第2話 ホートスコピー

 赤いラインの刻まれた白衣を纏うリトゥーチャは、同じ意匠が施されたくすんだ鈍い黄色い壁で覆われた部屋の中にいた。彼女の対峙するペンキで真っ赤に塗られた安物の鉄製の机の上には、幾つかの工具が転がっている。彼女にとっては使いやすい場所に置いてあるのだろうが、それらは配置した本人以外から見れば、散らかっているようにしか見えない。引き出しからは何が書かれているのかわからない設計図が何枚もはみ出している。

 その横のコンピュータが置かれた机には、ホログラフィで映し出された小型チップの拡大図が緩やかに回転しながら浮かぶ。時々それを睨みながら、彼女はハンダと精密ドライバーを使って部品を組み上げていた。本人はゴテゴテとしたフィルターが二つもついたガスマスクをしているせいか気づかないが、この部屋に充満するハンダの独特な臭いはひどいものだ。それに加えて部屋の主が頻繁にマスクをずらしてタバコを吸うものだから、この部屋のあらかたのものは黄色いヤニがうっすらと染み付いていた。

 椅子に座る彼女の後ろでは、所在なげにドクボットが佇み、時折カメラアイの絞りを開けたり締めたりしていた。タバコの煙に目をしかめているようにも見えるが、それは単に動作確認をしているだけだろう。

 そのボットは、一見すると小さなドラム缶のようだ。子供ほどの高さしかない白い円筒形の胴体に、穴にも見えそうな赤いカメラレンズが一つ。その胴体にカラフルな配線が剥き出しの工業用マニピュレータと、貧相で細い足が二本生えている。合理性と生産性だけを求めた結果のデザインだが、中身にはそれが大層気に入らないらしい。胴体の中には、錠剤や薬剤をしまっておくための丈夫な保管庫が搭載されており、軽く数十人をオーバードーズであの世に送れるほどの量の多幸薬さえもが詰まっている。そしてそれらに隠されるようにして、脳髄を保存されたポットがその奥に鎮座している。このドクボットはAIではなく、その脳によって操られているのだ。

 ここはリトゥーチャの自宅だ。ごく普通で、可もなく不可もないマンションの一室。多くの人が望むものだが、彼女の年齢で手に入れられる人間はそう多くない。殆どの人間は、築何百年という古いコンクリート製で錆の浮いた蛇口を捻りながら生活しているのだ。

 「ラーゲリー、今何を作ってると思う?」マスク越しのくぐもった声で彼女は尋ねる。

 『さぁな、わからん』

 興味なさげにラーゲリーは答えると、今度はハンダから流れる煙を眺める。

 それを見ながら、彼は今の肉体の不便さを感じていた。ラーゲリーは四六時中このボディに不満を持っているが、特に怒りがじわじわと湧き上がるのは、今のような自由で空白な時間だ。体が機械になっても、彼の脳は食べ物を欲するが、それを解消する方法はない。暇を実感すると、彼の脳はそのことばかり考えて、彼を不機嫌にするのだ。

 「これはボクと君がもっと親密になるための架け橋のようなものだよ」

 『ますますわからんな』

 彼は両腕を使ったボディランゲージでそれを表現する。それも、大仰に、やけっぱちに。彼なりに今の気分を改善しようとしているのだろう。

 「ボクと君の会話は、君の生命維持装置についてる電波発信機を改造して通信機にしているわけじゃん?」

 『そうだな』

 リトゥーチャはレンチで自分の額をガスマスクごしにコツンと小突く。そうすることで長時間の作業で鈍った思考を戻そうとしたのかもしれない。

 「でもこのままだと、ボクたちは敵がもし電波撹乱剤を空気中にばらまいたり、大規模なECMをかけた場合に会話できなくなっちゃうんだよ。通信距離も短いしね。だからボクの技術力を余すところなく使おうかと。HYPのボクの部署が開発した新型のEPR通信機に変えようかなーって」

 『そういえばお前はHYP社の社員だったな。EPRってのはなんだ?』

 「量子力学の話になるけど、聞く気ある?」

 『いやいい。俺がわかってりゃいいのは、凄い通信機ってことだろ』

 投げやりに彼は応えた。技術的な話をされても、彼にはさっぱりだ。自分のボディの構造すらわかっていないのだから、それも仕方ないことではある。

 「うん、そゆことー。技術なんてそれでいいんだよ、どんなバカでも使えるのが、本当に普及する技術なんだし」

 フォローするように彼女は言う。

 『ちなみにそれはいつごろ完成しそうなんだ?』

 「さあね。でも数日中には試験に入れるかな」

 『……そうか。これでいつでも一緒ってわけだな。まるで首輪だな』

 「んー? そんなにボクと一緒にいるのイヤ?」おもむろにガスマスクを外す。バランスよくまとまった、少女から女へと移りつつある顔が顕になる。霞がかった部屋の空気が清純であるかのように、彼女は何の反応も示さない。慣れきっているのだ。ガスマスクをしているのは、微かに残った健康への良心というやつだろう。

 彼女は椅子をくるりと回転させる。そうすると、ちょうどドクボットのカメラアイとの目線が合うのだ。彼女の頬は心なしか、普段よりも膨らんでいる。

 柔らかそうだな、つついたらどんな反応が返ってくるのだろうか。とラーゲリーは考えるが、その感触を楽しむ術が彼にはもうないことを思い出すと、心底落胆しながらカメラアイの絞りを閉じた。

 『別にそういうわけじゃない。ただ不安なだけだ。ここに来て一ヶ月になるが……』

 「まだ慣れないとか? 意外と繊細だね」

 『ああ。俺はどうやら根っからの貧乏性らしくてな、黒い壁じゃないと落ち着かん』

 彼に言われてリトゥーチャは自室をあらためて眺めてみる。ヤニで変色しつつはあるものの、確かに黒くはないし、ひび割れてもいない。

 「住めば都とはいうけどさ、よくゼロシックスの黒い住居で満足してられるね。鉄臭い水が出るっていうか、そもそも出ないことも多いし! 給湯器も忘れたころに爆発するし。唯一安全なのは電気ぐらいでしょ?」

 ゼロシックスとは黒色のクリアランス、すなわち最下層市民を指す俗語だ。黒のカラーコードからつけられた俗語だったが、いつしかそれは名前の通り「全てがゼロ。何の権利もない」ことを意味する蔑称に現在は変わっている。

 『そんなことはないぞ。電気ですらよく漏電して火がついた』

 それを聞くと、ほらね、と言いたげに彼女は両手を上げる。

 「命がいくつあっても足りないよ。この部屋が劣ってるとこなんて、せいぜい空気が悪いくらいでしょ」

 『そうだな、俺のレンズが汚れてるのかと勘違いしかけるくらいなのが唯一の欠点だな』

 欠点がある方が愛着が湧くときもある、と彼は電波にのせずに独りごちる。

 「でも喉がないし、そのへんは気にならないでしょ」

 『その通りだ、正直なところ今の暮らしは悪くない。だがなんというか、このボディになってから住みよさはどうでもよくなった。そもそも人間ほど感覚器がないしな』

 「うわあ末期だなぁ。でも、もしまだ黒のビルに住んでたら、充電中に発火するかもよ?」

 『それで死んだら死んだで、それでいいさ。俺はもう二回死んでるんだからな』

 「ふーん」

 彼の発言に彼女は驚きもしない。この都市で何回も死ぬということは珍しいことではないのだ。

 完全に脳死したのが確認された場合、翌日の朝にはその死人の部屋に死ぬ瞬間の記憶をも完全に保持したクローンが送られてくる。そのクローンは元の人間と全く同じなので、そのまま死んだ自分の代わりに生活することが出来るわけだ。

 ちなみに、反逆罪で殺されようとも記憶は消されない。管理機が言うには「反逆的な思想」は全て取り除かれるはずなのだが、そうなっていないことは周知の事実だ。建前上は消されたように振る舞い、結社活動を続ける人間は山ほどいるし、一度死んでしまえばすぐにわかることだ。だったら新品のクローンが届き次第告発すればいい、と誰もが思うが、そうしてしまうと管理機が記憶が消していないと「管理機への不信感」を露呈したことになり、告発した側が反逆者扱いされる。管理機の狂気の一端が、このクローンシステムだった。

 そもそもどうやってどこに記憶を保存しているのかすら、市民の誰もが知らない。

 「元々どこにいたんだっけ?」

 『治安局だ。俺は訓練教官だった』

 「えー! いや、でも、言われてみると……確かに。喋りがそんな感じする。あくまで雰囲気だけど」

 リトゥーチャは大きく神妙に頷いてみせる。

 『そこで色々あってな。そこからの顛末はお前も知っての通りだ』

 「なんでか知らないけどさ、いつもそこで話を濁すね。なんで?」

 白衣のポケットからタバコのパックを取り出し、彼女はその一本をハンダゴテに押し当てる。すぐに煙が出始めるので、彼女はそれを咥えて息を吸う。するとタバコの先端にあっという間に火がついた。四六時中電子基板をいじっている彼女にとって、当然の帰結といえよう。

 初めてラーゲリーがその光景を見たときは驚いたものだったが、今では彼女の道具の使い方に逆に感心するほどだ。

 『……話したくないことくらい、誰にだってあるだろう?』しばしの沈黙を挟んで彼は答える。

 彼女はそれに納得しない様子だった。半開きにした目で、彼をじっと睨む。

 「ボクはないよ、君に話せないことなんか」

 『さて、どうかな』ラーゲリーは体を捻って視線をずらした。レンズが胴体に固定されているので、こういった動きをしなくてはいけないのだ。

 しばらくそのまま無言で腹の探り合いを続けた両者だったが、タバコの先端でしなだれる灰と、こんもりと積み上がった吸い殻の山にリトゥーチャが気づくと、それを捨てるためにキッチンのシンクへと向かった。それから思い出したように換気扇を回す。濃く充満した煙というのは驚くべきことに、空気の流れさえも視覚化する。

 そのまま部屋に戻らずにリトゥーチャは肩越しに「お風呂入るね」と告げ、自分の着ていたものを適当に丸めて脱衣所の隅に放り投げて浴室へ入っていった。

 蛇口を捻る音とシャワーの水音がラーゲリーのセンサーへと届く。彼はその音を注意深くセンサーで捉えていた。リトゥーチャの入浴シーンを妄想しているわけではない。そんなことをするくらいなら、彼はずかずかと裸の彼女がいる風呂場の引き戸を引くだろう。彼はそういう性分だ。

 タイミングを測るためにそのまま微動だにしなかった彼だったが、心を決めたのだろう、唐突に動き出す。向かった先は玄関だった。迷いなくそのままドアを開け、履ける靴もないので金属製の脚を剥き出しにしたまま鉄の足音を鳴らしつつ、この部屋よりかは遥かに正常な空気の外へと出ていった。生暖かく完全に管理された外気が、部屋に一瞬だけ吹き込んで煙をかき乱す。

 リトゥーチャがラーゲリーが消えたことに気づいたのは、風呂上がりに下着一枚で冷蔵庫から合成乳飲料を取り出した後だった。白い肌はほのかに赤みがかり、うっすらと湿り気を帯びて陰影を際立たせていて、肩からかけられたタオルは、何も隠そうとしていない。

 しばしの間、はしたない格好で部屋の中をうろつきつつ、彼を探しているのか机の下を覗いたりしていた彼女だったが、瓶に入った白い液体を思い切り飲み干すと、「……マジ?」とだけつぶやいた。

 彼が部屋にいないことに気づいても、何か用事があったのだろうと彼女は自分に言い聞かせることにした。なんであろうとすぐ戻ってくるはず、とタカをくくっていたのだ。しかし、彼女が赤いパジャマに着替えて明日の休日へ向けて惰眠を貪るためにベッドに横になる時間になっても、彼の硬い足音は彼女の耳に入ってこなかった。




 翌朝、リトゥーチャはベッドの上で大きく伸びをし、乱れた髪の毛を無意識になで、寝ぼけ眼で部屋を見やる。ヤニで黄色く変色した壁と家具、散らばった部品や工具しかそこにはない。普段ならばスリープモードから復帰した彼が挨拶をくれるのだが、それがないだけで随分と部屋は大きく、冷たく感じられる。大きくため息をついて目をこすりながらベッドを降り、彼女はふらふらと台所へと向かった。

 シンク横のFTAのマーク入りの紙袋からザラザラとしたやすりのような肌触りの食パンを一切れだけ取り出し、冷蔵庫からピンク色の合成ハムを一枚摘むと、トーストへそれを放り込んだ。

 寝起きの一服を味わい終わる頃には、トースターの中身はいい塩梅に焼けていた。それを取り出すと薬品の臭いが溢れ出す。市民にとっては馴染みの香りだ。ためらいなく彼女はそれにかぶりつき、なんの楽しみもなくそれを胃に押し込む。それから食後の一服を時間をかけて済ませ、水をコップ一杯分飲み干すと、彼女は普段着の赤いパーカーへと着替えた。何の模様も飾りもない、ただのパーカーだ。下はダボダボの半ズボン。ファッションに気を使えないのが、彼女の欠点だと言えるかもしれない。そのズボンに細々とした必需品(PDC、財布、レーザーガン、その他違法物)を詰め込み、忘れているものがないかどうかチェックし終えると、彼女は「よし」と呟く。

 急ぎ足で玄関に行こうとするが、その前にくるりと方向転換すると、ベッド脇のベランダのドアを開けた。そこには輪ゴムで丸められた新聞紙がいつものように届いている。ポストではなく、地上八階にある彼女の部屋のベランダにだ。その中の広告をざっと流し見ると、一番右端の「フォーティツ美術史入門」が彼女の目を引いた。そのFSBN(フォーティツ標準図書番号)「978045151865142」をしっかり覚え、何度か数字の羅列を復唱してから今度こそ彼女は玄関に向かう。

 スニーカーに人差し指を突っ込み、かかとのひっかかりを直しつつあたふたと玄関を出た彼女は、エレベータに乗り込む。普段なら安全に配慮して階段で降りるところだが、一刻も早く彼を見つけたいという気持ちが彼女にそうさせたのだろう。滑り落ちる箱の中かから彼女はマンション前の道路を見下ろす。そこには出勤するゼロシックスが黒い背広を着て、蟻のように列をなしてトラム乗り場へと向かっていく姿しかなく、目当ての白いドクボットは見当たらない。

 エレベーターから降りた彼女は自分のマンションの前を見渡すも、やはり探している姿はない。

 そんな中で彼女が目をつけたのは、錆一つない真っ白な街灯だった。二階の高さまで伸びたそれには、この都市にありふれた箱型の監視カメラと処刑用の小型レーザーガン、それからスピーカーが取り付けられている。これで管理機は街中を監視し、その声を余すところなく届けているのだ。リトゥーチャの目的は、その監視カメラのデータだ。それを抜き取ればラーゲリーの姿が映っているかもしれない、どこへ行ったのかわかるかもしれない、と彼女は考えたのだ。しかしそれは容易ではない。これだけの人混みの中で、街灯に何かしらしようものなら、すぐに告発されてしまう。だが彼女には慣れた手があった。

 リトゥーチャの細い手には不似合いなほど力強く、すぐ脇を通り過ぎて行こうとした黒服の肩を掴む。振り返った青年は、リトゥーチャの着ている服の色を見て、背筋を伸ばした。その口元は悲惨な未来を予見してしまったのであろう、恐怖で震えている。それもそうだろう、ゼロシックスが上位クリアランスの人間に唐突に呼び止められることが意味するのは、多くの場合は厄介ごとの押しつけだからだ。リトゥーチャとこの青年のクリアランスは一つしか違わないが、それでも絶対に従わなければいけないのがこの都市のルールだ。

 「な、なんですかレッド様」

 「ちょっとこっちに来てくれる?」

 黒服の青年を街灯の下へと引っ張り、ライターほどの大きさの端末を青年に手渡す。彼女は一度上を仰ぎ見て、監視カメラの視線が真下ではなく、前方を向いていることを確認する。そして軽く振り返り、別の街灯の監視カメラが自分の手元を映さないように気を配る。それらのチェックを終えてから、青年の耳に唇が触れそうなほどの距離で彼女はこう囁いた。

 「ボクは今、管理貴様からの大事な仕事を任せられていてね。君の助けが必要なんだ」

 「わ、わかりましたレッド様。なんなりと」

 震えの収まらぬ青年の指をがっちり掴んでその端末を操作させる。端末に取り付けられた白黒の液晶には大量のアルファベットの羅列が並ぶが、それを読むことは流れるスピードから考えて不可能だろう。やがて「実行」と書かれたインターフェースが降りてくると、彼女はそれを押させた。「ダウンロード」と表示されたプログレスバーが満タンになるまで彼女はそれを押し続けさせる。それが終わったのを確認すると、端末のデータチップを満足気に抜き取った。

 「あ、あのこれは……」

 きょとんとした顔でリトゥーチャを見つめる青年に彼女は微笑む。「協力ありがとう」と彼の耳にだけ告げて。

 そしてその男の胸ポケットに使い終わった端末を、そうするのが当然かのごとく差し込む。

 全ての準備を何のひっかかりもなく行えたことに心のなかで自画自賛しつつ、リトゥーチャは青年を突き飛ばして腰をつかせた。そして先ほどの笑顔などなかったかのように真剣で切羽詰まった表情を作ると、悲鳴にも似た叫び声を張り上げたのだ。

 「監視カメラに破壊行為を行った反逆者だ!」

 二人の頭上にある監視カメラとレーザーガンが男へと照準を合わせる。周囲に先ほどまでいた黒服達は、その言葉を聞くと我先にと歩調を速め、見て見ぬふりをして道を急ぐ。誰もが視線を合わせず、緊張に顔を強張らせ、誰も倒れない程度に、だが確実に人を押しのけていく。ゼロシックスのこういった反応は、彼女にとって望ましいものだ。

 「は!? 違う! 俺は何もしてない!」

 「善良な市民に感謝します。告発の義務を見事果たしましたね!」

 カメラを見上げて叫んだ青年の声は、スピーカーから発された大音量の機械音声によってかき消された。女性をイメージして作られたであろう管理機の音声は、ところどころ異様にイントネーションを外しており不気味だ。

 「信じてください管理機様! 俺じゃ……」

 「ボクはこの男が妙な端末を使って何らかの破壊行為をしているのを見ました、管理機様! さあポケットに入ったものを出せ!」

 青年の声を遮るためにわざと大仰に怒号をあげ、男の肩を踏みつけて立てなくすると、おぞましく恐ろしいものでも取り出すように彼の胸ポケットから先ほど自分が放り込んだ端末を摘みだす。

 「ほら見てください!」と彼女は声を張り上げ、それをカメラの前に突きつけた。

 「わかりました、告発ありがとうございますレッドの市民よ。反逆者の黒市民よ、あなたの欠陥は新品のクローンに取り替えられることによって即座に修復されます。あなたはこの社会にまだまだ貢献し続けることができますよ!」

 「嫌だ、嫌だ! 違う、俺は何もしてない! このレッ」

 そこまで喋った彼の頭は、もう首とは繋がっていなかった。切断面は黒く焦げて固まり、血の一滴すら吹き出していない。胴体と手足は、死の直前に送られた司令を全うしようとしているかのように、痙攣を起こしてびくびくと跳ねる。転がった頭部はまだ状況が理解できていないのか、何度か目をしばたいていた。

 リトゥーチャは焦げた肉の匂いを嗅ぎながら、いつの間にか抜いていたレーザーガンを監視カメラに見せつけるように頭上でゆらゆらと振った。

 「反逆者は迅速に処理しました、管理機様」

 「賞賛しましょう市民よ。よい一日を」

 近くのエアシューターのドアが開き、死体を片付けるためのルンボットが下から送られてきた。それは以前下水道で目にしたものよりも二回りほど大きく、体の前面にはいくつものレーザーガンの銃口が生えている。足の代わりに付けられた無限軌道で滑るように遺体に向かって移動しながら、警告灯を光らせて周囲に生きた人間が近づかないように警告する。そんなことをしなくとも周りの黒服達はルンボットから目を背け、勤勉な労働者らしく歩き去っていくのだが。

 遺体の前に立ったルンボットはレーザーを照射して網目状に遺体を切断すると、ハサミのような簡易アームでそれらを掴んで胴体の扉を開き、次々にそこへブロック肉を放り込んでいく。一滴すら地面に血痕を残さない、完璧な仕事だといえる。レーザーの焼け跡は残るが、人々に踏まれればすぐに消える程度のものだ。

 リトゥーチャは自分の住居ビルの入り口の段差に座り込み、ルンボットの鮮やかな手際を鑑賞しながらPDCへ先ほどのチップを差し込んだ。そこには一日分の監視カメラの映像が映し出される。早送りしながら彼女はそれをチェックしていくと、唐突にその画面が砂嵐に変わった。かと思うと、すぐに正常なカメラ映像へと戻る。すぐさま巻き戻し、砂嵐が入った時間を調べる。六曜日の午後九時。ちょうどラーゲリーが出ていった時刻と一致する。おそらく、彼が監視カメラの映像を消したのだろう。その事実に、リトゥーチャはラーゲリーからのメッセージを受け取った気がした。追ってくるな、と。

 「もしかして、怒ってるのかな……」

 最初のヒントを潰されてしまい、これからどうしようかとぼんやりと考えながら彼女は大通りの歩道をアテもなく歩いていく。俯いたまま歩く彼女は地面しか見ておらず、前には多くの黒服がいるにも関わらず避けようともしない。ゼロシックス達がぶつからないように避けていくのが当たり前だからだ。その間、彼女は自分が彼を怒らせたのだと仮定して、ひたすら過去の言動を思い出していた。

 ラーゲリーは何が気に入らなくて出ていったんだろう、ボクの何が悪かったんだろう。冷蔵庫みたいって言ったこととか、やけどした時にドクボットだしって言って手当してもらったりしたこととか、彼がスリープモード中にコンセントに足を引っ掛けて半抜きにしたのに謝らなかったこととかかな。それとも、単純にボクとの共同生活に嫌気がさしたのかな。

 考えれば考えるほどに溢れ出してくる彼への無礼な物言いを彼女が思い出すたびに、自分はなんて失礼で最低なことをしていたんだろう、と腹の底が重くなるのを感じた。その重みは段々と、彼女の足にまでじんわりと広がっていき、歩みを鈍らせる。

 十字路で信号待ちのために立ち止まる。そこでは赤や青、緑色の似たようなデザインの車が走っていく。黒い車は一切ない。リトゥーチャはぼーっとそれらを眺めていたが、道路の向こう側で自分に目線を合わせてくる赤いTシャツを着た金髪のショートヘアの女がいることに、ふと気づいた。見覚えのある顔だ。その女は両手の親指と人差し指でそれぞれ輪っかを作ると、それを鎖のように噛み合わせる。その結社のハンドサインを知っていたリトゥーチャは全く同じサインを作ってから、噛み合わせた鎖を引きちぎるように両手を離す。交差点の向こう側の女は小さく頷いた。

 信号が変わって道路を渡り、お互いがすれ違うとき、リトゥーチャの手の中に小さなメモ用紙が押し込まれた。「目の前の店に入れ」という指示を確認した彼女は、交差点を渡りきった先に事務所を黒く塗っただけのような簡素な店を見つけた。看板からすると、一応喫茶店のようだ。色からすると、水と固形食品しかメニューはないだろうが。

 軋んだ音を立てながら開いたドアの先は、彼女がたまに通っている赤い喫茶店とはおおよそ掛け離れた内装をしていた。赤い喫茶店は簡素ながらも温もりを感じる照明や、安物でも木のテーブルと椅子が使われていたものだが、ここは違う。公共施設の天井によくある飾りのない蛍光灯で、壁も真っ黒でコンクリートの質感がこれでもかと自己主張している。席はパイプを曲げて作られた机と椅子があるだけだ。

客は黒服ばかりでくだらない雑談のざわめきが店内を彩っていたが、彼女が入ると空気が凍りついた。だがリトゥーチャが彼らの方をわざと見やると、人々は顔を逸し、ざわめきは徐々に戻っていった。その直後にもう一度ドアの軋みが彼女の後ろから聞こえたが、誰もそれを気にしなかった。風でドアが開いただけだろう、と思ったのだ。なにしろ何も彼らの瞳には映らなかったのだから。

 リトゥーチャは何も言わずにそのうちの一つの席に座った。当然、目の前には誰もいない。だが彼女は注文端末で水を二つ注文すると、何もないはずの向かいの席に、そこに人でもいるかのように話しかける。

 「久しぶりだねドロシー。最近幸せ?」

 「ええもちろん。幸福は義務ですから」

 その言葉とともに眼前に突如として人間が表れても、リトゥーチャは驚かなかった。幾重にも重なったガラス片のごとき色彩が、一瞬で人を型取り、人間を描き出したのである。その人らしき色彩は一瞬だけざわめき、すぐに肌色と赤いTシャツへと変わった。

 バスケとかしてそうだな、とリトゥーチャは彼女に会うたびに思う。短くカットされた金髪と、皮膚に浮き出たしなやかな筋肉がそう思わせるのだろう。

 リトゥーチャが自分を見つめていることに気づくと、金髪の彼女は右と左で色の違う瞳を細め、にっこりと微笑んだ。左目は澄んだ青だが、右目は緑色で、どこか非生物的に感じる。白目に血管が通っていないのがその理由だろう。リトゥーチャは彼女の趣味を知っていたので、それが新しく入れ替えられた義眼であることを見抜き、そこから会話に入ることにした。

 「目、入れ替えたんだ。なかなか素敵な色だね」

 「ほんとですか? 嬉しいです! なかなかこの目のこと周りの人は褒めてくれなくって~」

 照れ隠しなのか、髪のハネを直すふりをしてドロシーは顔を背ける。そんな短かったら跳ねてるわけないのに、と思いながらもその動作をリトゥーチャはかわいく思った。このドロシーという女性は見た目に反して女の子らしいのだ。Tシャツに黒いデニムのパンツという格好とは似合わないことは明らかで、もっと髪を伸ばせば雰囲気と中身が相反しなくなるだろう。

 「変わってないね。その目以外は。でも、その目もとてもいい目だと思うよ」

 「えへへ、そうですか? 結構いろいろな機能があるんですよ、これ。赤外線とかでも見えるし、サーモグラフィーでも見えるんです。あと特定のターゲットをトラッキングしたりとかもできますし……」

 くねくねと恍惚の表情を浮かべながら自分の目の話をし始めたドロシーに、リトゥーチャは口を挟まない。うんうん、と黙って聞いてやることが彼女の話を一番早く終わらせ、次の会話に移る方法なのだ。

 ドロシーが自分の目の多機能ぶりとその便利さをひとしきり説いたところで、店員が薄汚れたプラスチックのコップに入った水を持ってきた。店員が立ち去るのを待ってから、リトゥーチャが本題に切り込んだ。

 「そろそろボクを誘った理由を教えてくれないかな。 義眼のセールスがしたいわけじゃないでしょ?」

 「あ、そうでした。ごめんなさい、私の話ばっかりして。ラーゲリーさんのようなドクボットを、今朝見かけたんですよ」

 「やっぱり君らが監視してたんだ」

 リトゥーチャはさして驚きもしない。

 「あれ、もっと驚くかと思ったんですけど」

 期待はずれと言わんばかりに不満げにするドロシーに、リトゥーチャが指をさす。

 「君らの日常みたいなもんでしょ、だって。ボットの監視というかストーカーというか」

 「えーひどいですね、その言い方。私達レオニストのおかげでラーゲリーさんがドクボットになれたっていうのに」

 「え、君らが用意したの?」

 「そうですよ。もっと感謝していただきたいですね」

 「え、あー……うん。彼の代わりにボクがお礼言っとくね、じゃあ。ありがとうございます」

 複雑な面持ちでお礼を言いながらも、彼なら絶対に彼女の頬を引っ叩いてるだろうな、とリトゥーチャは思った。彼がボディーをドクボットに移してから数日は、酒のない飲んだくれのごとく罵詈雑言を終始無線で送ってきたからだ。

 「どういたしまして。さて、そのラーゲリーさんですけど、妙だったんですよね。あなたと一緒にいないし、治安局行きのトラムに乗り込むし。普通行かないですよ、あんなとこ。それで変だなぁ、って思ってたらリトゥーチャさんが暗い雰囲気をしょいながら歩いてくるから。なにかあったんですか?」

 「ケンカ、かなぁ。多分。ボクもよくわからないけど……」机に頬をつけてぼんやりと呟く。

 「ケンカするんですね。少し意外です。仲良さそうに見えましたから」

 明るい顔をかげらせ、ドロシーは目を伏せる。

 「……昔、家族ってものがあった時さ。生まれてからずっと一緒にいるのに喧嘩することなんてしょっちゅうだったらしいよ。だからそういうもんじゃない?」彼女の脳裏に様々な映画が浮かぶ。どれもこれも家族というやつは、迷惑で、だからこそ愛らしい、と語られていた。そうじゃないものもあったけれど、概ねそういった描写をされているものが多かった気がする。

 「へぇー。やっぱりみんな機械に体を変えたほうがいいんですよ。同じパーツで構成されていれば、相手の気持ちもきっとわかるはずです。私や、ラーゲリーさんのように。まあ、ラーゲリーさんのようなプロと私を並べるのはあの人に失礼ですけど。だって全身ですよ! 私なんか目と臓器のいくつかだけですもん。いいなぁ……羨ましい」

 遠い目をして語りだしたドロシーに急にむかっ腹がたったリトゥーチャは、席を立った。ラーゲリーのように望まずに肉体を捨てなくてはいけなくなった者の気持ちなど、ドロシーには想像すら及ばないのだろう。どうでもよくなってきた、とラーゲリーは言ったものの、それが嘘だと彼女はわかっていた。だったら人間らしいボディを欲しがるわけがない。

 「……もう行くね。情報ありがとう。この借りはいつか」

 「えっ、もう少しお話しましょうよ!」

 突然立ち上がったリトゥーチャに、ドロシーは驚きながらも縋るような視線を向ける。だがリトゥーチャはそれに答えずに彼女の脇を通り、出口でカードを通して店から出る。出掛けよりかはっきりとした足取りで、彼女はトラム乗り場へと向かった。




 トラムから降りたリトゥーチャは、屋根のないホームで景色を眺める。彼女を下ろしたトラムは、無音で線路の両脇に立つ背の高いビルの隙間を進んで行った。その先はこの都市の最果ての外壁だ。最上位権限の象徴である白で塗られた荘厳な壁は、天蓋まで続いている。その間には、いくつかの窓がきらめき、その中に人がいることを匂わせる。その窓から見る景色はどんなものなのだろうか。

 彼女はひとしきり外壁を見て、はたと気づく。これからどう行動するか、何も決めてなかったのだ。焦りからだとしても、自分らしくない行動に頬を緩ませ自嘲してしまう。

 とりあえず、彼女は演習場に向かうことにした。ラーゲリーが教官だったということを思い出したからだ。ここに彼が来たとすれば、目的はそこくらいしか彼女には思いつかない。トラムから伸びる道のうち一つは、そこへの直通路だ。広くよく整備されており、その両端には治安局御用達であろう店が並んでいる。黒だけではなく、赤やオレンジ、果ては黄色まである。

 その黄色い店の前を通りがかると、彼女は足を止めた。眺める分には違法ではない。黄色レンガで作られた外装は、コンクリートばかりの建物に見慣れた彼女の目には新鮮だった。大きな窓から中を覗くことは、宣伝用ホログラフが被さっているせいで出来そうにない。中から溢れてくる匂いからして、レストランなのだろう。芳しいバターの香りが、朝飯を食べたはずの彼女の空腹を刺激する。きっとここで出される料理なら、いくらでも食べられるだろう。

 彼女は「いつか必ず」と奮起し、後ろ髪を引かれながらもその場を通り過ぎた。

 それにしても、この辺りは治安が良さそうだ。ゴミが落ちていることもないし、彼女の住んでいる地域ならば当たり前のように見つかるFTAのマークすら見つからない。FTAは自由な取引を是とする結社で、そのマークの入っている店舗ならばクリアランス外の禁制品も手に入るのだ。低クリアランスで買える商品は限られているため、フォーティツでの生活は実質彼らが回しているようなものだ。

 治安がいいのも考えものである。FTAがなければ、どこで下層民はハムやパンを買えばいいのだろうか。固くボソボソとした板のような合成食料だけで生きていけるほど、人間は強くない。

 そんなことを考えながらいくつものビルを通り過ぎると、唐突に眼前が開けた。治安局の訓練場に出たのだ。フェンスに覆われたそこはずらりと並んだ格納庫と円柱形のビルが三本、それから士官学校らしきものとそのグラウンド、あとは訓練に使うであろう仮想住宅ビルのキルハウスがほとんどだ。

 グラウンドはフェンスのすぐそばにあったので、リトゥーチャはそこを見てみることにした。

 幾つかのグループに別れて学校を出たての少年と言えそうな歳の治安局員達が走っている。その後ろから、彼らの訓練教官だと思われる男が追い立てる。その男の体を覆う筋肉は張り付いたトレーニング着の上からでもわかるほどに隆々としていて、少年たちが束になっても敵わなさそうだ。もっとも、彼の顔を見たらそんな気は起こらないだろう。

 落ち窪んだ眼窩は鋭さのある瞳を奥から覗かせ、肌に近い髪色のせいか眉はないように見える。治安局で長い間任務に当たってきたことを物語る皺は肉体と反比例して深く、彼の顔を恐ろしくするのに一役買っている。そして訓練生達を叱咤する時に叫ぶと、その顔は余計に皺を深くし、陰影を際だたせるのだ。その叫びもまた、低く響くだみ声なものだから、叫ばれるたびに訓練生達は距離を取ろうと必死に足を速める。

 彼女はその声を聞いて呆然とした。

 その声が、彼女の知っている人物とあまりにもそっくりだったからだ。ラーゲリーだ。ドクボットでも、人型戦車でもないが、それは確実に彼女のパートナーの声だった。

 人間のラーゲリーだったりして、という自分の直感を鼻で笑おうとして彼の胸についた名札を見た彼女の口元が凍りつく。そこにある名前は「ラーゲリー・SOD3R・2」だったからだ。

 名前が被っているということはありえない。管理機がミュータント能力のある人間を製造するほどイカれていても、人物名が完璧に一致した前例はない。円滑な管理を行うために、この都市に現存する人間の名が同一であることは絶対に有り得ないからだ。名前の最後のナンバーはその人物の製造ナンバーだから、このラーゲリーは二人目だ。

 昨夜、彼は「二回死んでる」と言った。数字が合わないことに彼女はすぐに気がつく。彼の言うとおり二回死んだのなら、ポットの中身はナンバー3で、目の前のラーゲリーは少なくともナンバー4以降じゃないと辻褄があわない。

 怒号を飛ばしながら汗を流す人物と、リトゥーチャの頭の中のラーゲリーが壊れかけのホログラフのようにチラチラと脳裏に浮かんでは消え、また浮かぶ。

 くだらない仮説が彼女の頭のなかで徐々に形作られていく。それは、ポットの中身についてだ。

 このラーゲリーが本物なら、あのポットに入った脳はいったい誰だ?

 もしかしたら、あのポットに中身なんて存在しないんじゃないか?

 すでに彼はAIで……ただのCPUがそこに入っているとすれば、ナンバーの問題は解決する。

 だから彼は通信機を入れ替えられる前に自分の前から姿を消したんじゃないか?

 通信機を入れ替える際に中身を見られたくないがために?

 もしそうだとしたら、ひどい勘違いだ。

 リトゥーチャはポットの中身を見る気などなかった。彼女が交換しようとしていた通信機はポットの一部分に過ぎず、脳を保存している場所を開く必要などないからだ。そもそも彼女には、自分のパートナーの脳を観察する趣味などない。だから彼が自分の中身を見られる心配なんて、これっぽっちも必要なかったのだ。

 それに、脳がなくともリトゥーチャはどうもしなかったろう。驚くには驚くだろうが……。

 もしもそれが理由で出てったんだったら、許せないと彼女は思う。

 だが同時に、彼の立場で考えてみると、その気持ちもわかる気がした。

 自分という存在を証明する物質的な証左が何もないというのは、自分の身に降りかかればとても恐ろしいものだろう、と。

 仮説を考えれば考えるほど、否定したい自分と理性的な自分が水と油のようにリトゥーチャの脳内で拮抗し続ける。ラーゲリーが人間である保証は彼のためにも必要だ、という自分。脳があろうがなかろうが、彼は彼だ、という自分。

 彼のことを考えれば考えるほど、リトゥーチャは足元がふらふらと覚束なくなっていくのを感じていた。彼女にとってそれは、管理機に生まれつきの顔色の悪さ(肌の白さ)を指摘されて無理やり多幸薬を服用させられた時以来の感覚だった。ビルすらも波を打ちそうなほどに朧気になり、今にも折れてしまいそうだ。

 赤い色のベンチと思われるものに、彼女は腰を下ろした。幸運なことに、それは間違いなくベンチだった。

 脳がなければなんなのだ、脳がそんなに大事なのか、とリトゥーチャは問いかけた。だが問を突きつけながらも、自分でそれがどれほど重要なことか彼女はわかっていた。

 彼は彼だ、と自分に叫びながら、ラーゲリーは人間じゃないかもしれない、機械の一種なのかもしれない、という暗い推論が彼女を苛む。

今まで交わした会話もすべてがプログラムなのかもしれない。人間じゃないんだったら、機械なら、人間のように振る舞う機械をどうやって信用しろっていうんだ。都市を管理する人工知能ですらイカれてしまっているのに、それより遥かに規模の小さいものをどうして信じられるんだ。

 ラーゲリーが自分を信用してくれなかったことへの怒りと、彼の正体が人間ではないことかもしれない、という不安が彼女の心を揺さぶり続ける。それは大きな不信感となって、彼女の心に居座った。

 不信感というのは、不発弾に似ている。それは常に人を疲弊させるし、概ね最悪のタイミングで爆発するところもよく似ている。

 天蓋の疑似太陽光源が消灯し、ビルの窓に灯りがつく時刻になっても、リトゥーチャは虚ろな目で誰もいなくなったグラウンドに顔を向けながらベンチに座っていた。赤いベンチと赤い服は街灯に照らされてますますその色をはっきりとさせ、対象的に彼女の肌の白さを浮き立たせる。

 次に彼にあった時、どうすればいいのか、数時間が経っても彼女はわからないままだった。

 考え疲れ、かすれた視界の彼女の前に人影が現れた。嫌味のない爽やかな笑顔を浮かべ、明るい金髪の前髪を左になでつけ、整えられた眉と明るさの満ちた瞳をした、黄色い治安局の制服を着た男だ。見るからに悩みのなさそうな幸せに満ちた嘘のない笑顔を浮かべながらも、胸に光るいくつかの勲章は何十人もの人間を葬ってきたことを語っている。そしてその服の色は、彼女よりも二つ上のクリアランスであることを示している。

 彼女が朝に殺した青年と、同じような状況だった。警戒心と逃げ出したくなる衝動だけが、彼女の淀んだ思考を打ち破って湧き上がる。

 「こんなところに一人でどうしたんだい。君の地区はどこだい? 良ければ送っていこうか。僕は治安局のものでね、これ以上信用できる人間はいないと思わないかい? それとも僕と一緒に食事でもどうだい。この先にいいレストランがあるんだが、一人で行くのは忍びなくてね」

 畳み掛けるように男はリトゥーチャを誘う。言葉だけ捉えればそれは単なる誘いだが、有無を言わせぬものがあった。

 「いえ、ご厚意は嬉しいのですが明日の労働に響くといけませんので」

 明るい声色でそう言うと、すぐさま立ち上がろうとする。

 だが、その男はなおも立ちふさがり、彼女がベンチから立ち上がろうとすることを許さない。

 「まあもう少し慎重に考えてごらん。僕のようなクリアランスの人間と一緒にいて、君にどんな不都合があるっていうんだい」

 左手をリトゥーチャの頭のすぐ横のベンチの背につき、顔を近づける。おそらく利き手である右手は自分の腰の辺りに浮かせ、何かを掴むように手首を曲げながら一切動かさない。そこには合成樹脂のホルスターとその中に収まったイエローの派手なレーザーピストルがあることがひと目でわかる。脅していることを彼女はわかっていたが、どう動くのがベストなのか、彼女は決断しかねていた。

 不幸なことに彼女が現在所持している武器は、今朝使った赤いレーザーガンしかない。そしてそれは自分より高位クリアランスの人間には通用しない。高位の色を持つ人間を撃つことは、銃自体のロック機能で保護されているのだ。彼女がそのロックを外すことは簡単だったが、そもそも高位の者に向けて引き金を引くような事態を彼女は巧妙に避けていたため、ロック機能を外したことはなかった。銃を分解したのが定期点検でバレれば即座に処刑されるというのも、そうしない理由だ。

 解決策があるにはあるが、今の状況ではリスクが大きすぎる。彼女の能力は、攻撃的なものでも防御的なものでもないからだ。あくまで補助しか行えない自分の能力のふがいなさと、ラーゲリーがそばにいない絶望感を彼女は噛みしめ、諦めることにした。チャンスはそのうち巡ってくるはず、と自分に言い聞かせつつ。

 「そうですね! 貴方様のような優雅でかっこいい治安局のイエロー様に誘われるなんて、ボクってとっても幸せです!」

 一度腹を括ってしまえば、嘘というのは驚くほど自然につくことができる。白い髪をふわりと揺らせると、うるんだ瞳の笑顔で男を下から見上げる。自分の容姿にそれなりに自信のある彼女は、こういった純真さを装うのは得意であった。

 「それはよかった。僕も君のような美しい人とご一緒できて光栄だよ。クリアランスレッドだとしてもね。君の今日を分け与えてくれてありがとう」

 虹彩の模様すら見えそうな距離で対峙したリトゥーチャは、心底ぞっとした。目を見れば大体の人間がどんな心根をしているか、ある程度判断できる。彼の透き通るような青い瞳からこちらを覗いているのは、狡猾さと自信だ。人を利用する術を知っている、そういった自信を、彼女はその目から感じ取ったのだ。

 「じゃあ行こうか。僕は優しいからね、エスコートしてあげよう」

 男女の差など外見的違いほどしかないこの都市で、彼はそっとリトゥーチャの手を握りベンチから立たせた。そして彼女の腰に手を回すと、自分の所有物だと誇示するかのように堂々と歩き始める。

 リトゥーチャは違法な旧文明の映画でこういった行動をしているのを見たことがある。それらの映像ではみな微笑みながら受け入れていたが、なぜ顔をしかめないのか、彼女にはわからなかった。今すぐにでもこの男を殴り殺したいと思うほどに、腰が不愉快でたまらない。

 「イエロー様のお優しさが、空気を伝ってボクの肺に流れ込んでくるようです」

 彼女は完璧に幸せそうな笑顔を貼り付け、背の高い男の顔を見上げる。男はそれに満足そうに頷くと、リトゥーチャの頭をなでた。

 それに恥ずかしがるフリをしながら、彼女は心の中の殺意を研ぎすませる。いつか、いつか自分がこいつよりも上のクリアランスに上がった時に、絶対にぶち殺してやると決意せざるをえないほどに不快だった。

 たどり着いたのは、行き掛けに憧れの眼差しを向けたレストランだった。夜になりライトアップされたレストランは、昼よりもずっと魅力的に思える。相手がこの黄色でなければ、もっと純粋な気持ちで楽しめただろうに、と彼女は落胆した。

 二人が入り口に近づくと、幾つものレーザータレットが警告と言わんばかりにリトゥーチャへ銃口を向ける。それらの半円状のタレットは店のドアの真横や、屋根の下にも配置されており、ぱっと見たところでは死角がないようだ。内心恐怖を感じながらも、それを悟らせまいと彼女は必死で震えそうになる体を抑え、大丈夫だと自分へ言い聞かせ続けた。イエローのそばにいる限り、撃たれないはずだ。根拠はないが、そう考えることでしか彼女は落ち着けなかった。

 細やかながらも地味ではない装飾の施された天然木のドアのドアノブを男が掴む。一見するとただの真鍮のドアノブに見えそうなそれを、なぜか男は数秒間握り続ける。取っ手の上には鍵穴の代わりにLEDがあり、赤い色を放っていた。掴んだまま数秒待つと、それは緑色へ変わる。どうやら指紋を読み取っていたようだ。クリアランスチェックを行っていたのだろう。

 ドアを開いた男がリトゥーチャを招き入れる。恐る恐るそこへ足を踏み入れると、そこはまるで旧文明時代の映画の世界だった。店自体はそんなに広くはないものの、いくつもの木製のテーブルが並び、黄色いシルクのテーブルクロスがそれを覆う。柔らかな暖色系の照明は優しくレンガを撫で、銀色のカトラリーを輝かせる。木製の椅子に至っては無粋なクリアランス色すら纏わずに座り手を待っている。本物の木の椅子に座れるなんて、なんて幸せなんだろう! 自分の状況すら忘れて彼女はそう思ってしまう。

 先客は数人しかいなかったが、彼女はそれらに圧倒された。清潔感のあるふわりとしたブラウスとスカートを着こなす女性は、それだけで別種の高貴な存在であるように思えたし、その向かいに座る男性のスーツは一目でわかるほどに上質で、とても同じ人間ではないかのように優雅だ。

 そう感じるだけで、このクリアランスに上がるような人間は実際にはクズばかりだと彼女は知っていた。けれども、彼らは輝いて見える。その横に立つ黒い給仕服を着たウェイターでさえ、自分よりもっと上等な人間のように思えてしまう魔力がこの空間には存在していた。

直後に、リトゥーチャは今の自分の格好に思い至る。無地の赤いパーカーと半ズボンだけだ。靴も普段から履いているただのスニーカーで、このような店には全く不釣り合いである。

 「驚いたかい? これがイエロークリアランスの世界だよ」

 「ボク、こんな格好で、こんな場所に……」リトゥーチャは震える指で唇を触る。

 「なに、心配いらないよ。僕がついているからね。この店で僕のそばにいる間は、君もイエロークリアランスとして扱われる。ここは一種の隠れ家みたいなものさ」

 はにかみながら男はリトゥーチャの肩を叩いた。もはやそれに嫌悪感を抱く余裕もなく、眼前の光景に圧倒されてしまっていた。

 入り口でしばしそうしていると、給仕を務めている黒服がこちらに歩いてくる。その顔を真正面から見て、彼女はそれがボットだと気づいた。

 目はドクボットと同じ単眼の赤いカメラアイで、口にあたる部分には、小さなスピーカーがはめ込まれている。おそらくそこから音声を発するのだろう。上等な給仕服と黄色いネクタイを締めたそのボットの動きは、まるで人間のようで……いや、そのへんの下層民などとは比べ物にならないほどに滑らかで無駄がない。

 いったいいくつアクチュエーターを使っているんだ? とリトゥーチャはまじまじと給仕を見つめてしまう。

 絨毯を踏みしめながら、全く音をさせずにこちらに近づくと、うやうやしく右腕を胸の前に曲げてお辞儀をする。その指の関節の精巧さといったら、リトゥーチャが今すぐに分解したくなるほどだった。

 「バートランド-SOD4R-4様、ご来店ありがとうございます。そちらのお連れ様の身元を確認してもよろしいでしょうか?」

 「もちろん」

 「それでは失礼致します」

 給仕ボットはカメラアイを向け、彼女の白い手を握る。冷たい金属の指はとても滑らかで、その仕上げの良さを物語る。ドアと同じように指紋から身元の確認を行っているのだろう。カメラアイを向けているのは、単にこちらを見るようにプログラミングされているのか、それとも虹彩から認証を行っているのかもしれない。どちらかはわからないが、登録されてはいないものの後ろめたいことがこの都市のビルよりありそうなリトゥーチャには、非常に緊張する場面だった。

 「認証確認いたしました。リトゥーチャ-HYP3L10-1様」

 ボットはうやうやしくお辞儀をすると、気障な男の勲章で重そうな上着を受取りコート掛けへとかける。それが終わると、ボットは席へと案内する。一番奥の角に位置するそこは薄暗く、開放的とはお世辞にも言えない。だが男はレンガの細かな凸凹さえ見えそうな一番奥の壁側の薄暗い席へ座り、リトゥーチャにもそうするよう呼びかけた。

 様々な緊張からか強張りつつも席につくと、目の前に置かれたカトラリーが彼女を苦しめた。食事に使うことは知っていたが、不幸なことにテーブルマナーというものの存在も知っていたからだ。映画で役者達がそれを使うところを見てきた彼女だが、見ただけで理解できるならば今の苦悩はしていない。

 ナプキンを、いやそれよりもどうしてフォークが三本もあるの?

 などと混乱していた彼女は、カトラリーを見ながら固まってしまう。それを見かねた男が口を開いた。

 「マナーなどは気にしないでいいよ。少なくとも僕は気にしない。それよりお互いの自己紹介でもしないかい、リトゥーチャさん」

 「そ、そうですね、バートランド様」

 お互いにボットから聞いた本名を口にする。今まで彼が名乗らなかった理由を、彼女はやっと理解した。このボットから名前を聞いたほうが、よほど信頼できるからだろう。

 「どうやら君は僕が予想していたよりも優秀らしいね、リトゥーチャ。HYP社でレッドクリアランスまで上がるのは、難しいって聞くんだけど」

 「いえいえ、治安局でイエロークリアランスまで上がることの難しさに比べたら、大したことありません。尊敬に値します」

 心にもないことを述べ、リトゥーチャは手を差し出す。バートランドは彼女の手を握り返す前に、その手が触れるに値するものか推し量ってから握り返した。

 「イエロー様に握手してもらえるなんて、今後ずっと話の種になりますわ」

 「これからもっと話の種は増えるさリトゥーチャ。僕についてくればね」

 白い歯を見せつけるようにバートランドは笑いかける。その間に割って入るように、黄色い皮で装丁されたメニュー表が二人の間に差し込まれた。驚いてリトゥーチャが給仕ボットを振り返ると、そのカメラアイは二人をしばらく眺め、何も言わない。

 「あー……メニューは受け取ったよ、ありがとう」

 目尻をひくつかせながらメニューを奪い取ると、給仕ボットは無言で去っていく。ボットだから仕方ないが、そこには先ほどまでのような完璧さよりも、人間のような不出来さが見え隠れするような気がした。具体的に言えば、動作が若干荒々しくなっているようだ。

 「さて、ここは僕のおすすめで選ばせてもらってかまわないかなリトゥーチャ」

 「ええもちろんです。異論はありません」

 「さてどうしようか……」

 顎に指を当てながら悩むバートランドを眺めながら、リトゥーチャは暇つぶしのために会話を持ちかけてみることを思いつく。彼がどうやって今の地位についたのか、興味が湧いたのだ。何をすればそこまで効率的に上がれるのか、彼女は本気で参考にしようと思っていた。

 「ところでバートランド様、質問があるのですがよろしいでしょうか?」

 「ああ。なんでも質問してくれて構わない」バートランドはメニューを凝視したまま答える。

 「今のクリアランスまで上がるのに、何かコツなどありましたか?」

 「大したことはしていない。治安局内の不正を暴いただけだ。……君はこってりしたものとあっさりしたもの、どちらが好きかね?」

 「できればさっぱりしたもののほうが嬉しいですね。具体的にどういったことをしたんですか? 差し支えなければ教えていただきたいのですが」

 「二年ほど前だったかな、治安局内で不正な武器の横流しがあってな。それを取り締まったんだ。ニュースになったんだが」

 「治安局武器横流し事件! あれをあなたが!」

 「そうさ。僕が独自に行動して、全てを管理機様へと報告して始末したんだよ。全部一人で」

 「それは凄い! フォーティツに生きる英雄ですね!」

 確かに彼の言った通りのことが報道されていたのを、リトゥーチャは覚えている。そのニュースを見た時、彼女は鼻で笑ったものだった。そんなことは不可能だと。

 コミュニストという連中は、彼女の知る限りどいつもこいつも曲者ばかりだったからだ。人間一人の力でどうにかなるなら、彼女自身がとっくにやっている。

 「そんなんじゃないさ。僕からすれば心の痛む事件だった。自分の同僚や上司が関わっていたわけだからね」

 「凄い! ボク憧れちゃいます!」

 「よし、決まった。君のそのぷにぷにしたかわいいほっぺたが落ちちゃいそうな料理を注文しよう。きっと夢中になってしまうだろうね」

 「……え、ええ。ありがとうございます。バートランド様は頼りになるお方ですね」

 絶句しながらもなんとかおべんちゃらを言い切り、思わずゲロを吐くジェスチャーをする。幸いにもバートランドは給仕ボットを呼ぶために彼女の方を見てはいなかった。

 やってきた給仕ボットはいかにも面倒くさそうに注文を取り終わると、復唱もせずに口のスピーカーから宣伝を垂れ流す。

 「FSBN978045151865142が本日より発売しております。ご帰宅の際には、ぜひ紙媒体書店に足をお運びください」

 その不可解な宣伝を聞くと、リトゥーチャはゆっくりと席を立った。その顔にははっきりと苛立ちが浮かんでいる。ボットの宣伝放送は珍しいものではない。確かに食事の雰囲気を壊したのは確かだが、元々彼女はそんなことを気にする性格ではないはずだった。ボットのすることに苛立つほど、彼女は機械への理解が不足しているわけではない。

 「どうしたんだい?」

 「ちょっと管理機様に呼ばれまして」そう告げると、足早に席から離れる。

 ああ、トイレか。と合点したバートランドは何も言わずに彼女を見送った。

 トイレへ向かう道すがら、先ほどの給仕ボットと目が合う。給仕ボットはトイレの位置を聞かれるまでもなく、気だるげに指差す。

 男女共用トイレに入ったリトゥーチャは個室を素通りし、奥の壁にはめ込まれた窓を開いた。彼女一人なら十分に通り抜けられることを確認すると、おもむろに窓枠へと足をかける。そのまま音もせずに路地裏へと降り立ち、彼女は周囲を見渡した。

 『邪魔したか?』

 その電波に振り向くと、そこにはいつもと同じ自律歩行型医療ボットの姿をしたラーゲリーがいた。

 「ちょっと勿体無かったかな。スープの一口も飲んでないや。正直なところ、凄く悔しいんだけど」

 そんなことを言いつつも、彼女の口元はにやけていた。

 『落ち込んだ気分を癒す薬をやろうか?』

 ラーゲリーは胴体の上部にあるハッチを空けて自分の腕を突っ込むと、無造作に錠剤の入ったPTPシート(錠剤などを保存するプラスチックとアルミのシート)を取り出す。

 「いらないよ。君と再会できたことこそ、多幸薬みたいなもんだからね」

 そういって満面の笑みを浮かべると、リトゥーチャはラーゲリーへと抱きついた。といっても、ドクボットは彼女の胸辺りまでしか身長がないので、覆いかぶさるようになってしまったが。ラーゲリーは何も言わないが、彼女のことを押しのけずにそのままそうしていた。薬を持った右のロボットアームは、彼女の背に手を回そうかどうか逡巡し、宙をぶらぶらさせていたものの、最終的にはそうするべきだと思ったのだろう、薬を放ってリトゥーチャの背中をさすった。

 「どうしていなくなったの」ラーゲリーの冷たい胴体を抱きかかえながら彼女は問う。

 『検討はついてるんじゃないか?』

 「……まあ。ボクもちょっと無神経だったかなとは思ってるけど。とにかく君のことを知りたかったんだ」

 『だからってE……なんとかをつけて監視するのか?」

 「いや違うよ。断じてそういう意味でやったんじゃないし、監視したいって言ってるわけじゃない。どこでも繋がる通信機ってだけだよ」

 ムッとした彼の言い分に、彼女は思わず早口で言い返す。それを聞くとラーゲリーは露骨に安心した声を出した。

 『なんだそうだったのか』

 「まあそう勘違いしてたなら怒ってた理由もわかるけど」

 『そのことも原因の一つだが……いや別にそれが理由じゃないな。というか今はそれはどうでもいい』

 「どうでもいいんだ」

 『悪いんだが、俺を運んでくれないか』

 彼女は体を離し、しばしラーゲリーのボディを眺める。確かに彼女より身長は低いが、全金属製のそれの体重は彼女の数倍にもなるだろう。

 「……無理でしょ」

 『いや、ポットの方だけでいい』

 「それならできるけど、どうするの。移動するなら君の今のボディのほうが……」

 『悪いがそれは無理だ。とにかく、頼む。それと耳を塞げ』

 そこまで発信すると、ドクボットは規律正しくピンと背筋を伸ばしてそのまま動かなくなった。いわゆるスリープモードに入ったのだろう。

 すなわち、ドクボットとの接続を切って他の機械を操作しているのだ。

 レストランの給仕ボットか? と彼女は思うが、そうだとしたら耳を塞ぐ意味がわからない。もしや、と彼女が逡巡した時にはすでに状況は始まっていた。

 凄まじい爆発音と様々なものが降り注ぐ音が、リトゥーチャの両手を押しのけて鼓膜に捻じ込まれた。粉々になった舗装路が、人の頭ほどの欠片となって路地裏にまで飛び込んでくる。彼女はとっさにドクボットの裏へと回り込んでそれを盾とすることで、破片の直撃から身を守る。幸いにもいくつかの細かな破片がドクボットの外装に当たってカンカラカンと音を立てただけだった。それらの音がひとしきり鳴り終わった頃、彼女はドクボットの陰から頭だけだして路地の奥の正面道路を伺おうとする。だがそこには、こちらを覗く異形が立ち塞がっていたのだ。厚い装甲板で形づくられたその異形は、爆発のショックからか点滅する街灯に照らされるたびにシルエットを浮かび上がらせる。

 それがなんなのか理解した彼女は、ドクボットの陰から出て、ゆっくりとそれに近づいていく。それの背後には下水道へと続く穴が口を開けて湯気を出しており、そこからこの異形が出てきたことを物語っていた。

リトゥーチャを見下ろすように、そのウォーボットはボディを前傾させ頭部を下げた。やはり、と彼女は自分の直感が当たったことに得意げな顔をする。

 それは治安局にも配備されているウォーボットだ。ただ、正規品の白く清純さすら感じさせる塗装とは違い、下層民の色である黒を基調としたピクセル迷彩を施されているのが特徴的だ。

 ビルの三階に届きそうなくらいの大きさのそれは、砲身のない戦車の砲塔のような胸部を角ばった傾斜装甲で覆っている。装甲に小さく描かれた放射能のハザードシンボルは、原子炉を搭載していることを主張していた。

 胸部の下には全長の六割を占める脚部がある。横から見ると鳥の足のような構造をしているが、今は重心を下げるために折り畳まれているためか、そうは見えない。突き出した膝には大きな装甲板が取り付けられ、正面から関節へ射線が通らないようにしているのだろう。いわゆる逆関節と言われる脚部だ。

 腕は人間のそれと似た構造をしているが、傾斜装甲の上に爆発反応装甲を取り付けられた肩は異様にでこぼことしている。その上部には、ロケットランチャーなどのオプションを載せるための大きな金具が取り付けられているが、現在は何も搭載されていない。前腕は比較的シンプルで、分厚い装甲板はなく、可動部を隠す程度だ。マニピュレータは人間と違って指が一本少ないが、これは人間と違って四本でも十分に物を掴めるからだろう。

 頭部は全体に比べれば小さく、あまり存在感を主張していない。鼻も口もない台形型の頭部は、四つの目が顔の縁ギリギリに配置され、被弾を少しでも避けるためか落ち窪んでいる。左後頭部には、管理機からの通信を受け取るためのアンテナが突き出して設置されている。

しばしその姿を眺めてから、リトゥーチャはいつものように無言でラーゲリーへと話しかける。といっても、路地で佇む方ではなく、目の前にある兵器の方だ。彼の本体は路地にあるが、意識は目の前のウォーボットの中なのだ。

 「状況説明してる余裕ある?」

 『説明は後にする。俺はここに復讐に来た』

 「ふーん。あとで説明してくれるんだったらボクは構わないよ。ところで、後ろにある君の本体はどうするの」

 振り返らずに握りこぶしに親指を立て、リトゥーチャは肩越しに背後を指す。

 『まずったな、それをすっかり忘れてた。悪いが中身を引っこ抜いて持っていてくれないか』

 「アイアイ」

 リトゥーチャはドクボットへ駆け足で近寄ると、胴体の真上に手をかける。上部ハッチを開き、錠剤を保管する平べったいPTPシートや外傷用の包帯パックなどを掻き分けると、その奥から取っ手が現れた。その取っ手に指をかけるが、彼女の身長ではそれなりの重量のあるそれを立ったまま引き抜くことは難しい。

 「横倒しにしてもいいかなこれ」

 『いいぞ。どうせ痛みもない』

 傷をつけないようにゆっくりと慎重にドクボットを横倒しにすると、開けっ放しの上部からいくつもの薬剤が路地に滑り落ちる。その中から一つだけ選んでポケットに押し込んでから、彼女はポットを引き抜く。取っ手の付いた金属製の筒。これがラーゲリーの本体である、脳が保存されたポットだ。彼女はそれを両手で抱えると、ウォーボットの下へと走り寄る。いつものように、彼の肩に乗ろうと思ったのだろう。だがそれは厳しい口調で阻止された。

 『ダメだ。お前はその本体を持ってどこかに隠れていてくれ。それか逃げろ。下水道がいいだろう。俺が空けた穴がある』

 「そんな! 君一人で、どうしようってのさ!」

 『これは俺の個人的な問題だ、お前が関わる意味はない。それに本体を離していたほうが都合がいいんだ』

 「何が関わる意味はないだよ! もうとっくに巻き込んでるじゃないか! だったら最後まで……」

 『お前がバートランドと一緒にいるからだ』

 「あいつがどうしたのさ」

 『俺のターゲットだ。今日一日、ずっとあいつを追っていたんだ。そしたらお前が奴に捕まった。これだけ言えば十分だろう』

 「逃げようと思えばいつでも逃げられたよ」

 『いい加減にしろ! 言うことを聞け! 俺は最善の選択をしてるんだ!』

 彼の怒声を直接流されたことはなかったので、彼女は思わず抱えたポットごと上に跳ねた。何か最後に言おうとして彼を見るが、ウォーボットの四つのレンズがすでに彼女を見ていないことに気づくと、黙って彼の脚部の隙間をすり抜け、ゆっくりと穴の底へと降りた。彼の言ったとおりにそこから逃げるために。

 彼女は給仕ボットがラーゲリーに乗っ取られているのを気づいた時、彼が事を起こすのならば自分も、と思っていた。だが普段から静かな(温厚とはいえないが)人間の発した怒号というのは、それが親密な間柄であればあるほど骨の髄まで響くもので、彼女はすっかり萎えきっていた。下水の腐った匂いすら、今の彼から逃げられるなら受け入れる心持ちだ。

 走り出す前に一度だけ穴の中からウォーボットの背中を仰ぎ見ると、彼女は一心不乱に走っていった。

リトゥーチャが下水道へと降りた微かな足音を聞き、ウォーボットは背部に背負った機関砲を横から前に回して両手で構える。機関砲を手に保持するためのボルトがマニピュレータからグリップへとねじ込まれ、ロックされた。

 一つの機関砲を四つ合わせたそれは、すでに絶滅した対空機関砲に似ている。ウォーボットの横幅ほどの長さを誇るそれは、殆どが長い銃身とそれを覆うバレルジャケットで構成されている。機関部の脇には箱型の大きな弾倉が取り付けられ、ベルトリンクで繋がれている。一発一発が致命的な破壊力を持つ二十三ミリの砲弾が、手を取り合うようにしながら次から次へと押し込まれるのを待っていた。

 彼はそれを前方のレストランへと向ける。備え付けられた全てのレーザータレットがラーゲリーに照準を合わせるが、それはほんの一瞬だけで、すぐに待機モードへと移行した。管理機からの直接司令でしか動けないはずのウォーボットは、最上位権限と同義だ。

 ウォーボットは片足の膝を立て、両手でまっすぐ機関砲を保持する。膝の皿に取り付けられた大型の装甲板が開き、前方からの攻撃に備える。ラーゲリーはレストラン内に攻撃をしても、撃ち返されることはまずないと思っている。だが、保険をかけておくのは当然だ。今の彼が肉体を捨てる原因を作った男を殺すためなのだから。

 四つの銃口はついに火を噴いた。周囲の建物はその発火炎だけでフラッシュでも焚かれたかのように真っ白い光で塗りつぶされる。間断なく放たれる砲弾は黄色レンガが砂で出来ているのではないかと思わせるほどに呆気なく吹き飛ばし、店どころか、その裏にあるビルにまで着弾する。店を右から左へ薙ぐように行われた射撃は、壁の面積の半分ほどを穴に代えて終わる。

 管理機の定めた労働時間が終了しているのが幸いなことに、周囲のビルの中から悲鳴は一つも聞こえなかった。たとえ誰かが泣き叫ぼうが、砲声にかき消されて誰の耳にも入らないのは確かだが。

 壁を壊そうと彼が右足で蹴りを御見舞すると、レンガの壁は小気味の良い特有の音を立てながら崩れ去る。そこへ頭部を突っ込み、内部を確認する。彼のレンズに映ったのは、概ね予想づくの結果だった。店内の調度品は、元からどこに飾られていたのかわからないほどに地面に散乱していたし、カトラリーは乗っていたテーブルがどんな形だったか想像するのも難しいほどに小さな木片へと姿を変えていた。それらを彩っているのは真っ赤な肉片で、大小様々な大きさに分断されて至る所に飛び散っている。

 やりすぎたな、これじゃあどれがバートランドだか照合をかけなきゃわからん。

 しかし、バートランドが座っていたはずの席を思い出し、そこを観察した彼は自分の強運を喜んだ。彼に顔があれば、邪悪な笑みを浮かべていただろう。

 そこにあったのは、頭部だけが見事に吹き飛んだ死体だったからだ。服が血で汚れているが、間違いなくラーゲリーが見慣れた治安局の制服だ。すかさず死体を照合してみるが、出てきた結果は望んだものだった。「バートランド-SOD4R-4」で間違いない。脈拍も全くなく、完全に死んでいる。

 『コレで終わりか? 信じられん』

 一抹のやるせなさを感じながら、彼は脱出するために穴へと機体を旋回させる。たった二回足を動かしただけで、彼は正反対の方向を向いていた。

 なんとはなしに頭上を見上げると、そこには管理機からのメッセージが浮かんでいる。珍しく、今回のラーゲリーの行動についての避難勧告と、バグスイーパーの招集がなされている。しばし考えて、彼は下水に飛び込むことをやめた。ラーゲリーが下水を行けば、必ず出口の封鎖が行われるはずだ。徒歩で逃げているリトゥーチャがそれに捕まってしまうことは、想像に難くない。彼女が脱出できなければ困るのはラーゲリー本人なのだ。

 となると、彼がすることは一つだった。ここで暴れることだ。幸いにもバグスイーパーがこちらに来るという。気持ちよく戦う相手としては最適だろう。

 彼が残弾のチェックを始めたころ、都市のどこかでロケットブースターの噴射音が聞こえた。この都市に住む人間なら誰もが何度も聞いたことのある、バグスイーパーの緊急移動用ポッドの飛翔音だ。ビル群の窓ガラスを煌々とオレンジ色に照らしながら、その間を補助ブースターで直角に曲がる球形の飛翔体。それはすぐにウォーボットのレーダーに捉えられた。それは穴に向かっていた彼の左側から飛来してきている。すかさず胸部だけを回転させてそれを撃ち落とそうとするも、ジグザグに飛来する物体に当たるわけがなく、ビルの窓を割るだけでかすりもしない。それは一瞬で彼の頭上を飛び越えると、彼から百メートルほど離れた地面に落ちた。落ちて地面に触れる瞬間、緑色のバリアが張られたのがラーゲリーのセンサーで捉えられた。バリアフィールドの能力者が乗っていて、落下の衝撃を和らげたのだろう。

 機体全体をポッドに相対させると、先ほどのように膝の装甲板を展開させて、足を深く接地させる。無駄弾だと知りつつも、彼はポッドを撃った。数十発の砲弾は彼の読み通りに緑色の閃光と破裂音を発して消えてしまう。無駄だと思った彼が射撃をやめると、バリアを展開させたままポッドが二つに割れ、中から三つの人影が現れた。九十五%の死亡率を誇る緊急移動ポッドから生還しただけでも英雄的な三人だ。ポッドの周りにある街灯は全て衝撃で壊れてしまったのか、彼らの顔はよく見えない。だがただの市民であることはバグスイーパーの性質から考えて明らかだ。

 バグスイーパーは治安局が出動するまでもない事態、もしくは治安局が到着するまでの当て馬と時間稼ぎ、もしくは上位クリアランスのわがままを叶えるのに使われる一般市民達だ。招集命令を出すのは殆ど管理機だが、オレンジクリアランス以上の市民でも雑多な用事で呼びつける事ができる。バグスイーパーに選ばれた、もしくは志願した市民達の目的は、クリアランスの向上である。十年かかってクリアランスが上がらないような人間でも、バグスイーパーとして活躍すれば確実にクリアランスを上げることができるのだ。

 ただし、管理機はこう言っている。「完璧な市民ならば、問題は一人で解決可能です」と。バグスイーパーの実質とは、チームでことに当たろうとも、一人しか報奨を受け取れないのだ。だからきっと、この三人のうち誰か一人しか生き残れないし、生き残らせないだろう。

烏合の衆などものの数にもならんよ、とラーゲリーは独りごちる。

 だがそれが間違いだと思い直したのは、その直後だった。さっきまでポットにいた内の一人が、彼の視界いっぱいに広がっていたのだ。端に設置された二つのレンズはその女の百メートル後方にあるポットを捉えているし、その中にはまだ二人分のシルエットが見える。一瞬で彼の頭部の鼻先に移動されたのだ。その能力の見当はラーゲリーでもついた。だがそんなことよりも、今は視界を埋める女から目を離せなかったのだ。やけにスローに、その光景は彼の脳裏に焼き付いた。

 街灯の光を浴びて金色にたなびくツインテールは、重力に逆らって上を向いている。そばかすと黒縁の丸メガネがトレードマークのように思えるが、よくよく見てみればその顔はずいぶんと整っていた。そばかすの目立つ純情そうな美しい女、といったところだろうか。子供っぽさを残しているように見えるのは、彼女の口元が大きく歯を剥き出しにしていて、いたずらをする悪ガキが笑っているように感じるからだろう。彼女の着るダボダボの赤いカーディガンもそれを助長している。チェックの黒と赤のスカートはめくれかかっていたが、かろうじてその役目を守っている。彼女が落下しつつあることを、上を向いたツインテールやはためく服の端々から彼は理解した。全長六メートルのウォーボットの頭頂部の目前の空間に「移動」してきたのだから、当然だ。

 そもそもラーゲリーが彼女に焦点を合わさざるをえなかったのは、彼女の右肩に担がれたものが原因だった。パイプ状の単発式のロケットランチャーと、そこから伸びる折畳式の照準器が彼女の瞳に被さっていたのだ。そして女の右手が引き金を絞るのを、彼は目撃した。

幸運にも彼は、機体を大きく跳ねさせる余裕があった。折り畳まれていた足は本来の長さを取り戻そうとしてバネの役割を果たし、地面を力強く蹴ったのだ。深い足跡がアスファルトに刻まれ、ひびが迸る。鳥が跳ねるような軽快な動作を、誰が予測できただろうか。

 ラーゲリーを撃とうとした女はそれに呆気に取られながらも、トリガーを引ききった。弾頭の金属製の羽が展開しきる間もなく、それは彼の胸部装甲へ直撃した。そこは一番丈夫なところで、彼はそこで弾頭を受け止めるために鈍重に見える機体をジャンプさせたのだ。安全装置をオミットされたであろう弾頭は胸部の傾斜装甲へと食い込み、メタルジェットの奔流を装甲内部へと送り込もうとする。だがそれくらいで破られるような装甲ではない。

 鈍化した知覚の中で彼は女がどこへ消えたのか探したが、それはかなわなかった。胸部に刺さった弾頭から勢い良く吹き出す火花で、視界はめっぽう悪かったのだ。わずかにカーディガンですっぽり隠れた女の左腕が見えたが、それは徐々に彩度を落としていき、消えてしまった。ここへ移動した時と同じように「移動」したのだろう。

 足のバネをフル活用して着地した彼は、一気に自分の時間が戻るのを感じていた。例えようのない恐怖感が後から彼を襲ってくる。だがそれが嬉しくもあった。彼は自分が人間だということを、恐怖を感じることによって再認識できたような気がしたからだ。

 消えた女を探して頭部を左右に振るが、どこかに隠れてしまったらしい。ここフォーティツにおいて建物がない空間は少ない。レストランの両横も、その向かいも斜向かいもビルだ。狭い路地がいくつもビルの周りにはある。隠れ場所などいくらでもあるのだ。しかも相手はあのような「移動」ができるというのだから、隠れんぼが成立するかどうかすら怪しい。女はきっと、機を伺ってまたラーゲリーへと攻撃を仕掛けてくるだろう。厄介なことこの上ない。

 だが今はそれに気を取られている場合ではないようだ。

 敵の第二波がウォーボットに狙いを定めていた。ポットから出た二つのシルエットは、一人はズボンのポケットに手を突っ込んで堂々とし、もう一人は膝立ちになって女と同じロケットランチャーを構えていた。それを赤外線で感知したラーゲリーは、試しに機関砲を何発か彼らに向けて撃ってみるが、砕けるのは彼らの周囲のアスファルトや背後のポットの外装ばかりで、彼らに着弾しようとした砲弾はその手前で雷のような鮮やかな閃光を放って消滅してしまうのだ。彼の四連装機関砲は三門が徹甲弾で一門が榴弾だったが、そのどれもが貫通することも破裂することもない。

 こんな時リトゥーチャがいれば、どうすればいいかを教えてくれるかもしれない。彼女の能力で窮地を脱せるかもしれない。だが今後悔したところで何の意味もないことを彼はわかっていた。どんなに過去の選択が間違っていようと、今を足掻くしかないのだ。

 対策は一つだ。バリアの切れ目を待って、狙いすました一撃をかますこと。彼は射撃をやめ、足を畳んで車高を下げ、膝の装甲板を再び展開した。このウォーボットの弱点は足だが、盾が展開されている間は脆弱な部分への被弾面積は大幅に改善されるはずだ。盾で隠せない場所を狙われたとしても、そこは足の末端であり、足を動かして避ければいいだけの話だ。向こうもこちらもバリアの切れ目から射撃をしなければいけないのが変わらないのなら、弾速の早い機関砲で弾頭ごと敵を撃ち抜けば良い。

 彼は全神経を集中させ、照準をバリアで守られたロケットランチャーへと合わせる。

 「それでなんとかなったつもり?」

 ウォーボットのマイクが声を拾う。その声は遥か頭上から聞こえてきていた。ラーゲリーが頭頂部の補助カメラを起動させると、そこに映ったのはあの女だ。ぶかぶかのカーディガンを着た抜け目ない女。ビルの屋上から飛び降りたであろう彼女は、再び落下しながらロケットを発射したのだ。

 どんな地上兵器だろうと共通する点が一つある。それは上部の装甲が脆いということだ。

 認めるよ、八方塞がりだね。と彼が思うより早く、今度は後ろへ機体を跳ねさせた。ロケット弾はアスファルトに着弾すると大きな爆炎を噴出させて消える。道路の下の下水までメタルジェットが貫通したのだろう。女がそれを追うように落ちてくることはない。またテレポートしたのだろう。

 致命傷は避けることができた、と彼は安堵する。しかしそれも自分へ飛んでくるもう一発のロケットを見るまでの話だ。ロケットの爆炎の向こうから、もう一発のロケットが飛来してきていたのだ。彼はそれを機関砲で撃ち落とそうとして構えるが、残念ながらロケット弾の方がより迅速に機関砲へと着弾した。中心に風穴を空けられたそれは、もう役に立たないだろう。舌打ちして機関砲とマニピュレータを連結していたボルトを解除すると、彼はそれを掴んで走った。折り畳まれていた足をぐんと伸ばす。機体の全長は1メートルほどあがり、ずんぐりとした印象は消え失せる。その代わりに、ダチョウのようなシルエットへと変化する。地面に落ちたロケット弾をすんなりと跨ぎ、驚くべきスピードでバリアを張る二人組へと迫る。彼が道路を蹴るたびに、アスファルトの層が剥がれて宙に舞う。

 ウォーボットからの投光器が彼らを照らし出す。ポッドの前に立つ二人は、ビルの路地へと入ろうと駆け出している。それもそうだろう、いまや暴走列車のようにこちらに突っ込んでくるウォーボットは、機関砲をハンマーのように振りかざしているのだ。二人は恐怖を顔に浮かべていたが、その実、ポケットに手を突っ込んでいる男の方にはまだ余裕を感じられる。

 振り下ろされた機関砲は彼らを押しつぶさんとした。彼らの足よりもラーゲリーの足の方が早かったのだ。彼らは路地にたどり着くことができなかったし、一環の終わりのはずだった。だが振り下ろされた機関砲は、妙な感触をラーゲリーに伝えた。肉を潰した感覚が全くといっていいほど感じられなかったのだ。機関砲と地面の間から染み出してくるはずの液体は見受けられない。

 持ち上げてみて理由がわかった。結局彼はまたバリアにしてやられたのだ。まさかこれだけの質量を受け止められると誰が想像できるだろうか。機関砲はバリアに触れた部分だけ金属が融解して滑らかな表面になり、丸い窪みを作っている。そして機関砲の陰から見えるのは、伏せてロケットランチャーを構えるメガネをした禿頭だ。もう一人は、今だ、と言わんばかりにポケットから手を出してウォーボットを指差した。

 ロケット弾は足に直撃した。残念ながら、装甲板のない関節部分を的確に狙われたのだ。左足が折れ、無残に道路に横倒しになってしまう。もはや何をすることも出来ない。

 ラーゲリーはそろそろリトゥーチャもこの区域からは出られているはずだな、と思った。その思考に悔しさは微塵もなく、奇妙な満足感だけが彼の心を満たしている。彼は抵抗をやめ、テレポートしてきたカーディガンの女を見やる。それから、バリアを解いた男とランチャーを構える男の二人組も。彼らはハンティングの獲物を前にして記念撮影するように、倒れたラーゲリーの前に立ってじっくりとこちらを観察していた。

 バーコード頭の中年を過ぎた親父は担いだランチャーを未だに手放そうとせず、その相棒らしき青年は、にこやかな笑みを浮かべたまま中年へと握手を求めている。それを見たカーディガンの女は、その間に割り込んで無理やり青年と握手した。これが新聞記者なら記念すべき光景だと賛辞を述べるだろう。

 ラーゲリーはしばしお互いを褒め合う浮かれた会話を聞いた後、外部スピーカーが生きていることを確かめた。これなら彼らへ話しかけることが出来るだろう。

 「この中で誰が生き残るんだ?」

 突然声を発したウォーボットに、全員が思わず振り返る。知性があるとは思ってもみなかった、という顔だ。

 「バグスイーパーが報奨を貰えるのは結局一人だけって話だ。完璧な市民であれば、一人で十分なはずだからな。それは知ってるんだろう、お前ら。その場限りのチームワークにしてはよくやったよ。いや実際、よくやった。感心した」

 陽気にそう言った彼の声には、嘲りとも呆れとも取れるものが含まれている。

 「そのことすっかり忘れてたなあ。でも三人とも任務はこなしたわけだし?」

 「イエス! 誰か一人が生き残るなんて話になるわけないっしょー」

 女はサムズ・アップして二人に示し、黒いスーツの青年はそれを見て頷いた。その後ろにいる中年は、いかにも疲れたと言わんばかりに肩を回して天蓋を見上げている。話に興味がない、と全身で表現しているようだ。

 「お前らは能力を使った。そして登録ミュータントじゃない。それだけで、このことの説明になる気がするんだがな。そこら中に設置された監視カメラは、お前らを処刑対象の反逆者としてリストアップしてるはずだ」

 「ふざけるな!」若い二人が揃ってそう口にするが、中年は変わらずに首や肩をぐりぐりと回している。風体通り、仕事帰りに招集されたのだろう。きっと疲れが溜まっているに違いない。

 「デブリーフィングで誰が生き残ることになるのか楽しみだ。まあ、そこのおっさんだろうがな」ラーゲリーはそう言って鼻で笑った。(彼には鼻がないが、侮蔑の感情のこもった音声を届けることは十分可能だ)

 振り返った二人の視線は、ガラス片に映る自分を見ながら乱れた髪をいじる中年へと向けられる。彼はチームメイトへ向き直ることもせず、淡々と話のピリオドを打ちにかかった。

 「その通りです。若者は単純で……それが実に都合がいい。君達は張り切りすぎだ。全部、そこのコミュニストの言うとおりですよ」

 「だったら!」青年が銃に手をかける。

 「私だって!」

 女も青年に続く。この二人はさきほどの作戦行動で随分と仲良くなったようだ。

 「そろそろ依頼主が来るかな。それじゃ」

 唐突に若い二人の頭部が膨れ上がる。内側から大量の膿が吹き出すようにどんどん膨れ上がったそれは、あっという間に限界を迎えて弾けた。大きく割れた頭蓋骨が卵の殻のようにあっさりと四方八方へと吹き飛び、髪の毛のこびりついた皮膚がぼとぼとと落下してくる。血飛沫はラーゲリーのレンズにもかかり、視界を極端に悪化させる。運良く何の被害もないレンズからの映像へ意識をフォーカスさせる。血と肉片を浴びながら、中年は清々しい顔をしていた。やりきったという達成感すらその顔から感じられそうだ。

 「あんたの能力はなんなんだい?」目の前で人の頭が吹っ飛んだというのに、ラーゲリーは喫煙所で他人に話しかけるような口調だった。

 「さあ。なんでこんなことになってしまったのか私には皆目見当がつきませんねえ。ところで、君には脳がないみたいですが、ハッキングですか?」

 中年は胸ポケットからタバコのパックを取り出すが、血にまみれていて銘柄を判別することすら難しい。そこから血でぬめる指で一本つまみ出そうとするも、濡れていて火がつかないだろうと判断したのかそれを戻した。

 「そんなもんさ」

 「なかなかの手練なんですねえ。管理機のネットワーク上の物を、よくあれだけ機敏に操れるものです。ウォーボットを止める任務は達成したことに変わりありませんが、君まで殺せと言われたら居場所を探さなくちゃならなくなりますね。その時は申し訳ありませんが、死んでいただきます。名刺を見せられたら早いのですが、血で読めないでしょうから名乗っておきましょう。シモン、と申します」

 「丁寧にどーも。俺はラーゲリーだ。さて本題だが……あんた達のミッションの依頼主は管理機か?」

 ラーゲリーが尋ねると、中年はかぶりを振って答える。彼の薄い頭髪についた血液が、ぴっぴっと地面に落ちた。

 「バートランドというイエロークリアランスの男です。情報では現場にいらっしゃるようでしたが」

 それを聞くとラーゲリーは呆気にとられるわけでもなく、ただ静かに応えた。

 「ふむ、そうだろうな。どうせあいつは死んじゃいない」

 「さすがラーゲリーだね。あの時から変わらぬ洞察力だ」血に染まった制服をはたきながら、レストランの残骸からその男は姿を表した。

 やはり、それはバートランドだった。首から上を吹き飛ばされてレンガにこびりついていたはずの彼が、なぜここにいるのだろうか。彼はそのままシモンへと近づくと、握手を交わそうと手を伸ばす。しかし、シモンの手が血まみれなのを見てその手を引っ込めた。

 「さて、と。栄光あるバグスイーパーとして任務を完了したシモン-LC992-3君、おめでとう。本来ならデブリーフィングで一番優秀なものを決めるところなのだが、幸運なことに君しか残っていない。そこで聞かせてもらいたいのだが、いいかね?」

 「なんなりとバートランド様」シモンはとてもギラついた瞳でバートランドを見つめる。そこには希望と野心の強い光があった。

 「君はレーザーガンすら持っていないようだが、そこの武器だけでウォーボットを停止させたのかね?」バートランドは顎で周囲に転がるロケットランチャーを示す。

 「はい、バートランド様」

 「いやはや恐れ入る。なぜ他の武器を選ばかなかったのかね?」

 「他のものを持つ余裕がなかったからです」

 「なるほど、なるほど。さて最後の質問だが、君は随分汚れているね」

 「ああ、これは、他の二人が頭を撃たれて即死してしまいまして。その時の血を浴びたんです」

 「そうか。だがどんな理由があろうと清潔は義務だよ」黄色いレーザーガンを素早く抜き、シモンの頭と胴体へ二発ずつ光線が撃ち込まれた。

 裏切り殺した男女と同様に物言わぬ骸となったシモンの前で、彼はレーザーガンを西部劇のようにくるくると回すと、ホルスターへと戻す。その時のバートランドの顔といったら、まるで正義の保安官が悪党を始末したような充実した顔をしていた。

 それを見たラーゲリーは、反吐を吐きつけたくなる。

 「義務を守れないのは、良い市民ではない。治安局が守るべきなのは良い市民だけだ。君も知ってるだろ、ラーゲリー」

 ウォーボットの眼前へ歩み寄ると、バートランドはその頭部に足をかける。ラーゲリーは見下されながらも、あくまで感情を抱かせずに喋った。

 「お前さんの制服だって血で汚れてるじゃないか。それはどう説明するんだ?」

 「比喩かな、それともそのままの意味かな? 心配するなよラーゲリー。僕は君がどう思っていようが、自分の血で濡れたことはあっても、他人の手で汚したことはない。君のときだって、そして今だって、僕は後ろから見てただけさ」

 「あの時、お前は一番最初に殉職した。そのおかげで俺達はブルっちまわないで戦えたんだ。だが、あの時お前は殉職したフリをしていただけだったんだろう。今みたいに」

 「そうだよ。僕のパワー、死態の使い方としては、これ以上ないと思わないか? 真っ先に死ねばどんなに頭の切れるやつだって、僕のことを犯人だとは思わない。いやむしろこう思うはずだ、先陣開きし英雄だってね。ま、実際のところそれは周知の事実というやつだ。新聞にだってニュースにだってそう書かれたし、勲章もそれを裏付けてる」

 「管理機すら欺く死んだフリか。そのあと出てくればどこぞの神の復活劇みたいだものな、バートランド。だがな! 俺はお前が最大の反逆者だと知っているぞ、バートランド。お前がコバートセルに味方を売ったことを!」

 「ハハ、そうか。それで、テロリストのお前がどうするんだ。ニュース屋共に告発記事でも書いてもらうのか? テロリストの言い分を誰が信じると思うんだ、それも俺よりも下層のゴミクズの戯言を。いや、そもそも今のお前は市民ですらない!」

 足を乗せたまま何度もウォーボットの頭部を踏みつけ、バートランドは頬を緩ませる。今にも大声で笑いたくて仕方がないのを、必死でこらえているようだった。だがそれはラーゲリーも同じだということを、彼は気づけなかった。機体の排熱口から吹き出す蒸気は、徐々に勢いを増している。

 「そうだな、今の俺は一級のテロリストだ。おまけに肉体も、市民権すらない。だがまだ俺にはやれることが残ってる」

 「遺書の口述筆記なら、昔のよしみだ。僕が請け負ってるやるよ」

 「お前は奥の手を……自分の力を見せつけすぎた、バートランド。大したもんでもないくせに、二度も俺に見せつけた。お前はエースを切りすぎだ」

 「まだお前に何か残ってるような言いぶりだな」

 「さあ、あと五秒だバートランド」

 爆破ボルトが起動し、原子炉を守っていた胸部装甲が根こそぎ道路へ落ちる。ウォーボットの下敷きになっている部分は外れないが、大した問題にはならないだろう。背部の放熱板は真っ赤に溶けて溶岩のように流れ出していたし、あらわになった原子炉の外殻もそうなりかけていた。とんでもない熱波がバートランドのすっきりとした顔立ちに吹きかかった。

 彼は自分が死ぬのだとわかった。悠長にべらべらと喋っている間に、生き延びるチャンスを失ったのだ。驚くことに、彼は逃げなかった。彼の知識が言っているのだ、もう無駄だと。彼は小さく諦めの笑いを漏らし、その場に立ち尽くした。

 溶け落ちる炉心の外殻は、腐った肉のようにゆっくりと崩れ落ちて穴を空けた。それは小さなものだったが、周辺にいる生物を根こそぎ殺すのには十分な量の放射線を外へと開放した。その場に転がるかわいそうな死体達や、アスファルトに流れた血液や、バートランドの嫌味なほどに白い歯も、穴から迸った青い閃光が、全てを幻想的なブルーに染め上げる。その閃光は一瞬だったが、やがて眩い光の残滓は消え、街灯すらも壊れてしまったのか、天蓋のメッセージホログラフだけがその場を弱く照らしだしていた。バートランドは人形のように呆気なくその場に倒れ、綺麗な顔をしたままに死んでいる。

 もはや動くものはここには存在せず、静謐さだけがどっかりと腰を下ろしてこの場に座り込んでいた。




 ウォーボットから戻ったラーゲリーのカメラアイに映ったのは、上下に揺さぶられる視界と薄暗いトンネルだった。今までのことが明晰夢だったかのような不気味な現実感の喪失を体験した彼は、濁った意識の中で現状を確認しようと視覚情報を精査していく。揺られているのはリトゥーチャに運ばれているからだろう、と彼は結論づけた。よく下を見てみれば、リトゥーチャのスニーカーの足先がかすかに見える。

 トンネルの外壁はところどころひび割れていて、そこから壁や天井に張り付く水分が水滴となって下水に落ちている。緩やかに流れる下水は悪臭を放ち、温かいからかほんのりと湯気を立てていた。その下水の端の歩道を移動していることを理解した彼は、まだリトゥーチャが自宅に帰れていないことに落胆する。

 彼が原子炉をメルトダウンさせたことで、治安局はその対応に追われるはずだ。逃げる時間は十分に稼げたとラーゲリーは信じたかった。

 『まだ帰れてなかったのか』

 「……当たり前でしょ。自宅から何キロ離れてると思ってるんだか」

 戻ったことも言わずに電波を飛ばすと、しばしの沈黙のあとに冷たい声色が返ってくる。

 「結果は?」

 『あいつを一回殺しただけだな。だが確実に殺した。あの放射線量に耐えられる生き物はいない』

 「そっか。放射線って、ウォーボットはどうなったの?」

 『メルトダウンさせたからな、もう使い物にはならんだろう』

 「原子炉を使って殺したの!? やることが派手だね、君は。あーあ、また新しい体を探さなくちゃね。君はほんっと物使いが荒いんだから。技術者としては感心しないね」

 『そうだな。面倒かけてすまん』

 リトゥーチャの胸に抱えられたラーゲリーには、彼女の顔を伺うことは出来ない。彼には彼女の通信が普段通りの--呑気を装ったものに聞こえたが、それは喉を通さなかったからだろう。実際、彼女は泣いていたのだ。理由は彼女にもわからない。ただ、何か大事なことを突きつけられてしまった気がしたのだ。

 今まで彼女は、ラーゲリーのことを人間だと思って接してきた。だが彼が容赦なくボディーの一つを使い潰したことは、人間なら有り得ない。彼からすれば、遠隔操作するロボットを壊しただけだというのを理解していても、彼が自分のアイデンティティをたやすく捨てたように感じられてならなかったのだ。

 「結局さ、君は何の復讐をしたかったの?」

 『俺とあいつは小さい頃からずっと友人だった。二人で治安局に入るときも、俺達は互いを助け合って困難を乗り切ろうと約束したもんさ。そもそもあいつと俺とは……』

 「それって長い話? 要点だけさっさと話してくんない?」

 彼にしては饒舌に語り始めたのは良かったのだが、いつまで続くかわからない話をじっくり聞く余裕が今のリトゥーチャにはなかった。かぶりを振って、涙を滲ませながら肺から漏れそうになる泣き声を押しつぶすために、少々乱暴に彼女は言い放った。通信を使えばよかったのだが、咄嗟にそうすることを忘れるほどだった。

 『わかった。俺とバートランド、そして他の仲間達で治安局の一部が武器の横流しをしているという噂を確かめることになったんだ。バートランドは必死に駆け回って上層部へ許可を取っていた。いざ現場を抑えようと乗り込んだ俺達を迎えたのは、そりゃもう完璧な布陣だった。戦い慣れしたコミュニストばかりだった。当然だが能力を持っていることは反逆的な遺伝子だから、俺達治安局員は誰も能力を使えない。だがコミュニストはそんなのお構いなし、一方的な展開だったさ。その時バートランドは一番最初に突入して、俺達の目の前で射殺された。俺達はやつが殺されたことで奮起したが、全くの無駄だった。統制された能力者の集団に、表立って能力を使えない俺達治安局員が勝てるわけがない』

 「……それで?」

 『ことが収束した時、治安局員の半数は死んでいた。その中で捕まったのは俺だけだ。殺されなかったのは珍しい能力を持ってるからだろうな。その後はコミュニストに脳髄を引っこ抜かれてこのボディに移された』

 「そこでボクと君が出会った」

 『そうだ。……今日俺がやってたのは、その時のことを詳しく調べることだ。ドクボットのボディなら治安局でも潜りやすいしな。調べたら、驚くほどあっさりと真相がわかったよ。全てあいつが仕組んでたのさ。あいつは武器の横流しがバレそうになったから、正義感の強いやつを選んで声をかけ、まとめて殺したのさ。自分が疑われないように、一番最初に死んだ振りをしてな。あいつの能力は高度な死んだふり……死態だったんだ。上層部への許可を取っていたのも嘘で、あとで生き残った仲間は無断の作戦行動を反逆的と判断されて処刑された。ここからは推測だが、それをダシにして奴はコミュニストでの地位と、今のクリアランスを手に入れた。それがわかってからは、今日一日殺す機会を伺っていたわけだ』

 「なるほどね。その経緯はよくわかったけど、一番大事なことをまだ説明してもらってないよ」

 『なんのことだ?』

 「ボクが一番聞きたいのはね、なんで君が一人で出てったのかってこと。ボクがどれだけ心配したか、どれだけ不安になったか君にはわかる?」胸に抱えるポットをリトゥーチャはこぶしで小突いた。

 『そう言うとは思っていたが、まさか本当に言うとはな。そんなに俺を信用してないのか? 一日くらい好きに動いたって構わんだろう。俺をなんだと思ってるんだお前は。お前の所有物じゃないんだぞ俺は』

 「違うよ! 結局ボクのことを信用してなかったんでしょ。君が! 今日ボクが君を追わなくたって、君は自分なりに上手くやってたのかもしれないよ。でも、なんでそれを言ってくれなかったの。ボクがいると邪魔だったんでしょ!?」

 もはや通信機を使うことなど忘れて彼女は大きく叫んでしまっていた。灰色の瞳から溢れたいくつもの澄んだ水滴が、頬から顎へと伝い、いくつかはラーゲリーの上に落ちた。しかしそれにラーゲリーは気づけない。

 『お前、そんな風に思ってたのか』ため息混じりの電波を彼は送る。

 「普通そう考えるでしょ!」

 駄々をこねる子供そのままだ、と彼女は自分でわかっていたけれども、そうせずにはいられなかった。本当は彼女はこんなことで怒りたかったわけではないのだ。だが一度暴走した感情を止めるというのは、そう簡単なことではない。ましてや、それが大事な人のことであるならば当然のこと。

 『俺はお前を巻き込みたくなかっただけだ』

 「だから通信機ができあがる前に動いたってこと?」

 『そうだ』

 歩き続けていた足をはたと止め、彼女はその場に座り込む。足元に溜まっていたむわっとした下水の臭気が、彼女の鼻孔をくすぐるが、今の彼女はそんなことはどうでもよかった。ラーゲリーと呼ばれるポットを抱きしめた彼女は、そのハードウェアに一粒ついたレンズをじっと見つめる。

 「ボクは、君がわからないよラーゲリー。だって、今の君は今しかいないんだよ。君はクローンナンバーからすら外れた存在なんだよ。君が死んだら、もう今の君は戻ってこないんだ」

 『その言い分だと、もう一人の俺を見つけたのか。不細工なツラだったろう』自嘲した笑いがリトゥーチャの耳に届く。

 「そんなことどうだっていいよ。君は二回死んだって言ったよね。でもあのクローンのナンバーは二だった」

 『ああ』

 「ラーゲリー、今の君は何人目? 今の君は、誰? ねえ……」

 本当はそういう答えを求めていたわけではない。彼は今、自分の腕に抱かれてここにいる。それこそが真実だ。だが、だからこそ彼女はこう言いたかったのだ。

 自分をもっと人間らしく扱ってよ、と。

 だがその言葉を口にすることはできず、彼女はただ、彼に問いかけることしかできなかった。

 「答えてよ……」

 しばしの沈黙が流れ、彼は下水道の天井から滴り落ちる水滴を眺めながら、どういったものか思案していた。だが答えは出ない。自分が何者なのか、なんてことを考えたのは今が初めてだったからだ。

 だが結局のところ、出てきた答えはまるでいつも通りだった。

 『お前と出会ってからの俺が、俺だ。どうだっていいだろう』

 その返答を受け取ったリトゥーチャは何も言い返せなかった。言い返す勇気がなかった。

 彼女は立ち上がると、家路までの長い闇を再び歩み始めた。

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ブレインコーデックス トカ @toka712

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