ブレインコーデックス

トカ

第1話 日時計の夜

 「今宵もよい一日でしたね市民。こんなに幸福な世界を与えてくださる管理機様に最大の感謝を捧げましょう。--現在この文字を見ている市民は直ちに治安局に出頭してください」

 地下空間の天蓋に設置された気象再現用ホロパネルに、仰々しくこの文字はずっと表示され続ける。夜の間はずっとだ。文字の後ろでは夜空を表現されたホロ映像が流れ続けるが、当たり前のように全く関係のない文字や映像が表示されることも多い。今などは、街を歩いていた人間が轢き殺される映像が流れた。いつかどこかの交通事故の監視カメラの映像なのだろう。これが交通安全への啓蒙を意味しているのか、それとも単なる管理機の戯れかは誰にもわからない。

 もっとも、この映像を見ている人間はほとんどいない。もう何百年もこの世界を管理している都市管理電子計算機は狂いきっているため、誰もがまともに天蓋に映った星を見上げようとはしないからだ。そもそもこの時間帯に起きている事自体が、この都市では刑罰の対象だ。

 だが人々はこれに異議を唱えたりはしない。疑問を感じることもない。

 地底都市の明かりは天蓋以外の全てが落とされ、仰ぎ見るほどに高くそびえるビルにも一つも明かりは灯っていない。だがその下の大通りに、たった一つ、踏んだタバコの残り火のような微かな明かりが灯る。

 その光がどんなものか知っているものなら、これから起こる惨状を想像し、治安局に電話をかけているだろう。だがそんなことは起こり得ない。なぜなら、今この時間は誰もが寝ているはずだからだ。善良な市民ならば、目撃することは理論上不可能なのだ。自ら進んで反逆者になりたがる人間は、この都市で幸福な人間より少ない。

 その灯火は、ある兵器の起動を示すものだった。本来人間が乗るはずのないその兵器の外部との連絡手段は発光信号のみなのだ。何処かにいる協力者に起動成功を伝えるため、その兵器の頭部に設置されたライトは、不規則に瞬く。それはこう言っている。「Huuba! Huuba!」発信している本人は意味すらわかっていないが、協力者への作戦開始を告げる暗号だということは理解していた。

 灰色のモザイク迷彩の施されたこの兵器は、ごく一般的な戦争用のボットだ。アンテナを含めた全長はせいぜい四メートルほどで、人型戦車の一種だ。通常、このボットは管理機からの直接司令でしか動かない。これの存在を知ってはいても、見たことのある市民はほとんどいないだろう。

 肩部の連装式ロケットランチャーには、女性が腰掛けている。まるで第二次世界大戦での徴兵ポスターを思わせるようだ。もっとも、そんなことを言っても伝わるのは旧世界文明フリークスの結社、デロリアンくらいだろう。

 赤いジャンプスーツを着た彼女の顔は、容姿でいえば可愛らしいと言えるだろう。だが手にはレーザーガンをぷらぷらと弄ぶように持っており、その可愛らしさを物騒さでかき消している。白い髪の毛は遺伝子異常から来るものだ。雪のようなこの髪を持つものがなんらかの遺伝子異常を持っているのは、公然の秘密であった。そして極めつけは白に近いグレーの瞳だ。廃墟なら幽霊と見紛いそうなその瞳は、不気味さを強調する。

 彼女はボットに話しかけるように口を開く。撫でるようにランチャーに手をこすりつけ、この地下都市の空気と同じ生ぬるさを味わう。まるでこの鉄塊に愛情があるように。

 「ボクが幸福というものについて語り得ることはたった一つだけ。この世界に幸福は存在しない」

 『神がこの世界に存在しないように?』

 「その通り。でもたった一つだけ真実がある。フォーティツ暦の始まる前から変わらぬシンプルな法則だ」

 『全人類の九九%は家畜であり強者だけがその歯車を回しうる』

 「最強かつ最も聡明な者のみが力を得るの」

 『全ては強者のために、世界を作り変えるのだ』

 このウォーボットに知性があるかのように彼女は話しかけ続ける。はたから見れば、独り言を言っているようにしか見えない。確かに発光信号は会話をするようにチカチカと瞬いてはいるが、彼女がそれを見ている様子はない。たとえ中に人間が乗り込んでいたとしても、無線機すら手に持っていない彼女がどうやって喋っているのかは誰にもわからない。

 「でもそこにあなたの生きる世界はあるの?」

 『生きようと思えばどこでだって生きていける』

 ウォーボットは唐突に歩き始める。アスファルトは砂場に残した子供の足跡のように凹み、ひび割れ、一歩進むたびに地響きがする。彼女はといえば、馬にでも乗るかのようにロケットランチャーにまたがり、振り落とされることすらなく、むしろ頬を緩ませながら器用にロデオしていた。

 「今のあなたを生きていると断定することは不可能だと思うけど。肉体のない脳だけの存在を、生きていると言えるの?」

 『精神は肉体に左右される。ならばその逆もあり得る。俺はこの肉体と癒着したことで、鋼の精神を得たのだ。それに、生きていることを証明することは難しいが人間であることを証明することは簡単だ』

 「へーえ! どうやって?」

 思わず感嘆し、人の顔にそうするように頭部のカメラアイを覗き込む。そこには、真っ白い影が映っていた。

 『俺は人間だ。この言葉こそ、人間の証明だ』

 「そう……かなぁ?」

 『わからんならいい。わかるやつにだけわかればいい』

 「まあ別に否定したいわけじゃないから、それでいいんじゃないかなって思うけど。私は人間扱いしてるつもりだし?」

 『ありがたいね。さて、号令を頼むよ』

 そう発信すると、ボットは両手で持つ四連装機関砲を構えた。銃口の先には、判を押したように立ち並ぶ黒い住居ビルが見える。一つ一つの横幅は乗用車八台分ほどで、二百メートルといったところだろう。その更に上には、巨大なメッセージホログラフが浮かんでいる。

 中には多くの人間が生活している。かつてこのタイプのビルに住んでいた彼女には、千人もの人間がこれに詰め込まれていることを知っている。だが彼女は同情しなかった。なぜならこの世界では彼らはゴミのような存在だからだ。黒というのは、この都市においてそういう色である。

 銀髪の女は念入りに耳栓を小指で押し込んで、全てが循環する地下都市の淀んだ空気を大きく吸い込んだ。

 「共産主義に栄光あれ! 結社コバートセルばんざーーい!! 管理機ある限り、自由はない! 支配の消滅こそが自由を打ち立てるのだ!」

 その叫びは耳鳴りがしそうなほど無音だった一帯に響き渡り、いくつかの部屋では蛍光灯が瞬いた。共産主義にコバートセル、それはこの都市では一級クラスのテロリストの名称だ。それを聞きつけた市民たちは、通報して自分のポイントを稼ごうと思ったのだ。

 ガラリと窓の一つが開いた。窓から身を乗り出した彼は、ビルから数十メートル離れた道路上で遥か頭上のホログラフの光に照らされたこちらを向くウォーボットと、その上に座る白い人影を見つける。すぐさまPDC(携帯端末)をポケットから取り出し通報する。その指は恐怖から震えていたが、正確にPDCを操作した。しかし「反逆の告白をお望みですか?」と端末は喋る。震える声で管理機に現状を伝えたあと、目尻が避けそうなほどに目を見開いた彼は、思わず窓に背を向け駆け出したが遅かった。ただただどうしようもなく、遅かった。ウォーボットの持つ砲がこちらを向いていることに気づいたのだ。

 窓ガラスが振動で砕けそうな、絶え間ない金切り声のごとき轟音。砕け散ったコンクリートが煙のように破片を散らし、硝煙の香りと言うには濃厚すぎる臭いが満ちる。PDCを片手に駆け出した男の姿はなく、彼がいた部屋中にボルシチをひっくり返したような汚物とも肉塊とも言える赤い液体がへばりついていた。黒いペンキの塗られたコンクリートが砕け下地の白い部分に飛び散ったそれは、ウォーボットの投光機に照らされて、真っ赤に輝く。

 「通報も行っただろうし、あとは適当にぶっ壊しちゃおう!」

 『アイアイ』

 姿の見えない巨獣に引っかかれているようだ、と肩に乗っている灰色の瞳の彼女は思った。下から上に砲弾を撃ち込まれ砕け散るビルは、たしかにそう見える。人間だろうとなんだろうと、砲弾は容赦なく吹き飛ばしていく。ガラスが砲弾の着弾炎に照らされ、きらめきながらアスファルトへと降り注ぐ。

 「もっと、もっと!」

 ウォーボットは今度は薙ぎ払うようにビルの一階に射撃を行う。柱が、人間が、壁が、紙くずのように穴を穿たれそれ自体が爆発しているかのように弾け飛び破片を飛ばす。そのうち支柱を失ったビルは傾き始めると、爆音は一旦止まり、今度はそこら中から悲鳴が木霊する。だが耳栓をしている彼女には何も聞こえないし、聞く気もない。

 管理機からの睡眠の義務すらも破って逃げ惑う人々を尻目に、ウォーボットは脚部に内蔵されたローラーで後退しつつ崩壊中のビルから離れる。ビルから飛び降りて逃げようとしたのか自殺しようとしたのかわからない人間が地面に到達する直前に、走りながらウォーボットの機関砲が一度だけ発砲する。地面に落ちる直前に撃ち抜いたのだ。 

 「主よ、我が手と我が指に戦う力を与えたまへ。って感じかな」

 『それは何の引用だ? また旧文明の何かだろう』

 「正解! 今のはある戦争映画で狙撃手が言った言葉で~」

 『もうビルが崩壊する。オタク講義は後にしろ』

 「はいはい」

 やれやれわかってないな、と言いたげに肩をすくめると彼女はロケットランチャーから腰を上げ、後頭部にハグするようにしがみついた。

 『いいか?』

 「もちろん。一人も残すな! 最善を尽くせ!」ボットの頭部に拳を打ちつけ彼女は叫んだ。

 ロケットランチャーの蓋が開き、近くのビルから出て逃げ始めた彼らに照準を合わせる。一直線に赤い軌跡を描いた弾頭は高く昇り、やがて一瞬だけ花開き雲を作る。瞬く間にそれは巨大な業火となり、一帯を焼き尽くした。サーモバリック弾の美しい灼熱の芸術を眺め、彼女は恍惚のため息をつく。後には白い肌をした人間らしい肉など一つも残らず、焼けて固くなった銅像じみた死体が残るだけだった。

 しばらく肉の焼ける臭い音を楽しんだ後、彼女は懐から自分のジャンプスーツと同じ色の旗を取り出し、洗濯物にそうするように何度か上下に振り回してシワを伸ばすと、街頭にひっかけた。共産主義の革命を伝える赤い旗を。


 混乱のさなかに下水道に隠れたボットと女は、一息入れていた。両側には、人が歩ける程度の通路がある。

 ボットに腰掛けたまま女はタバコに火をつけ、大きく紫煙を吐く。そしてまた顔が照らされるほどに勢い良くタバコを吸い、また吐いた。じんわりと喉に伝わる苦味を味わいながら、腐った水の匂いを少しでも紛らわせようとしているのだろう。

 『タバコは体に悪いぞ』

 「多幸薬よりかはよっぽど健康にいいよ。それに長生きする必要なんてなくない? 長く退屈のない人生を送るだけ」

 『そうか。お前がそれでいいなら別にいいがなリトゥーチャ』

 発光信号すらなしに二人は会話をする。さながら心で繋がっているかのようだ。

 「神がいるとすれば、我々を人間にするために欠点を与えるんだよ。ボクの場合はそれがタバコだった、みたいな?」

 紫煙をゆっくり吟味しながら口をすぼめて吐き出し、リトゥーチャは勝ち誇るように微笑んだ。

 『まるで自分には他に欠点がないような言い草だな』

 「少なくとも君よりかはねー。君なんか腕も、足もない。脳と脊髄だけだし」

 『残念だがそれは今の俺にとっては欠点にならないな。このボットが俺の体だ』

 「セックスできないじゃん? ボク、ラーゲリーに生身があったらな~って思うことあるんだよね」

 思わずラーゲリ-と呼ばれたボットの頭部カメラが回転し、彼女に視野を合わせた。

 『リトゥーチャ、それは本気か? いつからまともな飯を食っていない?』

 「まともな飯ってのが配給食のことなら、もう随分と食べてないね。お腹いたくなるんだもん、アレ」

 『あれにはホルモン抑制剤が入ってるんだから食え。食えばそんなこと考えなくなるはずだ』

 「ボクの告白を聞いて勃起しちゃった? 硬くなるものもないくせにー。っていっても全身硬いけどね」

 恋人にするかのようにリトゥーチャはボットの頭部をぐりぐりと肘で押す。対してラーゲリ-は何も答えず、ただカメラを赤外線モードにして下水道の奥を覗き込んでいた。地熱に暖められた下水は霧を作り視界は悪いが、彼のカメラはそれを見通すことができる。リトゥーチャはといえば、タバコを下水に放り込み、途端に顔をしかめた。誤魔化すものがなくなったせいで、鼻が曲がりそうなのだろう。

 『……そろそろ進むぞ。回収時間に遅れると取り返しがつかない』

 「あーはいはい」

 下水道を進んでいくと、時折LEDの光る端末のようなものを目にする。それらは彼女らが通ると、緑から赤へと色を変える。本来なら進んではいけない場所ゆえだろう、これらは管理者の監視網の一つなのだ。もっともボットはそれを全く意識せずに、だが肩に乗る女性に飛沫がかからぬほどの速度で進んでいく。

 角をまがり、下水の集合地点だと思われる広い十字路に出る寸前、ラーゲリ-は脚部のローラーを止めた。あまりに急だったもので、少女は転げ落ちそうになる。なんとかボットの整備用につけられた左腕のコの字型のフックに足を掛けて踏みとどまると、その場で足を曲げて思い切り上に跳ね上がって元の場所へと戻る。

 「どうしたの?」

 『人間だ』

 「もしやコミュニストかな。名を騙ったから怒っちゃった系?」

 『いや違う。胸にディスプレイに映った十字架のエンブレムがある』

 「TWCOD(トゥーコッド)か……。信仰熱心なことで」

 『機械を信仰することに違和感を覚えない、この都市でパーフェクトに幸せな奴らだからな』

 どう対応したものかと彼女らが考えあぐねていると、広間の奥にいる人物が先に声を上げた。

 「管理機こそ私の友。私の役目は跳梁跋扈するテロリストを管理機様の名の下に罰し、八つ裂きにし、磨り潰し、転換炉へと放り込み、市民たちへそのスープを分け隔てなく与えること。そう、あなた達のような異端者を、完膚なきまでに滅殺すること!」

 その叫びと共にしゃがんだイエローのラインが一本刻まれた黒衣の女は、TWCODのエンブレムの掘られた携行型ロケットランチャーを構え、照準器を立てる。

 対してラーゲリーは頭部の投光器をつけ、目の前を昼間のように明るく照らし出す。そのおかげで、センサーを持っていない彼女でも状況が一瞬で理解できた。

 「あっ、ヤバイかも」

 彼女が呟いた瞬間、ラーゲリーは左腕部を肩を守る盾のように上げ、もう片手で機関砲のトリガーを引く。閉鎖空間で反響した轟音は、リトゥーチャの鼓膜を破りこの都市の下水道全てに管理機の放送よろしく響き渡らんとする。同時に、凄まじい爆風がラーゲリ-の左手を貫き、リトゥーチャの僅かに上をメタルジェットが通り抜け、火炎でオレンジ色に照らされた銀髪を突風が襲った。

 彼の放った砲弾で霧のように吹き上がった下水は、彼のセンサーですら例の人物を捉えられなくなっていた。だが結果は確実だ。どんな人間だろうと、音速で飛ぶコップ並の太さの鉄塊を受け止められるわけがないのだ。

 だが彼はため息をつく。

 『駄目だな。分が悪い』

 「えっ!?」

 二人は一切言葉をかわさずに意思を交わす。恐る恐るリトゥーチャがもうもうと蒸気があがる穴の開いたラーゲリーの左手から奥を覗くが、煙が見えるだけだ。だがそれが薄くなるにつれ、彼が行った言葉の意味を理解する。そこには無傷で立っているTWCODのシスターの姿があった。えぐられたコンクリートがいくつも壁に穴を開け、迸った下水が天井から滴っているにもかかわらず、彼女の周囲だけは何にもないかのように無傷だ。それどころか、水滴さえも彼女に触れるか触れないか、といった距離で消えているのがわかる。服にすら一滴も付着していない。

 驚嘆するリトゥーチャの顔を見つめ返すと、勝ち誇ったようにシスターは笑みを作り高々と宣言した。

 「管理機様に逆らうあなたのミュータント能力は、おそらくテレパシー。そのウォーボットの中身と何の通信手段もなく会話しているのがその証左。その程度の能力でテロとは、随分と管理機様を舐めてらっしゃるようね。全知全能の主に逆らいし者を罰する私の盾で、殺してさしあげる。そしてさらなる上位プログラムへと私を組み込むのよ!」

 天を仰ぎ両手を掲げ祝詞を捧げ、ロケットランチャーへ悠々と次弾を込め始める。その様は一見すると無防備以外の何物でもない。

 「とにかく撃って!」

 『しかし敵の能力がわからない、危険なのではないか』

 「どうせ防御系の能力だよ。じゃなかったらウォーボット相手に正面から撃ってきやしない!」

 『それなら無駄弾になるのでは』

 「いいからボクに任せてよ! とりあえず撃ちながら近くのルンボット(清掃用ボット)を行かせて」

 『アイアイ』

 リトゥーチャは彼の背後に飛び降り、そして背面装甲に手を当てる。その瞬間、今まで赤い警告灯を発していた下水道の監視センサーが、全てグリーンに変わった。と同時に、彼は射撃を始める。すでに耳の聞こえない彼女は、衝撃波と炸裂する発砲炎で彼が撃ち始めたのを感じ取った。

 彼が射撃をしている間はあのシスターもこちらにロケットを撃つことはできないはずだ。敵の能力がバリアフィールドであると看過していたリトゥーチャは、その能力の弱点についてもおおよそ理解できていた。いわゆるバリアの弱点とは、外部からの一切の攻撃を無効化するが、バリア内部から攻撃することはできないのだ。だから敵はこちらが撃つ前に発砲したのだ。バリアフィールドが所有者の自由に攻撃を通せるのならば、こちらが弾切れするのを待って攻撃をすればいい。だがそうしないことが、推論の根拠だ。彼女に反撃の隙を与えなければ、攻撃されることは絶対にない。

 「ラーゲリ-、近くにいるルンボットは見つかったぁ!?」

 両手を背部装甲板に当てたまま彼女は叫ぶ。すでに耳は機能を果たしていないため、反射的に口が動いてしまっているのだろう。

 『ああ、もうすぐそこまで来ている。あいつにけしかけるのか?』

 「イエス。射撃をやめてルンボットをシスターの正面に向かわせて操作を切って!」

 『アイアイ』

 しばしの静寂が訪れる。砕け散ったいくつかの破片が下水に落ち、かすかな水音を奏でる以外には何も聞こえない。

 周囲には再び白煙が満ちている。煙が晴れるのを待って、TWCODのシスターは攻撃をしかけるつもりだった。ランチャーの照準はすでにつけてあるが、この煙に乗じてどこに動かれているのかわからない。それにウォーボットの背後に回った赤いジャンプスーツの女の動向も懸念材料の一つだ。ヤツが何をしてくるか、全く予想がつかないのだ。まあ、登録ミュータントである自分がやられるはずがない。管理機様の加護が自分を守ってくれるはず、そう考えるシスターは緊張しながらも笑みを崩さない。笑みこそ忠誠の証だからだ。

 徐々に煙が晴れ、照準器を再び覗き込む。そして心構えをする。発射した直後にバリアフィールドを貼るのが一瞬でもずれれば、バックブラストで自分さえも内臓破裂する可能性があるからだ。

鬱陶しい煙が徐々に薄まり、今だ、と思った。と同時に、目の前の光景が先程とは全く違うものであることに驚愕する。

 そこにあったのは、長年の作業の結果で錆びついた、汚らしい別のボットの外殻だった。下水の汚れと匂いが染み付いた彼女の身長ほどのそれは、冷蔵庫ほどの太さの胴体で彼女の視界を奪っている。管理機の配下にある清掃ボット、いわゆるルンボットの一つだとすぐに彼女は理解した。だがなぜこんなところに? 下水で働いているのはおかしくないが、どうしてこのタイミングで?

 ルンボットは透明な円筒状のカバーで覆われた上部センサーのLEDをせわしなく点滅させ、ゴミ回収用の両手を所在無げに動かしている。

 「申し訳ありませんが、現在テロリストを追っているバグスイーパーなのです。そこをどいていただけませんか?」

 とうやうやしくシスターが言うが早いか、ルンボットは彼女の首を掴んだ。

 「あぐっ!」

 「ここは下水! あるのは全部ゴミ! すなわちお前も全身ゴミ! 清潔は義務なんだよ! お前の足が下水で汚れています! 清潔でないなら反逆だァ! 反逆だ! 反逆だ!」

 思わずその腕を振り払い、彼女は下水に転げ落ちる。全身下水まみれになった彼女を見て、ルンボットは金切り声をあげる。

 「アァーッ醜穢! 不衛生! 不潔! 全身下水まみれのものは100%ゴミだと理解します! ドブネズミと断定!」

 「ちがっ……私は!」

 胴体から今までの腕とは別の腕を伸ばし、彼女へと向ける。それは溶接用の強力なバーナーと、太いパイプでも軽く切断できそうなパイプカッターだ。それがなぜ出てきたのか、なぜそれが自分に向いているのか、それをわかって彼女は絶叫をあげ、ランチャーを取り落とし水音を立てる。

 「違う! 私は管理機様のために! 信じてください! すぐ後ろにテロリストが! 共産主義者が!」

 「こんな大きなゴミ! バラバラにしないと収納できないことカシラ!」

 ラーゲリ-とリトゥーチャは彼女の断末魔の叫びを聞きながら、思わず笑っていた。彼女の叫びに負けないほどの音量で。もっとも、ラーゲリーは無言に見えたが、それでもその笑い声はリトゥーチャには聞こえていた。耳が聞こえないことは、二人の会話において問題ではないのだ。なにせ、元からラーゲリーは空気を振動させて喋ってはいないし、リトゥーチャも鼓膜など関係なく彼の声が聞こえるからだ。全てリトゥーチャの技術だ。

 「管理機を信奉するんだから、そりゃボットには逆らえないよね。あー……ボクお腹痛い」

 体を捻じ曲げながらラーゲリーの肩の上で体をくねらせる。

 『皮肉だな、いやまったく』

 ラーゲリーも人間がするように膝をたたき、装甲がぶつかる衝撃音があたりを揺るがした。だがリトゥーチャは気に留める様子もなく、ひとしきり笑い続ける。それが軍事用ボットが膝を叩いて笑うのに慣れているからなのかはわからない。

 それからまるでそこに何もないかのようにルンボットを踏み潰してスクラップへと変え、二人は再び進み始めた。

 しばらく歩き、下水道の匂いにも慣れた頃、彼らは出口へとたどり着く。水処理場の無人ラインだ。

 地下に広がる広大な空間は、このあたりの水処理を全て自動で行っているのだ。地下都市であるここでは徹底したリサイクルが必要であり、義務だ。汚れを沈殿させ、濾し取り、誰かの小便と糞便まみれの水がまた誰かの口へと入る。驚愕すべき最高の都市システムだといえる。

 コンクリートがひび割れないよう、ラーゲリーはローラーで慎重に進む。リトゥーチャは跨っていたロケットランチャーから降り、その闇の中で佇む男へと歩いていく。

 そこにいたのは青い服を着た男だ。シルエットで人間かどうか判断しろと言われれば、とても困る容姿をしている。上から見ても横から見ても、その姿は膨れ上がった風船を思い起こさせるほどに丸々としていた。

 「さて、デブリーフィングを始めよう」

 体格に似合わないよく通る高い声が木霊する。

 「シーニー様、陽動作戦は完璧に完了しましたぁッ!」

 甲高い声に対抗するような声量で彼女は発言する。

 「声が大きいな、鼓膜をやられたか?」

 思わず耳を抑えた青服の男は、彼女を睨みつける。リトゥーチャははっとして慌てて自分の口を抑えた。

 『下水道内での発砲で彼女の鼓膜がやられました。必要でしたら俺がモールスで情報をお伝えしますが』

 点滅する頭部ライトを見つめた後、青服の男はがっくりと肩を落とす。

 「面倒だ。ウォーボットのカメラ映像と通信をデータにして提出しろ。以上!」

 『……アイアイ』

 不機嫌そうな電波をリトゥーチャは感じ取るも、黙ったままだった。

 シーニーは作業ボット搬入用のエレベーターへと乗り込む。一人と一機もそれに続く。

 警告灯が点滅する中、ウォーボットの岩のような、だが明らかに人工的で殺意に満ちたフォルムが照らし出される。赤いジャンプスーツの女は、まるでそこが座り心地のいいベンチのようにそのボットの上に腰掛け、希望を薄暗い灰色の瞳に湛えてエレベータの頭上を覗き込む。やっとこの匂いともおさらばだ。


 


 「君たちのおかげで任務はすこぶる順調だ。先ほど、君たちが暴れたセクターの隣でスパイ活動をしていたエージェントから連絡が入った。任務完了だそうだ。これで少しは中央管理機の管理区域を特定できるかもしれん。TWCODの登録ミュータントを始末したことも上に報告しておこう」

 会議室の一室で、彼はウォーボットの記録映像をバックに流しながらそう言った。机の上には保温ポットがプロジェクターに接続されている。

 「ありがとうございます。さすが、シーニー様は話のわかるお方です」

 うやうやしくリトゥーチャがそう言うと、シーニーは微笑んだ。だが口を横に広げても、顔の小ささはあまり変わらない。顔の面積が広すぎるせいでそう見えるのだ。

 「君のクリアランスは次の任務で上がるだろう」

 「格別のご引き立て、感謝いたします。ところで……」

 そこまで喋ると彼女は机の上の保温ポットを指差した。

 「彼の物理的身体の代替は用意できましたでしょうか?」

 「ああ、一応な。彼にとってはそれが一番の報酬だろう」

 突如としてプロジェクターに映された映像に『ありがとうございますブルー様』という文字が表示され、何度も回転した後にズームされた。

 「礼は受け取っておこう。君にイルミナティは期待している。君の新しい体は会議室を出て斜向かいの部屋においてある」

 喜び勇んで部屋から出ていくリトゥーチャと、その手に運ばれる保温ポット型の脳髄保管機を見送ると、シーニーは懐中時計を取り出す。そして次の瞬間、そこにはいなくなっていた。まるで元からそこにいなかったように、魔法のように消え去ってしまっていたのだ。

 期待しながら言われた部屋のドアを引いたリトゥーチャは、豆鉄砲を食らった鳩のように呆然とそこに立ち尽くした。保温ポットについた小さなカメラアイもそれを捉えると、彼女の脳内に罵声を送った。

 『どういうことだよ! 俺は人間だぞ! 俺が欲しかったのは人としてのボディだ!』

 「あー、でも、まぁ、なんっていうかさ……意外と便利だったりして?」

 『そんなにハイになりてえのか!?』

 「あ、なるほど、そういう使い方もできるね。べんりべんり。ハハ……」

 全く感情を込めず、作り笑いを彼に向ける。

 『ちくしょう……。手足がついてて人間サイズなだけ、マシだと思うことにするか……』

 そこにあったのは、随伴歩行型の医療ボット、通称ドクボットだった。

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