友人

 月子は車の免許をまだ持っていなかった。継続してコストがかかるものでもあるし、いままでの彼女の生活環境には必要でなかったということも大きい。また取り立てて車について興味があるというわけでもなかった。

 しかしそんな彼女にも、その純白の車体がミチルには相応しいように思われた。

「や、シバちゃん」

 辻本邸の前を通るやや狭い道の路肩に駐車したミチルが車内から手招きをしているので、月子は助手席側のドアから車に乗り込みつつ声をかける。ドアノブに手をかける前に、綺麗に洗車されているらしい車体に指紋をつけていいものか少し躊躇したが、ミチルはそう神経質でもなかったか、と月子は考えなおした。

 ドアが閉められ、シートベルトもしっかりと締められたのを確認してからミチルはエンジンを回した。そうして走りだしてから、やっとミチルは第一声を発した。

「いや、久しぶり。昔からだけど、月子の家はやっぱり緊張するよ。広いし」

 態度や言葉が素直かつわかりやすいのはミチルの長所だ。再会はミチルの結婚式以来五年ぶりになるが、月子は淀みなく彼女との距離感を思い出した。

 月子はやや後方に遠ざかった自宅を眺める。洋風の意匠で建てられたそれは、間違いなく豪邸の部類だろう。彼女自身、帰ってきた時には気後れしたものだ。そこで暮らしていた当時から苦手で落ち着かなかったが。

「一人じゃ広すぎて掃除が大変だよ。昇はピアノばっかりだし」

 ケタケタと笑うミチル。うんうんと頷く月子。懐かしい雰囲気にほっとした。

「昇くんに掃除しろっていうのも酷な話だしな。近頃はピアノ講師やってるんだっけ」

 それを聞いて、ああ、と言い淀んだ月子に、ミチルは一拍の間を置いた。話したくないことだったろうか。月子は両親を始め、家族との折り合いがあまり良くない。弟とは軋轢こそなかったように思うが、良好な関係とも言えないはずではあった。

「今日初めて生徒さんに会ったよ。女の子なんだけど」

 月子が語りだす昇の音楽教室の話に気を取られ、運転から一瞬気が離れかけて、集中し直す。ちゃんと運転するようになって七年、慣れてきてはいるもののミチル自身まだあまり運転が得意ではない。気を抜くのは危険である。目の前の交差点で大通りに入ればすぐ『River』に着くだけに、ここで事故を起こすのは馬鹿らしい。ウインカーを出して、いつもより慎重に左折をした。

「でもなんだか感じが悪くてさ」

「その話、店に入ってからにしよう。あそこに見えてるのがウチの店だからさ」

 ミチルがそう言っている間に、『River』の駐車場はすぐ左に迫ってきていた。


「そりゃあ、恋じゃない」

 美彩という生徒の話を聞いたミチルの感想はそれだけだった。

「恋って……昇に?」

 信じられないという風情の月子。それだけ、姉としては昇が頼りなく見えているのだろう、とミチルは思った。

「寡黙で、顔もいいでしょう。恐らく小うるさい指導をするわけでもないだろうし、年上好きなら無くはないと思うけど。で、月子が彼女だと思って嫉妬した、と」

 唐揚げをつつきながら、彼女はそう語る。月子は釈然としない風にオムライスを食べていた。どちらも『River』の人気メニューである。喫茶店と居酒屋を兼ねるこの店は、今ではミチルにとっても自慢の店だった。

「でもまだ小学生じゃない? そんなに早いものかな」

 真面目な顔つきでそんな事を言う月子に、ミチルは呆気にとられたような顔をした。オムライスから顔をあげるとミチルが不思議な表情を作っていることに首を傾げて、何か変なことを言ったろうか、と考える。

「女は生まれながらに女でしょうよ。恋愛感情に年齢は関係ないと思うけど」

 呆然とした表情から一転、破顔してミチルは茶化すように言った。そんなものかね、と月子はまたオムライスを攻略し始める。なかなか美味しい。

「そういえば北島さんとはどうなの?」

 今はミチルも北島だったな、と言ってしまってから思い出す。そんな重箱の隅をつつくようなことを彼女はわざわざしないだろうとは思ったが。

「仲良くやってるよ。つきなみだけど結婚してよかったと思うね」

 キッチンへ跳んだミチルの視線を追いかける。北島芳樹氏は手が空いたところだったのか、所在なげにこちらの席を眺めていた。見咎められたと悟るや、さも忙しそうに死角へ消えるのがおかしかった。ミチルも同じ感想なのか、いい笑顔で再び顔を見合わせた。

「でもやっぱり、一緒に暮らすと欠点も見えてくるものだねぇ」

 やっぱりそんなもの? と尋ねるや、ミチルが挙げ連ねる愚痴は湧き井戸のようだった。休みの過ごし方、趣味のゲーム、料理への文句、家事の下手さ。一つ一つは大したことのないものだが、なかなかの量が挙げられた。

「それでも別れたりは考えないの?」

 月子は単刀直入な疑問をぶつける。些細な不満とはいえ、それほどまで挙げ連ねられるほど合わないのならいっそ、というのもそう過ちではないのではないか。

 ただミチルは幸せそうな表情で、

「考えないね、ぜったい」

 と応えるのだった。

「不満も多いけど、いてくれるってだけで心丈夫だし。いなくなったらなんて思うと、怖くてしょうがないよ」

 その言葉を聞いて、何故か月子は昇のことを思い出していた。一人では家事も出来ず、姉を家事係として呼びつけて礼の一つもない、けれどかけがえのない弟。もし、昇がいなくなったとして月子はどんな感慨を抱くのだろう。――答えは出なかった。


 月子を送った後、ミチルはどこかスッキリとしないものを抱えたまま愛車で帰途を駆けた。

 今日、月子と会話しながら覚えた違和感の実態は何だったのか。少し元気が無いように思ったのは間違いないが、それだけであればそう引っかかることはないはずだった。

「いずれ打ち明けてくれるといいけど」

 ひとりごとを漏らし、ミチルは青信号に変わった交差点を進んだ。もうすっかり日は暮れているが、月は雲に隠れて見えない。どうやら一雨降りそうな気色であった。

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