兄?
「また高そうなところを……。」
「せっかくの祝いの場なのにケチってどうすんだよ」
その晩、男は兄の転職祝いということで広尾のバーに連れられていた。美食家で健啖家、悪く言えば浪費家の兄が選ぶ店では、いつも田病のゼロの数を見間違えていないかと目を疑ってしまう。初めて彼女が出来たからと祝いに連れて行ってくれた店も、二人で四杯しか頼んでいないにも関わらず、一万を越えるようなところだったこともあり、学生の身としてはいつも足を踏み入れるだけで戦々恐々としなければならなかった。今日の店も、テーブルについて周りを見渡してもどこにも値段が書いていようなところだった。男は割り勘はやめてほしいなと思いながら、バーテンの後ろに並んでいる見慣れない酒瓶を眺めた。
「お久しぶり、今日はお二人で」
長い天然パーマを後ろで縛っているバーテンが、二人を見つけると笑顔で話しかけてきた。兄曰く、ここの店主は証券会社を辞めた後、欧州を飛び回って一からコネクションを作り、そんな彼のワインに対する情熱が現地の人々に評価されて、希少なワインを独自のルートで仕入れることに成功し、今ではワイン愛好家たちが彼にコレクションの相談をするほどなのだという。そこまで行くと純粋無垢なサクセスストーリーだ。だが、その続きで常連にはワインを使った投資話を持ち込んでいるという話を聞くと、せっかくの話が別の色合いの光をりを放つようになる。
「ええ。今日は良いのが入ったって店主がフェイスブックで書いてたからねぇ」
そして兄はどうやってか、愛好家の中でも知る人ぞ知るはずの店主と懇意になっていた。放蕩は放蕩を呼ぶというところだろうか。
「そうなんですよ。じゃあ今日はそれいきます?」
「また後で、洋次郎は最初どうする?」
兄にそう言われたものの、バーテンの後ろの酒瓶はどれも名も知らぬものばかりだった。
「じゃあ、ジントニックで」と、男は探るように言った。
「え、ジントニック? それでいいの?」と、兄が拍子抜けしたように言う。
こういう場で何を頼むのが正解か分からず、思いついたものを言ったものの答えを間違えたかのように言われたので、男は「この間ヘミングウェイ読んでたらジントニックが出てきたから、何となくそれを飲みたくなってたんだよ“世界で一番うまい飲み物だ”って」と、言い訳をした。
「ああそう。じゃあ俺はギムレットで」と、バーテンに合図する様に兄が言った。
バーテンはそれに微笑んで頭を下げると、酒瓶を取り出しカクテルを作り始めた。
「なにそっちはチャンドラー?」男は言った。
「え? ああ、『長き別れ』に出てきたな」
「ライムジュースじゃないとギムレットとはいえないんだとか。ここはどうなんだろ」
「確かメーカーも指定だったよな。流石にこの店といえどそれは無理だろうけど」
「それはないですねぇ」と、その二人の会話を聞いていたバーテンが申し訳なさそうに言う。
「いえ、さすがにそこまでは注文つけませんよ」と、兄があわてて取り繕う。
二人はお手拭きで手を拭うと、しばらくカウンターの後ろの棚にある本日入荷した酒の名が書かれた小さな黒板を眺めていた。
「そうそう、転職おめでとう兄貴」
「おお、ありがとう」
「同じ職種?」
「ああ、総合職。お前もそろそろ就活の時期じゃない?」と、男の兄が酒瓶から目を離して言う。
「そうだね。会社説明会とか行ってる奴らもチラホラと……。」
しかしこの話題は男にとって好ましいものではなかった。男には軽度の吃音の気があり、日常で目立つほどではないが、面接ほどの緊張する場ならば間違いなく上手くしゃべれなくなり、普段の自信に満ちた様子から一転、途端に挙動不審な喋り方になってしまうという問題があったからだ。
「どうするんだ?」
「う~ん、というか卒論のことも考えないといけないし、それが一段落してからかなぁ」
「卒論か、懐かしいな。何扱うの?」
「あ~関東大震災の時の朝鮮人虐殺の事に関してやろうと思ってる」
そう言って、男も酒瓶から目を離して兄を見た。そこにあったのは昼間と同じ顔だった。接続が悪い映像のように、一瞬だけ空間と時間が違えていた。
そしてやはり男の兄が訊ねる。
「……何で?」
「なぁ、昼間からそうなんだけど、どうして俺がこの事を話すと皆一様に同じ反応をするわけ?」
「いや……別に普通だろ? どうしてその主題を扱うのか訊くのは?」
「そりゃそうなんだけどさ……。何というか、あまり好意的ではないというか……。」
「そりゃあ、そんな題材扱おうってのに明るく頑張れよってことにはならないだろ」
もちろんそのとおりなのだが、男がこの話を人にふる度に感じるのは、それとは違う違和感だった。何というか、舞台の本番中に、自分が台詞を言い間違えたせいで共演者が役から素にかえっているみたいだった。
「お待たせしました。ギムレットとジントニックです」
バーテンがグラスを持ってきたので二人はそれを受け取った。
「じゃあ乾杯しよう。では気の利いたことを言ってくれ」と、兄が言う。
「新天地が幸あるように」と、グラスをかかげ男は言った。
「及第点だな」
兄が首を軽く振って言う。
「資本主義にケツを煽られ休むことも許されず彷徨い続ける哀れな豚にせめてもの慰めを」
「あざとい」
「俺の財布の負担が減ったことを祝して」
「まあそれでいいか」
二人はグラスを傾けそれを口に運んだ。
一口酒を飲んだ後、お通しの無花果のドライフルーツをかじりながら男が言う。
「もしかしてさ、ウチの家族の秘密に関係あるとか?」
「何がだ?」と兄が言う。
「いや、その主題に関していい顔しないってのは、実はウチがそういう家系なんじゃないかってこと」
「それはない……はずだ。少なくとも、俺の知ってる限り」
「そっか……。」
「……別に、まだ思いつきの段階だろ? 面倒くさそうだからやめとけよ。普通に就活するんだろ? 院に行くわけじゃあるまいし、そこそこに片付けられるようなことをやれよ、要領悪いぜ」
「……そんなこと言うんなら、兄貴は何やったんだよ」
「卒論?」
「そう」
「俺の学部は卒論なかった」
「んだよ……。」
バーテンが小皿を持って二人の前へ現れて言う。
「蝦夷鹿のカルパッチョです」
皿の上には薄くスライスされた赤身肉が数枚並んでいた。言われなければ牛肉などと特別はつかないだろう。
「へぇ蝦夷鹿かぁ」
男が箸でそれを取ろうとすると、兄が「ちょっと……」と、スマホを取り出しそれを撮り始めた。
「インスタァ?」
お預けを食らって少し、不満気味に語尾があがった。
「フェイスブック」
「あそ」
兄が数回写真を撮るとようやくおあずけから解放され、男は生肉を箸ですくい上げ口に運ぶ。数回咀嚼した後男は静かに頷いた。
「歯ざわりすげぇ、何か絹みたい。肉の歯ざわりで感動するって初めてだわ」
「ああ、蝦夷鹿初めだったか?」
兄が笑いながら自身も口に運んだ。
「昔食べたことあるけど、その時は鉄臭かった気がする」
「血抜きをちゃんとしてないとそうなるんだ」
男はたて続けに数枚食べたあと、カウンターに置いてある兄のスマホを見て言う。
「後で写真送って」
「Twitterにでも上げるのか?」
「そんなリア充アピールしないよ。彼女に送る」
「わかったわかった」
ジントニックのあとに男はスコッチウィスキーを、兄は話題に上がっていたワインを注文した。
酒に詳しくない男だが、スモーキーな香りとフルーツのような味わいのする酒に、ため息をつきながら「いい酒だな」と独り言つ。
「就職するんならこういうバーに行けるような所にしないとな。金じゃなくて場所の問題もな」
男の兄が酒に酔う男に言う。
「都内にいりゃあ、世界のいいもんが大体集まるんだから」
男はそうだねぇ、と言ってグラスのウィスキーを舐めるように飲んだ。
隣では、会話と身なりから察するに妻子持ちの会社役員と思しき五十代の男が、どういう関係か分からない、着飾っているので一般職とは思えないけれど、水商売にしては抑え目な三十代前半の女と、何とか今夜中にベッドインしようと奮闘を続けていた。中年男は事あるごとに女と距離を詰めては体に触れるが、女は適正に距離を保とうとそれをたしなめ、しかし中年男の自尊心を傷つけぬよう愛嬌のある仕草を怠ることはなかった。
その後、蝦夷鹿の希少部位の盛り合わせとコニャックとバーテンに勧められたワインを二杯飲んで四万円だったが、すべて兄が支払ったので、男は改めて転職がうまくいって良かったと思うのだった。
飲み終わり店を出ると、さっきの男が女に促されて独りでタクシーに乗っていた。
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