ヘイトデモ
※
次の日、男は大叔父の面会のため横浜へ行く前に、川崎へと向かっていた。ちょうどヘイトスピーチ関連で調べていた団体が、ホームページで川崎での街宣活動の告知をしていたからだ。今日も目覚めが悪く頭がふらついていたものの、電車内が通勤ラッシュを過ぎていた時間だったのが救いだった。藤沢から川崎の武蔵小杉まではJRの東海道本線を利用して三十分程度なのに、どうして片道が六百円以上もするのだろうと不満を抱きながら、座席にうつむき加減に座り込み目的地までの時間をやり過ごそうとする。しかしどうにも気分がすぐれない。気晴らしに吊り広告でも見ようと顔を上げたが、遠くが霞んで広告がよく見えなかった。視力が落ちたのだろうかと、数回目をこすってから再び広告を見る。
――不逞朝鮮人によるテロ事件の計画明るみに
男はしばらくぼおっとそれを眺めた後、目頭を押さえて軽く頭を振りながら再度広告を確認した。
――民社党若手議員とアイドルN 不倫メール流出!
何かの見間違えだったのだろうか、男は周りの記事の見出しを確認したが、『がん治療最先端』『老年期のセックス』等など、空目するような文言はどこにもなかった。広告の端に、一行「北朝鮮のスリーパーセル 都内に潜伏か」という記事があっただけだった。
集合場所の最寄りの武蔵小杉駅に到着すると、男はスマートフォンでホームページを開き街宣活動の場所の確認し、それからここの土地勘が全くないので、地図アプリで予定の場所を検索した。体調不良で家を出るのが遅れてしまっていたため、告知されていた集合時間は既に過ぎていて、デモはもう移動してしまっているだろうが、ルートの分からないのでその場所を頼りにするしかなかった。
本当にここ数年で便利になったよな……。地図アプリに導かれながら、文明の利器に男は今日の目的とは関係のないところで驚いていた。数年前までいったいどうやって人と待ち合わせをして目的地に行っていたのか、そのかつての自分の生活ですら思い出せないほどだった。
交番の前を通ると、普段とは違う様相の警察官が控えていた。ヘルメットに防刃チョッキといった、真重々しくも暑苦しい紺色の装備は、盗難自転車を取り締まるいつものご近所のお巡りさんなどではなく、これから暴徒に立ち向かわんばかりの出で立ちだった。アプリも絶対ではないので彼らに道を確認しようかと思ったが、迂闊に話しかけて職務質問でもされたら面倒なのでやめておいた。
交番の前にかけられた、交通事故の被害者をカウントしたパネルに目をやると、そこには交通事故二件死者一名と赤字で書かれていた。少ない数は男に何とはなしの安心感を与える。死亡した数が少ないからというものではない。不必要に豊かな想像力が、もしそれが一人ではなく千人だったなら、その中に自分や自分に親しい人間が含まれていてもおかしくはないという恐怖感を与えるからだ。
目的地に近づくにつれ、人が多くなってきた。ここの住民ではないが、目に付く人々がここを生活圏にしている人間ではないことがうかがい知れる。服装や表情、持ち物があまりにもこの住宅地と馴染んでいない。遠くから目的を持ってやってきた人間の装いだ。
さらに進んでいくと、電信柱に『ヘイトスピーチを許さない』と書かれたダンボール製の看板に目が止まった。卒論の調べ物をしていく中で、排外的な街宣活動に反発する人々が、活動の規模の大きくなるに連れて増えてきたというのも知っていた。ニューオリンズでも関東大震災でもルワンダでも、迫害される人々を
団体が告知していた公園に到達する前に群衆が目に入り、さらに彼らのシュプレヒコールも具体的に聞こえるようになってきた。出遅れたが、どうやらデモに運良く間に合ったようだ。
そこにあったのは、数十人という程度ではなく百人を越える群衆だった。密集したプラカードを掲げた集団と警察官、その想像以上の規模に男は面を食らったのだが、どうも様子がおかしい。この規模でやたら警察官が多いというのもあるが、それ以上に、デモ隊ならば指定の道路でやっているはずが、歩道にも人が溢れかえっていて、さらにその中の一部が拡声器を持っている。より詳しく彼らを観察すると、歩道に並んで数人がデモ隊に対して中指を立てていたり、『差別はやめろ』と書かれたプラカードをデモ隊に見せつけるように立っていた。サングラスやマスクを着けているのは、テレビ局なのかネット配信なのか分からないが、カメラを回して彼らを撮影している人間もいるので、個人を特定をされないためなのだろう。
男が観察をしていると、いきなり後ろから「みなさ~ん、差別主義者のデモ隊です!」と、耳をつんざく声が聞こえた。驚いて振り向くと、そこには「NOHATE」とプリントされた黒いシャツを着た男が、デモ隊に向かって拡声器で叫び、敵意と目を剥き出しにして叫んでいた。拡声器の男の視線の方に目をやるが、警察と道路を囲む群衆で肝心のデモ隊が見えない。自分もマスクなど買っとくべきだったなと、男は少し躊躇しながらも歩道の人間をかき分けてデモの見やすい場所まで近寄った。
道路では、警察官に囲まれながら街宣活動をする団体が練り歩いていた。曇天の下ではためく日の丸や日章旗、一緒に何故かハーケンクロイツも掲げられている。デモの先頭の四十代後半くらいの女が「朝鮮人は日本から出ていけ~」とシュプレヒコールを上げると、即座にそれに合わせて「お前らが出て行け!」と歩道の集団が叫ぶ。
「死んだ朝鮮人だけが良い朝鮮人だ!」
「ゴキブリどもを焼き殺せ!」
「うるせぇお前らこそ日本の恥なんだよ!」
目眩がし始めた。憎悪と憎悪が交差する空間は人間が正常に呼吸するのも難しく、酸素ではない別の、まるでここで火を灯そうならば、たちまち引火してあたりを爆炎に包みそうな危険な気体が充満しているようだった。そしてまた、男はこの空間にいることに恐怖感も覚え始めていた。それは決して踏み込んではならない自分の中の禁足地の、そこに張り巡らされた縄の寸前まで来ているような感覚だった。
熱にうなされたように曖昧な感覚でその様を見ていると、弾けるように歩道の列から突然人が飛び出した。帽子をかぶった水色のポロシャツとチノパン姿の初老の男だった。男はデモ隊の真ん中に飛び込んで行き、彼らの掲げる日章旗に掴みかかった。お題目のような単調な叫び声が一転、怒りと恐怖で湿った生々しいものに変わる。元々既存の右翼団体と違い、市民団体であることを標榜するデモだったため、デモ隊と反デモ隊はたちまち傍目からは区別がつかなくなり、揉みあい掴みあった各々は混ざり合うどころか溶け合い、お互いがお互いに負の感情そのものとなって禍を渦巻いていた。止めようとしている警察も、一人また一人と殴り込みに増えていく反対派の対応に追われ、渦中の揉め事にまで手が回らないようだ。
――おいおい、収拾つくのかよ……。
そんな心配をよそに、怒号と罵声はよりひどくなり、揉みあいになった数人が道路に倒れ込む事態に発展していった。
――いや、これまずいだろ。もうデモじゃなくて暴動じゃん……。
男は周囲を見渡すが、しかしどうにも様子が変だった。こんな光景が目の前で繰り広げられているというのに、周りで見ている、一般のデモに参加していない人たちの様子が先と変わっていない。まるで、これまでの延長での物事を見ている様だった。
不思議に思いながら周囲を見渡していると、「朝鮮人を殺せ!」と女性の金切声が道路から聞こえてきた。見ると、道路で倒れている先ほどの初老の男を数人が取り囲み、日の丸の柄の部分で殴打をし始めている真っ最中だった。初老の男は仰向けになった状態で体を丸め、膝や肘の辺りで何とか攻撃をしのいでいた。
「おいおいおいおいっ」
男はとうとう、声を発するほどに驚愕した。初老の男がやめてくれ、と叫ぶと群衆の一人が「朝鮮人は皆殺しだ!」と、さらに煽りながら暴行をエスカレートさせていった。いつの間に用意したのか、暴動には
え、農具? 何で? 男はデモの場にあまりにも相応しくない道具の登場に緊張の糸が一瞬緩んだが、すぐに隣にいた商店の店主らしき人物に「いや、あれマズイっしょ?」と訴えた。しかし、店主らしき人物は彼を困ったように見遣るだけだった。男はスマートフォンを取出し警察に連絡しようとしたが、そもそも警察は既に目の前にいるのだ。
男は「……すいません、あれ止めなくていいんですか?」とデモ隊を守る警察官に歩み寄り話しかけた。
するとその警官は「……お前もか?」と真顔で、しかし睨めつけるよりも冷た目で男に言った。
「……え?」
「お前も朝鮮人か?」
「あの……何を……。」
「俺もな……本心ではお前らをこの国から叩き出してやりたいんだ。だが残念だが今は勤務中だからな」
警察官とは思えない発言に、男は茫然とその場に立ちつくしてしまう。
「あれを止める気はないし、お前も関わるのなら責任はもてないぞ。殺されたければ行って来い」
警官が何故こんなことを言うのか、男は意味が解らずにしばらくただ警官を見つめ返していた。すると、今度は警官が男の様子を伺うように話しかける。
「何? どうしたの?」
しかしその警官の口調は、うって変わって落ち着いていた。
「……え?」
「ぼーっとこっち見て。……どうしたの?」
「どうしたのって……あれ、止めなくていいんですか?」
警官は後ろを振り向かずに言う。
「許可を取ってる……デモだからね」
「許可って……。」
男は警官の背中越しに暴行を確認して指摘しようとする。しかし……、
「あれ?」
そこにあったのはシュプレヒコールを上げながら歩くデモ隊の姿だけだった。暴行を受ける初老の男も、揉みあいになっている群衆もそこにはなかった。
「……え?」
警官はいよいよ不審に男を伺う。
「あ、いや……何でもないです」
男は警官から離れると、足をふらつかせながらコンビニの壁まで歩いて行き、壁に背中をもたれさせた。この夏の暑さで幻覚でも見たのだろうか。男は目頭を揉みながら自分の今見たものに整理をつけようとする。あれは何だったのだろうか。熱心な学者は、夢の中でさえ研究内容が出てくるというが、自分は明らかにそこまで熱を入れてはいないし、仮にそうであったとしても白昼夢を見るのは度が過ぎている。
研究の資料とするほどの収穫はなかったが、母との約束の時間も迫っていたため、男は大叔父の入院する横浜の病院へと向かうことにした。帰る途中に再度振り返ったデモ隊は、やはりただデモをやっているだった。
川崎に行くまでの出来事が幻覚だとはどうしても信じられずに、男は横浜行きの電車の中の様子を確認する。だがやはり、来る途中に見たような吊り広告は一切見当たらなかった。
男が横浜市内の病院に到着すると、受付のロビーには既に母がいた。
「ああ、洋次郎。来ないと思ったわよ」
「なんでぇさ。来るよ、義仁おじさんには世話になったからね。主にお年玉で」
母はおどけていう男に対して、うつむき加減で言う。
「せっかく来てくれたんだけど……加奈子さんの言うには、意識は辛うじてあるんだけど……誰が誰っていうのは分からないらしいのよ……。」
加奈子というのは男の母の従妹にあたる人だった。
「あ~そうか……。まぁ仕方ないよ、最期の挨拶だけできるだけでも……。」
母は頷くと立ち上がり、男を連れて受付で名前を書き、大叔父の病室へと向かった。個室のベッドでは既に覚悟を決めてのことだろう、彼の息子や孫、ひ孫といった縁者が詰めかけていた。叔母が男と彼の母の入室に気づき静かに頷いた。病室の中央のベッドでは、近代の医療器具によって何とか肉体に生命が繋ぎ止められている、生きている部分よりもそうでない箇所が大部分を占めた男の大叔父が、口を呼吸器で塞がれ薄目を開けて天井を見上げていた。その姿はもう自律的な生き物というより、機械の末端だった。
「洋次郎くん、ありがとう。わざわざ来てくれたのね……。」
従妹は微笑んだ後、ベッドの上の大叔父を見た。
「でも……。」
ふたりは会釈をすると大叔父のベッドまで行き、まず母が「叔父さん、ご無沙汰しております。智子です……。」と言った。
しかし、大叔父の目は天井を見つめたままで、いや、そもそも天井を見ているのかどうかも分からないままの瞳でピクリとも動かない。
次に、男が大叔父に挨拶をする。
「
男はもちろん、自分の母と同じく無反応なのだろうと思っていた。だが以外にも、老人の視線が男の方へと動いた。
「あ……。」
大叔父は男を見ると、目を見開き何かを言いたそうに呼吸器に覆われた口を、体に残された活力を使って動かそうとしていた。親族たちは各々顔を見合わせながら、彼が伝えようとしていることを確認しようと動こうとしていたが、この血縁上は決して近いとは言い難い、姪の息子のために老人の死を早めていいのか戸惑っていた。だが男が叔母を見ると、叔母は意を決したように大叔父の呼吸器を外した。
「大叔父さん、ご無沙汰……しておりました」
呼吸器を外された大叔父の前に座りそう話しかけると、老人は目を潤ませながら「あなたぁ……生きていた……ですねぇ」と安堵の表情を浮かべた。
「……え?」
男は顔を上げて親族たちを見たが、彼らも何か分からないようだった。
「あの……義仁おじさん? どうしたの? 洋次郎だけど?」
男が言っていることが分かっていないらしく、老人は一筋の涙を流し頷き始めた。
「すみませんでした……あなた……すみませんでした……。」
今際のきわの老人に誰かと間違えられ、さらには謝罪されるといういたたまれなさに、男は申し訳なさそうに親族から目をそらした。
「義仁おじさん、違うよ……。」
「私は……あなたを……助けられなかった……。」
「え?」
「あなたを……見殺しに……してしまった」
「……おじさん?」
何か大叔父は大変な告白をしようとしているのかもしれない。けれどもうこれ以上は無理だ。完全に自分を誰かと勘違いしている。男は呼吸器を再び付けるよう願おうと、親族の方を見た。しかし、親族たちは男のように困惑するではなく、男を気の毒そうに見つめていた。まるで、痛ましい事件の被害者を見るかのように。
「あの……? がぁっ!」
突然男の肩、例の痣のある部分を凄まじい痛みが襲った。痛みのあまり男は椅子から転げ落ち跪いて呻くが、そばにいるはずの母は何も言わない。ベッドに手をかけ何とか立ち上がり病室の親族を見渡すが、やはり彼らは気まずく、気の毒そうに男を見ているだけだ。男は事態が把握できずに大叔父を見る。
「助けを……呼ぼうとしたんです。でも……誰も来てくれなかった。何十年も……あなたのことばかりが……気がかりでした」
男は自分でも分からなかったが、大叔父に応えるよう哀願するような瞳を彼に向けていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。」
人違いだった。だが、男の感情は別の何かに支配されていた。大叔父に対し、遠い記憶から這い出たような悲しみと憎しみがあった。口からは今まさに大叔父を責め立てる言葉が出ようとさえしている。
自分の頬にも涙が伝おうとしたその時、肩の痛みに加えて頭部に激しい衝撃を受け、男は気を失いそのまま倒れてしまった。
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