屍ケ台
小春日和
第1話 姉貴の家の訪問者
「もう、本当に腹が立つ!」
結婚して家を出ている姉貴の、今日の第一声はそれだった。
少し前から頻繁に実家に電話をするようになってきた。なんでも結婚後に新居として住みはじめた賃貸マンションの隣室から、子どもを虐待するような怒鳴り声が、毎晩、響くのだという。
「深夜の一時とか二時に、延々一時間ぐらい喚きつづけてるのよ、その母親。異常すぎじゃない?」
そんな報告を聞けば、無関係な独身男の俺としても、なんとなく心がざわつくものである。
「児童相談所に通報すれば?」
無難ながらアドバイスをすると、俺よりはるかに血気盛んな姉貴は、
「隣の子をつかまえて学校とクラスを聞きだしたから、まず小学校に連絡してみる。それと、隣の家の玄関先で『いい加減にしてよね、毎晩毎晩!』って大声出してやったわ」
と鼻息を荒くした。苦笑しながら、でも俺としては、隣人トラブルで刺されたりしねえだろうな、と心配になってみたりもした。
その姉貴の本日の怒りの要因はこれだ。
学校に連絡を取ってから数日、隣家の声は聞こえなくなった。一昨日には地区の民生委員も訪問していたそうだ。地域がらみで虐待阻止に乗りだしたんだな、と安心した姉貴は、昨夜も達成感から健やかに熟睡していた。
深夜二時。なにかが聞こえたような気がして目を覚ました。夜中の物音には敏感になっていた。耳を澄ますと、ぼそぼそと喋る複数の人間の声が聞こえた。
……玄関先から。
仕事で疲れている旦那を起こす前に正体を見きわめてやろうとした姉貴は、こっそりと玄関に歩みよった。のぞき穴から外を見るが、暗いばかりで動くものは見えなかったらしい。その時点で声はとだえていた。気配もなかったようだ。
気のせいだったかとドアから離れたとき、とつぜんインターホンが鳴ったそうだ。重ねるが深夜二時。尋常じゃない。
「ヘタレだと思うけど、怖くて、玄関、開けられなかったわよ」
そう意気消沈する姉貴に、
「ぜったいに開けんなよ」
と釘を刺して、その日の会話は終わった。
次の連絡は翌々日。
会社から帰ると、お袋が受話器を握りしめながら青い顔をしている。何事かとそばに寄ると、姉貴からだという。精神的に弱いお袋と電話を替わった。
「俺。いま帰った。どうかしたの?」
「あ、リョウちゃん? ちょっと気持ち悪いことになってるのよ」
姉貴は珍しくとり乱した様子で、やつぎばやに答えた。
「一昨日に話した深夜のインターホンなんだけど、電話したその夜も昨日も、続けて二時から三時ごろに鳴らされるの。カイさんに出てもらったんだけど、こっちの動きを察したみたいで、逃げられたあとだった。今夜も来そうで、ちょっと気が滅入ってるの……」
カイさんというのは姉貴の旦那だ。大手の自動車部品会社に勤める技術者で、毎日のように帰りが遅いと姉貴がこぼしていた。
「今度は警察を呼んだら? もしくは監視カメラつけようぜ」
そう提案すると、
「監視カメラかあ……。やってもいいけど、明日になっちゃうよね。今晩カイさん出張でいないのよ。どうしよう……」
と答える。
けっきょく、お袋の後押しもあって、俺はその晩、姉貴の家に泊まりに行くことになった。
引越しの手伝い以来、ひさびさに訪ねた新居は、すでに綺麗に片づけられていた。
姉貴はむしろ潔癖症に近い性格で、俺の部屋が汚れているのも我慢ができずに、よく勝手に物を捨てられた。非難する俺を、
「部屋の汚れは心の汚れ!」
と汚物扱いしたのも、いまとなっては、なんだか懐かしい。
「一応ここに入る前に隣の家の物音を探ってみたけど、怒鳴り声とかはしなかったぜ」
と開口一番に言うと、
「うん。虐待の声は聞こえなくなったね。でも、だからって虐待が止んでるとは言いきれないじゃない。非常識な嫌がらせするような母親なんだし」
と答える。姉貴は深夜の訪問者が隣家だと確信しているようだ。
「複数の人間の会話が聞こえたんだろ? 隣って何人家族?」
「母親と小学生の女の子だけみたい。お父さんは見たことない」
姉貴の説明に俺は首をかしげる。深夜二時、小学生の子どもは寝ているだろう。わざわざ嫌がらせに加担するために真夜中にやってくる物好きでもいるんだろうか。
「ふうん……。まあいいや。捕まえりゃはっきりするし」
そう言うと、姉貴はほっとした顔をして、
「よかった。あのリョウちゃんのくせにたくましくなってくれてて」
と微妙な表現で褒めた。そして、しっかりと釘を刺すのも忘れない。
「あ、でも、見張り番してくれるのは嬉しいけど、煙草は吸わないでよ。お風呂の排水口の髪の毛はちゃんと拾ってね」
あいかわらずうるせえなあ。それが人にモノを頼む態度か。
〇時を回って姉貴が消灯の時間に入った。俺も充てがわれた玄関横の客間の電気を消す。インターホンが鳴るという二時までには、まだ間がある。明日の仕事のために少しでも眠っておこう。
……としたのだけど、なんだか目が冴えてしまった。暗い部屋の中でスマホをいじりながら、耳を澄ます。
隣家からは何の音もしていなかった。もしかしたらこのあとの悪戯に備えて誰かが訪問して来るんじゃないかと疑ったが、気味が悪いぐらいに静まりかえっている。
なんとなく、
「訪問者か……」
と呟いてみた。
とたんゾクッとする。姿が見えないからこその怖さだった。インターホンが鳴ったら、俺はドアを開けなきゃならない。そこにもし予想もしていないモノがいたとしたら……。
「そんなわけないな」
ばかばかしい妄想に苦笑して頭を振った。
何がいるっていうんだよ。隣の母親以外、誰がこんな嫌がらせするっていうんだ。姉貴はあっちこっちで恨みを買うようなやつじゃない。お節介だし口も悪いが、人に嫌われるようなタイプじゃないんだ。
まだ時間が早かったが、俺は布団を持って玄関先に移動した。姉貴の不安顔を思いだしたら、インターホンが鳴る前に犯人をとっ捕まえてやったほうがいいと思ったから。
……音がした。
……ような気がして、俺は寝ぼけた頭を振って起きあがった。
手元のスマホを見ると、時刻は二時を少し回っている。
せまい土間のスペースの向こうに厚い鉄製のドアがある。その向こうから。
……やっぱり何かの音がする。
妙に乾いた響きだった。足音とは違う。
布団から這いでて土間にかがみ、冷たいドアに耳をつけた。
聞こえてくるのは、カシンカシンという耳慣れない音だ。それは、移動する気配もなく、この家の前に留まっている。
枯れ枝でコンクリの床を叩くような音だな、と思った。水分の抜けた物体が奏でる軽い振動。わずかの衝撃で簡単に折れそうな
とうとつに思いだした。
大学時代、ワンダーフォーゲルの部活動をしていた俺は、二年生のひと夏、先輩に連れられて山岳救助に携わらせてもらった。天候の良い日に限り、行方不明者の捜索で山々を歩きまわる。一般的な登山者が行かないような深い谷や雪渓にも足を運んだ。
「こんなことしても見つかる可能性はほとんどないんだよね」
とあきらめムードのプロに混じっての捜索の結果、一体だけ遺体を見つけることができた。鮮やかな赤いリュックの傍らに、完全装備した服装を身につけたそれは、すでに皮も内蔵も残っていなかった。風化したスカスカの骨になっていた。
骨の音だ……。穴だらけの石灰質の棒の羅列を思いえがいて、吐き気がこみあげてきた。
外にいるのは本当は何なんだ? 人間なのか?
そのときインターホンが鳴った。
俺は飛びあがったと思う。
ドアノブをつかまなきゃ、と思った。でも腕が伸びない。
ドアを開けなきゃならないのに。姉貴のためにもここで正体を見きわめておかなきゃならないのに。
それなのに、俺の感覚はそれを押しとどめる。外にいるのは人間じゃない。人の気配じゃない。見ちゃだめだ、と。
どれぐらいの時間、葛藤していたのか。
気づくと音はなくなっていた。それと入れちがいに室内から控えめな足音が近づいてきた。
そして姉貴が不安そうな顔をのぞかせた。
「いま、インターホンが鳴らなかった?」
と。
俺は弾かれたようにドアを開けた。
共用通路の常夜灯が、すでに誰もいなくなったコンクリートの床を照らしているだけだった。
屍ケ台 小春日和 @ko_harubi_yori
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