第3話 台風の夜

 台風の夜に家に一人で考える。自分がどうして生きていなければならないのか、家族や友達が悲しむからと死をためらっているのかと。

大学に入って半年が過ぎ、勉強も苦痛でなくなった頃久しぶりに自分と向き合っている。共働きの家庭に生まれ、兄弟もいないため昼間は家で一人でいることが多かった。別段さみしいと思ったこともなかった。僕は一人のほうが何事にも集中できるし何より幼稚園の頃から人に合わせるのが苦手だった。自分のやりたいことをやると先生に友達と遊んだほうが楽しいよ、と強制的にグループに入れられる。多分そんなことが続いたから苦手意識が出来たんだろうと自己分析している。小学校は日本で集団行動を学び、中高を海外で過ごし、高校三年生からまた日本に舞い戻って集団行動をとらざるを終えない状況に放り込まれたからか自己を乖離して、一歩引いた目線で仲間とコミュニケーションできるようになっていた。けれどもそれでは深いつながりはできないのが当たり前で、場所が移れば崩れるほど希薄な友達付き合いしかできなくなっていた。

 そう自分で考えて初めて自分が本当は深いつながりがほしい寂しがりやなのだと気が付いたのだ。しかしそれでも大人数で行動をすればストレスが溜まり苛つき始めるから手が付けられない。第三者目線で自分にあきれてしまう。そして冒頭に戻るのだ。

 そもそも人が生きる意味については小学生のころから疑問に感じていた。夢でよく死ぬ夢を見ていた。そうすると決まってその朝には自分が一新したような感覚に陥るのだった。いやなことがあると決まってそんな夢を見る。だんだんそれは鮮明になり事故から殺される夢へと、さらに殺す夢を見た。さらには人が人を殺す映像を少し浮いた場所から―まるで幽霊のようにー見ることもあった。そうすると気分が一新するのだ。どんな趣味に身を投じていてもあるいは学校生活にいても味わえない快楽が身を襲うのだ。おそらくあと一つねじが外れれば僕は殺人者になっていただろう。刑務所ほどつまらない場所はないと思う。小学生の分際でよくその欲望にあらがえたものだなと思う。その夢を見ているとその後が見えるようになるのだ。絶対経験したことのない刑務所の生活も。そして自分が死ぬと親が、友達が、同級生が、周りにいる他人たちが、悲しむのだ。また誰かが殺されれば同じように悲しむのだ。経験したことがないはずなのにリアルに描写される。このおかげで中学時代は中二病になったものだ。自己制御が効かなくなりリストカットや自慰行為に自分の価値を見出し、自分は選ばれた存在だなどと考えて日々を過ごしていた。

 では今ではどうだろうか。学校に行きサークルで活動してバイトをして、課題をして、充実した生活を送っているはずなのになんで生きているかを考えてしまう。これを考える時間があるから充実していない、ということなのか。

 考えても仕方がない。台風で外にも出られない。友達は元気に外で飲んでいるのに参加できない。生きる意味とは何だろう。

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