わせて進んだ、誰一人賞賛しないであろう茨の道のゴールも目前に迫っていたというわけだ。

 第11ゲーム。2ポイント落とすと、ついに靴下を取り去り、生足が顔を出した。さらに1ポイント落とすと、上のウィンドブレーカーを脱ぎ去り、マネージャーは真冬の寒空の下でTシャツ姿となった。もう1ポイントで下のウィンドブレーカーもなくなって、Tシャツに半ズボンのジャージという真夏の格好になってしまった。

『ゲームカウント6―5』いよいよだ。俺が思わずにんまりとした顔を小俵のマネージャーに向けると、彼女は毅然とした顔をしていたらしい。コート上の誰よりも選手がするべき表情をしていたのが彼女であるとは些か以上に残念であるが、その時はそれどころではなかったのであろう。

 待ちに待った第12ゲーム。まずは1ポイント落とす。さあ、Tシャツ脱ぐのかハーフパンツ脱ぐのか、ブラを見せるかパンツを見せるか、何色か何柄か。俺と我門と審判の甚だ男臭い期待の眼差しを一身に受けた彼女は、悠然と髪につけていたヘアピンを外した。

 何も話していなかったのに、絶句した、という表現が適当な反応を俺たちはしたらしい。

「詐欺だ。純粋な心を弄ぶ悪魔的所業だ」

「純粋かどうかは別として、確かに俺も詐欺だと思った。悪魔的というより小悪魔的所業だけどな。しかし俺たちは諦めなかった、と言っても諦めなかったのは主にお前だが」

 そのままもう1ポイント落とすと、彼女は二個目のヘアピンを外した。その時点でもうヘアピンはなかったらしい。勢い込んで3ポイント目を落としたら、髪を束ねていたヘアゴムを外して、ついに髪につけている物もなくなった。しかし、同時に俺の後もなくなった。相手のマッチポイントである。

 今から挽回してこのゲームを取るには最短でも5ポイントかかる。つまりどうしても彼女は五枚着る。しかし、ゲームカウントを6―6にすればタイブレークである。タイブレークは7ポイント先取だ。6ポイントまで相手に与えることができる。つまり、負けることなしに今の状態から更に一枚脱がすことができる訳だ。と、俺は相手がボールを拾ってサーブのポジションに戻る間にこう考えたらしい。

 俺は早速次のポイントを、実に27ポイントぶりに取った。マネージャーはそそくさとウィンドブレーカーを羽織った。よほど寒かったのだろう。

 明暗を分けたのはこのポイントだった。40―15。相手はいつも通りのサーブを打った。が、いつも通りのバウンドはしなかった。何にぶつかったのか知らないが、そこで相手のサーブはどぎついイレギュラーバウンドを見せたのである。

 なんとか飛びついた俺のレシーブはネットの白帯に直撃し、そのまま真上に舞った。

 そして緊張の一瞬の後、ボールはものの見事に俺のコートに落ちたのだそうだ。

 有無を言わさぬゲームセット。握手している間、小俵のマネージャーは律儀にも、またTシャツと ハーフパンツ姿になっていたという。顔には勝利の微笑を浮かべて。

「何だよ、それ。40―0の時にそのまま負ければよかった」

「ああ、それがお前の試合後の第一声だったよ」

 我門が言うと木戸と大場が笑い出した。俺はなぜかその時の俺が妙に羨ましかった。

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