歪んで崩れる

鳥海勇嗣

奇妙な目覚め

 子供の頃から、朝起きると不安になることがあった。今、目の前で起こっていることは現実なのだろうか、もしかしたら自分はまだ眠っていて、新しい夢の続きを見ているんじゃないだろうかと。とても鮮明な夢を見たあと、ひどく不鮮明な現実にそう思うことがある。けれど夢の内容は忘れていて、ただ現実だけが不可思議で、ここじゃないどこかに体を置き忘れているような気になる。


 枕元でスマートフォンのアラームが鳴っていた。ああ、朝だ。けれど念の為に時間は二重にセットしてあるし、スヌーズだって三分おきに鳴る。そう思って二度寝した十数分後、男は汗まみれになって目覚めた。夏なのだから暑くてもおかしくはないはずなのだが、シャツに染み付いた汗は妙に冷たく、それどころか体が芯から冷えている。夏風邪でもひいたというのだろうか? しかし風邪気味だということではない。ベッドから起きると体が震えていた。寒いというわけではなく何か恐怖に見舞われたような感じだった。悪夢でも見たのだろうか。

 部屋を見渡すと違和感もあった。おかしい、いつもの自分の部屋なのに、他人のように白々しく見える。ベッドの横にある机の上のノートパソコン、洋服ダンス、青色のカーペット、そして天井の切れかけたまま取り換えていない蛍光灯、いつもと同じものがいつもと同じ場所にある。それなのに男には、ここが自分の部屋だとすぐに確信できなかった。頭がぼおっとして何か現実味に欠けているような、それこそまだ夢を見続けているような感じがしていた。喉の奥から何か言葉が出てこようとするが、それも何かがわからない。

 しかし、そんなことを考えていても仕方なかった。神奈川県内の大学に通う彼は、今は夏休み直前のテストとレポートの一斉攻勢の真っただ中、今日は二限から『地域政策論』のテストがあった。すぐにでもシャワーでも浴びて頭を起こさないといけない。

 階段を下りておぼろげな意識で浴室に向かうと、男は何故か鏡が気になった。自分の顔を鏡に近づけ確認するが、どうも自分の顔のはずなのにどこかがおかしい。とはいえ何が変とも言えず、気にしてもどうしようもないと汗で濡れたシャツ脱ぐと、今度は鏡に映った自分の姿に驚いてしまった。

 高校の時代のやり投げで付いた筋肉がほどよく落ち、脂肪が付きすぎないよう間食を控えている中肉中背の体、その右の肩口のあたりに、うっすらとあざが浮かび上がっている。昨日どこかでぶつけたのか? 触ってみると、痣はほのかにうずいて痛んだ。その痛みは心臓に届き、言い知れぬ不安感へと変容する。おかげでこれが夢ではないことがわかったのだが、それが余計に頭を悩ませる。じゃあこの奇妙な痣ができる現実は一体なんなのだろうと。

 とはいえ目の前の日常を無視するわけにはいかない。いつも通りの手順でシャワーと着替えを済まし、いつも通りに家を出る。

 シューズを履くと、男は玄関の真横に停めている自転車のフレームを鷲づかみにしてぐいと持ち上げた。母には自転車を室内に停めるのを嫌がられるが、これはただの自転車ではない。講義の終わりに居酒屋のバイトでせっせと小銭を貯めて購入したロードバイク・FUJIのSTRATOS、これみよがしなスポーツ仕様とは違って、目立たないシックなデザインが通学にもってこいで、これを購入して以来、大学までの30分弱の道のりが、ただの面倒な通学路ではなく、街と自分を繋ぐ旅に変わったように感じられた。大切な相棒だし、何より外に停めておくには少し危険だった。

 自転車を走らせること十数分、ふと男は個人経営の小さな街角のパン屋の前で自転車を止めて、ショウウィンドウを見た。

 自転車にチェーンをかけて店に入ると、店内には焼きたてのパンの甘い香りとカレーパンの香辛料の香りが充満していた。食パンを感じっただけでも味がすると錯覚しそうだった。

 男は商品棚に目を滑らせ、目当ての物を探す。それはシベリアケーキの横にあった。タルトにも似た小さな菓子は、名札に『ガトー・バスク/バスク地方の有名なお菓子』と説明書きがある。今は節制しているが元々甘党だった男は、美味そうというより面白そうという理由で、それとコブサラダサンドを朝食代わりに購入した。奥でパンを焼いている高齢の店主に顔が似ている、彼の娘なのであろう初老の女性が黙々とレジ打ちを済ませてくれた。

 学校に着いたけれど、テストまではまだ少し時間があった。朝食を済まそうとテーブルについて学食で購入したパンの包みを開ける。朝から気になっている肩口をなぞり服の上から痣の様子を確認してみたが、既に痣は痛まなくなっていた。見かけによらず、浅い打ち身だったのだろうか。そうこう悩んでいると、テーブルに置いた彼のスマートフォンが鳴動した。

『学校来てる?』

 今年から付き合い始めた、大学の後輩の真由子からのメールだった。「学食で飯を食ってる」と男が返信すしてほどなくすると、後ろから誰かの声がした。

「ろう……洋次郎……洋次郎ってば」

「……ん? あ、あれ?」

 振り向くと、そこには普段は持たない大きめのカバンを肩にかけた真由子がいた。ブラウンのボブで、右側からのぞく清潔感のある耳には小さく光るピアス、顔は少し大きめだがそれを一切コンプレックスにしてはおらず、それどころか彼女は常に陽の射す道の真ん中を選んで歩いていそうなほどの自信に満ちていた。

「どうしたの? さっきから声かけてたのに?」

 そう言うと、真由子は正面に座った。

「……ようじろう」男は自分の名前を真由子に聞こえないくらいの声で呟いた後、「ああ、ゴメン、ぼぉっとしてた」と笑顔で釈明した。

「テスト疲れ? 歳ですかねぇセンパイ」と言いながら、真由子が生地が透けるほどに薄い上着を脱ぐ。その動作で大ぶりの胸が強調され、さらにハイネックでノースリーブのトップスがより彼女を煽情的にしていた。男はそのトップスと、さらに下着を脱ぎ去った胸の下の様子、例えば右の乳首の横にホクロがあることも知っていたけれど、それでも彼女から目を少しそらしてしまった。

 まだ部活の後輩先輩の間柄だった頃から彼女のメール攻勢はすさまじく、言わなくとも気がある事に気づくように仕向けられ、講義のアドバイスが欲しいと飲み屋に誘われ二人きりで飲んでいる時には、自分の横の席のカバンを取るように見せかけてさり気なく体をかすめてきたりといった、彼女のあざといアプローチを受け続けた彼は、顔も性格もタイプではないものの、告白しなければ自分が何かしらの加害者になるような雰囲気に持ち込まれ、そしてそのままなし崩し的に現在に至っていた。

「ひとつしか違わないじゃん、歳。それよりどうしたの、そんな大きなカバン持ってきて?」

「資料持ち込みOKのテストが続くから、荷物が多くなっちゃって……。」

「ああ、二年はまだ必修科目多いからな」

「ね~、ピタゴラスの定理とか大学入ってもやるとは思わなかった」

 そして今では完全に彼女から敬語は消えていた。ふと、真由子の視線が食べかけのガトーバスクにいった。

「ねぇ何それ? エッグタルト?」

「ガトーバスクっていうバスク地方のお菓子らしい。バスク地方って知ってる?」

「知らない? ヨーロッパ?」

「スペインとフランスの間にあるところ」

「ああ、惜しい」と、悔しそうな顔をせずに真由子が言う。

「雑破すぎ」

「でもEUでしょ? ニアピン賞で当たったから何かおごって」

 頭の中のフォルダを「自分に関係のあること」と「それ以外」でファイリングしている真由子は、細かいことを気にしなかった。

「コブサラダサンド、いる?」

「今回はこれで我慢しましょうかねぇ。で、そのバスクがどうしたの?」

 秒も躊躇することなく、真由子は自分の方へとコブサラダサンドを寄せてラッピングを開ける。

「どうもしないよ。ただ日本でこの名前を聞くのが珍しかったから買っただけ」

「ふぅん」

「ここってスペインとフランスでは結構微妙な地域で、過激な独立運動とかやってる奴らがいるんだよ。テロ起こしたり。でも日本ではあまり聞かないでしょ」

 男はガトーバスクを手に取った。

「で、ようやく聞いたかと思ったらよりによってお菓子ってのがね。何か面白いなって……退屈させてる?」

「すっごい国際関係論をやってるっぽい学生っぽい話ししてるっぽい」

「そいつは光栄だね」

 男はそう言って手にした菓子をかじった。

「そういえばさぁ、佐藤さん達が言ってたんだけど、そろそろ卒論の準備ってしなきゃいけないの?」

「人によるし、ゼミによるな。何を扱うかは最低でもそろそろ決めなきゃいけないんじゃない?」

「洋次郎は決めたの?」

「ん~、ジェノサイドを扱おうと思ってるんだけどね」

 男がそう言ったその瞬間、真由子の顔から表情が消えた。それはテレビの画面が一瞬だけ電波の受信が悪くなったような、瞬きの瞬間ほどの違和感だった。

「……何で?」

「いや、べ、べべ別に……元々山崎先生の所で民族紛争とかの勉強やってたから、その延長線上だけど?」

「そう……。」

「……どうしたんだよ?」

「うううん。ちょっと意外だったなぁって」

「そうか? 前からこれ関係やってたんだけど?」

「へぇ、どうして?」

「いや、どうしてって……何となく、だね。子供の頃から、アメリカの黒人差別を扱った映画とかにやたら惹かれるものがあったからさ……。」

「ふぅん、意識高い系ってやつですかぁ」

「いやぁ、それとはちょっと違うんだけどね……。マユはそういうのは気にならないタイプ? 何ていうか、自分と海と時間を隔てただけで、こんな事が起こってんのかって」

「確かに、そういうの見ると、今の生活がどんだけ恵まれてるかって気持ちにはなるかもね。小学校の先生が言ってたもんね、給食を残そうとすると“アフリカの子供たちは食べたくても食べられないんだぞ”とか」

「……まぁ、近からずも遠からずってところかな」と、男は鼻で笑って応える。そう言われてみればそうなのだが、違うといえば決定的に何かが違う。

 真由子は「そう」と言ってグラスの水を飲んだ。彼女が喉を動かすと同時に、豊満な胸が微妙に揺れ動く。会話の呼吸が合っていないというのに、彼女のこういった所作がそんな違和感を秒で気にさせなくしてしまうのだ。このまま彼女に講義をふけさせて、どこか二人きりになれる場所でしけこみたいという衝動が抑えられなくなりそうになる。

「ねぇ、今日講義終わったらどっか行かない?」

 その真由子の提案に、男は待ってましたと喜んで同意したいところだったが、「ゴメン、今日兄貴と夜に飲む約束してたから……また今度な」と、麻袋の中で暴れる子豚のように、体中をほとばしるリビドーを何とか制御する。

「でも兄貴と会う前なら何とか……。」

 だが真由子はじゃあいい、と素っ気なく返事をする。

「……じゃ、つぎ空き時間があったら」

 男は言った。

「すぐに次のテストだから、じゃあねぇ~」

 そう言って真由子は二、三口かじったコブサラダサンドを残し去って行った。多分、彼女はコブサラダサンドなど食べたくなかったのだろう。ただ、自分がここにいた痕跡を残したかったのだ。真由子の強さ太さに改めて感心しながら、男は彼女の食べ残しをかじった。

 食事を終えると男もテストのために講義室へと向かい学期末テストを受けた。所属しているゼミの教授が担当する『地域政策論A』は、一年生が国際政治を手始めに学ぶ講義であり、三年生の彼は単位消化のために履修していたので、それほどテストをこなすのは苦ではなかった。最前列に座っていた彼は後ろから回された解答用紙を集め、教壇に立つ教授の前まで提出する。

「おぉ、寒河江君か。そうか、君も履修してたんだね」

 教授の山崎の頭には白髪の一本も見当たらないものの、しかしその頭髪は完全に禿げていた。さらに、それをなすがままにしているので落ち武者のようなざんばら髪になっている。しかし、表情の豊かさと汚れも皺も見当たらないスリーピースのスーツの着こなしで、どちらかというと実年齢よりも若く見られる男だった。

「そういえば君、卒論はどうするんだい?」

 さらに声の若々しさが老けた印象を全く与えず、電話で話すと三十代後半くらいの年齢が予想され、いざ彼と対面した人間は、現れた五十代後半の男に驚くという話もあるくらいだった。

 その山崎の質問に男は、「ええ、関東大震災時の朝鮮人虐殺を中心に扱おうかと……」と、自分でも驚く程に、考えるまでもなく答えていた。まるで、既に脚本に書いてある台詞を話すかのように。

 しかし、山崎はその即答に微笑みをなくし「……何で?」とつぶやき気味に言った。

「え、いや……。」

 まるで、先ほどの真由子と同じ反応をする山崎に男は戸惑った。

「その……さ最近、ヘイトスピーチやヘイトクライムとか話題になっていますし、日本の事なんで、かか海外の事例を扱うよりフィールドワークもしし易いかなと……。」

 突然の山崎の変化に均整を崩し、男の吃音癖が出ていた。

「なるほどね……しかし難しいんじゃないのかね」

「そ、そう……ですかね?」

「私もその事件に関しては調べたことはあるが、いかんせんあの混乱期だし、記録があまり残っていない。被害者も加害者も口をつぐんだままかなり経っているしね……。」

 山崎は、テスト用紙を集めている授業補佐の院生を一瞥してから続ける。

「恐らく既にある資料以上のことは、君がよほどフィールドワークを重ねたとしても出てこないんじゃないかね?」

「そうですか……。ただ、他のジェノサイドと比較しながら切り込むのはありなんじゃないかなと思いまして」

「ふぅ~む」

 しかし、その案にも山崎の表情からは肯定的な色は現れなかった。卒論のことを教授に話すのは初めてだが、他の学生もこういう風に難色を示されるものなのだろうか。もしかして、これはこちらに題材を変えろと暗に伝えようとしているのか。

「それに今、君がヘイトスピーチを例に出したけどね、現在進行中という意味ではダルフールとかの方が規模が大きいし、資料に事欠かないと思うんだけどね」

「たた、確かにそうですが、教授が講義でもおっしゃってたように、ジェノサイドは規模や残虐性は関係ないということですから、この件を扱うにしても問題はないのではないかなと……。」

「やはり私は……あまりお勧めはしないがね」

 山崎は目を合わさずに言った。その普段見ない教授の素っ気無さに、男は何か自分が彼の気を害したのかと心配になってきた。教授の出している本には男も目を通したことはあったし、その中ではジェノサイドの一例として関東大震災時の朝鮮人虐殺を例にも出しており、その事件に関して否定派だということはなかったように男は記憶していた。

「……分かりました。では題材を今一度検討し直す、ということで……。」

「いや、まぁそこまでは言ってないのだけれど……。」と、取り繕うように山崎が言う。

 いまいち要領を得ない。問題があるならそう言ってくれればいいのに、歯に何かが詰まったような言い方だ。

「取りあえずもう夏休みですから、資料を漁って状況を見ながら進めます。調べてるうちに他の題材も見つかると思いますし」

「そうか……まぁそれならいいんじゃないかな。もうちょっとブラッシュアップできたらまた来るといいよ。この段階だと、こちらとしてもメディアセンターで資料を探すようにとしか言い様がないし」

 どうもまだ教授のアドバイスを受けられるようではないようだと、男は山崎に頭を下げてから退室した。男が退室した後、山崎は別の学生の質問に対して、いつもどおりの表情豊かな笑顔で応えていた。

 男は大学の図書館に向かうと、パソコンで資料を調べ始めた。なるべく古い資料を調べ終った後は最新の著作をあたり、その本が引用している資料をまた参考にする。著作物の中には朝鮮人虐殺を否定するものもあったので、反証資料としてそれらもピックアップした。男は『朝鮮人虐殺の嘘』という表題の書籍の有無を探したが、大学の図書館には在架がなかった。次にヘイトスピーチに関して教授に語った手前、その事に関する資料も調べ始めた。年代別、著者別に資料を分けた資料用資料を簡単に作成し、男は図書館をあとにした。

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