震災

   ※


 土曜日の早朝、洋次郎は布団から跳ね起き、急かされるように窓から外を見た。外では昨夜からの、横殴りに近い豪雨が降り続いていた。町は水浸しだったが、昨夜からの南風で空気は不快に体にまとわりついてきていた。

「まだか……。」

 洋次郎は尻もちをつき胸をなでおろし、そして自分自身の言葉に困惑した。

「……まだ?」

 いったい自分は何を言っているんだろう? 洋次郎は顎に手を当て考える。だが、答えは一向に出てこなかった。ただ、言い知れない不安感だけが先だっていた。

 顔でも洗ってこよう、そう思い洋次郎は部屋を出て洗面所を目指す。階段を下りて廊下沿いの洗面所に入る前、廊下の奥ある部屋からは、日本語ではない言葉で怒鳴りあう声がしていた。おそらく李さんだろう。喧嘩だろうか? いや、彼らは顔立ちこそは日本人に近いが、感情の出し方が激しいのだ。少し昂ぶった会話をしているだけだろう。洋次郎はそう自分を納得させ、洗面所の桶で顔を洗った。

 洗面所を出ると、足音を立てながら廊下の向こうから見慣れない労働者風の男が肩をいからせ歩いてきた。その男と廊下で鉢合わせる形となったが、とっさの行動がとれないゆえの「どん亀」である。お互いにお見合いするように立ち合い、先に苛立ちを露わにした労働者風の男は洋次郎の分からない言葉で怒鳴ったが、それでも洋次郎は首を傾げるだけだった。そんな洋次郎に男は根負けして道を譲る形で廊下を通り抜けて行った。高い上背に切れ長の目に絶壁頭、巷でよく言われる朝鮮人の特徴だが、彼には高い上背という一つしか当てはまらなかった。

 廊下の先にある玄関をぼおっと見つめる洋次郎に、後ろから少し訛りのある言葉で李が話しかける。

「ごめんね洋次郎さん。彼が失礼な事を言ってしまった」

「……失礼なことを言ったのかい?」

 李は首を振って笑った。

「ずいぶんと大きな声だったが、彼はもしかして怒っていたのかな?」と、洋次郎が訊ねる。

 李は困ったように考えてから言う。

「彼は日本語が話せない。工場で働いているけれど、いやなことがあっても通じないから、多くを語る事が出来ないんです。なので私に、いろいろと……。」

「あ~なるほど、愚痴聞きの役回りなわけだ」

 「愚痴聞き」の意味が解らず、李はやや困ったそぶりを見せた。首を傾け、微笑んで少し眉間にしわを寄せる。この動作は、ここでの生活が長い彼の処世術の一つだった。この国の人間に、不快感を与えずに言葉が通じていない事を伝えられるという。

「あ~何というかな……。」

 洋次郎は、「愚痴聞き」を何と言いかえるべきか迷った。

 彼がそうこうしていると、振り子時計が鳴った。7時を伝える音だった。洋次郎は、はっと時計の方向を見た。そして釘付けになって時計の示す時間を見る。

「カッコウに行く時間ですね?」

 慣れてきたとは言え、朝鮮にはない濁音で始まる単語が苦手な李だった。だが洋次郎は遅刻の心配をしたわけではなかった。昨日と同じく、洋次郎は十二時の表示に胸騒ぎを覚えながら見続けていた。

「……洋次郎さん?」

「……あと、五時間もない」

 李は、また困ったように洋次郎を見た。しかし先ほどとは違い、作法というよりも普通に困惑したものだった。

「じゃあ洋次郎さん、私は仕事ですので……。」

 そう李に言われ、洋次郎は「……ああ、そうか、そうだね。仕事、がんばってくれ」と我に返った。

 李は会釈して自室に戻ったが、洋次郎はそれからしばらくしても柱時計を見続けた。だが、さすがに胸騒ぎ程度で専門学校を休むわけにはいかず、洋次郎は身支度を整え横浜市内にある自身の通う学校へと向かった。

 玄関で下駄を履き替えようとすると、つまらなそうに土間の前で家主の子供が頬杖をついて外を見ていた。

「どうしたんだいヨシ坊?」

「雨、ずっと降ってるんだ。つまんないよ」

 洋次郎も子供と一緒に外を見た。残暑の熱気を含んだぬるま湯のような激しい雨だった。それが地面にぶつかり、噴水のように下から上へと泥水を巻き上げている。

「大丈夫、お昼までには止むよ」

「……どうして分かるの?」

「え? いや、何となく……かな」

 外を見続ける幼い少年の陰鬱な横顔を何度も見ては、洋次郎は何かを伝えなければと思う。

「……ヨシ坊」

「なぁに?」と、子供は外を眺めたまま言う。

「……お昼前には晴れるから、その頃には外に出ていないといけないよ」

 子供は不思議そうな顔をして洋次郎を見る。

「なんで?」

「家の中は……危ないんだよ」

「だから、なんで?」

 そう言われ、洋次郎は困ったように腕を組んで考え込んだ。

「……何となく、だな」

 少年はなんだよぉそれ、とうんざりしたように言った。

「と、とにかくだよ。外には出ておくように」

「……変なの」

 洋次郎は、分かったね? と念を押すように言うと、下駄を履いて外に出た。

 外の町並みはいつもと変わりないのに、洋次郎は周囲を不審者のように見渡しながら歩き続けた。そして、まっすぐに立っている電柱や、堂々と構えた乾物屋の看板を見る度に、なぜかやりきれないほどに悲しい気分になるのだった。その情動から、往来を行きかう人々の顔が愛おしくなり、思わず抱き着きたくなりそうにさえなっていた。そんな様の洋次郎を、傘をさした浴衣姿の女が物狂いを避ける様に道を譲り、雨で跳ね返った泥で汚れないよう法被に褌姿という大工姿の中年男が邪魔だと叱り飛ばした。

 専門学校へ登校しても、洋次郎の感情の糸はもつれたままだった。洋次郎が下宿先の少年に言ったように、陰鬱な豪雨は10時頃には止み、うって変わって強烈な太陽と、陽の光で蒸発した地面からの湿気で不快な蒸し暑さで、街も学校も、そして教室も覆われていた。しかし、それでも洋次郎は不快さも授業も上の空で、休み時間には建物の造りばかりを気にしていた。

「どうした洋次郎?」

 そんな彼の異変に気付いた加藤が、洋次郎に話しかける。

「加藤か……。」

「……いや、どうしたんだって?」

「加藤……。」

「何だ?」

 洋次郎は何かを伝えなければいけないと口を動かそうとするが、胸元の焦燥感は喉元で言葉にならない。

「……今日は、早引きしないか?」と、何とか洋次郎は言葉にした。

 加藤は目を見開いて洋次郎を凝視したあと、カッと笑顔になった。

「珍しいじゃないか。どん亀がサボりときたか」

 そう言いながら加藤は洋次郎の胸を拳で小突く。

「あ、そうじゃなくて、その……。」

「だがな、今日は土曜日だぞ? 十二時半には授業は終わる。それから……。」

「そそそ、それじゃダメなんだよ!」

 突然の洋次郎の声に、同じ教室の学ラン姿の学生たちが一斉に二人を見る。

 加藤は慌てて顔を近づけ洋次郎に言う。

「一体どうしたんだ?」

「いや、何ていうのかかな……。」

「おいおい、用もないのに早退なんて俺でもやらんぜ?」

 加藤は洋次郎の肩を腕を回した。

「そうだ、昼になったら前に言ってた伊勢佐木町の洋食屋に行こう。で、そこでライスカレーと洒落こもうぜ。かなり美味いらしいぞ」

 洋次郎がその肩に回された腕を外す。

「カレーなら、き昨日食べたよ」

「お前、昨日ライスカレー食ったのか? つれない奴だなぁ、一人でか?」

「え?」

 洋次郎は真顔で加藤を見つめる。

「いや、だから昨日ライスカレー食べたんだろ? どうだったんだ」

「どうって……。」

 今まさに口についた言葉だったが、洋次郎はなぜそんなことを言ったのか分からなかった。そもそも、彼はライスカレーを食べたことがなかった。

「……えっと、その……いや食べたことはないな、すまん」

 加藤は呆れた様子から一転、本気で心配そうな顔で洋次郎を見るようになった。

「お前本当にまずいんじゃないか? 医者に診てもらったほうがいいかもしれんぞ?」

「別に……体調が悪いというわけじゃ……。」

 二人が話していると授業開始のチャイムが鳴った。

「どうしてもというのなら無理をするな。医務室に行って早退しろよ?」

「お前は……?」

「俺は別にどこも悪くない。一人じゃ心細いというわけじゃあるまい」

「そういうわけじゃ……。」

 不安気な洋次郎をよそに、加藤は自分の机に着いた。

 教室の時計は十一時十分を指していた。洋次郎は息を飲んでその時刻を見る。

 授業が始まるも、一向に授業が手につかない。手につかないどころかまるで聞こえない。訝しんだ教師に声をかけられるが、自分へ向けられる声も目の前の光景も、別の世界の出来事にしか感じられなかった。ただ、時計が時間を刻む様だけを、針が進むごとに身を切られるような感覚で見つめ続けていた。

 そして時計の針が正午を示す一分前、洋次郎が大きめの声で呟いた。

「揺れてる……。」 

 それに気づいた隣の席の吉岡も、天井を見上げて「本当だ……。」と言い、そしてそれに呼応して、他のクラスメイトたちも口々に「揺れてる」、「地震だ」と言い合い始めた。

 数学教員の西尾も「揺れてるなぁ……。」と、立っているために生徒たちよりも遅れて気づいたが、「まぁ珍しくもない。直ぐに収まるだろう」と、生徒たちをなだめようとした。

 だが、そう言い終わる前に洋次郎がやにわに立ち上がった。

「じじ、じ地震だっ、みんな、ひぃひ避難しろ!」

 どん亀の吃音混じりの突然の叫び。揺れる席に座る周囲は呆気にとられ洋次郎を見た。

「……保坂、落ち着け。しばらくすれば収ま……。」

 そう言いかけていた西尾さえも、立っているだけで大きくなっていることを感じ始め、口をつぐんだ。

 地震は一向に収まる気配はない。それどころかさらに大きく、路面電車の中くらいに強くなり始めていた。

「おい、まずくないか?」とクラスの誰かが言う。

 流石にただの地震ではないと思った西尾が言う。

「よおしお前たち、直ぐに一旦机の中に入れ。それから……。」

 そう西尾が言いかけた次の瞬間、床が盛り上がったかと思うと体が浮かび上がり、体勢を崩した彼は耐えられずに膝をついた。これはただ事ではない、彼は生徒たちに何か指示を飛ばそうと顔を上げたが、さらに次の瞬間、教室内は大きく左右に揺れ、机も椅子も生徒たちも、まるで子供がふざけて揺さぶった虫かごの中にいるかのように、不自然な力の差用で真横に吹き飛び、窓ガラスは発射でもされたかの如く窓枠からはじけ飛んだ。

 クラス総勢四十名、来年には成人を控えた男たちだった。だが、彼らは情けない悲鳴を上げて床に倒れ転がり、自然の力の猛威に翻弄された。

 いつか収まる、だがそう願えば願うほど、反比例して揺れは強くなる。

「落ち着、いや、外にっ」

 西尾は何とかクラスをまとめようとするも、自身も翻弄されそれどころではなかった。

 立てないどころではない、座ることはおろか寝転がることすらもできない。最早それは、彼らが知っている地面ではなかった。

 洋次郎の耳に、机や文具、学校の備品が倒れる音に加えて木造の建物の軋む音が聞こえたその時、彼の体は重力を失った。建物が崩壊し、三階の教室にいた彼らは一階まで叩き落とされたのである。机の下に潜るなど意味がなかった。床は落ち、彼らの上には建物の総重量が伸し掛ってきたのだから。

 洋次郎は三階から飛び降りたような衝撃を感じたあと、鈍い唸り声のような音を聞いたかと思うと、頭にも追い打ちの衝撃を受け気を失った。

 それは屋根が倒壊し、頭上に落ちてくる音だった。

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