卒論

      ※


 次の日、講義の日程はすべて終了していたが、調べ物にはやはり大学にいるのが一番なので、男は今日も大学の図書館で調べものの続きをしていた。二日酔いのせいか、ブラインドタッチがいくつか仕損じるので、作成よりも資料の精読を重点を置く。

 論文の大まかな構成と骨子を作成するため、ノートに幾度も要点を書いては丸で囲み、さらにそれをペンで引っ掻く。普段ならば浮かんでは消えていくアイディアに頭を悩ませるのだが、今回はスムーズに構想が固まりつつあった。

 一般的な知識として、関東大震災時に朝鮮人がデマで殺されたという事件の存在は知っていたものの、調べていくとそれに加え、訛りの強い地方出身者や聾唖者、挙げ句の果てには喧嘩相手に朝鮮人だとでっち上げられリンチにあったという事例もあった。男はそんな当時の証言を読んで背筋を凍らせる。もし仮に、自分のような吃音の癖がある人間も、当時のあの場所にいたならば殺されていたのかもしれないという恐怖が湧いてきたからだ。

 たまったもんじゃないな……。男は一段落したように伸びをすると、気分転換にスマートフォンを操作し始めた。昨晩、兄が食事の内容をフェイスブックに上げると言っていたことを思い出してページを開くと、トップ画面のタイムラインにはその予告通り、二人で食べた料理と酒の写真がアップされていた。こういうのをフードポルノというんだっけ、男はそう思いながら画面を下にスクロールさせると、その下には海外青年協力隊で活動する大学のOBの投稿が上がっていた。それはシリアのアレッポでの空爆の惨状を撮影した動画のリンクで、瓦礫の中から血と砂埃で汚れた子供が救出されているという、サムネイルだけを見ても目を覆いたくなるようなものだった。

 画面の中、数センチも違わない距離でその二つが並んでいた。

 男はコニャックと空爆につけられた「いいね!」の数を眺めて画面を閉じた。いずれも、指先一つの行為だった。

「おお、寒河江。まだテスト終わってないの?」

 上から誰かに声をかけられたので顔を上げる。パーテーションの上から同じゼミの間野が顔をのぞかせていた。一、二年の頃まではネイティブアメリカンスタイルのファッションを好み、自分探しと自己演出に熱心だった同期だったが、今では随分と落ち着き、会社説明会の参加や企業インターンに熱心になっていた。

「……寒河江?」と、間野は朗らかな声から一転、伺うように男を見る。

「あ、ああ間野か、どうしたんだ?」

「お前こそどうしたの、ぼおっとして」

「いや、何か……。」

 自分のことを呼ばれているのにも関わらず、男にはそう感じられなかった。

「テスト疲れか? ……それよりさぁ聞いた? 小林さん野村総研に決まったんだって」

「そりゃすごい。確か加藤さんも決まったってな、どこだっけ、電通?」

 間野は麦のような色合いのサマーニット帽の下で、いやらしい笑いを浮かべて言う。

「違う違う、電通「系」だよ。つまんない見栄をはるね、電通とか言っちゃうところ」

「確かにそれだとずいぶん違うな」

「で、お前は今何やってんの? エントリーシート?」

「違う、卒論の調べ物」

「もうか? 早いなぁ。……何調べてんの?」 

 昨日からの周囲の反応を気にしながら男は言う。

「関東大震災時の朝鮮人虐殺に関して……だよ」

「へぇ、んでどうしてその題材を?」

 しかし、間野からはその異変を感じることはなかった。

「良かったよ、俺がこの話をするとみんなが妙な反応し出すんだ」

「みんなって?」

「そりゃあ山崎先生とか兄貴とか……あと真由子な」

「真由子って?」と、不思議そうに間野が訊く。

「俺の彼女だよ」

「彼女って、お前いたの?」

「いや、あったことあるだろ? あれ、紹介してなかったっけ?」

「い~や知らないなぁ」

「そっか、あれだよ……。」

 途中まで言いかけ男は言葉に詰まった。

「……どうした?」

「えっと、ほら……あれだ、その……サークルの後輩」

「大丈夫かよ? 健忘症始まったか?」と、彼女のことを思い出すのに手間取った男に、間野は呆れ気味に言った。

「あんまりサークルに行ってないから忘れてたんだよ」

「そっかお大事にな。そうそう、で、どうしてそのテーマなわけ?」

「あ~それな。……何となくだよ」

「お前、何となくって……。」

「いや、そういうもんだろ?」男は肩をすくめた。「間野はさぁ、この事件でどういうこと思い浮かべる?」

「あ~、朝鮮人が井戸に毒入れたって噂が広まって人が殺されたってくらいかな」そう言って、間野は男がパソコンの前に積み上げている資料を見た。「あれって誰がそんな噂流したの?」

「大体の発生源の地域が分かってるだけ。警察とか政府筋が流したって説もあるんだけど、震災初日の夜から殺された人たちがいるっていうくらいだから、意図的なものじゃないんじゃないかな。それにこんだけ時間が経ってるんだし、真相は藪の中だよ」

「ふ~ん、じゃどういう感じでやってくわけ?」

「まぁ、他のジェノサイドと比較しながらやろうって感じかなぁ……。ニューオリンズの事件知ってる?」

「いんや。でもニューオリンズってなら、カトリーヌ関連かなにか?」

「そうそれ、あの時も被災地でデマが広がって、自警団が避難している黒人を射殺するって事件が起きてるんだよ」

「黒人じゃなくてアフリカンアメリカンな」と、間野がたしなめるように笑った。

「お前みたいな奴がいるからトランプみたいなのが当選するんだよ」

「まぁまぁ、で?」

「こんだけ文明が進んだアメリカでも同じことが起こるっていうのを鑑みるに、俺はこういう事件って国とか時代とか関係ない、もっと根源的なところからくるもんなんじゃないかなって思うわけよ。日常的な不安感や憎悪なんか」

「ヨーロッパでも反ユダヤ主義がくすぶってたっていうもんな。いきなりドイツでホロコーストが起こったわけじゃなくって」

「それだよ。その当時も数年前の三・一独立運動が朝鮮で起こってから、新聞が『不逞朝鮮人』ってワード使って朝鮮人の犯罪を取り上げて不安を煽ってたらしくって。んでもって第一次世界大戦後の好景気が下火になって、安い労働力が必要ってことで海の向こうから見ず知らずの、日本とは違う文化を持つ外国人がわんさか増えたんだ。当時の日本の市井に国際意識なんかあるわけがないのに。それにその頃は社会主義運動も盛んだったからさ。今じゃ想像つかないけど、あの頃の社会主義ってガチで世界を変えちゃうって雰囲気だったらしいのよ。だから日本に来た朝鮮人の中にはもしかしたら共産主義者もいるかもしれないとかもあって。……下地は十分なわけ」

 説明を聞き終わった間野が、やや斜め上を見て考える。

「ふ~ん、いいんじゃない?」

「で、地震が起こって不安が爆発。官憲が下からのデマを信じちゃう。今より通信技術が未発達だからいい不確かな情報が広まる。上が動けば下もなるほどデマは本当だったんだと思う。そして……収拾がつかなくなる」

 男は、まるで当時を見てきたかのようにテンポ良く講釈を締めくくった。

「……なるほど」

「豊川信用金庫事件形式ね」

「何だそれ?」

「ググれ」

 間野が、悔しそうに軽く口を歪めて笑った。

「こういう風に展開して、他の時代の他の国のケースに当てはめていこうかってね」と、得意げに男は言った。

「随分と風呂敷を広げるな」

「ぶっちゃけ……」

 男は顔を上げて口角を釣り上げた。

「そうやって抽象的に立論しちゃえば応用が広く効くっていう打算なんだがね」

「結論ありきかよ」

「そういうなよ、もちろん反証だって集めるし。そうやってブラッシュアップしていけばそれなりのもんにはなるだろ」

「まぁ悪くはなさそうだな」

「パクんなよ」

「誰がっ」

 笑ったように怒ってから、思い出したように間野が言う。

「そういや参考になるかどうか分からないけど、YouTubeでヘイトスピーチの動画とかも上がってるから参考にすればいいんじゃない?」

「新大久保だろ? フィールドワークで行ってみるのもいいよな。あんまりああいうのに触れてっと精神病みそうだけど」

「程々にしとけよ」と、笑いながら間野が言う。「話し変わるけどさぁ、夏休みのゼミ合宿行く? 合宿っても加藤さんとこの別荘で自主合宿だけどさ。ゼミの女の子たちもかなり行くってよ」

「ああ、どうしようかな……。」

 そう言われても、既に彼女の持ちの男には魅力的な響きではなかった。

「なんだったら彼女も連れてくればいいじゃん」

「いいのかよ?」

「いいっしょ? 別に正式な合宿じゃないし、かこつけて皆で海で遊ぶだけだし」

「そっか……。」

 ならばそれも悪くない。男は去年の夏に海で見た彼女の胸を、顔よりも早く具体的に思い浮かべた。

「まぁ……考えとくわ」

「そっか……じゃあ卒論頑張れよ」

「おぅ」

 間野の背中を見送ると、男は間野の言ったようにYouTubeを開いて検索をしてみた。上がっていたのは京都市の朝鮮学校前で撮られた動画で、男たちが「スパイの子!」「ゴキブリ!」と叫んでいるものだった。

 男のこめかみがぎりりと痛んだ。男は動画を止めると静かに呼吸をする。

 これでもう十分、最後まで観て彼らの感情までも引き受ける必要はない。自分に必要なのはこういうことがあったという事実の確認だ、男はその動画を消して別の動画をクリックした。

 次は新大久保のコリアンタウンで撮られた動画だった。大勢の男たちが大挙し「朝鮮人を焼き殺せ」と絶叫する様子が映し出されていた。

 先程と同じように男のこめかみと、さらに肩も痛み始めた。まるで動画の中に自分がいて、男たちの暴言を直に受けている、そんな感覚さえあった。冷房が効きすぎているフロアだというのにじっとりと汗をかき、背中にはシャツがへばりついていた。

 間野の言うように、長時間見ているのは精神衛生上良くなさそうだったので、男はヘッドホンを外し動画の様子だけを眺めることにした。

 ディスプレイの中の喧騒を眺めながら男は思う、なぜ自分は間野にああいう言い方をしたのだろうかと。もちろん、デマの発生源を突き止めるのが難しいから仕方のない結論だったものの、それに到達するのが自分でも早い気がする。結論ありきで調べるのは研究の姿勢として褒められるものではない。だが、男にはまるでそれを既に見てきたどころか、体験さえしたような感じがしていた。PCのディスプレの中で憎悪を振りまく群衆に覚えるのは既視感だった。

 メンタルがやられそうだな……。男は気持ちの晴れるような、去年の夏の日の光景、真由子の姿をより強く思い出そうと、再びウィンドウをSNSに切り替えた。そこには、去年サークルの仲間たちと撮った湘南の海での写真がグループのアルバムに保存されていたはずだった。男は彼女になる前の真由子の、今にも紐を引き千切らんばかりに胸が強調された白のビキニ姿を求めてマウスで画面をスクロールさせる。自分はあれからなし崩しに彼女に籠絡されてしまった。彼女はそうやって男たちの注目を集め、それをリトマス紙にして落としやすい男とそうでない男を見分け、そして一番手頃な自分に標準を定めたのだ。すべてはアイツの計画通り、何か彼女の魅力を挙げるとすれば、その演技的な態度を実行に移せる胆力だ。胸ばかりが目に行くが、そういう事が出来るのは、女とは言わず男にだって中々にいないのだから。けれど彼がどう真由子を評価しようとも、その魅力は周囲には伝わりづらく、結局彼が最後に言えるのは、「お前たちも俺と同じ身になってみれば分かる」ということだけだった。

 真由子の水着姿の画像を無心に漁っていたが、途中で異変に気付いた。真由子の水着どころか、真由子の写真が見当たらない。見当たらないのは真由子の写真だけではなかった。自分の写真もまた見当たらない。男は少し前のめりになって画面を見つめる。集合写真にも自分と真由子の姿はなく、それどころか数人に見覚えのない人間が混じっている。人数の多いサークルではないから、知らない人間がいるということはなかったはずなのだが。

 男は日付を確認する。撮影日に「9月1日」とある。日付は間違いない。写真にしても、見覚えのあるものだってある。同期の坂本が尻丸出しの全裸で飛び上がり脚で輪を作り、その股間の隙間から海に腰までつかっている後輩の大倉がピースサインをしている。気分が高揚し過ぎて自分達でも訳の分からない事をやっている写真だ。そして自分が大倉に後ろから抱きついてバックドロップで投げ飛ばしている写真が……。男は呆然と写真を見た。大倉を抱きかかえて反り投げているのは写自分ではなく、見ず知らずの人間だった。

「……え?」

 男は他の学生に聞かれるかも知れないのに、普通に声を出して驚いた。写真が入れ替わったのだろうか? それとも自分が写っているものは削除されてしまったのか? デモの映像で心が荒んだことも忘れ、男は延々とアップされた写真の数々を眺め続けた。

 何度も確認しても、自分と真由子の写真はない。男は天井を見上げてはディスプレイを見直す。一体どういうことだろうか、だがサークルの友人にメールを送ろうにも、自分と彼女の写真を消したのかなどとは中々訊きづらかった。男は頭の中で乱れた糸をほどくことを諦め、ウィンドウを消してパソコンの電源を落とした。


 家に帰ると、ちょうど男の母親が台所で夕飯の準備をしていた。作っているのはカレーかシチューか肉じゃがか、この段階ではまだ区別がつかない匂いだ。

 男の帰宅に気づいて母が言う。

「あら、洋次郎帰ってたの? てっきり今日はバイトだと思ってた。夏休みだったでしょ?」

「ああ、大学で調べ物してたんだ」と、台所で料理をしている母の後ろ姿を見ながら言う。

「そうそう、横浜の大叔父さん、とうとうらしいわ。アンタ最後に会っとく?」

 男の大叔父は今年で百一歳になる長寿で、去年の百歳の誕生日の際には市から表彰されていたので、近所ではちょっとした有名人だった。

「お年玉とかもらってたからね、そこそこ可愛がってもらってたでしょ」

「あぁまぁ……行こうかね。他は誰か行くの?」

「わたしの叔父さんだから、お父さんは面識があまりないからねぇ……。」

「……兄貴には声かけてるの?」

「兄貴? ……ああ、はいはい。お兄ちゃんは仕事変わったばかりで忙しいらしいからね……。」

 「兄貴」という言葉に引っかかっていた母の様子が気になったものの、ふと昨日の兄との会話を思い出した。

「そういえばさ、昨日兄貴と飲んだんだけど……。」

「え? ……ああ、はいはい」

 なぜそこに引っかかるのだろう。

「で、そん時に卒論の話ししたらさ、なんか嫌な顔されちゃって……。」

 母は、ああそう? と料理を続けたまま興味なさそうに返事をする。

「それでさ、気になったんだけど……ウチの家系って、アレって事ある?」

「……アレって?」

「ほら……ルーツが外国人だとか」

 母は振り向いて言う。

「何? 今さらハーフが良かったとか言ってんの? そんな夢みる年頃?」

「違うよ。たまにいるじゃない……お隣の国の二世三世って」

「ああ、どうしたの急に?」

「何となく、兄貴の反応見てもしかしたらって思って……で、違うの?」

「ウチに関しては違うわよ」

「そう……父さんの方とかは?」

「多分違う」

「多分?」

「そう、ていうのも私が昔付き合ってた人がね……。」

「うん」

「部落出身の人だったのよ。それでおじいちゃん達に結婚を猛反対されてね……。」

「へぇ……。」

「もしお父さんの家がそういう家系だったら、多分お父さんの時も両親が反対したはずね」

「そう、なんだ……。」

 それ以上は聞けなかった。一世代上だというだけなのに、被差別部落という昔話のことのように思っていた出来事が身近で起こっていたということ、今の生活をひと皮向いただけで露わになった鋭い歴史の暗部の谷底に、足を滑らせて落ちていくような感覚になっていた。

 では違うのはそれでいいとして、なぜ兄はあんな反応を示したのか。それはそれで気がかりなことだった。同じ日本人の恥部を晒されたく無いというわけでもないだろう。少なくとも男の知る限り、兄はそこまで偏屈な愛国心は持ち合わせていないはずだ。

 しかしその反応は兄に限ったことではない。山崎も真由子も同じだ。男はスマートフォンをポケットから取り出し真由子のTwitterを探した。つぶやき魔の彼女の今日は見ていないことを思い出したからだ。だが、いくらフォロワーやツイートをさかのぼっても彼女が出てこない。もしかしたらTwitterをやめたのかもしれない、まあそういうこともあるだろうと、男はスマートフォンを閉じた。

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