第8話 ハードル高すぎ!これじゃハードルっていうか鴨居だよ!

 二月になった。


 小学校への行き帰りはけっこう寒いけれど、このあたりは真冬でも雪は降らない。

 雪国の子だったら、ダウンのジャケットを着て、ほこほこに膨らんで雪道を歩くんだろう。

 そういう映像を見るたびにため息が出る。


 いいなぁ、暖かそうで。


 だって、私たちの小学校ってコートとか禁止だもん。

 雪が降らない・積もらないと、あんまり同情されない。

 それどころか暖かいんじゃないか、とか思われる。

 いや、めっちゃ寒いから!

 降水量が少ないだけだから!

 あれだけ着込んでいる雪国の子たちより、体感温度はぜったいに低いはずだから!


「寒かったら走って登校しなさい」って先生たちは言う。

 でも通学路は毎朝、車がビュンビュン走ってゆく。近くに保育園がある。園児を乗せて、時間ぎりぎりでぶっ飛ばしてるんだ。遅刻しちゃまずいから、登校中の私たちの列にクラクションを鳴らしまくる。


 つまり、自分の子どもは大事だけれど、学校へ向かう私たちは邪魔なんだ。


 勘だけど、あの目を吊り上げてミニバンを運転しているお母さんたちは、自分の子どもが小学生になったら一転して「この通学路は危険です!」とか言い出すと思う。そりゃもう、絶対に。

 

 この環境で走って登校しなさいとか、真面目に考えているんだろうか。


 私は幼稚園だったから、保育園みたいに車で送迎とかは関係なかったけれど、保育園の前って朝晩はいつも車がぎっしり路上駐車している。エンジン掛けっ放しの車からお母さんたちが降りてきて、道端で話し込んでいる。通れないので「すみませーん」と言うと、ものすごい目で睨まれる。そして、保育園のうるささに負けないくらいの大声で笑い合っている。ときにはコンビニで仕入れてきた飲み物とか食べものとかを出してきて。車がなくなった路上には、そんなゴミが散乱している。


 ものすごくうるさいので、ネットで話題になったらしい。

 そうしたら「子どもの声は天使の声なのに、うるさいとか、とんでもない!」って声が続出したらしい。「住民の身勝手だ」って。


 ……いやいや、うるさいのはお母さんたちでしょ?


 自分たちのマナーが非難されているのに、子どもを楯に取るとか、どうよ。

あれって間違いなく、子どもをダシにすればたいていの言い分が通るってわかってるんだ。

 そういうのってなんだかな、と思うけれど、でも私だって同じ立場になったらどうなるかわからない。しれっと「子どもは天使です」とか言っちゃうかもしれない。

いまは、歩きながらおしっこする金髪チビの直樹とかが身近にいるから「天使? それってなんの冗談だよ」って気になるけれど。

 でも、せめて子どもが通りかかったら「ごめんなさいね」って言ってから道を開けるくらいの大人になりたいな、と思うんだ。


 保育園ができたのは二十年前くらいらしいから、あの男の子は通っていない。

 幼稚園はずいぶん昔からあった。でも、身体が弱かったから、行けなかったかもしれない。


 そういうの、つらいだろうな。


 いや、ほんとうに行ってたとしても身体は苦しかっただろうし、それに嫌なやつだっていっぱいいたと思う。楽しいことばかりじゃない。昭和の昔はいいことばかりだったみたいに言われるけれど、たぶんちがう。みんなでいるといろいろあるのは今も昔も一緒でしょ? 


 でも「行けなかった」っていうのは、やっぱりつらいよ。


 いいことが一つしかなくて、嫌なことが二十くらいあったとしても、その一つで幸せになれることだってあるんだから。


 そのたった一つを探しに行くことさえできない、っていうのは、二十の嫌なことが避けられたとしても、幸せなんかじゃない。


 だから、保育園に通っている園児たちには、がんばってね、って思う。

道路を占領しているお母さんたちはクソだと思うけれど。



 授業中に脇腹をつつかれた。ちいさな紙包み。机の下で開く。


〈「たべるー?」 はるなより〉


 親指をぐっと突き出してから、ハイチュウの包みを開けてそっと口に入れる。いちご味だった。お返しに、休み時間にキャンディをあげよう。包み紙をちいさくたたんで、筆箱に入れる。口の中のハイチュウがなくなったところで、ポケットからリップクリームを出して、唇にぬりぬり。顔の周りにいちごの香りが漂う。


 以前、授業中にお菓子を食べていると、拓未が「先生~」とチクりやがったの。美登里ちゃんは必死でごまかしてなんとかなった。以後、拓未は女子からは完璧にハブられている。


 ま、当然よね。


 でも、口の動きは隠せても、においは隠せない。

 ということで、女子の間では香りつきのリップがマストアイテムになった。なるべくフルーティで、香りの強いもの。これさえあれば、たいていのキャンディのにおいはごまかせる。いちごとバナナの違いなんて、においだけじゃわからないもの。意外かもしれないけれど、チョコレートもこれで隠せる。

 なんだったら試してみて。

 ……えっ、バレちゃった?


 ドジ。


 さすがにミント系はアレだから、どうしてもってときにはメンソレータムの素のやつをぬりぬりする。でも、授業中ってどっちかというと優しい味の方が似合う気がするから、ほとんど出番はないけれど。

 口の中に残る甘さと、リップクリームの苦味が混ざり合ってなんだか不思議な感じがする。


 そういえば、男の子はなにも食べられないんだ。

 生きていないんだから、当たり前だけれど。

 でも、美味しいお菓子を味わうくらいできてもいいのに。


「俺がものを食べたらさ、食べたものが空中に浮かぶことになると思うよ」


 そんなことを言っていた。

 確かにそうかもしれないけれど、なんていうか、夢がないっていうか、非現実の存在のくせにヘンなところで現実的っていうか。


「味わうってことは噛み砕いたり唾液と混ぜたりしなきゃならないし、けっこうエグい見た目になるんじゃないかな」


 残念だよ。

 もし食べられるなら、浩三おじさんのお土産で処分に困っていたサルミアッキ、ぜんぶあげたのにね。


 真っ黒の無気味なキャンディ。ひとつ口に入れて、飲み込めないまま口の中が唾でいっぱいになって、吐き出しちゃった。


 なんでアンモニアのにおいがするの!?

 なんで塩辛いの!?

 信じられない!

 もしかして、毒じゃないのこれ?


 浩三おじさんは死ぬほど笑い転げたあと、荒ぶる私に「北欧じゃみんな食べている、伝統的なお菓子だよ」と言ってのけた。

 ……そりゃ、違う国同士が仲良くするためには、お互いの国の食べ物を受け容れるのが基本なんだろうけれど。


 ハードル高すぎ。


 ていうか、これじゃハードルっていうよりも鴨居じゃないの!


 おじさんは怒り狂う私の目の前で、ひとつ摘み上げて口に入れた。たぶん私は、未知の深海生物でも見つめる顔をしていたに違いない。口の中で転がしながら、ときどき目をしょぼつかせて、おじさんはそのいわく言い難い黒いお菓子を食べている。


「おいしい?」


 おそるおそる、訊いてみた。

 おじさんは片眉を上げてみせる。


「おもしろい」


 ……いや、おもしろいって。

 それって食べ物の評価としちゃどうなの。


「しょっぱいし、アンモニアのにおいは正直、食べ物じゃないって感じだけれど、でも世界にはこれを子どものころから食べ続けてきて、美味しいと思っているひとたちがいるんだよな」


 言いながらサルミアッキの箱を私に差し出す。

 私は両手を後ろに回し、全力でかぶりを振った。


「でもさ、自分が大好きな食べ物を目の前で否定されたり馬鹿にされたりしたら、口惜しいだろう?」


 その気持ちは分からなくはないよ。

 でもおじさん、それを好きなわけじゃないよね?

 それにいま「食べ物じゃない」とか言ってたよね?

 だいたい、ここにはサルミアッキがソウルフード、なんてひとはいないよね?


「俺だって生まれて初めてルートビアを飲んだときには、なんでサロンパスを飲まされるんだろう、って思ったよ。韓国で良く知らないまま松葉のにおいのするソレヌンをひとくち飲んだときには、マジで吐き出しそうになった。ただ、目の前に迷彩柄のトラックが止まってて、韓国軍の兵士がじっとこっちを見てたんだよな。ここで吐き出したら国交問題に発展しそうだったから、死ぬ気で飲んだ。冷や汗が出て、こめかみのへんで脈打ってたけど」


 ……アメリカ合衆国と大韓民国のみなさん、どうか怒らないでね。こんなのでも私のおじさんなんです。かけがえはないんです、幸か不幸か。


「スピカだって、目の前で外国人がしるこ缶とか甘酒缶とかをまずそうに吐き出していたらむかつくだろ? そういうことだよ」


 いままさに目の前でおじさんが明らかにまずさを堪えながらサルミアッキを食べているのを見てますが。


 おじさんは名残惜しそうにサルミアッキの箱をポケットに戻した。

 私はこころからほっとしたけれど、甘かった。

 ちょっと目を離したすきに、私の部屋の机の上に置いて、帰ってしまった。

 捨てなかったのは私の良心のおかげだ。

 臭いが漏れないようにジップロックで密封して、引き出しの奥にしまった。

 賞味期限が切れたら胸を張って捨てられる、と思っていたけれど、賞味期限を確認するために取り出すのさえ嫌で、そのままになっている。


 サルミアッキはアレだったけれど、浩三おじさんは珍しいものを買ってくるのが好きで、船から上がるといつもうきうきしながらうちにやってくる。うきうき度が高いほど「とんでもない」度も高くなるので、顔を見てある程度、予想できる。

 でもさすがにホンオフェを持って来たときにはお母さんもマジギレしていたし、シュールストレミング缶はおみやげにはあるまじきことだけれど、面と向かって受け取り拒否されていた。ものすごく情けない顔で私をチラ見していたけれど、当然、無視した。念のため、私は自分の部屋に籠城して、地雷より始末の悪いその缶が置かれるのを防いだ。


 サルミアッキ、小学校へ持って来てみんなに配ったら、友だちがゼロになる。

 国際交流とかスカしたことを言っている4年1組の野部先生にあげたら……?

 間違いなく「茅原さんがくれました。国際理解のためですから、みんなひとつずつ食べましょうね」的な流れになって、私は社会的に死んでしまう。


 「理解」なんて、そう簡単にできるもんじゃない、とつくづく思う。


 ハードルの高さが鴨居くらいなら、もはや超えるためのもんじゃない。


 せいぜい、首を吊るくらいにしか使えないよね。

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スピカ 大沢 澪 @ai_oosawa

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