震災翌日

  ※


 下の階の話し声で洋次郎は目を覚ました。窓の外を見ると、太陽が真上まで昇っている。どうやらかなり長い時間眠っていたらしい。加藤に言わせれば、亀なのに寝ているとは何事かといったところか。洋次郎は苦笑して起き上がろうとしたが、すぐに痛みで顔が歪んだ。

 下の階からの声を確認するため、洋次郎は体を痛みになんとか耐え立ち上がる。洋次郎にとっては聞かなければならない声があったからだ。痛む体をかばいながらだったので、洋次郎は彼にしては珍しく音を立てながら階段を降りた。

「おや、保坂さん。おはよう」

 だが、それは大家の声だった。

「……おはようございます」

「保坂さん、どん亀がのんびりしてちゃあいけないよ」

 加藤ではなくても言われたか、と洋次郎は苦笑いで応えた。見ると、大家の一家は荷物をまとめている最中だった。火の手はここまで来ないようだといっても、物資はなく治安の悪化も当然ながら予想されるからだろう。それに、彼女はやもめとなった後、女ひとりでこの下宿先のことを切り盛りしていたのだ。仕方のないことだった。

 大家は子供用の風呂敷を畳み結わえながら言う。

「明日からしばらく家を空けようと思っててね、親戚のところにお邪魔するよ。申し訳ないがね保坂さん、家は使ってていいんだけど、生活のことは自分でやっておくれよ」

 大家の子供たちは洋次郎を見ると、「のんびりしてちゃダメだよ」と念を押すように彼に言った。洋次郎は分かってるよぉと、また苦笑いで言う。

 最寄りの警察署で炊き出しをやっているという話を大家から聞いた洋次郎は、朝食を取るために足を運んだ。そこでは、既に食料を求める長蛇の列ができていた。この前代未聞の事態に対応するため臨時で組閣された内田康哉内閣は、五年前の大正十八年に起こった米騒動の教訓から、食料供給による人心安定こそが政府の火急の責務だとし、いち早く食料の確保と供給に着手していたのである。

 他の避難者と同じく洋次郎は列に並びながら、前の小さな子供を抱きかかえる女性を見て思う。自分は屋根のある場所を失うことはなかったが、彼らの中には橋の下で眠らなけらばならないような者だっていたはずだ。この先、どれほどまでに人間らしく生活し、その心を失わずにいられるだろうか。衣食足りて礼節を知る。しかしそれは裏を返せば、すべて奪われ尽くせば人は獣にだって落ちるということだ。この行儀だたしい行列も、ほんの少し誰かが後ろを押せばたちどころに暴徒になりうるのだから。背中越しに女性の抱く子供と目が合うと、洋次郎は思わず目をそらした。彼は子供の瞳に映る自分の姿を見たくなかった。

 風向きが変わり、炊き出しの方向から香しい匂いがした。誰かが「美味そうな匂いがするなぁ」と言うと、また隣の誰かが「近所の屠殺場が荷がさばけないってんで、大量に安く肉を売ってるんだとよ。食ってる奴の器を見たが、普段でも食えないくらいの肉が入ってたぞ」と興奮気味に言う。きっと彼らは昨日から何も食べてないのだろう、そう思う洋次郎だったが、自分も昨日の昼から水以外口にしていないことを思い出し、間の抜けたタイミングで腹の虫が鳴る音を聞いた。お前はずっとどん亀でいてくれよと、洋次郎はほとほと情けなくなった。

 あと数人で自分の番だ、既に鍋と杓子を持って丼におじやをよそっている警官も見える。自分の配給を洋次郎は今か今かと心待ちにしていた。すると五名の男たちが、後方から列に並ばずに署の方へと歩いて行った。鋤や鳶などの農耕具を携えているので、農家の人間かと思いきや、日本刀を腰にさしている者もいる。

 先頭の軍服姿の在郷軍人が言う。

「鮮人を出せ! ここで匿っているのは分かってんだぞ!」

 警官が各々顔を見合わせてから一人が建物内に入り、しばらくすると中年の巡査長らしき人間が緊張した面持ちで現れた。

「上から内鮮人の放火等は流言だと連絡が来ている。早急に戻りなさい」と、中年の巡査長が彼らの前に立ちはだかり、威厳を保ちながらも声を僅かに震わせて言う。

「上から? どうやってそんなことが分かったんだっ」

 在郷軍人の後ろにいた、とび職姿の男が息巻いて言う。

「それは警察無線でだな──」

 しかし、巡査長が言い終わる前にとび職の男が食ってかかった。

「嘘つけ、新聞もラジオも止まっているのにどうやって分かるってんだ?」

「警察無線は生きておるんだっ」

「見え透いた嘘をつくな!」

 呆れ果てるように巡査部長はため息をついた。そもそも、警察無線がなんたるかを知らない人間に、もう何を言っても通用するわけがない。

「朝鮮人が暴れてんのを見たって奴がいるんだぞ!?」

「ではそいつを連れこいっ。流言の流布と、お前たちは武器の所持で取り締まらなければならなん」

「その前に鮮人をどうにかしろよ! 警察なんて頼りにならなねえんだ! 俺たちで始末をつけてやる!」

「断固まかりならんっ。貴様ら今すぐ解散せよっ」

「テメェどっちの味方なんだよ!」

 とうとう男たちは叫ぶように言い合うようになってしまっていた。そしてその最前の喧騒で、列の中の人間も不安を感じ始めていた。

「聞いたかよ、鮮人が放火してるってさ」と誰かが言うと、「俺も聞いた」と、また誰かが呼応し、「奴らおかしいと思ってたんだよ。許せねぇよな」と言い合い興奮しだし、ついには綿に放たれた火ように、猜疑心は恐怖と憎悪の業火へと変貌を遂げようとしていた。

「あの……。ほほ、放火してるのを見た人がいるんでしょうか?」と、洋次郎が恐る恐る彼らの一人に問いかける。

「いや、やってるって話だよ」

「その、やってるのを見たって人は?」

「それは……。だが、やってるって話しだ。それで十分だろう?」

「思うんですが……又聞きの又聞きで、元々はやってるかもしれないと誰かが思っただけの話しではないでしょうか?」

「こんな状況で悠長なこと言ってられんだろう。奴らはもしかしたらこの機を狙って国を乗っ取ろうってハラだったかもしれんのだぞ?」

「かかっ彼らが、いつ来るかもしれない地震に備えて待ち構えていたということ……でしょうか?」

 洋次郎と話す男は不愉快そうに顔を歪める。

 すると、「俺なんか奴らに仕事を取られたんだぞ?」と別の男が割って入ってきた。

「ほれみろ。奴らは自分とこで失敗した独立運動をこっちでやろうってことさ」

 それは単純に、経営者側が賃金の安い朝鮮人労働者を使いたがっただけであって、そして今ではその仕事もなくなり朝鮮人であっても仕事にはあぶれている。だが、既に吃音の癖が出ている洋次郎はそれをうまく言葉にすることができなかった。そして洋次郎の試みも虚しく、先頭の男達に触発され、列の中の人間も異口同音し始めた。

「そいつら本物の警察官なんだろうな? 見たことないぞ!?」

「鮮人が警官の制服盗んで化けてるんじゃないか?」

「本当かそれ!?」

「本物の日本人が鮮人を庇うわけないんだ!」

「どおりで!」

 最早、それは炊き出しの列ではなかった。ほんの数分前まで忍耐を美徳とする明治気質の日本人よろしく行儀の良かった行列は、洋次郎が懸念したとおり僅かに背を押されただけで暴徒の集まりになろうとしていた。

 ここにいては騒動に巻き込まれてしまう上、洋次郎は空腹よりも別の気がかりから行列を出て下宿先へと戻ることにした。去っていく洋次郎を、数名の男たちが不審な目で見ていた。

 下宿先に戻り玄関を開けると、廊下には見知った男がいた。

「……洋次郎さん」

 それは、飴売り姿の李だった。すすだらけでひどく汚れており、飴売りの時にいつも被っている頭巾は、あの混乱の中人ごみをかき分けている途中で紛失していしまっているようだった。

「……李さん。無事だったんだね」

 胸をなでおろすように、洋次郎が言った。

「洋次郎さんも、大丈夫だったんですね。……洋次郎さん?」

「うん?」

 李に指をさされて気づいたが、洋次郎は無事な彼を見て涙を流していた。李は、自分の安否を涙を流すほどに気遣ってくれた隣人に顔をほころばせる。しかし洋次郎は、別の不安が解消されことによって涙したのだが、それを自分自身でも理解することができなかった。ただ深い安堵があった。

「心配したよ、昨晩は帰ってこなかったから」

「昨日は人ごみが大変で帰れませんでした。電車も使えないくらいでしたから、野宿をしたのです」

「そうか」

「ここの人は皆さん無事みたいです。良かったです。これから私は親戚が川沿いの工場で働いているので、彼を探しに行こうと思っています」

「……え? 工場へ?」

「はい。彼がまだ帰ってこないんです」

 李は玄関へと向かった。

 洋次郎は、すれ違った李の背中に言う。

「……ダメだ」

「え?」

「あ……、ほら、火事がすごいことになってるんだ。工場ならもっと大変なことになっているかもしれない」

「洋次郎さん、だとしたら、やっぱり私は彼を探しに行かなければいけません。彼は日本語が話せないのです」

 洋次郎はもどかしさのあまり、身をよじり眉間に最大限に皺を寄せ、言葉を探す。

「その、違うんだ……。実は今、巷で朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、火をつけたとかいう話が出回ってて、殺気立ってる奴らがいるんだ」

 李は頷いて言う。

「私もその噂は聞きました。でも、そんな悪い朝鮮人なら殺されても仕方ありませんよ、こんな大変な時にそんなことをするなんて。大丈夫、私はそんなことをしませんから」

「そうではなくて……。」

 李は隣人の様子を不可思議に感じたが、この日本人は自分の分かり易い言葉で説明しようとしてくれているのだろうと思い、手を差し出して言った。

「大丈夫。彼を探して連れて帰るだけですよ。火が危ないと思ったら、すぐに引き返します。無茶はしません」

 洋次郎は差し出された手を握り、そして去っていく同居人の背中を無念さと共に見送った。洋次郎には、逆光の中の李の背中が、この世ではないところへ消えていくように思えた。

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