月光

「……驚いた」

 客席はほぼ満席の様相である。月子は高い位置で照明等を操作しているスタッフルームの上からそれを眺め下ろしていた。彼女は遠慮すべきかと相談したが、大滝によれば客席側やや暗転のほかは然程忙しく操作をするわけでもないらしく、迷惑にはならないという。

「昇くんはあれで、このあたりの音楽家としては人気があるからね。吹奏楽団にも顔を出すから、そっちの繋がりで集まる人も少なくないんだ」

 まあ、博・櫻夫妻に会えないかと来ている人間もいるだろうが……と付け加えたのが聞こえたが、月子はそんなことよりも目の前の景色に興奮を隠せずにいた。

 正直に言って、昇はまだ未熟というほかないのだという理解が月子にはあった。キャパシティの小さい地方のコンサートホールではあるが、席には空きの方が目立つのではないか、と。それが眼前にあるのは立派な奏者のそれである。世界を股にかけた両親を越えるとはまだ言えないのかもしれないが、十分に立派であるように月子には思われた。

「ここなら音は少ないが、問題があったら教えてくれな」

 大滝がそう語る様に意識がいった直後、客席側がゆっくり暗転した。相対的に、壇上は明るくなる。いや、本当に明るくしているのだろうか? 舞台装置の類に明るくない月子には正しい判断はできかねた。

 一台のピアノの前にはマイクスタンドがあり、誰か司会のような人が現れるのか、と月子は注視していた。大滝の言うように吹奏楽団のような団体に所属しているのであれば、そういう人を見つけることは可能だろう、と思うが。

 果たして、マイクスタンドの前に立ったのは燕尾服を纏った昇本人であった。拍手が収まるのを待って、昇は慣れた口調で話しだす。

「皆様、本日は辻本昇ピアノ・リサイタルに脚を運んでいただき、誠にありがとうございます。最初に言っておきますが、演奏中気分が悪くなったり、体調が悪くなったりしたら、無理をせずスタッフに声をかけてください。また、休憩が一度ございますので、トイレ等はその際にご利用ください。

 それでは皆様、お待たせいたしました。辻本昇ピアノ・リサイタル、最後までごゆっくりお楽しみください」

 再び拍手の音がする。月子が見ている位置からはあまり聞こえないが、ここでこの音量なのだから会場では割れんばかりの音量なのかもしれなかった。マイク越しの音こそスピーカーを経由するのか十分に聞こえるが、会場の音となると随分と遠く感じられた。

 演奏が始まる。すごいもので、防音室の隣室から聞こえるよりも少し静かなようだった。耳を傾けすぎることには不安があったが、大滝はこの場を繋ぐ話は持たないようだった。月子は椅子の上で硬くなって、気をつけて昇の演奏を二十年振りに聞いた。

 その様子を横目で見ながら、大滝は月子をリサイタルに誘う算段について回想していた。


「――月子ちゃんをリサイタルに?」

 遼子の反応は尤もである。それはまずありえない提案だった。

「無理だろう、昇くん。月子ちゃんのことを考えると」

 大滝栄助はより具体的に意見を述べた。無謀だった。少なくとも、博か櫻のどちらかには話を通すべき案件であるのは間違いない。

 けれど、昇はまるでそうすることが自然であるかのように、

「でもこの所、退屈そうにしているから。スタッフルームなら音も小さいですし」

 と反駁した。

 月子を思う昇のことは栄助してもわからないわけではない。職を失ってただ家事をするというのも、弟の世話という大義名分があったとしても気の浮かないものだろう。リサイタルに呼ぶことがその解決策であると納得できれば、栄助としても協力を惜しむことではないのだが。

「月子ちゃんは楽器を怖がるだろう。音量で言えば家の防音室越しよりも同じくらいかもしれないが、注意して聞いてしまったりしたら危ないんじゃないか」

 辻本月子は音恐怖症――詳しく言えば音楽恐怖症だった。恐らく、博や櫻が音楽教育に熱心過ぎたのだろう。通常生活で聞くような音のパターンであれば問題としないが、具体的にそれがメロディを作ると過呼吸や痙攣のような症状、もしくはパニック状態を引き起こすことがあった。栄助や遼子もその現場に居合わせたことがある。

 近頃はある程度治療を行い、テレビや店内音楽のようなものであれば聞き流せるようにはなっているようだが、彼女が最も顕著に恐れたクラシックのようなジャンル、それも生演奏のリサイタルという舞台にまでその効果が及んでいるかは栄助や遼子にはわからなかった。ともすれば月子本人にすらわかってはいないだろう。

「でも、やってみてもいいのかもしれない」

 遼子は迷うように不鮮明に、歯切れ悪くそう呟いた。

「当然本人の意思は大事だし無理強いも出来ない。博さんたちがダメだといえばダメだけど、チャレンジの機会はあってもいいのかも」

 無論、栄助としても月子が辻本家に感じている居心地の悪さを音楽を克服することで解消できるなら、と考えなくはない。だがそれを落ち込んでいる時期に行って失敗した時はもう二度とその機会は訪れないのではないか、という危惧もあった。

 症状が出るだけであれば、問題はその場の対処だけだろう。医者を呼んでおくことも出来るはずだった。勿論それも推奨は出来ないが、問題は症状が出た結果、博たちや昇との関係が完全に破綻してしまうことだった。

 栄助はその意見をしっかりと伝えた。それで納得してくれるなら良しだ。

「父さんたちにもきちんと話を通してみます。ご協力いただけませんか」

 しかしそれでも、昇の決意は揺るがなかったらしい。断り切れない、と栄助は思った。それだけ、月子を想う昇の意識は強固かつ頑固だということだろう。

「分かった。博の説得が上手くいかなければ、俺も話は通してみるから」

「それなら、月子ちゃんには私が言ってみる。昇くんは知らないってことにした方が、月子ちゃんも途中で帰りやすいだろうし」


 斯くして、今に至る。

 今のところ問題はないらしい。少し緊張した風ではあるが、今にも発作を起こすということは無いようだ。

 一応の時のため救急隊員だった経験のある友人を控えさせてはいるが、月子に意識をさせすぎないために存在は伝えていなかった。

 果たしてこれが月子にとって、解決となるのかどうかは大滝には判断しかねた。善意の押し売りに終わるかもしれないと今でも思っている。そもそも、楽しめているのかどうか。

 また様子を伺うと、月子は瞼を閉じて耳を傾けている様子だった。油断は出来ないが、今のところは問題ないらしい。

 大滝が月子に懐く罪悪感の源は月子のその症状だった。音楽家の家に生まれた以上、仕方はないのかもしれない。しかし、大滝が貸しスタジオ等の利用を勧めなかったのは辻本家にある楽器の調律を大きな収入源としていたからだ。この荒療治とも思える方法を最終的に良しとしてしまったのは、贖罪の機会を望んでいた彼自身の意識も少なからず絡んでいた。

 彼は彼女の些細な異常も見逃すまいと注視していたが、急に月子が二度頷く仕草を見せたので、強く身構えた。その仕草は、月子にとって何かに納得したり、何かを決定したり、といった大事な行動の一つだ。

「大滝さん、もっと近くで聞けませんか」

 大滝が妙に慌てたので、月子は悪いことをしたろうか、と悔やんだ。

 けれど、聞いてみたくなったのだから仕方がない。座席がないというなら仕方ないが、立って聞くのでも構わないと思った。

 バタバタとスタッフと相談を始める大滝がコミカルで笑ってしまう。以前までとは違って、月子自身の気持ちは静かに凪いでいた。先日の凍結した気持ちとも違う。過去、音楽を聞いた時のように興奮しすぎたり、恐怖するということもない。それは父・博のピアノとはまた違う風情で奏でられる昇の音のおかげかも知れなかった。

 少しあって大滝は、

「座席は満席らしいが、舞台袖からなら聞けるかもしれない」

 と教えてくれた。それでもいい。月子はうんうん、と頷いた。

 スタッフルームからコンサートホール出入り口に一旦出た。そして階段を降りて、客用入場口を通り過ぎ、関係者以外立入禁止の札がかかる一階側スタッフルームへと入る。

 ひとたびドアを開けると、ピアノの音が波のように月子を包み込んだ。音はぴりぴりと不慣れに鼓膜を響かせる。当然、スタッフルームよりは遥かに大きな響きが満ちていた。それなのに、音のほうが怖がっているような、不思議な感覚があった。

 少し進むと、舞台袖のカーテンの向こうに昇の姿がある。こちらに背を向けて演奏している。指の動きや、表情まではここからは見えなかったが、その背中が格好良く動いているのは十分わかった。

 これはすごい、と思った。恐怖無しに見る演奏ははじめてだった。それは昇だからなのか、いまの自分の心持ちのせいなのか、答えはわからなかった。

 これは美彩ちゃんが惚れるのもわかるな、と月子は思う。どこか真摯に映るその姿は、普段の昇からまったく離れてはいない。自然に、昇という人柄から発せられたものだとすんなり理解できた。

 昔は、こんな昇がきらいだった。自分とは違うことで褒められる弟の存在がきらいだった。頭の良さで敵わない昇がきらいだった。流行のテレビが好きだった昇がきらいだった。家事をしない昇がきらいだった。月子と呼び捨てにする昇がきらいだった。うまく話が噛み合わない昇がきらいだった。不満をあげれば、あの晩のミチルにも負けない自信があった。

 それでもいなければ良かったなんて絶対に思わない。敵わない部分も多い、自慢の弟だ。こうして演奏を聞いてみるまで、そんなことにも気づかなかった。

「大丈夫か、月子ちゃん」

 大滝の声を聞いて、自分が涙していたことに気づく。それは昔のように、音楽への恐怖から流れた涙であったのか、感動によって溢れた雫であったのか、月子自身には判断がつかなかった。

「平気です。けど、ちょっと疲れちゃったかなぁ」

 声の震えを抑えようとしたが、そううまくはいかなかった。大滝は急いで月子を舞台袖から連れだして、自分の車まで運んだ。その頃には月子の涙も止まり、多少落ち着きを取り戻していた。

「やっぱり止めるべきだった。ごめんな」

 大滝が謝っているのが少しおかしく思われた。

「ううん、感動しちゃって。もっと聞いていたら大変だったかも知れないけど、まだ平気です」

 自分は全然問題ない、と伝える。うんうん。大滝は、そうかそうか、よかった、とすごい勢いで安堵の言葉を並べた。


 そのまま帰ることになったのは残念に尽きる。もっと聞いていたいと思う、心地のいいものではあった。ただ、いつまでも静かに聞いていられるかというと自信はない。初回のリハビリとしては良い滑り出しだったが、無理をしてまた発作を起こしては元も子もないだろう。とりあえず、此度の「昇を知りたい」という気持ちには一つの決着を迎えていた。

 月子は携帯を取り出し、電話帳から一つの番号を呼び出す。

「――もしもし、月子?」

 大滝の車中から電話をかけた相手は、母・櫻だ。月子の人生で、自分から望んで母に電話をするのは初めてのことだった。

 昇の演奏に触れただけで、ここまで素直になれるものかと自分でも驚く。

「うん、昇の演奏聞いてきたよ。ちょっとだけ」

 母はそう、と先を促すように相槌を打つ。彼女が言葉を選んでいると、大丈夫? と声をかけてくれる。

「大丈夫。昇、ピアノ上手いね」

「上手いよ。父さんほどじゃないけど」

 どことなく嬉しそうな母の声に、月子も嬉しくなってしまう。そんな風に、母と同調するというのも彼女の人生で一度もなかったことだ。その体験を呼んだのが昇の演奏だ、ということが誇らしくもあるが、また妙に腹立たしくもあった。こんなことを昇に漏らせば、また無表情に良かった、などと言ってのけるのだろう。褒め甲斐のないやつである。月子はそんな弟がきらいだった。

「ねえ、昇っていい子だね」

「何言ってるの。月子もいい子だよ」

 ――うんうん。苦手意識を持っていたのは、月子の側だけだったということは彼女自身にもわかっていたことである。

「そりゃそうだ。ありがとう」

 そんな素直な礼を母に向けたのも、彼女の人生で初めてのことだった。

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月光 紅野はんこ @MapleIf

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