関東は静かに虐殺される

 日が傾き始める頃、昼間の騒ぎから洋次郎は加藤の言うように一旦関東の中心から離れた方がいいいだろうと、荷物をまとめ始めた。故郷の静岡まで戻ろう、何より両親も気が気でないはずだ。彼にはそういった心配もあったが、同時にどうしようもない胸騒ぎを感じていた。早くここを離れたほうがいいのだ、そうしなければならないのだ、と。

 荷造りを終えたので下の階に下りると、外で賑やかな声がした。こんな時に何を騒いでいるのか。廊下から玄関へと向かう途中だったが、居間から見える庭先で、表の騒ぎとはまた別に大家の子供の声がした。えい、やぁ、と何やら気合の入った声だ。みると、大家の子供が長細い棒を振り回していた。

「……ヨシ坊、何しているんだい?」

 洋次郎の声に振り向いて子供が言う。

「あ、どん亀っ。刀をもらったのっ」

 子供の口の中には飴が入っているらしく、口をモゴつかせていた。

「……刀?」

「うん、商工会のおじちゃんたちが、これ使って母ちゃん守れって」

 ふざけているのだろう、そう思い洋次郎がその棒を見てみると、それは長細い鉄板を削って刃物のように切れ味を持たせた、子供に持たせるには物騒なものだった。持つところは厚紙を巻いて柄のようになっている。

「お母ちゃんを守れって……どういうことだい?」

 子供は幼いながらも勇ましさのある笑顔で言う。

「悪い鮮人がうろついているから、そいつらをこれでやっつけるんだっ」

 その笑顔に洋次郎はこわばった。

「ヨシ坊……悪い鮮人って、悪い奴を見たのかい?」

「うううん。でもおじちゃんたちが、鮮人ならどっかで悪いことをしているに決まってるってっ」

「……李さんもかい?」

「え?」

「ヨシ坊は、李さんも悪いことをしていると思ってるのかい?」

 子供は口の中の、李に貰った飴を転がして味わって少し考えた。

「……李さんは違うよぉ。悪い人じゃないよ」

「じゃあ、李さんの友達は?」

「……それはぁ」

「そういうことを言うと李さんが悲しむんじゃないかな?  おいそれと人を悪人だとか言っちゃあいけないよ」

「……うん」

 洋次郎は子供の頭をポンポンと撫でるように叩いた。

 庭から玄関の方を伺うと、昼間の男たちのように農具を携えた男たちが、何やら大家に話しかけているのが見えた。大家は彼らにしきりに頭を下げている。

 玄関に出た洋次郎が言う。

「……大家さん、どうかしたんですか?」

 大家の前の男たちは法被はっぴ姿に下はふんどし一丁で、しかも酒の匂いも漂わせており、洋次郎はいよいよ祭りでもを始めるつもりなのだろうかと不可思議に思った。

「おお、洋次郎。まだいたのか」

 そしてその男たちの集団の中に加藤もいた。いつものバンカラ姿と違って、上下学ラン姿だった。

「加藤、お前こそどうしたんだよ? 実家に帰ったんじゃ? それに何だ彼らの恰好は? 盆踊りはとうに終わったぞ?」

 加藤が笑う。

「違うよどん亀、自警団だよ」

「自警団?」

「そう。こんな時だ、治安が悪くなってるからな、警察だけじゃあ手が足りん。自分たちの身は自分で守らなきゃあな」

「守るって……誰から?」

「いや、ほら、色々言われてるだろう……。」

「何だよ?」

「鮮人だよ、鮮人っ」

 言いにくそうにしている加藤の後ろから、法被姿の男が口を出す。

 洋次郎は、悲痛に訴えるような目で友人を見た。加藤はそれに目をそらしながら言う。

「なぁに、万が一ってことだよ。李みたいな奴をどうこうしようってわけじゃない。噂の不逞ふてい鮮人がいたらとっちめるだけさ……。お前、まだ故郷に帰らないんだったら、俺たちと一緒に見廻るか?」

「酒を飲んでか?」

「景気づけだよ。遊びじゃないさ……。」

 加藤は言いにくそうな事を伝えるために、洋次郎により近づいて小声で言う。「それに、もし李が問い詰められていたら、俺たちが知人だと証明する必要があるだろう?」

 李の事を言われると、洋次郎は急所を突かれたように表情を変えた。これまで、ただの同じ下宿先の人間であり、取り立てて仲の良かったわけではないのに、今の彼にとって李の事を案じるのは最優先事項になっていた。

「……分かったよ。だが、俺は物騒なものは持たないぞ?」

 加藤は分かってるよ、と頷いた。

 酒の臭いのする男たちと一緒に、日が落ちかけ僅かに夕日が地平線で空を染めている空の下を洋次郎は歩いた。どこかに李と、彼の親戚や仲間たちがいるかもしれない。手遅れになる前に見つけなくては……手遅れ? 自分がさも当然に何かの結末に向かって想像を張り巡らせている事に違和感を抱き、さらに俺は何を考えているんだ? 何の心配をしているんだ? と、洋次郎は声を出しそうになるくらいの自問自答をする。

 震災前は彼の住む所より遥かに開けた地区、工場や商店がある場所へ足を踏み入れると、そこは多くの建物のために、かえって荒廃している有様だった。洋次郎の下宿先の近所と違い、石造りの道路は盛り上がり馬車も荷車も通れないほどに荒れ、建物群は平たい瓦礫となって普段は見えない遠くの景色も見せていた。

「こりゃひでぇな……。」と、加藤が言う。

 二人共震災当日は脇目もふらず逃げてきたために気づかなかったが、都市部は壊滅的な状況だったのだ。震災前ならば、日が落ちたこの時間でも街灯がともり、人や馬車の往来があったといういうのに、今では山道のように真っ暗で、所々火災の残り火か焚き火か分からない灯りがちらついているだけだった。彼らの持つ提灯ちょうちんがなければ歩くことも困難だっただろう。

「一旦、引き返した方が良くないか?」

 洋次郎と馴染みのない男の一人が、地盤沈下して傾いたようなビルを見て言う。

「何だい。今さら怖くなったか」

「そうじゃねぇが……」

 引き返すことを提案した男は気を悪くしたようだった。

「それによ、この地区の自警団と合流する手はずになってるんだ。怖気づいたから行けませんでした何て言えるわけがない」

「……その合流するってのは結構なんですが、落ち合う場所というのはあるんでしょうか?」と、加藤が尋ねる。

「ああ、横浜正金銀行前で、ということだったがね」

「……その建物、倒壊してないんですよね?」

 一行が足を止めた。

「……え?」

「“え?” って?」と加藤が言う。

 そして暗闇の中、提灯で辛うじて顔が分かる各々の顔を見合わせた。

 先頭を歩いていた男は、「いやいや大丈夫だ。あれはドーム型の屋根のある建物だからな、遠くからでも目立つはずだ」と慌てながら申し訳をするが、だからそれも倒壊していたらどうするんだ、というのは彼以外の全員が思うことであった。

 目的を持って進んでいたはずが、実は暗闇の中で漂流していることに気づいた男たちは不安の色に染まっていった。提灯で浮かび上がる顔などは、怪談で語られるような、血の気の失ったそれであった。どうするんだよと誰かが言うと、また誰かが俺に聞くなよと言う。言葉を発すればすぐにそれが不安材料になってしまう状態だった。

「あの~、何か遠くで声が聞こえませんか?」

 そんな彼らに救い船を出したのは洋次郎だった。

「なに?」

 その洋次郎の言葉で、皆が一斉に静かになる。建物の反響のなくなった静かな街の真ん中で耳を澄ますと、確かに何か声が聞こえてくるのが分かった。最初は獣の鳴き声かと思われたが、それは悲鳴のようでもあった。そして、どうやらそれは前方の、他よりも小さな火が集まっているところからのものらしかった。先頭の男が「行ってみよう」と、先陣を切るようにその方向へと歩いて行く。

「大丈夫かな?」と、最後尾の洋次郎が言う。

「怖いのか?」と、加藤が訊く。

 だが洋次郎は何も答えなかった。どちらかというと、虚勢を張ってくれた方がそれを冷やかすことができたので、加藤にはありがたかったのだが。

 洋次郎を含む一行がそこに到着すると、そこには10名近い男たちが刀や猟銃といった物々しい道具を構えて、何かを取り囲んでいた。

「おう、永井。ここにいたのか」と、洋次郎たちの先頭にいた法被姿の男が言う。

「よう、遅かったな染川」と、瓦礫に腰をかけている、永井と呼ばれた男は顔を上げて言った。

「これだけか?」と染川が既着きちゃく組を見て言う。

「いや、もっといたんだが、二手に分かれたんだよ。こっちはもう始めているんだぞ」

 始めている?洋次郎が男たちが囲んでいる物を見た。それは血を流し倒れている男だった。みすぼらしいボロを纏った格好なのは元々なのかそうされたのか、その光景を見て思わず洋次郎は微かな悲鳴を上げた。

「……そいつは?」

 洋次郎の一行にいた男の一人が、首を傾げながら血まみれの男を顎でしゃくった。

「火事場泥棒だよ。ふてえ野郎だ」と、永井が言う。

「……死んでいるのか?」

「さあな、だが……。」

 永井がそう言いかけると、倒れていた男は呻きながら体を起こし始めた。すると永井は瓦礫に立てかけていた猟銃を手に取り、起き上がりかけた男の頭部を、銃床で頭蓋骨でも砕くかの勢いで打ち据えた。

「ぐきゃ!」

 男は奇妙なうめき声を上げて再び地面に顔を埋めた。

「やりすぎじゃあ……ないですか?」と、加藤が恐る恐る言う。

「こんな奴殺されても当然だ。それにこんな状況だからな、一人や二人殺したって分かりゃせん」

 倒れている男の頭から、改めて鮮血が地面に流れ始めていた。男が痙攣するのに合わせて、血が波を立てながら地面を伝う。洋次郎は耐え難くなり、集団から外れ血の臭いから逃れようとした。だが血の臭いの次は、肉と脂の焦げた不快な臭いが洋次郎の鼻をついた。

 日も街灯もない闇の中、すぐにはその臭いを放っている正体が何か分からなかった。目が慣れてくると、洋次郎にはそれが人間の体のように見えた。人間の体のように、というよりも人間の体そのものだったが、それでも洋次郎は凝視し続けた。何とか、それが自分の見間違えであることを願うように。だがそれはどう見ても人間の体だった。それも黒焦げになった。所々が、焼け残りで赤黒くぬめっているのは、横で灯っているその死体を焼いたと思われる焚き火の火力が、十分ではなかったからだろう。

「どうした洋次郎?」

 洋次郎の異変に加藤が声をかけた。そして洋次郎の視線の先にあるものを見ると、加藤は悲鳴を上げ腰を抜かしかけてよろめいた。

「なんだなんだ、どうした?」

 洋次郎たちの一行が二人の方へ行く。

「うわっ! 何だこりゃあ!」

「ひでぇっ!」

 その死体を見た男たちは口々に絶叫した。中には、嗚咽をあげて夕飯を吐き出しそうになる者さえもいるくらいだった。

「か、火事に巻き込まれたのかっ?」と染川が言う。

 騒ぐ男たちだったが、その反面、既にこの場いた男たちは冷静だった。

「……そいつも火事場泥棒だ」と、永井が説明する。

「火事場泥棒? しかし、ここまでする必要が……。」

 すると、別の腰に刀を差している男が言った。

「鮮人だよ、せぇんじん。不逞鮮人」

「鮮人?」

「何もしてないってとぼけやがるから、白状するまで縛って火にくべたんだ」

「火にくべただって?」

「腹の立つ奴らだ。普段は我もの顔でのさばって、こういう時には略奪に回りやがる」

 男は刀を抜刀し、焼死体を刀でつつきながら言った。へたり込んでいた加藤はその様子から目を背けた。

「燃えながら何か言ってたな。途中からガアガアとダミ声で何を言ってるか分からなかったが」

 そう言って刀を持った男は、死んだ男のモノマネをして笑い出した。

「ありゃあ朝鮮語だよ。聞き苦しいったらありゃしない」

「やっぱり鮮人だったよな。焼いてる時はニンニク臭かったもんな」

 朝鮮人を焼いた男たちは、気の利いた冗談を聞いたように笑い出した。

 洋次郎とその一行たちは顔を見合わせて困惑する。ここに来るまで息を巻いていた男たちだったが、既にこの場所にいる者たちとの温度差が激しすぎたのだ。大地震があったとはいえ、数刻前まであくまで日常を過ごしていたはずなのに、それは別の世界で、それこそ地獄で交わされる会話のようだった。

 酸鼻さんびな光景だが、洋次郎はやはりその焼死体から目を離せなかった。すると、死後硬直かはたまた風のせいか、焼死体がゴロリと傾き、その顔が洋次郎を向いた。そしてその瞳が、光の加減だろうが、まるで眼球が動き洋次郎を見つめたように洋次郎には思えた。

 洋次郎はようやく自分が何を見ているのかを理解し、そしてその場で気を失って倒れてしまった。

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