潰された街
※
「じろう……洋次郎!」
声をかけられて洋次郎は目を覚ました。顔を上げると、そこには加藤の姿があった。袴は破け洋シャツも汚れてしまい、せっかくのバンカラファッションが台無しだった。
「あ、あああ。加藤、か……。」
見上げた加藤の顔は、一見して泥で汚れてるのかと思われたが、よく見るとそれが砂が混じって固まった血だということが分かった。
「大丈夫か、お前……。その顔」
「俺の心配している場合か?」と、加藤が言う。
確かにそれどころではない。洋次郎の体は半分が建物の下敷きになっていた。
洋次郎は瓦礫に挟まっている自分の体を見て、ようやく「うわ~、まずいなこれは……。」と間延びしたように言った。
「こんな時でもどん亀ときたか」
「いやぁ、それが全く痛くないんだよ」
そのうちに痛くなる、とは流石に言えなかった。加藤は瓦礫の中から頑丈そうな角材を取り出し洋次郎を挟んでいる瓦礫の間にかませ、テコの原理で瓦礫を持ち上げた。
「出られるか?」
「ああ、ありがとう」
洋次郎はほふく前進をするようにして瓦礫の中から這い出し、途中から加藤が洋次郎の手を掴んで引っ張り上げた。
「……立てるか?」
そう言って加藤は手を引いて立ち上がらせようとする。
「大丈夫……あ!」
洋次郎が中腰になる。
「どうした?」
「足が……。」
「そうか、肩を貸そう」
加藤は洋次郎の腕を自分の肩にまわして立たせた。加藤の肩を借りて立ち上がった洋次郎は、周囲の光景に愕然とする。
「何てことだ……。」
創立明治十五年の三階建て、数分前までこの地域では特に大きかった商業学校の校舎は見る影もなく平たく潰れていた。まるで巨大な神の手が、この一帯を掌で叩き潰したと言われてもおかしくない、それほどに冗談じみた惨状だった。大自然の猛威を言い換えればそんなものなのかもしれない。そして、辛うじて生き残った人間は、崩れた校舎から人を救い出そうと救命活動を始めていた。
さらに洋次郎が学校の敷地外を見ると、遠くに巨大という言葉で表現できないほどの岩山がそびえ立っているのが見えた。しかししばらく見ていると、それが僅かながらに動いていることから、大火事で上がった煙だということが分かった。一体、どれくらい気を失っていたのだろうか。洋次郎は午前の不安感が消し飛ぶくらいの恐怖に身を強ばらせた。
「……洋次郎」
加藤が声をかける。
「何だい?」
「俺は一旦家に帰るぞ。親父やお袋が心配だ。お前も下宿先に戻って、その後実家に帰る準備をしたほうがいいかもしれん。もし、帰れるのならだがな」
「え、でも……。」
洋次郎は、後ろの潰れた校舎を見た。
「俺が、お前以外を探さなかったと思うか?」
洋次郎の言いたいことを察した加藤が言った。言葉と一緒に口から溢れ出る、無念さを含んだ吐息がすべてを語っていた。
洋次郎と加藤は学校の敷地外から街へと出た。既に多くの教員たちも命を落としており、校長すらも校舎の下敷きなって死んでいるということだった。数分で、校舎も人も学校のていを成さなくなっており、集団で行動する理由は皆無に等しかった。
男同士で肩を組んで街を歩いても、それは別段珍しい光景ではなかった。往来では、多くが彼らのように誰かが誰かをかばいながら歩いていたからだ。その往来は崩れた建物に加え、火事を恐れた人々が家財道具を外に出して運び出そうとしたためにより一層狭くなり、さらに荷車を使う人が多いせいで人の流れはせき止められ、迫り来る煙に人々は身動きが取れない中で狂乱し、事態は地震が止まったというのに悪化するばかりに思われた。罵声と悲鳴が飛び交う道。時折なぜか念仏が聞こえてきた。この世の終わりだと思った老婆が唱えているようだった。
「まずいな、このままだとまずいぞ」と、洋次郎が言う。
「そうだな、この強風だ、火に巻かれちまうぞ」
炎は洋次郎からは見えなかった。だが、二人の上に広がる空は、雨が上がった後に広がるはずの晴天ではなく、煙で曇り、さらには大きな海苔のような正方形の黒い塊が空を舞っていた。燃え尽きた屋根や衣類が飛び回っていたのだ。そう遠くない場所で、大火事が起こっているということだ。だが洋次郎の言葉は、別の不安から来ていた。
洋次郎の横を「津波が来るかもしれないぞ!」と、中年男が人を泳ぐように掻き分けて走った。それを聞いた人々はまた悲鳴を上げる。
「大丈夫だ。津波はない!」
そう洋次郎が言うが、「なんで分かるんだよ!」と一括されてしまった。
「……お前、見たのか?」と、加藤が怪訝に問う。
「いや……ほら、そんなことを言って混乱させても、被害が大きくなるだけだろう? 冷静に動かなきゃあ」
「まぁ、それもそうだが……。」
二人の通学途中にある公園には人がごった返し、歩き疲れた者が休もうとするものの、座る場所もないほどにすし詰めになり、黒山どころか黒い絨毯のように一面真っ黒になっていた。
「アイツらあてもないのかもしれんが、歩き続けないと。煙に巻かれても死んでしまうというのに」と、加藤が首を振って言う。
加藤の言葉で、ふと洋次郎の脳裏に文字が浮かんだ。
──大柳公園に避難した大勢の被災者が、煙に巻かれ死亡した。
それはまるで、教科書に書かれた文章のようだった。
「大変だ……逃げるように言わないと」
洋次郎は慌てて彼らのもとへ足を引きずりながら向かい始めた。
「待てよ。俺が言ったのはあくまでそうなるかもってことだから。大丈夫かもしれないだろっ」
加藤は取り憑かれたように群衆に向かう洋次郎を引き止めた。
体を痛め引きずるように歩き続けた洋次郎だったが、加藤に付き添われ一時間弱で何とか下宿先までたどり着いた。下宿先前の道にあった電信柱は傾いていたが、辛うじて建物は崩壊を免れたようだった。もっとも、次に余震が来たら崩壊するのではないかというくらいに建物も傾いていたのだが。
「加藤ありがとう。助かったよ」
肩に回した腕を組み替えて、感極まった洋次郎は加藤に抱きついた。
加藤はよせよ、と言ったが腕を振りほどこうとはせずに洋次郎の背中に手をまわした。
「じゃあ、俺は自分の家に帰るぞ。親父もお袋もしっかりしているから大丈夫だろうが、男手がいるだろう」
「そうだな。……ところで、お前は体大丈夫なのか?」
洋次郎がそう訊くと、加藤は身をよじって顔をしかめる。
「ずっと痛んでるよ」と、歯を食いしばってその間から空気を吸い込んだ。
「流石だよ、お前は」
加藤は苦笑いをすると、自分の家の方角を目指して歩き始めた。
「じゃあな。どん亀だからと言って、こんな時でものんびりするなよ」
「亀はな、ゴールまで休まないんだよ」
加藤は明るく笑って去っていった。
「加藤っ」
「何だ?」
「ウサギだからって居眠りするなよ」
加藤はそれに笑ってから気の利いた返しをしようとしたが、上手く思い浮かばずに「じゃあな」と、手を振った。しかし、何かを思い出したような顔になると、伺うように洋次郎を見た。
「なぁ、洋次郎。お前もしかして、今日のこと……。」
加藤が皆まで言う前に、洋次郎は息を呑む。確かに、自分は何事かを予見していた。しかし胸騒ぎという程度だったので、それを親友に、周囲にどう伝えていいのか分からなかった。だが例えそれが無駄だったとしても、知っていたのに何もしなかったというのは、大勢の命がかかっているという自体においては一抹の後ろめたさを洋次郎に与えていた。
「……いや、やっぱり何でもない」
そう言うと、加藤は家路についた。
洋次郎の下宿先の玄関先には、他の家と同じように家財道具が運び出されていた。大家の子供が、衣類が入っているのだろう大きな茶箱に腰掛けている。
「ヨシ坊、無事だったのかい。良かった」
洋次郎が声をかけると、下宿先の子供は不思議そうに洋次郎を見た。
「ん? どうしたんだ?」
「あ~、どん亀だっ」
まったく、加藤が教えたのだな。洋次郎は去っていった恩人に恨み節を抱く。
「何か……違う人に見えた」と子供が言う。
「違う人?」
「う~ん、でも気のせいだね」
「そうか……。」
そう言って玄関に入ろうとしたが、突如胸を刺されるような焦燥感が湧き上がり子供に洋次郎は尋ねた。
「李さんは?」
「え? 李さん? 見てないよ?」
子供は通りの方を確認するように首を伸ばした。
「大丈夫かなぁ……。」
「……ヨシ坊」
「なぁに?」
「李さんが帰ってきたら、部屋から出ないように言っててくれないかな?」
「……何で?」
「何となく、だな」
午前中のことがあった。この間借りしている青年の言葉を、子供には信じるに足る根拠があった。
「……分かった」
部屋に戻ると、洋次郎は体が土嚢のように重くなっているのに気づいた。痛んでいた足は、これでも危機的状況で体が無意識のうちに痛みを抑えていたらしく、部屋に入り安心すると体はその痛みを開放し、洋次郎は疲労と激痛で畳の上に倒れ込んだ。どうやら、気絶しているからといって、寝ていることにはならなかったらしい。呻いて這いずり回るようにして布団を敷いて、着の身着のままそこに倒れこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます