氷雨
自分はこれほどぐうたらな生活が出来るのか、という一種の驚愕を持って月子は遅い起床を迎えた。
ミチルとの会食以降、彼女には用と呼べる用がないまま一週間近くが過ぎている。その時間の感覚すら曖昧になるほど、彼女の生活は無感動に流れ落ちていった。退屈に抗うための足掻きのような掃除も、いくらかの手の込んだ事を終えてしまえば後は大した汚れもない。義務感にこそ苛まれなければ彼女自身には特に潔癖の気があるわけでもなかった。
暇つぶしにと持ってきた本も読み終え、新たに買いに行く気も然程起きず、日々の買い物にせよ前の買いだめをまだ残している。出かけるべき場所もなければ、家でこなす日々の家事も済んだとなれば、自然何もしない時間を見過ごすことになっていった。
割れるような頭の痛みを伴って時計を眺めると昼一時を少し回った頃だ。十時に眠ったはずだから、都合十五時間は眠っていたことになろう。そしてその間、冷たく布団を濡らすほど冷や汗をかいたらしかった。どれほどの悪夢を見ていたのか、彼女自身にすら定かでない。
ぶるり、と身を震わせながら布団から出る。布団も干せればいいのだが、生憎と長い雨が今日もまた続いていた。晴れ間に体を許さない貞淑な長雨だ。確か地雨と呼ぶのだったか、と月子は窓から憂鬱気に外を眺めて思った。
寝間着を着替え、昼食を作る為に階下へ向かう。と、台所方面から音がするので訝しみながら近づいた。炊事をするのは月子以外にはいない筈で、昇にしても水飲み場程度にしか思っていないと月子は判じていた。侵入者の線を考えたがもしそうであれば台所を漁ることがあるだろうか?
「月子。おはよう」
しかし予想に反して、料理をしているのは昇であった。月子には重い鍋を軽そうに揺すりながら何かを炒めているようだった。
「……チャーハン」
単純な料理ではある。作ろうという気さえあれば作れるだろう。……そんな気が昇にあったとは。
「食べるでしょう」
立ち尽くしている月子を妙に思ったのか、振り返った昇はそう声をかける。それが決定的だった。
「なんで勝手に作るの?」
荒い口調の月子に、眉根を寄せる昇。もう動作の端々にまで、月子の怒りは高まるばかりだった。
「私の仕事を奪うわけ? 私なんて必要ないって言いたいの?」
堰を切ったように溢れる言葉に月子自身、ああ嫌な女がいるな、と一歩引いて眺めているような気持ちがした。
「……ごめん」
昇が火を止める。その音で急速に冷めていく昇への怒りが、反転するように自己嫌悪感へ転じる。これでは、不在の間のハウスキーパーとして両親に呼ばれた甲斐もない。
「ううん……ごめん。もう少し寝る」
逃げるように去る月子を昇は追わなかった。泣きながら自室へ消える月子を見送って、作りすぎのチャーハンを一瞥した。
泣き疲れて起きてみれば時計はもう五時を指していた。少なく見積もっても、今日の一日を三分の二も眠って過ごしたのか、と思う。それでも残った七時間の処理を思えば頭痛は酷くなる一方だった。
無感動に凪いだ心中が不気味な静謐を作っている。苛立つようなこともないが、何を見ようと聞こうと嬉しく思えるとはまったく考えられない。凪というよりは、凍結であるかもしれなかった。
緩慢な動作で起き上がり、久々に二階の洗面所で顔を洗った。下に降りたら昇に一体どんな顔をされるのか。恐怖とも言えない、面倒さのような感情があった。
遅々とわざと遅らせるようにして階下へ向かう。と、防音室のドアを開閉する音がした。聞き取れる筈だが、耳から滑り落ちる遠い会話がある。こういう時、リビングと演奏室が隣接していることが果てしなく煩わしかった。誰にも会わずにいつもの調子が戻るのを待っていたかったのだが。
仕方なくリビングに向かうと昇が、美彩といったろうか? 例のピアノ教室の女生徒と同時にこちらを見つめた。
昇はいつも通りの感情の読めない表情で、すぐ女生徒に向き直り、
「じゃあ、できるだけ練習しておくようにね」
と言うと台所の方へ動く。美彩嬢にしても、演奏室に戻らない昇に首を傾げたようだったが、すぐに月子の方へ意識を遣ったらしく、月子が座った椅子に近寄ってきた。
「先生のお姉さんだったんですね。九重美彩といいます」
どうやらミチルの言った通りである。とんだ安楽椅子探偵だ。地盤を作ろうという媚びた表情が肌触り悪く思われた。先週の般若の面と併せて、恐らく無意識的な表情なのだ。まだ媚びと嫌悪を使い分ける能もない。
「こんばんは。帰り道、気をつけてね」
薄い挨拶をして、美彩嬢が出て行くのを見送った。多少嫌味を込めるような遊びもする気にはならなかった。
昇は台所で何をしているのだろう、夕飯も作っているのだろうか。先ほどのように激昂するつもりはもうなかったが、作ってくれていたとしてどんな顔をして食べればいいか月子には思いつかなかった。
と、家の電話を鳴らす着信があった。台所にいる昇より先に受話器にたどり着く。
「はい、辻本ですが」
「大滝ですけど、月子ちゃん?」
電話の向こうは調律師・大滝栄助の嫁、遼子さんのようだった。氷結した気分でなければ懐かしい、と喜んだかもしれない相手だったが、そう歓喜の声を上げられる状態でもない。はい、お久しぶりですと相槌を打つ。
「良かった、丁度用事があってね。昇くんには内緒の話だから、助かるわ」
嬉しそうな様子の遼子さんに、月子は驚くほど冷めていた。彼女が悪いのではないがタイミングは最悪と言って差し支えない。
「もしも良かったら、なんだけど。昇くんのリサイタル、聞きに行ってみない?」
理解できない提案だった。遼子さんも月子の性質については承知している筈だ。もしそうであれば、決して出てくることのない案である。
「聞くというと怯えるかもしれないけど、上から姿を眺めてみるのは悪くないでしょう」
それなら、と安易に思えるようであれば、月子とて苦労はなかったはずだった。いや、それも遼子さんであればわかっているはずであった。それを押しても声をかける以上、何かがあるのかもしれない。
「すみません、いま調子が悪くて。少し考えてからでもいいでしょうか」
そう言うと、遼子さんはたじろいだような気配をみせて、
「ごめんなさい、そうとは知らなくて。落ち着いた時にでも考えてみてね」
と一拍挟んでから詫びた。お大事に、の言葉を挟んで電話が切れる。月子は溜め息を吐いて、またさっきまで座っていた椅子に戻った。
見計らったように現れた昇が、月子の前にチャーハンと水を運んでくる。それから……痛み止めの薬。
「月子、頭痛いだろ。食べたらそれ飲んで、眠れそうならまた眠ってもいいから」
そう言い残して、自分はまた演奏室へ戻った。月子はぼうっとした頭で、頭痛の事を話した相手はいなかったのにと思う。当然、昇にも話した記憶はない。振る舞いから察したのだろうか。それほど自分の振る舞いを昇はしっかり観察していたのだろうか。
結論は出ず、その間もチャーハンは美味しそうに湯気をあげている。腹は我慢できないとばかりにぐう、と鳴る。今日はまだ何も食べていないのだ。
一口食べる。……美味い。恐らく昼に作ったものを温めなおしたのだろうが、それを感じさせない。
いつも以上にゆっくりと時間をかけてそれを食べ終えた。その頃になると、朝から引きずっていた重い気分も少し和らいでいた。腹が膨れればそれだけで治るような些細なことでこうも前後不覚に陥るのか、という自己嫌悪が首をもたげたが、その気分もややするとすうっと消えていくようだった。
思えば、二人での生活をすることになってから、過去同居していた頃は気付きもしなかった昇の一面をいくつも見てきている。ピアノ教室講師としての昇、家事が出来ない昇、月子のことを気にかけてくれる昇、大滝による調律の予定を忘れる昇、そしてこうしてチャーハンと頭痛薬を用意してくれる昇。
月子は、うんうん、と二回、緩慢かつ確実に頷いた。昇のことをもっと知りたい、と生まれて初めて思った。だから、リサイタルへ行ってみよう。そう決意を固く結んだ。窓の外から数条の夕陽が差す午後五時半のことだった。
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