変異

     ※


 覚醒とともに体中のバネが引きつり、仰向けのまま跳ね起きるように男は覚醒した。しばらく息が止まり、その後喉の粘膜を枯らす程の勢いで荒々しく呼吸する。体は冷や汗と脂汗が混じったような粘膜で覆われ、たまらずにエアコンのリモコンをひっつかみディスプレイ表示を確認することなくひたすらに、温度を下げるボタンを連打した。

 一体なんだったんだ? 真由子とセックスをした後、気持ちよく泥のように眠れると思ったはずが、とんでもない悪夢を見た後のようだった。男は自分の尋常ではない様子に真由子が驚いていないか、真由子が寝ているはずのベッドの隣を見た。だが、真由子はもうそこにはいなかった。

 シャワーでも浴びているのだろうか。ベッドから出ると、男は真由子の服も何もないことに気づいた。居間に戻ると、そこは数時間人がいなかったように夏の熱く重い空気が滞っていて、洗面所にもトイレにも真由子の存在を確認することができなかった。再び部屋に戻ると、二つあけたコンドームも部屋に巻き散らかした丸めたティッシュも見当たらない事に気づいた。

 激しく乾いた喉を潤すため、飲みかけのペットボトルのスポーツドリンクの残りを全て飲み干しながら、男は感心していた。母が帰る予定だったので、家を出る前に跡形もなく綺麗に片付けたのか、意外な一面もあるのだなと。

 深寝てしまっていたせいで、駅に送ることはおろか見送りすらしていない。男はフォローを入れなければと真由子にメールを送るため、机の上のスマートフォンを取り彼女のアドレスを探した。だが、彼女の連絡先はいっこうに見つからなかった。ラインで送ろうとするも、それでもまた彼女の名前どころか彼女とのこれまでのやりとりが出てこない。男はベッドに座り込み、いったいこれは、スマートフォンの故障なのか、それとも夢の続きを見ているのだろうかと頭を整理し始めた。

 そして男は気づいた。服がないどころか、ベッドに自分以外が寝ていた形跡がない。彼女が痕跡を消したのではなく、元々ここには誰もいなかったのだと。スマートフォンを握り締める手が、冷房を激しく聞かせているにもかかわらず汗ばんできた。同じ右手で、数時間前に散々彼女に触れた感覚がひどく不鮮明になっていた。

 しばらくすると、玄関から鍵が回る音がした。この時間に帰ってくるなら母親の可能性が高いが、真由子の件から何か得体の知れない者が侵入したのではないかと、男は恐る恐る下へと降りた。

「お袋……。」

「ただいま……どうしたのそんな顔して?」

 もうこの家には誰も帰ってこないかもしれない、そんな恐怖が男の顔が男の顔に男の顔に近からにじみ出ていたのか、母は怪訝な顔で訊ねた。

「……いや、何でもない」

 男は既に母に紹介済みだった真由子の事を訊こうとしたが、それをすると決定的な何かを宣告されそうな予感がしたので「……遅かったね」と、言うに留めた。

「そう? ところであんた、体の方は大丈夫なの?」

「ん? ああ、うん。少し寝たら良くなったよ」

「気をつけなさいよ。もし少しでもまた悪くなったら病院行きなさい」

「ああ……。」

「……ねぇ、本当にどうしたの?」

「何でもない。……本当に、何でもない」

 母はそう、と言って居間に行き荷物をおろし、あんたピザとったの? 一人でぇ? と独り言のように言った。

 男も居間に行き二人で食べたはずのピザを見る。

「一人でぜんぶ食べたんだ?」

 Mサイズのピザがすべてなくなっている。確かに一人でも無理ではないかもしれないが、そこまでして食べる必要もない量だ。

「そういえば、お通夜とかどうするの?」と、男は何故か積極的に話をはぐらかさないといけないと思い母に訊ねた。

「そうそう、今週の土日に通夜とお葬式やるんだって。やっぱり土日じゃないと、みんな忙しいからね。行くでしょ?」

「うん……。」

 男の母は、麦茶を冷蔵庫から出してコップに注ぎながら「それからぁ」と言う。

「あの後に親戚の人に聞いたんだけど、実は大叔父さんアンタに罪悪感があったみたいよ」

「はぁ? 義仁おじさん俺に何かしたっけ?」

 男の母は、麦茶を飲み干してから言う。

「アンタが言ったとおり、義仁おじさん例の事件に遭遇してたらしくって……。」

「そう、なんだ……。」

 実にタイミングが悪かった。まだ大叔父が健在であったなら、もっと詳しい話を聞けたのに……。そう思いながら母に訊ねる。

「だからそこだよ、どうしてそれで俺に対して思うところがあるわけ?」

「ただの殺人事件じゃなくて……義仁おじさんが見たのは、間違えられて日本人が殺される光景だったらしいのね」

 母は目を落とし少し躊躇いがちに、声のトーンを落とした。

「で、その人が義仁おじさんの近所の知り合いの方だったらしくて……。助けようと思ったらしいけど、その当時は義人おじさんも小学生だったから……」

 不謹慎だが、大叔父は格好の取材対象だったらしい。

「で、その人の名前が“洋次郎”って名前だったらしいのよ」

 男は数秒、心臓が止まるのを感じた。

「え?」

「偶然といえば偶然なんだけどね。義仁おじさんは、アンタの名前を聞く度にあの時の罪悪感を思い出してたんだって……。洋次郎?」

 男は二回の自室にかけ戻り、大学の図書館から借りてきた資料をカバンから引っつかんで取り出し、付箋で目印をつけたところを開いた。そこには当時小学生だった男性が、吃音の気があるために朝鮮人と間違えられ自警団に殺害されているのを目撃した、という証言が紹介されていた。

 もしかしてこれ、大叔父さんだったのか? 男は改めてその箇所を読み返した。ある男性の証言で、震災初日から大人たちが朝鮮人が暴動と略奪を繰り返していると騒いでいたこと、当時小学生だった男性も鉄の板を削ってこしらえた刀を自警団から手渡され、鮮人から日本を守ると息巻いていたという記述があった。男の脳裏には、この文章だけでこれまで読んだ名作と名指しされるあらゆる小説よりも、鮮明にありありとその光景が浮かんでいた。そして……近所の男性が知り合いの朝鮮人を守ろうとしたために、自警団から朝鮮人であることを疑われ、ドドイツやガギグゲゴをそらんじさせられたが、その男性は吃音を患っていたため朝鮮人だと決めつけられ、その場で鋤や鍬などといった農耕具で滅多打ちにされ殺されてしまった、少年は知り合いだと名乗り出ようとしたが狂乱する大人たちに意見するのが恐ろしく、その場を離れてしまったとある。

 これは……俺なのか?

「いっ!」

 激しい頭痛がはしった。それは殴られたようでもあり、頭の中から響くもののようでもあった。

 確かめないと……。男はさらに資料をひっくり返し、大叔父と思しき少年が住んでいた地域と、虐殺が起きた場所を改めて調べ直した。横浜の中区という記述を確認して、パソコンを開きGoogleマップでその場所の地図を検索、上空写真をズームアップし路上の写真に移行する。画面をスクロールしながら、資料のあった近所を探った。町並み自体は見覚えはないが、マックやドトールといった見知った店が並ぶ写真、どこにでもある光景だった。男がさらにスクロールさせると、仕様で写真が高速で移動したようにボヤけた。

「……え?  あれ?」

 だが写真のスクロールが止まりピントが合ったその時、そこに映し出されたのは全く見覚えのない廃墟だった。どこだ、ここは? 男は写真を移動させ定点からの周囲を確認する。だが、写真に写っているのはあたり一面の廃墟だった。まるで、大地震が起こったかのような。

「えぇ?」

 男は何か全く違うページに、例えば福島といった東日本の被災地までページが飛んだのかと画面を確認するが、左上の表示は相変わらず横浜のものだった。

 横浜にこんな場所があっただろうか? 一区画仮にあったとしても、ここまで辺り一面が瓦礫の山だということがあるだろうか?

 慎重に写真をスクロールさせ続けていたが、ある場所でその手を止めた。人間が写っていた。Googleマップに人が写り込むのは珍しいことではない。だが男は眉間に皺を寄せ、食い入るように画面を見た。モザイクがかかっているため人相は確認できないが、それは妙な光景だった。まず、服装がおかしい。法被はっぴ甚平じんべい、軍服姿の男までいる。それはまるで、戦前の記録写真のようだった。そして、彼は何かを取り囲んでいるようだった。さらに男は目を凝らす。すると、そこには人間が倒れていた。

──こいつら、何をやってるんだ?

 さらにカーソルを動かすと、辛うじて取り囲んでいる男たちが何か長いものを持っていることも分かった。いや、それどころか軍服の男の腰には刀が差してあり、さらにうち一人は猟銃を構えているようにも見受けられる。

──これは……まさか関東大震災の時の写真か?

 いや、そんなのありえない。何を考えてるんだ俺は、正気を保て。男はそう必死に自分に言い聞かせていると、ふと外の様子が騒がしい事に男は気づいた。窓から外を見てみると、そこではありえない光景が広がっていた。

 窓の外から見える遠くの住宅地は猛火に包まれ夜空は炎の光で紫色に濁り、月は煙塵で隠されていた。まるで、テレビで見る海外の紛争か大災害のような光景だった。いつの間にこんな事が起きていたのか、男は避難を意識するよりも唖然として外を見続けた。見下ろして通りの方を見ると、家の前の電信柱に人が縛り付けられている。

――何だ? 何が起こってる?

「お袋! 何か外が変なんだけどっ?」

 急いで下に降り母を呼ぶが返事がない。男は取りあえず、何故か縛られているあの人を助けなくてはと表に出て電信柱に向かった。

 電信柱には頭が血で真っ赤に染まり、片方の目を開けている女が手を後ろに回され針金で縛られていた。何か胸元に札のようなものが見える。だが、より近づいて縛られている女の本当の容態は知った時、男は思わず甲高い悲鳴を上げた。

 頭部の半分がどす黒い赤なのは、「染まっている」からではなかった。頭の皮がごっそりと剥げ落ち、下の肉が剥き出しになっていたのだ。目を片方だけ開いて見えるのは、瞼を上げているのではなく、片方の目が飛び出ているためだった。女性の顔から目を背けるため視線を下にやると、その胸元には張り紙がしてあった。血で所々汚れているが、文面には「朝鮮人です。どうぞご自由に」とあり、女性の横にはバールが転がっていた。まさか、殴れということか? いやいやそんなはずはない。男は有り得ない想像を払拭するために首を振り、意を決して縛り付けられている女性に声をかけた。

「あ、あの……大丈夫、ですか?」

 もちろん明らかに大丈夫などではない。より大きな声で「あのぉ、き聞こえますか? 何があぁったんです?」と、死んでいるのかどうなのか分からない女に話しかける。生死を確認するためもっと近づきたかったものの、目を覆わんばかりの有様に、男はそれ以上の勇気が出なかった。誰か助けを呼ぶべきか、自宅に戻って救急車を呼ぼうと振向いた瞬間、痛みを通り越して、熱気と冷気と電撃が頭を同時に走り抜けたような激しい衝撃を受け男は倒れた。

 消え行く意識の中で、男は自分の周りをゴルフドライバーや金属バットで武装した近所の住民が囲こみ、「この朝鮮人め」となじっているのを聞いた。

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