洋次郎
※
朝起きると、洋次郎は着の身着のままだったことに気づいた。昨晩、幼馴染の結婚祝いに飲みすぎたせいかもしれない。お前のような奴が俺より先に妻をもらうなんてけしからんと、安いどぶろくで絡み酒をして、意識をあいまいにしながら友人の肩を借り、下宿先で飛び込むように倒れたにもかかわらず、何か心地よい夢を見ていたような気がする。
体を起こし窓の外をしばらくの間眺めるも、違和感がどうも拭えない。まるで夢の続きを見ているようだった。何かが喉の奥から出てきそうなのに、彼にはそれが何か分からなかった。
数分ほうけた後、汗で張り付いたシャツがようやく洋次郎に残暑の不快感を思い出させた。布団の上で胸元を掻きむしった後、もしやと思い布団をめくり軽く手で叩くようになぞり、南京虫がいないか確認する。多分、汗で蒸れた痒みのせいなのだろうが油断はならない。
南京虫がいないことを確認すると、洋次郎は起き上がり部屋を見渡した。いつもと変わりのない六畳一間だ。布団の周りの日に焼けた畳みも、大家からもらったひびの入ったちゃぶ台も、すべて見慣れたものだったが、やはり違和感が残る。まるで、ここが自分の部屋ではないようだった。
階段が軋む音がした。誰かが上ってくる。この足跡は加藤だ。あいつはこの下宿の人間ではないから、階段を上るときには何の遠慮もなくこうした足音を立てるのだ。洋次郎の予想通り、階段と同じように遠慮なしに襖が開くと、流行りの洋シャツに袴というバンカラ姿の加藤が顔を出した。
「どうしたんだよ、洋次郎。こんな時間まで寝てたのか? 目が腐って落ちてしまうぞ」
「……ああ」
しばらく加藤と洋次郎は顔を見合わせた。
「……本当にどうしたんだよ? 二日酔いか? らしくないな?」
「いや……。」
洋次郎は頭を掻いて大きくため息をする。
「ちょっとな、変な夢を見ていた」
「夢? ははぁ、お前もあいつが先に結婚したからって内心焦って変な夢でもみたんだな? やめとけやめとけ」
「やめとけって、何がだ?」
「どうせ、最近お気入りのあのカフェの給仕に胸の内を伝えようってんだろう? ああいう手合いはこちらが財布代わりにならないと分かるや、すぐに手のひらを返すんだぜ」
「そんなんじゃあないし、入れ込んでもないよ……。ところで今日はどうした?」
「いやぁ、昨日の今日だ。独り身も飽きてきたんでね、登校がてらいい女でも見つけようかと」
「お前こそ焦ってるんじゃないのか」
そう洋次郎が言うと、加藤は言うなよぉと悪びれない笑いを浮かべる。どうりでいつもより身だしなみに気合が入っているわけだ。洋次郎は苦笑する。
洋次郎と加藤は横浜の商業専門学校の同期だった。何事にも慎重な洋次郎と思いつきで行動する加藤は、相反する性格ながらも常に一緒に行動を共にしていて、周囲からはウサギとカメのようだということで、二人合わせて“もしカメ”と揶揄されていた。
「ところで、さっき部屋にくる前に厠によったんだが、やっぱりここ最近増えたよな」と、加藤が言う。
「増えたって?」
「あれだよ、あれ、鮮人。挨拶したのに言葉が通じなかったぞ」
「変だな? 李さんなら日本語は通じるはずだが」
「李なら俺も知ってる。あいつじゃなかった」
「そうか」
では彼の友人なのだろうと、洋次郎は言った。
最近は加藤の言うように、工場地帯には安い賃金で雇われた中国人、朝鮮人が出稼ぎのために大挙していた。中には密航という危険を冒してまで渡航する者もいるくらいだ。しかし彼らの中には全く日本語が全く話せない者もいるので生活には不安があり、この国での生活が長く日本語が話せる李のような同胞は彼らにとっては頼れる先輩であるのだろう。洋次郎はその程度と大事に思わなかったが、加藤の様子はそうではないようだった。
「この下宿、大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「おいおい、新聞読まないのかよ。どこも報じてるぞ。ほれっ」
加藤はそう言うと、新聞を洋次郎の方へ放り投げた。洋次郎は布団に落ちたそれを手に取ると、記事ではなく新聞の日付を目にする。日付には、大正二十三年八月三十一日とあった。
「今日は八月三十一日か……。」
「そうだな」
「ということは……明日は九月一日か……。」
「……何当たり前のこと言ってるんだ? そこじゃあないだろう、記事を見ろよ」
その記事は、外務省襲撃事件で先日検挙された朝鮮人の家宅を捜索したところ、数個の爆弾と陰謀を計画した書類が発見されたという内容のものだった。
「そりゃ知らないことはないが、李さんは単なる飴売りだぞ? それに、この狭い下宿に爆弾なんて隠せないだろう」
洋次郎は新聞を掲げながら言った。工事の仕事が無くなった後、飴売りに転身した朝鮮人の姿は全国でみられるほどの光景であり、特に珍しいものではなかった。彼らは箱のついた天秤を担いで歩き、簡単な芸をしながら客引きをして、子供たちに朝鮮人参が原材料だという飴を販売していたのである。故郷から空手でやってくる彼ら朝鮮人にとって、飴売りは先行投資が少ない職業の一つだった。
「お前、そんなんだからどん亀って呼ばれるんだよ。李は信頼できるかもしれないが、アイツの友人はどうだ? 友人の知人は? 想像できないのか? 正体の分からない鮮人がうようよ増えやがる。しかも向こうでしっかり赤化してるっておまけつきでな」
「そりゃあ、言いたいことは分からないでもないが……。」
「日本語話さずにコソコソしてる奴らがるってことは、そりゃあなにか企んでるに違いなってことだろう」
「日本語話せても、企むやつは企むよ」
「これだもんな」
呆れる加藤を気にせず、洋次郎は学校へ行く準備を始めた。といっても、下着姿から学ランを着込むだけだったのだが。しわくちゃで、しかも潮の吹いていそうな学ランを着ようとしている洋次郎を、加藤が再び呆れ気味に言う。
「おい、俺がさっき言ってたの聞いてたか?」
「朝鮮人が危ないって話か?」と、洋次郎が言う。
「その前だ」
「……カフェの給仕?」
困ったように言う洋次郎に加藤が深くため息をつく。
「もういい。本当に、もういい。考えようによっては、お前みたいなのと歩いていた方が俺が目立っていい男に見えるかもしれん」
「そりゃあ、良かったじゃないか」
洋次郎は学ランを着替え終えると加藤に訊く。
「で、何の話だ?」
「……もうお前は何も言うな」
「嘘だよ、女を引っ掛けるって話だろう? 協力するよ」
加藤はふん、と笑うと洋次郎より先に襖を開け部屋を出た。
ドタドタと音を立てる加藤と違い、静かに洋次郎が階段を下りると、廊下沿いにある厠から李が出てきた。
「洋次郎さん、おはよう」
もともと故郷でも勤勉だったのか、李は短い挨拶程度なら訛りをみせずに会話することができた。加えて、工場で働いている他の朝鮮人労働者と違い物売りである彼は日本人との会話が多いので、自ずと流ちょうな日本語が身についたのだろう。
「今来ているのは、故郷のお友達かい?」と、洋次郎が言う。
慣れているとはいえすぐに反応できずに、洋次郎が言ったことを少し考えて李が言う。
「私の、親戚です」
洋次郎はそうか、と微笑して頷いた。加藤は李には目をくれず、ただ洋次郎だけを見て頷いた。
李の前を去ってから、洋次郎が小声で言う。
「な、心配ないだろう?」
「親戚っていうのに少し考えてたぞ?」と、訝しんで加藤が言う。
「そりゃあ、親戚って言葉が出なかっただけだろう」
洋次郎はやれやれと首を振ってから、ふと廊下に掛けてある振り子時計を見た。
洋次郎の視線の先に気づいた加藤が言う。
「もうこんな時間だ。お前がのんびりしてるからだぞ。女引っ掛けるのは放課後といったところか」
時計の針が指し示していたのは七時半だった。だが洋次郎の視線は一番上の、十二時の表記に釘づけになっていた。
「……どうした?」と、加藤が訊ねる。
だが、洋次郎は何も応えない。
「おい、洋次郎っ」
加藤が肩を掴んで揺さぶって、ようやく洋次郎は我に返った。
「あ、ああ」
「……本当に、どうしたんだ?」
「やっぱり、ふ……二日酔いなのかな……。」と、洋次郎は目頭を抑えながら言う。
「お前なぁ、唯一取り柄だった酒が強いってのも無くなっちまったら、本当にそれこそどん亀じゃあないか」
「かか、関係ないだろ。酒が強いとか弱いとか、は」
「そうだがね」
そう流したものの、加藤は突然緊張した時に出る友人の吃音に異変を感じていた。
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