宿敵

 夜の会食まで、月子は本格的に時間を持て余していた。約束の時間があるとなると、余計にその余暇がわずらわしく思える。大滝を待つ間読んでいた本も読み終えてしまったし、今日やるべき家事も済んでしまった。慣れない頃は家事だけで一日が消えてしまうと思ったものだが、慣れた今となっては時間を持て余すようになっている。

 月子は基本的に趣味を持ってこなかった。辻本の家族たちのように楽器を嗜むということもなければ、ミチルのようにテレビっ子というわけでもない。特段好みというわけでもない読書で暇つぶしを賄えていたのは、平日は仕事があるというごく当たり前の生活が生まれてこの方途切れることがなかったからだった。

 幼稚園、保育所を経て、小学校、中学校、高校、大学、就職。大型連休の他に月子の体が何の用事にも縛られていないというのは実に二十年以上なかったことだった。

 この家に来てもうじき二週間になる。月子はそういった退屈に似た不満感が徐々に自分の体を侵食し始めていることを自覚していた。

 といって、いますぐ仕事を探すと考えると痛い抵抗感が頭を殴りつける。それだけ会社勤めをしていた五年ほどは月子にとって苦痛の時間だった。少なくとももう一息だけ休まなくてはならなかった。一歩違えれば潰れるような不安定感は当人もしっかりと認識していた。

 さしあたって、日中に継続的な用事でも作れれば良いのだが。先ほど淹れたコーヒーを啜りながら月子は考えを巡らせた。机の上に、先ほど読み終えた本が閉じたまま置かれていた。裏側の表紙には装飾が少なく、バーコードや何かの数字が印刷されている。ぼんやりと眺める彼女は、読後感の残り香を手放すまいとそこに記されていた物語について思考しかけた。

 それを裂くようなインターホンに、少しむっとする。近頃、妙に嫌なタイミングで鳴るように月子には思われた。コーヒーも読後感も置き去りにして玄関へ向かう。

「はい」

 戸を開けてみると、随分低い位置に顔があって驚いた。小学生くらいの女の子だろうか。月子も驚いたが、その少女も随分と驚いたらしい。

 一拍の後、ああ、と月子は合点がいった。

「もしかしてピアノ教室の子かな」

 頷く少女は、まだ呆気にとられたという表情だった。

「昇は防音室かもしれないから、とりあえず上がってね」

 一礼をされたので、礼儀のいい子だな、と月子は誤解した。一拍後、起き上がった顔は月子を睨んでいた。まるで天敵に対するような、貫く鋭さを持っている。月子は驚いて、防音室に導く足が止まってしまった。

「えっと、行こうか」

 睨んでこそいるが、ピアノ室まで行くことに異存はないらしく、靴を揃えて上がり框を踏み、月子に続く。彼女はその少女と合わせていた視線を前に逸らして、防音室の外から昇を呼んだ。

 すっと現れた昇は月子に後ろを歩いてくる女の子に気づくと頭を掻きながら言った。

「ああ、美彩ちゃん。ごめんね。集中してて聞こえなかった」

「いえ、平気です」

 月子は目を丸くした。先ほど一言も口を聞かなかった少女が、人懐っこい笑顔と声で昇の声に応えて防音室に入っていく。

「ありがとう、月子」

 昇の礼と美彩と呼ばれた女の子の絶対零度の視線を残して一拍、防音室の扉がぴしゃりと閉められた後も、月子は少しの間立ち尽くした。


 月子が実際に生徒と会ったのは初めてだが、昇はピアノ講師としての仕事も持っている。昇自身の実力も悪くない上、父・博の高名や音大へのパイプなどもあって、そこそこの人気はあるらしい。いつか母がそんなことを電話で言っていた記憶が月子にはあった。

 昇は一人で生活を成立させられているのだろうか。ピアニストの生計に月子はまったく知識がなかったが、リサイタルやコンサートだけで食べていけるのは一握りだろうというのは想像に難くなかった。ただ腕だけがあれば高給取りになれるという世界でもないように思う。講師という副業を持っていることから、事実昇はそれだけで満足に賃金は得られていないのだろう。母の言葉を鵜呑みにして、昇が父に勝るとも劣らないピアニストであるとしても。

 どうあれ、昇給のあるような簡単な仕組みの仕事ではないはずだった。月子はさっきまで座っていたテーブルに戻り、冷めたコーヒーを何とも言えない気持ちで飲み干して考えた。家族四人が暮らしていくには十分に余りある富と名声が両親にはあるはずではあるが、もう二十六になる昇にはしっかりと自立して欲しいと勝手な期待を姉としての月子は持っていた。

 しかし、両親はそうは思わないに違いない。音楽の世界で華々しい人生を送った彼らは、息子もまたそういった努力が報われる人生を歩むことを望んでいるに違いなかった。それが実を結ぶならば『夢を支えた家族』かもしれないが、花もつけないようなら『堕落を見過ごした家族』と呼ばれても仕方のない育児放棄だろう。

 もしも見込みがないのなら、どこかでピアノから離れた生活を始めなくてはいけないのではないか。実際に昇が教える生徒を見て、月子はそう思わずにはいられなかった。彼女にはそんなことが言える義理はないのだが。どんな事情があろうと、稼ぎが僅かであっても、昇は手に職をつけているし、月子は現状無職というほかなかった。


 月子は約束まで時間を持て余していたが、ありがたいことにいくら余らせたところで時間の流れが止まることはない。重くのしかかる一秒も、いずれは一時間、一日と過ぎていく。特に時間を誤魔化す術もなかったが、やがて家を出る頃合いを時針は示していた。

 ミチルが相手であれば華美にする必要はないだろうが、家で過ごすような格好で出て行くわけにもいかないので、テキパキと着替えや化粧をこなす。昔は苦手だった工程だが、慣れとは凄いもので、今では得意分野といえるまでになった。そうしていると、昇のことや美彩という生徒のことといった、気分を害すことを考えなくて済んだ。考えまい考えまい、と念じて考えないことは出来ないのだ。考え詰めてしまうか、別の考えで塗りつぶすほかない。

 紅を引き終えて、家を出よう、とリビングを通りかかると、丁度レッスンを終えたのだろう美彩が防音室から出てくるところだった。彼女の側も、月子を認めるとまた険しい顔で睨んでくる。

 一体私が美彩嬢に何をしたというのだろう。月子は身に覚えがない。しかし彼女が出て行くのを待つのも妙なので、並んで歩く形でリビングから玄関までの短い距離を進んだ。数メートルほどの短い距離だが、数キロも続く筵の道に思われた。二人で室内履きから靴に履き替えて、玄関を出て行くまで、月子は息が詰まるような思いに晒され続けた。

 スニーカーを履く美彩の方が一拍早く玄関を出て行ったので月子は安心したが、踵を返して月子を睨みつけているのに気づいて、履きかけの体勢のまま動けなくなった。

「私、認めませんから」

 認めない? 一体何をだろうか? 月子がその疑問を口にする前に、美彩は駆けだしてしまう。

 どうにも釈然としない月子はミチルとの議題が一つ決まったな、と思いながら彼女が迎えに来る筈の場所まで歩きだした。

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