殺される者

             ※


「……じろう。洋次郎っ」

 加藤に声をかけられ、洋次郎は目を覚ました。

「……ここ、は?」

「少なくとも、お前の部屋じゃあないな」

 洋次郎は加藤をしばらく何も言わずに見つめる。

「……洋次郎? 大丈夫か?」

「……ああ。……お前は、か、加藤か」

 洋次郎はそして目頭を押さえ改めて言う。

「ここは……どこだ?」

「横浜の中区、というには随分変わっちまったがね。まだ思い出せないか?」

 だが洋次郎は何も応えない。

「まぁ、あれだけ凄惨なものを見ちまったんだ。仕方ないよな」

「……凄惨?」

 洋次郎は無表情に加藤を見てから思い出したように言う。

「あ、ああ。そうか、そうだったよな」

「おいおい、本当にまずいんじゃないのか? お前はもう帰ったほうがいいぞ」

「……かか、帰る?」

 洋次郎には、加藤の言うこと全てが文脈を欠いているように聞こえていた。

「そう、帰った方がいい。来た道を戻るだけだから、一人でも帰れるだろ?」

 洋次郎は加藤の言うように、来た道を振り返った。だが、起き上がらず何かを思い出そうと俯く。

「……李。そうだ、李さんは?」

「李? お前やたらアイツのことを気にかけるな? 分かったよ、アイツが見つかったら俺が説明して手を出さないようにする。それでいいだろ?」

 しかし、それでも洋次郎は不安そうに加藤を見ていた。

 そんな洋次郎の肩を叩いて加藤が心配するなって、と言う。

 加藤は自分の提灯をわたし、他の自警団の人間に洋次郎は体調が優れぬので帰らせると説明をし、そして彼が自分の友人の朝鮮人の行方を気にしているということも同時に伝えた。そう言えば洋次郎が安心して帰ることができるという加藤なりの配慮だった。洋次郎は自警団の面々に頭を下げると提灯をぶら下げ、一人家路についた。しかし、帰ることが出来るというものの、不安は一向に解消されなかった。

 あまりにも静かな、かつての都市部の真ん中を抜け、洋次郎は下宿先に向かって歩いた。様々なものを燃やし尽くした後の煤の匂いと砕けた建物の粉塵が、風に乗って洋次郎の鼻を刺激する。先はただ暗く、まるで行こうが戻ろうがその先にあるのは冥界の入口のように不吉に思われた。だが、街並みは崩れてはいるものの洋二郎の見知ったものに変わっていき、辛うじて崩壊を免れた民家から溢れる光が目に付くようになった頃、洋次郎は胸を撫で下ろした。きっと釈迦から差し出された蜘蛛の糸を登りきったならば、こういう心持ちだったのだろう、と先日に読んだ児童文学の内容を洋次郎は思い出していた。

 自分の住む下宿まであと三十分とかかる距離でもない、洋次郎がそれほどまでに近づいた頃、どこからか彼を呼ぶ声がきこえた。

「洋次郎さん……。洋次郎さん」

 それは、声を潜めながらも切羽詰ったような声だった。声の主を探すと、民家の垣根の陰から李がこちらを伺っているのが見えた。

「……李さんっ」

 これまでの不安が掻き消えた反動から、洋次郎は少し大きめに李の名を呼んだ。しかしそれに対し、李は慌てたように人差し指を口に当て、「シーッ」と声の調子を落とすように注意し、細かく早く手招きをして洋次郎を垣根の陰まで呼び寄せた。

「……李さんどうしたんだい?」

 垣根の裏に周りながら洋次郎が尋ねる。

 だが李は、すぐには答えられずに首を振りながら言葉を探す。日本語の中に、所々朝鮮語が混じっていた。

「私……何もしていない」と、下を向いた李が、何とか口に出した。

「……李さん?」

 李が洋次郎を見た。そこには絶望しきった人間の表情があった。

「私、何もしていない。なのに、どうして?」

 洋次郎は李の言っていることをすぐに理解した。どん亀と言われた男だったが、“このこと”は既に彼が知っていたかのように恐れていたことだったからだ。

「……李さん、僕と一緒に下宿先に帰りましょう。僕が貴方が善良な隣人だと説明しますよ。いや、それより日本人だととぼけてしまえば良いんです」

 だが、李は首を振って洋次郎の提案を拒んだ。

「嫌です。彼ら、恐ろしい」

 確かに、いつもと違い情緒が不安定になっている李は訛りが強くなり、日本人だと誤魔化すことは難しいかもしれないし、自分も上手く説明できないかもしれない。洋次郎は機転の効く加藤と別れてしまったことを悔やんだ。

「どうしたもんか……。そうだ、李さん警察だ。警察に行って匿ってもらおう。昼間に警察署に行った時、警官たちは君たちが暴動を起こしているのは流言だって言ってたから、彼らなら味方になってくれる」

 だが、それでも李の顔は晴れなかった。考えてみれば、そこに行くまでに危険が伴わないとも限らない。

「では、僕が警官を連れてきますよ。彼らに守ってもらいながら警察署まで行きましょう」

 李は小さく「はい」と頷いた。

「じゃあ、李さんはここに隠れていてください」

 洋次郎は手で静止するような身振りで念を押すと、垣根の陰から出て警察署の方へと向かった。

 あんなところで隠れていては長い時間かけてはいられない、洋次郎は足早に夜道を歩く。すると何者かが洋次郎を呼び止めた。

「おいお前、こんな時間に何をしている?」

 それは、火消しの甚平を着た男だった。手には鳶口が握られていた。

「い、いえ。あの、その……。」

 男は不審そうに洋次郎に近づいて来る。

「こんな時に出歩いて、一体なにしてるんだって聞いてるんだっ」

「その、けけ、警察を……。」

「警察ぅ? 何かあったのか」

「あああの、そそっその」

 男は目を細めて洋次郎を見回すと、突然叫んだ。

「おい、こっちに来てくれ! 怪しい奴がいる!」

 洋次郎は絶句して首を振った。だが、そんな彼にはお構いなく、ゾロゾロと自警団の男たちが集まってくる。

「どうした? 鮮人をみつけたのかっ」と、集まってきた男の一人が言う。

「ああ、多分な」

「ちちち、違うっ」

 洋次郎は必死に弁明する。

「訛ってるじゃないか、無理して日本人のふりするなよ」

 極度の緊張で吃音の癖が出てしまった洋次郎を、また別の男が嘲笑った。

「ぼぼぼ僕は、ここっ、この先の下宿の者です」

「知ってるか?」と、火消しの甚平を着た男が仲間に訊ねる。

「あ~、あの女主人がやってる下宿ね、知ってるよ……。」

 洋次郎はほんの刹那安心する。だが……。

「確か、あそこに鮮人が間借りしてるって話だ。コイツがそうなんだろう」

 安心したのも束の間、洋次郎の顔色が一瞬で絶望に染まる。洋次郎はただ激しく首を振って答えた。

「まぁ、やましいことが無かったら、日本人のふりをする必要はないものな」

「そんなっ」

 無理だ、彼らには言葉は通じるが会話が成立しない。彼らはもう、結論を下しているのだ。

 洋次郎は自分を取り囲む輪の切れ目、そこから強引に体をねじ込み包囲を突破しようとした。だが、前日の怪我で足が思うように運べず、すぐに背後から襟を掴まれ引きずり倒されてしまった。洋次郎は起き上がろうとするが、足首に激痛が走った。火消しの甚平を着た男が、洋次郎の足首に鳶口の鉄製の穂先を突き立てたのだ。穂先が、洋次郎のアキレス腱の辺りの肉に食い込んでいた。あまりの激痛で、洋次郎の口からは叫び声ではなく、空気が風船から漏れ出るような甲高い呼吸音が漏れる。

「助けて……違う」

 洋次郎が哀願していると、また別の男たちが「こっちにもいたぞぉっ」と何かを引きずりながら集まってきた。

「おお、二匹目か。でかしたぞ」

 引きずられていたのは李だった。彼らに見つかってしまったらしく、必死に「私、何もしていない! 助けて! 悪いことしてない!」と泣き叫んでいた。

「李さんっ」と、洋次郎が叫ぶ。

「助けて、洋次郎さんっ」

 李は、洋次郎を見ると涙であふれる瞳で訴えてきた。

 火消しの甚平を着た男が、洋次郎の足首から鳶口を抜きながら「何だよ、やっぱりお前、鮮人の仲間じゃあないか」と言う。

「ちちち、違う。僕は、日本人です。彼もただの飴売りなんです」

「日本人かもしれんがアカの可能性もある。お前らがつるんで何か企んでるっていう可能性もあるからな」

「放してください!」

 引きずられている李が男たちを振りほどこうとするが、それがかえって反感を招く。

「この鮮人がぁ!」

 李は拳と蹴りの雨を浴び始めた。小突くなどという生易しいものではなく、そのまま殺すことも厭わない程の強さだった。口と鼻からは泡立った血が溢れ、李はたちまち抵抗する力を失っていった。

「土手に連れていけっ」

 この自警団のリーダーなのだろう、軍服姿の在郷軍人の男の言葉に従い、自警団は面子は二人を引きずり最寄りの川まで運んで行った。

「違います、聞いてください」

 洋次郎は何とか弁明しようとするが、そんな彼の頭を「いい加減黙れっ」と、自警団の一人が木刀で殴打した。李と同じように、洋次郎は意識が朦朧となり抵抗できなくなってしまった。

 洋次郎の頭の中では銅鑼が鳴っていた。微かにだが聞こえる声が、「いいか坊主、よく見とけよ。こんな時に鮮人庇うってんなら、殺されたって仕方ないんだからな」と言っていた。

 目の前を火花が散り、目に映る映像が歪んでいる中で、洋次郎は見知った少年が自警団の中に紛れているのに気づいた。それは下宿先の子供、ヨシ坊だった。洋次郎はしきりに何かを訴えるが、しかし朦朧とした意識のため口がうまく回らない。せめて瞳でヨシ坊、ヨシ坊、と訴えてみせた。子供は周囲の男たちの顔色と洋次郎を交互にを伺い、泣きそうな顔になるとその場から走り去ってしまった。

 ……ヨシ坊

 洋次郎は、声にならない声で祈るように呟いた。

 洋次郎たちが連れて行かれた土手には、既に老若男女問わず二十名ほどの人間が数珠つなぎに荒縄で縛られていた。それぞれが、訛りのある片言や朝鮮の言葉で何かを呟いている。

 その光景も然ることながら、洋次郎をさらに慄かせたのは川べりに死体が溢れていたことだ。震災初日に川に飛び込み溺れて死んだのか、それとも今まさにここで殺されたのか。引きずられながら次第にその集団に近づく洋次郎は、恐怖のあまり呼吸にすらも吃音の症状が出るくらいに歯をカチカチと鳴らしていた。そんな洋次郎の背中を、自警団が蹴って列の隣に李と座らせる。

 突然、列の奥に座らされている男の一人に向かって自警団の一人が激昴し詰め寄った。

「貴様らが井戸に毒を投げたのか!?」

 男たちの横には大量の酒瓶が転がっているところから、かなり出来上がっているようだった。他の自警団がその激昴した男を抑えようとするが、男はそれを振り払い縛られている男の胸に竹槍を突き刺した。突き刺された男が悲鳴を上げる。一人のたがが外れると、抑えていたものが噴出したかのように、それぞれが武器を持って縛られている朝鮮人たちに襲い掛かった。

「お前らが火を放ったんだな!」

「何人死んだと思ってるんだ!?」

「俺の家族を返せ!」

 ノコギリで、鋤や鍬で、模造刀で、人を殺すための道具ではないために簡単には命を奪うができず、また興奮状態のため手元が滑り、男たちは何度も凶器を振り上げては朝鮮人たちの頭部に、肩口に打ち下ろしていった。

 そして息が絶えたか、もしくは息絶え絶えの朝鮮人たちは荷物のように川に捨てられていった。この後に及んでも、なお現実感のない光景に洋次郎は呆然としていた。これは悪い夢なのだ。こんなことが、文明国となった、亜細亜の明星たる我が国で起こるはずがない。洋次郎は目をつぶる。そして次に目を開ければ、あのうざったらしいくらいに陽のあたるあの部屋で目を覚ますことを願って。

「これだけ集めたがどうする?」と、洋次郎たちを眺めながら火消し甚平の男が言った。

「いちいち尋問するのも手間だ。“鰯は魚か鮮人は人間か”、だ。とっとと始末しよう。そうしないと、警察がコイツらを連れて行っちまう」

 在郷軍人の男は忌々しげに鼻息を荒らしながら言った。

 自警団たちはそうだそうだと言い合い、残った女性や成人もしていないような若者を連れて土手へと上がり、農具で彼らを殴打するとよりきつく縛って道路へ仰向けにして並べた。道路にはトラックが停車していた。並び終えたことを確認すると、運転手がトラックに乗り込みエンジンをかけた。

……まさか。

 その仰向けに並べられた朝鮮人たちの上を、トラックが走った。トラックが彼らを潰す直前に、洋次郎は目を力の限りつぶり顔を背けた。だが耳はしっかりと、潰された五臓六腑から吹きこぼれた空気の混じった奇妙な悲鳴を捉えた。

「……おい、まだ生きているぞっ」

 そしてトラックはバックでまた朝鮮人たちを轢いていった。往復する毎に音は小さくなり、そして車が障害物の上を通るくらいの音がしなくなった頃、「もう、良いだろう」と、トラックのエンジンが切られた。

 そして彼らの悲鳴が止む頃、洋次郎は覚醒しているのに気を失っているようだった。すべての感覚が、作り物のように嘘臭かった。本を読んでいる時の、擬似的な体験にも近かった。

 洋次郎は思う。そうだ、最近俺はおかしかったじゃないか。何かを予見し、まるで夢の中で別の生活を送っているようっだった。俺の本当の生活はあそこにあるのだ。そして、この悪い夢が終わる時、あの心地の良い部屋と美味い酒、そして何より胸の大きな女、そんなものが身近に溢れてる、恵まれた世界で目を覚ますのだ。

「おい、お前? こんな時に寝てるのか?」

 洋次郎は呆けた顔で、話しかけた男を見る。偽物め、何を言っているのやらと、嘲りそうになりながら。

「おにいさん。その人はちかいます。その人は、日本人です。その人は、許してください」と、隣で意識を取り戻した李がゆっくりと、最後の力と願いを振り絞るように言った。

「ほう、ではこう言ってみろ。“十五円五十銭”、と」

 それを聞いた男は洋次郎を品定めするように言った。濁音で始まる単語が苦手な朝鮮人を判別するための方法である。しかし洋次郎が何も言わないので、男は李にお前も言えと指図する。

「ちゅ、ちゅうごえん、こちゅっせん」

 だが普段ならば言えたのだろう李は、極限下で上手く口が回らなかった。

「やっぱりお前は鮮人だなっ」と、男はおもむろに立ち上がり猟銃で李の額を撃ち抜いた。李は首をがくんと揺らし、双眸そうぼうと額に新しくできた真っ赤な穴で夜空を仰いだ後、体を捻るようにして地面に倒れた。

 しかし、その李の額に真っ赤な穴が空き血が吹き出す光景も、洋次郎には現実ではないように思えた。そしてそう思えばそう思うほど、体と精神が乖離かいりしていくようだった。間違いない、これは夢なのだ。人間が、人間に対してこんなことをするはずがないのだ、と。

「どうした? 仲間が殺されたぞ?」

 李が息絶え自分にもたれ掛かるものの、何の表情の変化もなく洋次郎は男を見る。

「……ダメだなコイツは」

 そう首を振って、男は猟銃を構え弾を込めようとする。だが、「畜生、弾切れか」と銃を放り投げ、地面に転がっていた鳶口を手に取った。

 男は鳶口を大上段に構え、洋次郎の脳天に狙いを定めた。

「何か言いたいことはあるか?」

 しかし洋次郎は何も言わない。夢の中の住人に、何を言っても無駄だからだ。

「ああ、日本語が通じないのか。仕方ないな、鮮人だもん……なぁ!!」

 そして、鳶口が振り下ろされた。

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