※


 気がつくと、男は病室の前の長椅子に寝かされていた。

 大叔父の言動も自分の感情も、また自分が何故ここに寝かされているのか、あらゆることが把握できずに男はしばらく廊下の天井を眺める。

「……気がついた?」

 目を覚ました男を心配するように男の母が言った。それでも男は体も思考も感情も動かすことができずにいた。

「どうしたのいきなり?」と、母が尋ねる。

 しかしそれを聞きたいのは男の方だった。

「突然倒れたのよ? 貧血? せっかく病院いるんだから診てもらったほうがいいんじゃない?」

 男には母の声が、自分の体と精神を持つ別人にかけられているように思えた。それはすなわち本人なのだが、男には自分すらが今は他人に思えた。頭と肩口を触ったものの、特に強い衝撃があったと思われた頭部は血どころかコブすらできていない。看護師のスリッパがリノリウムの床を打つ音、病院独特の薬品の匂いが知覚できるようになると、男は大きく呼吸をし一つ一つを整理するため母親に問いかける。

義仁よしひとおじさんどうしたの? 俺を誰かと間違えてたみたいでけど……。」

「ああ、あれね……。」

 母はそう言って男の横に座り、しばらく話す手順を選んでから話し始めた。

「数年前、地震あったじゃない?」

 数年前の地震というのは3・11以外にはない。

「義仁おじさん、あの頃から寝たきりになっちゃったらしいのよね。地震の時のゴタゴタでまいっちゃったんじゃなくて、あの時から何かに怯えるようになったって……。」

「……どうして?」

「……おじさん、関東大震災の時も被災してたのよ。小学生くらいの時に」

「ああ……。」

 男は天井を見上げたまま少し考えてから言う。

「で、それが俺を誰かと間違えるのと関係あんの?」

「おじさん、ただ被災したみたいじゃなかったみたいなのよ。叔母さんが若いころに聞いた話だと何か……事件にかかわったみたいで……そのこと地震をきっかけに思い出すようになったんじゃないかって……。」

 男はハッと体を起こした。

「もしかして、あれとか? 地震の時の朝鮮人が殺されたっていう?」

 男の母親は周囲を見渡してから、「あまり大きな声でいいなさんな」と小声で言った。

「ちょうど……て言ったら不謹慎だけど、卒論でそれを扱ってるんだ」

 男も小声で話す。

「義仁おじさんに話し聞けるかな?」

 男は起き上がって、また大叔父の病室に向かおうとした。

「洋次郎……。」

「なに?」

 男は母の方を振り向いた。何も言わなかったが、彼女の表情がすべてを伝えていた。

「ああ……そうなんだ」

 男は再び長椅子に座り込み、もう誰もいないだろう病室を見た。

「俺がこなけりゃ……。」

「そんなことないでしょ……。」

 呆然とたたずむ男の後ろを、手押し車を押す看護師が「失礼します」と言って通り過ぎた。

「で、あなたは大丈夫なの?」

「え?」

「だから、突然倒れたのよ?」

「ああ、そっか……。いや大丈夫だよ、本当に……。」

 遠慮などではなく、あれだけの痛みがあったにもかかわらず、実際に男の体には今はもうどこにも異変がなかった。まるで、倒れる前とは違う体であるかのようだった。

「母さん、これから親戚の人達とお通夜の日程とか話すけど、あんたは心配だから帰ってなさい」

「……ああ、そうする」

「多分、遅くなるから夕飯適当に済ませといて」

「わかった……。」

 男は一人で藤沢の自宅に帰宅した。帰路の途中の電車の中で、そういえば母は兄には大叔父のことを何も連絡しなかったのだろうかと男は思った。

 帰宅して改めて体はやはり全くの健康だと男は確信する。あれは一体なんだったのだろう、シャワーを浴びるため洗面所で服を脱ぐと、男は喉の奥から微かな悲鳴を上がった。肩の痣が、より毒々しくも鮮やかに赤黒く変色していた。男は古い生娘がやるように、掌を口に当て絶句する。恐る恐るその痣に触れるが、見た目のインパクトに比べて、まるで痛みがなかった。それは刺青のように見た目だけのもののようだった。

「何なんだよ……。」

 母親の心配するように、病院で診てもらった方がいいのではないだろうか。シャツを着なおして時間を確認しようとスマートフォンを見ると、真由子からのラインの通知が入っていた。

『いま藤沢来てるんだけど、会える?』

 ちょうど家には誰もいない。帰ってくるのも遅いというので、男はとても素直に『もちろん、俺も真由子にすげぇ会いたかったんだよ!』とスタンプ付きで即答した。再び服の上から痣をなぞってみるが、やはり痛くない。服を着てしまえば覆い隠せる不安だ。

 それから一時間後、男は家に来た真由子と、デリバリーしたピザを食べながら居間のソファで体を寄せ合って恐竜映画のDVDを観ていた。男にとっては、ここ数日の不安感を拭い去ることができる、とにかく頭をからっぽにできる行為だった。

「……恐竜の時代ってさ、考えたらすごいよな。ドキュメンタリーとかで普通に時系列がジュラ紀白亜紀で何万年何億年単位で簡単に説明されるけどさ、それに比べると人間の歴史ってメチャクチャちっぽけなんだよなぁ」

 真由子は「ほ~んとだね~。壮大すぎてあれこれ悩むことがバカらしくなっちゃうよねぇ」と、四割ばかりの演技を含めた笑いで男に身を預けた。

「そうなんだよなぁ。今やってる国際関係の勉強とか、大きいはずなんだけど地球の歴史から見ると瑣末な問題に見えてさぁ。だって人間がいた時間より、いなかった時間の方が長いって事なんだから。千年先に人類いるかも分かんないし。地球からすれば、人類のことなんて泡沫に見る夢みたいなもんなんだろうな……。」

 そこまで言うと、男は真由子が退屈しているのに気づき、話を切り上げた。

 一方の真由子はというと、ピザの油で汚れた指を口づけをするように軽くしゃぶってから「きれいにして」と、人工甘味料たっぷりな声で男の口元にその指を差し出した。男が差し出された指を丁寧になめると真由子は「変態くさぁい」と、やはり意識的な笑いで体をすり寄せてくる。やや反るように男にもたれかかっているせいで、彼女自慢の大きな胸が一層強調される。

 高校時代には教師と付き合っていたという真由子は男という生き物の転がし方をよく心得ていた。そんな真由子が初めての彼女だった彼は、真由子の手の上で弄ばれながら挙動の一つ一つをコントロールされ女の体に手を運んでいく。丁寧に真由子の首筋にくちづけをし、腰に回した手を少しずつ上へと近づけていくと、真由子はその手を取って、より強く抱きしめてもらうように腕を体に回させた。

「……部屋に行かない?」と、男は耳元でアマガミするように囁いた。唇が真由子のピアスに触れて冷やりとする。

「子どもたち、まだ見つかってないよ?」と、真由子が冷たく嗤いながら言う。

 正直、本当はどうだっていいんだろと言いたかったが、「じゃあつけっぱなしで行こう、きっと俺たちが戻ってくることには叔母さんと昔の恋人が見つけてるよ」と何とか体裁よく言う。

 そして、真由子の方は「ええ~」とわざとらしく嫌がりつつも男に手を引っ張られるのを、ほんの少しだけ力を入れて抵抗する素振りだけを見せ、なされるがままに男の部屋についていった。

 それから一時間半、子供たちは無事に叔母さんと合流し、新種の恐竜は水棲のモササウルスに食われてしまった。

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