歪んで崩れる
※
男は絶叫して目を覚ました。頭を打たれて気絶したのが最後の記憶だったはずだが、起きたのはまた病院のベッドの上だった。
夢? そうか、夢か……。男はそう思いながらも、改めて「夢か……。」と、自分に言い聞かせるように独り言つ。一体どこまでが夢かはもう考えようとはしなかった。しかし、なぜ自分は病院のベッドなどに寝かせられているのか、やはり大怪我をしたのだろうか。だが、体を所々触るが包帯も何もなく、打たれたはずの頭を触ったが、やはり処置を施されていないどころか傷すらない。また、腕に点滴がされているというわけでもなかった。天井のシミを眺めてから窓の外を見た。
「……気づいたか」
男は悲鳴を上げて再び跳ね起きた。そこには兄がいた。
「ああ兄貴……。いたのか……。」
しかし、その「いたのか」という言葉の意味は、男にとって曖昧だった。ここにいたということなのか、それとも、存在することに対してのことなのか。
「どうして……ここに?」
「……家族が病院に搬送されたんだ。行かない方がおかしいだろう?」
「そりゃ、そうだけど……。」
男は兄から視線を外してそう呟いた。
「……何があったんだ?」
兄に問われると、男は目を閉じて昨夜の出来事を思い出した。だが、白昼夢にしてはあまりにも現実的であり、今まさに男は自分の正気を疑っている最中だった。
「分からないな……。」
男は目を開けて言う。
「何が起こっているのか自分でもさっぱり」
男は兄を見て、口角を上げ自嘲気味に言う。
「ひょっとしたら俺はもう、おかしくなってるのかもしれない」
兄はそれに対してただ真顔だった。
「研究を、まだ続けてるのか?」
「……ああ」
「やめとけと言ったろう」
それは、何の感情もない、注意でも警告でもない言葉だった。どちらかというと、宣告に近いものだった。
「どうして、あの事を?」と、男の兄が訊く。
「……さあ」
男はまた天井に目をやった。
「結局のところ、何でも良かったんだけどさ。アウシュビッツでもルワンダでも。……理由なんてなかったさ」
そう、理由なんてない。何でも良かったのに、何故かたまたまアレだった。そう思った時、男の目がはっと開いた。そうか、理由なんてなかった、たまたまだったのだ。たまたま、あの日あの場所に朝鮮人だった人々がいて、それはこの時この場所で日本人であることと大差などないのだ。たまたまユダヤ人だった、たまたまツチ族だった、たまたま女であり、そしてたまたま黒人だった、ただそれだけで物事は理不尽に進んでいく。そして今自分はたまたまここで寝ている。世界にはベッドでゆっくりと寝ていられない“たまたま”の時間と場所の方が多いというのに。彼らと自分を明確に分け隔てるものなど、はなからありはしないのに。
そうか、そういうことだったのか。男が改めて兄に話しかけようとすると、病室の扉を開けて男の母が入ってきた。
「洋次郎、大丈夫? お医者様が病室に運ばせたって……。」
母は既に病室にいるはずの兄には一瞥もくれず男の傍に座った。
「あなた最近おかしかったものね。怪我は?」
「いや……怪我はないんだよ。何だろう、検査をしてみないと分からないかな」
男は兄を見た。兄も母も一メートルも離れていない距離だというのに目を合わせようとしない。すると、兄は何も言わずに立ち上がり、やはり何も言わずに病室を去っていった。
「あ……。」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
きっと、もう母には兄は見えていないのだろう。いや、そもそも自分に兄などいただろうか。
男は自分自身に問いかける。これは「彼」の見ている夢なのかもしれない。そしていつか本当の現実で目を覚まし、そこにいる自分は今まさに振り上げられた狂気が、運命を理解し覚悟を決める暇すら与えられずに振り下ろされるのを待っているのではないかと。考えても見ろ、自分はなぜ疑問を抱かなかったんだ? 全てに比べれば、安寧などそれこそ今際の際に見る、一瞬の幻程度のものでしかないというのに。
男は地面が大きく揺れるのを感じた。遠くで爆弾が炸裂する音を聞いた。窓の外でミサイルが住宅街を攻撃しているのを見た。
そしてふと、自分の名前を忘れていることも思い出した。
了
参考文献
『現代史資料 6 関東大震災と朝鮮人』
『関東大震災』姜徳相
『特高の回想―ある時代の証言』宮下弘
『関東大震災』工藤美代子
『九月、東京の路上で』加藤直樹
歪んで崩れる 鳥海勇嗣 @dorachyan
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